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: 六月九日 : 一冊目 : 追記――   目次

六月八日

Zu viel, zu viel! あんまり多過ぎる。一日中しゃべりどおしだった。私の心は七十八回転でかけられた三十三回転のレコードのようなものだ。ここにいる七、八十人に会った。 なかに入ってみると、囚人の集団というのは個別にみるよりもはるかに迫力がある。あいつぐ会話の残響がまだ私の中でうねっている。オペラが終って、音楽の余韻が残っているのに似ている。

発端は朝早く、衛守の持ってきたまだインクの生乾きの招待状に従ってジョージ・Wを病棟に訪ねたこと。どんな病院も、レン設計のチェルシー病院すら、あれほど壮大ではないだろう。彼のベッドはティエポロの手になるものかもしれない。そして花は税関吏ルソー作。話したのはまたもリルケのこと。ジョージがリルケを称賛するのは技法よりも異端的な観念に対してだ。独自の翻訳をしている。エキセントリックな詩形論。私は論評をさし控えた。「フォースタス」上演について の彼の思想が話題になり、彼のモデル・シアター計画へと話は移っていった。それが彼のためにここに建てられるはずだという!(キャンプAが地中深くにあることはもはや間違いない)

ほかの全員の名前は思い出せない。また、何を話したのかも。ただ、マレー・なんとかという、磁器のように洗練されすぎた態度を示す若造に対しては、はっきりと嫌悪感をおぼえた。むこうからもお返しがあった(しかしこれは私の思いあがりかもしれない。たぷん彼は私がそこにいると知りもしなかったのだろうから)。錬金術的なわけのわからぬことばで猛烈な議論を展閑していた。要旨はこういうことになろうか。「二羽の雄鶏が闇の中でつがう。そこから龍の尾を持つ雛が孵る。七日間に七たぴ雛たちは焼かれ、その灰は聖なる鉛のうつわの中ですりつぷされる」これに対して私のいうことは――ふん! だが、なんと熱心にみんなこのふんを受けとめていたことか! あとで確かめたのだが、こんな関心の原因は大部分モルデカイの活動にあるらしい。

いちばん気にいったのはパリー・ミードだ。私は自分より太った人間に会うといつも嬉しくなる。ミードは映画に夢中で、二時に ジョージが一眠りするために鎮静剤を与えられることになると(かわいそうにジョージは加減が悪いのだが、その原因となると、誰に訊いてみてもみんな意見はまちまちのようだ)私を三階下の小さな映写室に連れていって、マクナマラの政策演説と古い恐怖映画から抜きだした泣き叫ぶ女とをモンタージュした自作をみせてくれた。陽気さが登りつめてヒステリーに至る。バリーはとてもクールに、ほとんど気がつかないような微妙なミスについて弁明し続けた。

四・三〇にジョージは目をさましたが、私を無視して数学の本にとりかかった。私は、休みに子供のいない親戚の家へ行った子供のように、私をもてなす役割の分担がむこうで勝手に細かく定められているような、そんな気がしはじめた。あれは少なくとも午後のことだったが、単に"僧正"とだけ紹介された人物に世話をされることになった。そんな渾名を頂戴したのはダンディないでたちのせいではなかろうか。彼はここで発達した社会秩序について解説してくれた。要するにこういうことになる。モルデカイが実力とカリスマ性とを発揮して、寛容なアナーキー社会の揺るぎなきツァーとなっているというわけだ。僧正がキャンプAに来たのは営倉ではなく軍 の精神病院からで、そこで二年間、完全な記憶喪失状態にあったという。幾たぴもの自殺未遂についての魅力的な、面白おかしくてまたぞっとするような話を一席きかせてくれた。一クォート缶の鉛入り塗料を全部飲んだことがあるそうだ。うへっ。

あとで、チェスでこてんぱんにやられた。

そのまたあと、マレー某が電子音楽を演奏(自作? そうだという者もあれば、違うという者もいた)。私は躁病状態だったが、それでもなかなかよかった。

まだまだ、そんなことではとても済まない。

オサにペリオン、まさに山積。

多過ぎる、ともう一度、いおう。このすべてから何が出てくるのか? なぜこんな素晴しい怪物に生命が与えられたのか? 明日にご注目あれ。



T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日