と無感覚なステンレスの番号がが無味乾燥な薄 いろ材の扉に貼りつけられ、その下方には、四角い黒のプラスチック板に彫られた白い文字(ちょうどあの銀行の窓口に置かれていて片側に係の氏名がありもう一方に〈隣の窓口へどうぞ〉とあるのにそっくりな)――
看守たちは私を中へ案内すると、二つの椅子の厳しい保護に委ねた。クロムめっきの鋼の枠組から蜘蛛の巣状にぶらさがったこの黒い革製の椅子は、しかし看守たちの精華を抽出したもの――いわば花の香油――にほかならなかった。ハーレー・ダビッドソン製作になる椅子。ハードな描線の絵画が幾つか(こんな椅子を嘉して選ばれたものだ)壁にぺったり貼りついていて、不可視になることを渇望していた。
ドクター・A・バスクは大股で部屋に入ってきて私に迫るように手をさしのべる。握手に応じるべきなのか? いや、彼女はただ席に着くよう手真似で示しているだけなのだ。
私が坐ると彼女も席に着き、脚を組んでひょいひょいとスカートのへりをひっぱりながら微笑する。ちょっと薄すぎてきっぱりしすぎていて、優しいとはいえないにしても確かな微笑だ。高くてすっきりとしたひたいと、でしゃばらない眉はエリザベス朝の高貴な婦人のもの。四十歳? むしろ四十五といったところか。
「ごめんなさい、お手をさしだせなくて、サケッティさん、でもそんな偽善は最初から排除しておいたほうがお互いにずっとうまくやっていけるでしょう。あなたはここで休暇をすごしているわけじゃないんですものね? あなたは囚人、そしてわたしは……何かしら? わたしは監獄よ。これが、しごく快適とはいかないにしても正直な付きあいの始まりというものでしょう」
「正直ということになると、ぼくもあなたに失礼なことをいっていいのかな?」
「罰はございませんことよ、サケッティさん。売りことばに買いことば。ここでなさろうとお暇な折に日誌の中でなさろうと。わたしのもとへ第二の写しが送られてきますから、ご心配なく、どんなに不快なことをおっしゃろうと決して無駄にはなりませんわ」
「こころしておきましょう」
「ところで、二、三わたしたちがここで行なっていることについて知っておいていただきたいんですけれど。きのう、ワグナー青年にお会いになりましたわね。ところが日誌上では、彼のかなり注目すべき振舞いについては一切のスペキュレーションをきっぱり自制してしまっている。何かお考えになったにちがいないのに」
「なるほどそうにちがいない」
ドクター・A・バスクは唇をゆがめ、クリップボードにはさまれた封筒をぎざぎざの指の爪でたたいた――サケッティ身上調書、再び登場。「遠慮はぬきにしましょうよ、サケッティさん。ジョージ青年の行動が完全に一貫したものではないということはあなたも注目なさったにちがいないし、そんな一貫性のなさを、わたしの同僚のハースト氏が洩らしたここでのあなたの役割についての発言と関連づけて考えてみたにもちがいない。彼は、まあ、うっかり洩らしたわけじゃないんですけれどね。要するにあなたはこう疑うようになったにちがいないのよ、ジョージ青年はここで行なわれている実験計画の被験者――対象のひとつではないのか、ってね?」彼女は控えめな、もの問いたげな眉を上げた。私はうなずいた。
「まさかここまでは思い到らなかったでしょうけれど――だからたぷん、知れば気が楽になるんじゃないかしら?――ジョージ青年は志願してここへ来たんですのよ。彼、台北で休暇中に軍隊を脱走したのよ。兵隊と娼婦によくある、みじめったらしいお話。もちろんみつけだされて軍法会議にかけられたわ。判決は五年の懲役。寛大な判決よ、それはあなたも認めるでしょう。正式な交戦中だったら、射殺されていたかもしれないんですものね。 ええ、きっとそうなっていたはずよ」
「すると、軍なのか、ぼくを誘拐したのは?」
「正確にはそうじゃないわ。キャンプ・アルキメデスはある私的な財団からの援助のもとに運営されているのよ。ただ、秘密保持の必要上、かなり自治性が強いけれど。財団の役員で、わたしたちの研究の本質を正確に知っているのは一人だけ。あとの役員たちにとってまた、軍にとっても――ここでのことは兵器開発というあの何でも包括してしまえるカテゴリーに入っちゃってるわけ。かなりの数の人員が――衛守の大半と、それにわたしもだけど――いわば借り入れられているのよ、軍からね」
こんなご教示、彼女の属性のすぺて――ごしごし磨きたてられた顔、糊のきいた身ごなし、男性化した声――が合わさって、ひとつの有力なイメージになった。「あなたはWACの隊員なのか!」
これに対する答は、皮肉な敬礼だった。「それで、話を元に戻すと、かわいそうなジョー ジは営倉入りしたわけだけど、そこでめでたしめでたしとはならなかった。彼は、わたしの同僚のハースト氏の口ぐせを借りるなら、適応することができなかったのね、営倉の環境に。キャンプ・アルキメデス入りの志願の機会が訪れたとき、彼はそれにとびついた。なにしろ、近頃の実験というのは大半が免疫学の方面のものだし、新しい病気の中には極端に不快なものもあるわけだから。というのがジョージ青年のお話。ほかの被験者たちにも会うことになるでしょうけど、来歴はおして知るべしってところね」
「この被験者はそうじゃない」
「あなたは実験材料じゃないわ、正確にはね。でもなぜここへ連れてこられたのかを知るためには、まず実験の主旨を理解してもらわなきゃならないわね。これは学習プロセスについての調査研究なのよ。国家の防衛努力という面での教育の根本的な重要性は、あらためて説明するまでもないでしょう。窮極的には知的能力なのよ、一国の最も重要な資源となるのは。そして教育は、知能を最大限にまでひきあげるプロセスとみることができる。ところが実際にはほとんど例外なく失敗に終っている。それはこの第一の目的が社会への適応という目的の犠牲になっているからなの よ。知能が最大化される場合には、ほとんど常に社会適応のプロセスが犠牲になっている――この点に関しては、あなたのケースを例にあげてもいいんじゃないかしら――そうなると、社会のほうから見ればほとんど得るところがないということになってしまう。きびしいジレンマね。
このジレンマを解消して、社会的な有用性をそこなうことなしに知能を最大化すること、これこそが心理学という学問の主要な任務じゃないかしら。これで明解といえるかしら?」
「キケロその人だってこれほど純粋なラテン語の語法を持っちゃいなかったでしょうな」
La・バスクは意味が掴めなくて、高い、眉墨をひいていない眉にしわを寄せたが、やがてこれは要するに反社会的な軽口で追求するほどのものでないと判断したらしく、寄せたでこぼこを解消して話を続けた――
「そういうわけでわたしたちはここで新しい教育法の開発に取り組んでいるわけなのよ、成人教育のテクニックの開発にね。おとなの場合には社会化のプロセスは完成している。二十五歳を過ぎて著しい人格形成を示す被験者はほとんどいない。だからもしそこで知能の最大化のプロセスを開始させることができ れば――いわば、ないがしろにされていた創造的な素質を目覚めさせることができたなら――そのときわたしたちは、これまで一度も活用されたことのないあの最も貴重な資源、つまり心を開発できるようになるんじゃないかしら。
不幸なことに、わたしたちに与えられる研究材料は欠陥品ばかりだった。実験材料の供給を軍の営倉に頼らざるをえないとなると、どうしてもそこに一定の偏向が持ちこまれてしまう。そんな連中の場合、明らかに社会化のプロセスが失敗していたわけですものね。そこで、思いきり遠慮なくわたしの意見をいわせてもらえば、そんな選択上の歪みのせいですでに不幸な結果が出はじめている。これをあなたの日誌に書きとめていただきたいわけなのよ」
私はそうしようと彼女に請けあった。それからこらえきれずに――おかげでどんなに好奇心をそそられてしまったのかを示して、彼女を満足させたりはしたくなかったのだけれど――こう質問した。「新しい教育のテタニックというのは、つまり薬品のことだと思っていいのかな?」
「あら、あら。だったら少しはこの問題について考えていてくれたわけね。そう、たしかにドラッグよ。あなたが想像しているような意味でのものとはたぶん違うでしょうけれど。近頃では大学の一年生なら誰でも知っていることだけど、法律の枠の外から入手されるドラッグの中には、記憶力を一時的に二百パーセントも拡大できたり、ほかの学習プロセスをその割合でスピードアップさせたりするようなものがある。でもそんなドラッグの場合、連用していると学習曲線のカーブがにぶってきて、やがては効率漸減点に達し、しまいにはまるで効かなくなってしまう。そんな薬もあれば、また別な、たとえばLSDのようにうわべだけの全知の感覚をもたらすものもある。でもそういうドラッグについては、あなたにお話するまでもないでしょう、サケッティさん?」
「そいつもぼくのプロフィルに入っているのかい? 何でもお見とおし、といわざるをえないね」
「あら、あなたについて存じ上げないことはごくわずかでしてよ。あなたがここに連れてこられる前に、もうお察しでしょうけれど、わたしたち、あなたの過去の小さな汚れた裂けめまですっかり調べ上げたんですのよ。ただの兵役拒否者を連れてくるというんじゃなかったんですものね。あなたが無害だってこ とを確かめなきゃならなかったもので。あなたのことはおもても裏も存じてましてよ。学校や親戚、友人、何を読んだか、どこへ行ったか。フルブライト留学資金でスイスやドイツヘ行った時に泊ったホテルの部屋もみんなわかっている。バード大の頃やその後にデートした女の子たちのこと、それぞれとどの程度まで行ったかってこともね。あまりご立派な品行だったとは、とても申せませんことね。 それにこの十五年間にどれだけの収入があったか、それをどうつかったかということも実に詳しくね。政府の気持次第では、脱税のかどでスプりングフィールドヘ逆戻リということにもなりかねませんわね。二年間の心理療法の記録も手に入れていますし」
「懺悔も盗聴したのかな?」
「スプリングフィールドに入ってからだけですけれど。おかげで奥さんの中絶のことや、あのミス・ウェッブとのいやらしい関係のこともわかったわ」
「でも美人だったろう?」
「おつむの弱いタイプがお好きならね。でも今はビジネスの話に戻りましょう。ここでのあなたの仕事は実に単純なものよ。被験者たちの中にまじって彼らと話し合い、できるか ぎり日々の生活を共にしていただくことになります。そして、簡潔に報告してくださればいいのよ。彼らの心を占めている問題だとか、彼らの娯楽、そしてあなたがご自分で評価する……何ていったらいいのかしら?……ここでの知的風土といったようなことをね。この作業、あなたのお気に召すんじゃないかしら」
「たぶんね。でもなぜぼくが?」
「被験者の一人が推薦したのよ。さまざまな候補者を検討した中で、あなたが最もこの仕事に向いているらしいということになったわけーそれに、いちばん手がかからないでしょうしね。白状すると、わたしたちはずっと……被験者とのコミュニケーションの問題で手をやいているのよ、そこへ彼らの中心人物が――モルデカイ・ワシントンというんだけど――提案してきたのね、あなたをここへ連れてきて、いわば仲介者、通訳になってもらったらどうかって。モルデカイのこと、おぼえていて? 五五年に一年間だけ同じ高校に行ってるんだけど」
「中央高校かな? 名前にはおぼろげに聞きおぼえがあるような気がするけれど、はっきりしないな、出席簿で読み上げられるのを聞いたのかもしれないけれど、友人じゃなかったよ。名前を忘れてしまうほど大勢の友だちを持ったことはないし」
「ここにはその穴埋めをする機会はたっぷりあるわ。まだほかに質問はございますか?」
「うん。Aというのは何の略ですか?」
彼女はきょとんとしていた。
「ドクター・A・バスクのさ」と私ははっきりさせた。
「ああ、そのこと。エイミーの略よ」
「それから、ここに資金を供給しているのはどういう財団?」
「いってもかまわないけれど、ねえ、サケッティさん、知らぬが仏よ。被験者たちにも指示してあるんですのよ、あなたのために。事柄によってはあなたと話し合わないほうがいいこともあるって。だってあなたは、いつかはここを出たいと思ってらっしゃるんでしょう?」
ドクター・エイミー・バスクはしゅるっとナイロンのきぬずれをたてて、組んでいた脚をとくと立ちあがった。「衛守たちがすぐに上の階までお送りいたします。遅くとも来週またお会いしましょう。それまででも、わたしの答の欲しい質問がございましたら、どうぞご遠慮なくおこしください。では、サケッティさん」きびきぴした鋏のような歩調で三歩進むと、彼女は部屋を出ていった。このラウン ドのポイントを総ざらいして。