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六月七日

私の偏頭痛は明らかに心身相関的なものだから、精神療法で悪魔払いできたと思っていたのだが、ゆうべ猛烈なしっぺがえしを伴ってぶりかえしてきた。以前の痛みが一とすれば、今は七だ。たぶんLa・バスクは、神秘への手ほどき係として、ドクター・ミエリスの治療への何らかの対抗呪文を働かせることができたのだろう。あるいは単に、駄文書きの発作のせいで二時すぎまで起きていたためなのか。私はまだ、できた作品にそれだけの価値があるかどうかを判断できるほどの距離を得ていない。だが誰が知ろう? たぶん偏頭痛こそが詩をもたらしたのだと。

精神生活はまあそのくらいにして、この目の特記すべき出来事はというと、朝食(正午の)直後の、伝説の人モルデカイ・ワシントンのご到米だ。衛守の先ぷれもなしにやって きて、ノックはしたがどうぞというのを待ちはしなかった。「いいかな?」と訊きはしたがそのときにはもう入ってしまっていた。

面と向かいあっても、また彼の声、偏頭痛にがんがん響く大声を聞いても、これがくだんの高校時代の友人だとは、また誰であるのかもわからなかった。

第一印象――。器量はよくない。私の美の規準が白人中心のものであることは認めよう。しかしそれでも、モルデカイ・ワシントンを美男子だとみるニグロがそんなにいるとは思えない。とても黒くて、ほとんど黒紫といえそうなくらいだ。おもながで、あごが突きでて、唇は塗りたての漆喰のよう(しかしこちらは突きでるというよりは、むしろ顔に押しつけられたようにひしゃげている。垂直な唇、とでもいえようか)、鼻は極小、もじゃもじゃのネオ・マオリ・ヘア。胸は一世紀前なら肺病やみといわれたろう。なきにひとしい肩、がにまたの脚、でか足。砂利をひっかきまぜるような声、これは人形芝居のせむし男パンチにそっくり。しかし眼は綺麗だ(だが醜い連中にこれを認めるのはいつの場合にもたやすいことだ)。

それでも、これは桁はずれの眼だといわずにはすまされない。潤んでいると同時に生き いきしていて、奥の深さを暗示はするが決して顕示はしない、矛盾した眼なのである。

「いや、そのまま、そのまま」と彼はベッドから出ようとする私を制した。部屋の端からひきずるようにして椅子をベッドの脇に寄せる。「何を読んでるんだ? ああ、絵本か、あんたがとっくにここへ来てるのに、誰もいってくれなくってね。ジョージの話でわかったんだ。残念ながらおれはここんところ……」 と頭の上でそれとなく手をふった。(彼の手は、足と同様、不釣合に大きかった。指は先ひろがりにそりかえっていて職工ふうだが、動きは敏捷で、はためかんばかり。しぐさはとかく演技過剰になりがちで、のっぺりと無表情な顔の埋めあわせをしようとでもするかのようだ)「……ちょっとイカレていてね。ダメだったんでね。沈滞していてね。昏睡していてね。けどもうすっかりよくなったよ。で、あんたがここにいる。うれしいよ。おれ、モルデカイ・ワシントン」

厳粛に彼は手をさしだした。私はこのジェスチャーにあるイロニーを感じないではいられなかった。これに応じれば、私はこの喜劇役者の引立て役を演じることになってしまうのではないか、そんな気がしたのだった。

彼は笑った。かん高い、オウムのような笑い声で、話し声より二オクターブ高い。まるで、笑う部分だけ別人が代演しているかのようだった。「おや、さわってもいいんだぜ。汚い徴菌を移したりはしないさ。そうじゃござんせんよ、大将」

「そんなことは思ってもみなかったよ……モルデカイ」(見知らぬ相手に気軽にファーストネームで呼べたためしがない)

「おやまあ、おぼえててくれるとは思ってなかったぜ。まあ、悪い気はしないもんさ。そんなにtutoyer してみせなくてもいいんだぜ、まだ」これは底知れぬフランス語で。「けど、おれはあんたをおぼえてた。直観像というやつさ、恐怖映画の一つの場面が目に焼きついちまうみたいにね。たとえば『サイコ』とか。あんた『サイコ』をおぼえてるかい?」

「うん、浴槽のシーンをね。あの頃のぼくはトニー・パーキンスに似てたかい? とんでもない」

「あんたはあんたなりに恐ろしかったさ。おれにとっちゃな。おれたちはホームルームが一緒だった。スキンリン先生だよ、おぼえてるかい?」

「スキンリン先生! うん、ぼくは大きらいだったよ、あの女」

「でぶの赤毛の婆さんで――あんたが嫌ったよりもおれのほうがずっと憎んでたぜ、兄弟。 あいつのおかげでおれの英語は10-Cさ。サイラス・マーナー、ジュリアス・シーザー、老水夫行。なんてこったい、おれはこのくそったれな国語をしゃべるのをほとんどやめちまったくらいだぜ、それほどあいつのせいでいやになっちまったんだ」

「ぼくと『サイコ』にどんな共通点があったのか、まだ説明してもらってないんだけど」

「まあ、代わりに「ドノヴァンの脳髄』でいこうか。ガラスのタンクの中の脳みそさ。蛸みたいな知性体がさ、奨学金を嗅ぎまわってさ、答はみんな知っていて、スキンリンたちがシャベルで投げこむ糞を全部がつがつむさぼってさ。セルベラス級のセレプラムだよ」地獄の番犬ケルベロス級の脳か。せっかく気のきいたことをいったのに、単語の発音を二つとも間違えたので台なしになってしまった。

「それにあんたは、そうしたいときにはスキンリン婆さんみたいな連中をぎゃふんといわせることができた。おれはというと、ただ坐りこんで奴らの糞を受けとらなきゃならなかった。糞だったことはわかってたさ、けどどうすりゃいいというんだい?手も足も出やしなかったよ。

あんたのことで、おれの胸にぐさりと突き刺さったのは――くそ、おかげで人生変わっ ちまったんだぜ!――五五年の春のある日のことさ、あんたが、いつもまわりにはべらせ ていたユダヤ人のスケを二人ばかり従えてさ、放課後にペチャクチャやってたんだよ、 ゴードがいるかいないかについて。あんたがそう呼んだんだぜ――ゴードってな。あんた はあの頃、ほんとに嘘っぽいアクセントをしてたよ――ロレンス・オリヴィエの映画のみ すぎのせいだろうな、きっと。おれはお仕置きをくらって部屋の奥に坐ってたんだ。暗く てさ、人目につかなくってさ、おれの人生みたいに。どうだい、少しはよみがえってきた かい?」

「その日に限ったことじゃないんだ。あの年にはやたらとゴードについて吹聴していた よ。啓蒙、ということになるのかな、そんな発見をしたばかりだったのさ。でも女の子た ちのことはおぼえているよ。バーバラと――もう一人は誰だった?」

「ルースさ」

「すごい記憶力だな」

「そのほうがあんたにくらいつくのに便利でござんしてね。それはともかくとして、話を 戻すとあの二人のスケが古めかしい議論を持ちだしてさ、宇宙は時計みたいなもので、 時計というのは時計職人がいなきゃできない、ってやつさ。造物主は第一原因なり、他の原因が原因するにあらず、というやつだよ。 あの日までおれは時計作りのことなんて聞いたこともなかったよ。それで、スケどもがこれを持ちだしたときに思ったね。『さあ、これで、おなじみのドノヴァンの脳髄もおしまいだぜ』って。ところがどっこい――あんたはそんなガタピシした三段論法を」――またまた発音違い――「こっぱみじんに打ち砕いちまったんだ。スケどもにゃそれはわからなかったさ、古くさいごたくを並べているだけだったんだからな――けど、おれにはわかったんだ。あんたはおれをつまずかせ、あの昔の信仰からころがりださせてしまったんだよ」

「すまない、モルデカイ。本当にすまないと思う。気がつかなかったのだよ、いかに人が自らの過ちと思いなす所業によって、多くの他者の生まで毒してしまえるかを。どう詫びたらいい心のか――」

「すまない? おいおい、おれはあんたに感謝してたんだぜ。妙ちくりんな感謝の仕方と思えるかもしれんがね、こんな地中の穴ぐらヘハイジャックしてこさせたりするなんて。 けど今頃スプリングフィールドで送っている よりはいい暮らしだろう。あそこであんたがつけてた日誌をハーストが見せてくれてね。 あそこを出てよかったんじゃないのかい。あんたをここへ連れてくるようにおれがハーストに頼んだのは、愛他心だけによるわけじゃなかったってことは認めるがね。おれにとってもビッグチャンスだったのさ、第一級の、本物の、詩集が出版されてる詩人に会えるなんて。ほんとに立派になったもんじゃないか、え、サケッティ?」彼がこの一つの問につめこんださまざまな感情をえり分けるのは不可能だ。賞賛もあれば軽蔑や嫉妬もあり、また――これはモルデカイが私にいったほとんどすべてのことにみられるのだが――傲岸な喜悦とでもいうようなものがある。

「というと、『スイスの高原』を読んだわけかな?」と私は返礼した。相手のことばのはしをとらえる最初の機会を掴むのなら、作家の虚栄心におまかせあれ!

モルデカイはあるかなしかの肩をすくめた。「ああ。読んだよ」

「だったらぼくがあの頃の青くさい唯物論から脱却したことは知っているわけだ。神は、アクィナスにはまったく関わりなく存在する。信仰は三段論法の修得以上のものなんだ」

「信仰くそくらえ、あんたの警句もくそくらえだ。あんたはもうおれのビッグ・ブラザー じゃない。おれはあんたの二年先輩なんだぜ、お仲間さんよ。あんたのその後の篤信につ" ていうなら、おれがあんたをここへ連れてこ、させたのは、それにもかかわらず、なんだぜ。 また、なにやらけったくそわるい詩にもかかわらず、だよ」

たじろぐ以外に何ができたろう?

モルデカイは微笑した。彼の怒りは、表出するとたちまち消えうせてしまっていた。

「なにやらけったくそいい詩もいくつかあったがね。あの本は、全体としちゃあおれ以上 にジョージが気にいってたな。こういうことについてはジョージのほうがよく知ってるし ね。一つには、奴のほうがここに長くいる。あいつのこと、どう思う?」

「ジョージのことかい? 彼は……とても烈しかったな。あんなにも何もかもいっぺんに は、ぼくはとても応じきれなかったんじゃないかな。いまでも難しいと思うよ。ここでは みんな、ずいぷん気ままなんだな。スプリングフィールドの完全な真空状態のあとでは、 特にそう感じるよ」

「むちゃくちゃにな。ところであんた、IQはいくつだい?」

「何になるというんだい、この齢になってIQ の話なんかして? 五七年にあるテストで一六〇をとったことがあるけど、そんな標準曲線でどこまでぼくを測定できるのかはわからない。でも今、印刷したテストがどんな違いをうむというんだい? 問題は、自分で自分の知能をどうするか、それがすべてだろう」

「ほう――そいつは嫌味かい?」彼がこれをさらりと受け流したところから、私はどうやらこの会話ではじめて、モルデカイが何らかの真剣さをもって考えているテーマに自分がふれたような気がした。

「きみはここで何をしているんだい、モルデカイ? この、ここで。それにここは何なんだ? ハーストやバスクはきみたちから何を得ようとしているんだ?」

「ここは地獄さ、サケッティ、知らなかったのかい?というか、その控えの間だな。奴らはおれたちの魂を買い占めようとしてるのさ、それで肉体をソーセージに使えるようにな」

「彼らはきみたちに、ぼくが知るべきではないことがあるといったそうだが――それがそうなのかい?」

モルデカイは私から顔をそらせ、部屋の端にある書棚まで歩いていった、「おれたちゃ鵞鳥さ、そしておれたちの食道にハーストとバスクは西洋文化をせっせと詰めこむ。科学に芸術に哲学に、詰めこめるものなら何だってな。それでも――

私は満たされない、私は満たされない

胃はあふれかえり、またあふれかえる

のに、それなのに私はおさえきれない

わが糧を、私は加減できないのだ、ああ!

私は満たされない」

モルデカイが引用したのは私自身の詩だった。私の反応は揺れ動いていた。一方では、彼がこの一節を選んで暗論したことに、くすぐったい嬉しさをおぼえ(とても自慢に思っている箇所だから)ながら、彼がいまいったことの中に、それは私が最初にいったものなのに、それにもまして身にしむ辛辣さがあったことを無念に思ったのだった。私は何も答えなかった。それ以上質問もしなかった。

モルデカイはだらりと寝椅子に倒れこんだ。「この部屋はえらくまとまりがないんだな、サケッティ。どの部屋も最初はみんなこんな具合だったが、なにも我慢することはないんだぜ。もっと上等なのが欲しいとハーストにいってやれ。カーテンが脳波に干渉してくるんだ、ってな。ここじゃおれたちは室内 装飾みたいなことには白紙委任をとりつけてるんだ――いまにわかるがね。せいぜいそいつを活用するこったな」

「スプリングフィールドに較べたら、これでも実に優雅なものに思えるけどね。それをいうなら、これまでぼくが住んだどこに較べたって。リッツでの一日だけは、まあ例外にしても」

「そうかい、詩人てのはそんなに稼ぎがよくねえのかい? おれのほうがずっといい暮らしをしてたってわけだ――兵隊にとられちまう前はな。どくされちんぽこ! ありゃひでえ間違いだったぜ、兵役にひっかかっちまうなんてな」

「きみは、ジョージと同じ道をたどってキャンプ・アルキメデスに来たわけなんだな、営倉経由で?」

「そうとも。士官をぶんなぐってな。あのガキゃあ、自業自得ってもんだが。奴らはみんないつだって求めてるんだが、決して受けとりゃしない。まあ、あのガキは受けとったわけだがね。乳歯を叩き折ってやったんだ、二本ばかり。ひでえ格好だったぜ。営倉はもっとひどい有様だった――意趣ばらしに寄ってたかってなぷりもんだ。それで志願したのよ。 六か月、七か月前のこった。時どき思うよ、 こいつはそんなにひどい問違いじゃなかったんじゃないかってな。これは、奴らがくれたものに対していうんだがね――ありゃ効くぜ、エルエスなんてめじゃない。エルエスの場合だと何もかもわかったような気がするだけだ。こいつがあればほんとにわかっちまうんだよ。けど、そんなにしょっちゅう、いいこころもちになれるってわけじゃないんだぜ。 たいがいは苦痛。HHのおっしゃるように――『天才とは苦痛を受けいれる無限の能力なり』」

私は笑った。彼のレトリックの緩急自在さにすっかり眩惑されながら、警句の底にあるものを噛みしめていた。

「けど、やっぱり間違いだったんだ。おれは低能のままでいたほうがよかったんだ」

「低能? 実際にそんな状態にあったというわけじゃなさそうだけど」

「おれは百六十なんてIQを持ったことはなかったもんな。この原版は、な」

「なるほど、でもああいうテストはぼくみたいな中産階級のWASP用に考案されているからね。いや、むしろWASCというべきかな。知能の測定は血液検査みたいに簡単にできることじゃないよ」

「そういってくれるのはありがたいがね、ほ んとにおれはイカレポンチの低能だったんだ。おまけに、それ以上に無知だった。いまいろんなことがわかるのは、あんたとこんなふうに話ができるのは――こいつはみんなあのPa――連中がくれた薬のおかげなんだぜ」

「みんな? まさか」

「こんちくしょう、みんななんだよ!」彼は笑った。最初の時より静かな笑い方だった。

「あんたと話ができてうれしいよ、サケッティ。あんたはおれの汚いことばにいちいちたじろぐ」

「そりゃそうさ! これが、まあ、中流階級の躾というものでね。アングロサクソン系の単語で、印刷されたものにならかなり慣れているけれど、どういうわけか話しことばとなると……反射作用なんだろうな」

「あんたが見てるその絵本――ついてる文も読んだかい?」

私はウイレンスキーの「フランドルの画家たち」の第二巻を拾い読みしていた。これには図版が入っている。第一巻は文章だけだ。

「読みはじめたんだが、行き詰まってしまってね。まだ何かに集中できるほどおちついていないんだな」

これに対するモルデカイの反応は度はずれて真剣なもののように思えた。答えて何かを いったというわけではなくて、実際には一呼吸間をおいてから、最初の考えどおりに押し進んだのだが。「その中に恐ろしい一節がある。読んでやろうか?」すでに彼は書棚から第一巻をとりだしていた。「ヒューゴー・ファン・デル・グースについてなんだがね。彼について知ってるかい?」

「最初期のフランドル派画家の一人だということだけはね。でも作品はみたことがないと思うよ」

「当然だよ。ひとつも残ってないんだからな。とにかく署名のあるのはひとつもない。 話はというと、一四七〇年頃に気が狂っで、やたら荒れ狂って、悪魔にとりつかれそうになったとか、そんなことばっかりでね。その頃にはもうブリュッセルの近くのこの修道院に住んでいて、ブラザー連中は楽を奏して彼を鎮めようとしたんだな、ダビデとサウルみたいに。その連中の一人が彼の狂気のことを書いてて――ぜんぶ読むだけの価値はあるんだが――おれがほんとに好きな部分は……ここだ、こいつを読ませてくれよ――

 

『ブラザー・ヒューゴーは火と燃える想像力の故に白昼の幻想や幻覚に向かう性癖があり、その結果、脳の病いを患うに至った。それというのは、聞くところによれば、小さなデリケートな器官が脳の近くにあることによるという。これは創造や想像の力で制御されており、われわれの想像が旺盛になりすぎたり空想が奔放になりすぎたりするとこの小さな器官が冒され、負担が限界に達すると狂気や錯乱がもたらされることになる。このような恢復不可能な……』

 

モルデカイはこの単語を発音するときにつっかえた。

 

『……危険におちいらないようにするためにわれわれは空想や想像、疑念を制限し、その他いっさいの、脳を刺激するような空疎で無益な思考を排除せねばならない。われらはみな凡人にすぎぬ。かのブラザーの上に、彼の空想と幻想の故にあのような災厄がふりかかったのであれば、それがわれらの上にもふりかからぬといいきれようか?』

 

すごいだろう? まったく、この爺さんのことは想像がつくね、こんなふうに書いて気を休めてるんだ。『だからいったではないか、ヒュゴー! そんな絵は危険だといつもいったであろうが?』けど、あんたは彼がなぜ発狂したと思う?」

「誰だって気が狂うことはあるさ。画家の特 権じゃないよ。詩人のでもない」

「なるほど、そこまでくりゃあ、まあ、誰でも気ちがいってことになるだろうな。うちの連中なんか、見事に狂ってたもんな。マミーは――みんなこう呼んでたんでね、ご勘弁を!――マミーは精霊きちがいで、おやじは精霊なしの気ちがいだった。兄貴たちはヤク中でよ、それで狂っちまう。狂って狂って狂って狂って」

「どうしたんだ?」私はききながらベッドから起きあがってモルデカイに近寄った。彼はこの演説中に次第に昂奮がたかまって、遂には身を震わせ、眼をきつく閉じ、片手を心臓にあてて、ことばも衰弱して、窒息したような呼吸の雑音にすぎなくなってしまっていた。重い本が左の手から床へ落ち、この衝撃で眼が開いた。「おれは……大丈夫だ、しばらく……坐っていれば。ちょっとめまいがしただけ」

私は彼をソファにもたれさせ、ほかにましな薬もないのでコップに水をくんでくると、彼はありがたそうにそれを飲んだ。コップを持つ手がまだ震えていた。

「それでもな、いいか……」と彼は静かに話を再開した。コップの表面の縦みぞに、へらのような指先を這わせていた.「……ファン・デル・グースには何かがあったんだ。少なくともおれはそう思いたいね。もちろん芸術家特有の何かだ。「種の魔法だなー文字どおりの意味で。自然の記号を解きあかし、同じ-秘密を息吹きにして戻す。そんなもんじゃないのかい?」

「わからないな。ぼくの場合はそうじゃないと思う、そんなふうになるのが好きな芸術家も少なくないだろうけど。ただ、魔法で問題なのは、効いてくれないってことだよ」

「からっきしな」モルデカイは静かにいった。

「神をあざけってデーモンを信じるなんてことができるのかな?」

「デーモンたあ何だい? 自然の霊なら信じるぜ。シルフ、サラマンダー、オンディーヌ、ノーム――自然の四大元素の象徴だな。あんたは微笑して、ふふんと笑って、大学の物理の居心地のいいジェスイット流の宇宙にぬくぬくとまるまっているがいいさ。物質について、あんたには何の神秘も残されていないのか、結構なこった! 精神の場合とおんなじことだよ。みんなこぎれいでわかっちまってるんだな、おふくろの味みたいに。なるほど、駝鳥だって宇宙でのほほんとしているわな、ただ駝鳥にはそれが見えていないがね」

「信じてくれ、モルデカイ、ぼくだってシル フやサラマンダーの世界にいられたらどんなに幸福なことか。どんな詩人だってそうだろう。 きみは、ぼくらみんながこの二百年間、何に苦しんできたと思うんだ? ぼくらは追い立てをくらってしまったんだよ」

「けどあんたはそれでもことばを鼻先であしらう。あんたにとっちゃロシアのバレエに、ベルの音にすぎないんだよ。だがおれは見たんだぜ、サラマンダーを、炎のまっただなかに住んでるのを」

「モルデカイ――炎が元素だという観念そのものがナンセンスなんだ。化学を一学期でもやればそんな考えは消え失せてしまうよ。高校の化学でいい」

「炎は変革の元素だ」昂揚した、陶然とした口調で彼はいった。「霊と肉の変容の元素だ。 物質と精神の間の橋だ。ほかに何が住んでるんだ、あんたのでっかいサイクロトロンの心臓には? それとも太陽の中心に? あんたは天使を信じるんじゃないのかい――この天体と最も遠い天体の間にいるものを。ところで、おれは連中と話をしたんだ」

「最遠の天体――ゴッドの住む、あれかい?」

「ゴードさ、ゴード! おれは身近な霊のほうがいいがね――この連中は話しかけたら答えてくれる。手の中の二羽は藪の中の一羽の 価値がある、というわけさ。けど、議論してもはじまらんな。まだ今のところは。おれの実験室を見るまで待つこった。おたがいに理解しあえるように語彙を調整しなきゃ、シクとヌンの間で揺れ動き続けるだけだよ、くそったれな終末の日まで」

「すまない――いつもはこんなに融通がきかないわけじゃないんだ。これは筋のとおった異議というよりはむしろメンタルな自己防衛がそうさせているんだと思う。きみのレトリックに身をゆだねて押し流されていくのもわるくないよ。これは、ほめてるつもりなんだけどね」

「てこずってるんだろう、おれのほうがおつむの回転がいいんで?」

「きみは困らなかったかい、モルデカイ、形勢がひっくりかえったとき、最初にぼくを知ったときに? それに……」このことにいい顔をしようとして微笑みながら、「……きみのほうがいいかどうかはわからないよ」

「いいや、おれのほうがいい、おれのほうが。信じろよ。なんならテストしてみろよ。 いつだっていいぜ。武器の選択はあんたにまかせる。種目を選べよ、何だっていい。国王の在位年月日を知ってるかい、イギリス、フランス、スペイン、スウェーデン、プロシャの? フィネガンズ・ウエイクの坂をよじのぼるってのはどうだい? 俳句は?」

「ストップ――信じるよ。でも、ちくしょう、それでも一つぐらいは勝てる分野があるものさ、スーパーマン」

モルデカイは傲然と頭を上げた。「何だ?」

「正読法」

「うん、降参だ、正読法てな何だい?」

「正しい発音の仕方だよ」

ルシフェルは、天より墜ちてゆきながら、さほど当惑してはいなかった。「なるほど、なるほど、そうおいでなすったか。けど、こんちくしょう、そんな時間はありゃしないぜ。全部の単語の発音を調べておぼえるなんて。 しかし、間違ったいい方をしたときには訂正してくれるかい?」

「詩人なら、ほかのことはともかく、それはお手のものであるはずだと思うよ」

「おや、あんたのためにとってあることはいっぱいあるんだぜ。あんたはもう一度ジョージと話をしなきゃならない。きょうじゃない、きょうはあいつ、病室にいる。あいつはここで『フォースタス博士』を上演しようというちょっとすごいことを考えてるんだが、あんたが来るまで待ってたのさ。それに、もう一つあるんだが……?」柄にもなくモルデカイはもじもじしているように見えた。

「それで?」

「おれ、ちょっと書いてみたんだ。小説なんだけど。そいつを読んで、感想をいってもらえたらと思って。ハーストはNSAの検閲が済んだら雑誌に送ってもいいと約束してくれたよ。けど、出来がいいかどうかよくわからないんだ。謙遜じゃないぜ。ここのみんなは気にいってくれてるんだが、おれたちはひどく密着した小グループになっちまってる。近親交配だな、しかしあんたはまだ自分の考えというものを持っている」

「よろこんで読ませてもらうよ。そして、できるかぎり意地の悪い批評をすることを約束しょう。何についての作品だい?」

「ついて? なんてこった、それが詩人のする質問かね。ファン・デル・グースについてだよ、事実上はね」

「ところで、NSAとは何のことだい?」

「ナショナル・セキュリティ・エージェンシー。解読屋連中だな。おれたちのいうことを全部チェックして――テープに収められてるのさ、知ってるだろう――確かめるわけだよ、おれたちが……錬金術を使ってないって」

「きみたちが錬金術を?」

錬金術士モルデカイはウインクした。「アブラカダブラ」と意味深長にいう。そして、シルフの如く疾く、彼は去った。





T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日