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: 六月六日 : 一冊目 : 追記――   目次

六月二日

ハーストが〈オフィス間メモ〉で知らせてくれた。私の使っている電動タイプライターはマスター=スレイヴ連動装置に組みこまれていて、タイプするものはすべて自動的に別室で第二、第三、第四の増刷をうみだしているという。HHは刷りたての日誌を手に入れているわけだ。私にカーボン紙を支給せずに済ませて、それで浮く費用のことでも考えているのだろう。

きょう、年代記風に綴るに値するものがここにもあるということの、最初の証拠がみられた――

ハイファイ装置(B&Oか、それ並み)に かけるテープを取りに図書館へ行く途中、わが新たなる地獄のこの圏に住まう霊の一人に遭遇した。ダンテ流の、しかるべき順序どおりに経めぐっていくのだとしたら第一の獄――リンボー――ということになり、あの男は、アナロジーをもう少し拡張するなら、この幽冥の辺境のホメロスということになるだろう。

実際、暗かったし、というのはあたりの廊下の部分の螢光燈がとりはずされていたからだが、森の小径さながらにたえず一定の冷風が純粋ユークリッド空間を吹きぬけていて、何か通気システムに変調があったのだと思う。男は行く手を遮適ようにして立ち、顔を手に埋めていて、トウモロコシの穂の毛のような白い髪を神経質な指にからませて、身を揺るがし、自分に囁きかけていたように思う。かなり近寄っても男が瞑想からめざめないので、「やあ」と声をかけてみた。

それでも何の反応もないので、もっと大胆に、「ぼくは新入りでしてね。スプリングフィールドで囚人でした。兵役拒否で不法にもここへ連れてこられたんですよ。何のためかは神のみぞ知るところですけれど」

彼は顔から手をはなして私を見た。眼をしかめ、もつれた髪の間から。幅の広い、若い顔だった。スラブ系で、飾らない――エイゼンシュテインの史劇の傍役のヒーローの一人といった感じ。幅広の唇が開いて、冷たい、まだ附におちないような微笑になり、舞台の月の出のようだった。右手をあげて私の胸の中央に三本の指で触れ、まるで私の実在を確認しようとでもするかのようだった。それを確かめると、微笑に真実味がこもってきた。

「ご存じありませんか」私はせっつくようにたずねた。「ここはどこなんです? われわれはどうなるんです?」

曇ったような眼が端から端へと動いた――どぎまぎしたのか不安のせいか、私にはわからなかった。

「どこの都市です? どの州です?」

またもあの寒々しい認識の微笑。私のことばが彼の理解への長い道のりに橋をかけたようだった。「そうだなあ、いえるのはせいぜい山間の州のどこかだってことぐらいだな。そのタイムのおかげだよ」彼は私の手にしていだ雑誌を指さした。ひどく鼻にかかった中西部説りの発音で、教育や旅行で矯正された様子もない。風.朱に加えて話しぶりも典型的なアイオワの農村青年だった。

「タイムのおかげ?」私はやや面くらってききかえした。そして表紙の顔を(北マレーシアのフィー・ファイ・フォー・フム将軍か誰か、黄禍だったが)まるでその人物が説明してはくれないものかというように見たのだった。

「そいつは地方版だろう。タイムはいくつかの地方版を出してるんだ。広告の都合でね。で、おれたちの手に入るのは山間州版ってわけさ。山間州というのはアイダホにユタ、ワイオミング、コロラド……」とギターの弦でもかき鳴らすように列挙していく。

「あ! そうか、もうわかりましたよ。ぼくも鈍いなあ」

彼は深々とためいきをついた。

私が手をさしだすと、彼は気乗りせぬ様子を隠さずにそれを見た(一部の地方、特に西海岸では、細菌兵器のせいで握手はもはやよき挨拶とはみられていないのだ)。「サケッティといいます。ルイス・サケッティ」

「あ! あ、そうか!」彼は痙攣したように私の手をとった。「あなたが来るってモルデカイがいってたんだ。お会いできてとてもうれしいです。なんていったらいいのか――」急に黙りこんで真赤になって手をひっこめた。

「ワグナーです」と思い出したようにぼそぼそという。「ジョージ・ワグナー」それから、ちょっと自嘲的に、「でもお聞きになったことはないでしょうね」

この種の前口上には、朗読会やシンポジウムなどでリトルマガジン作家や大学の助手、私よりまだ格下の連中相手に何度もお目にかかっているので、私の反応はほとんど自動反射的なものだった。「どうもそうらしいね、ジョージ。残念ながら。驚いたなあ、本当にきみがぼくの名を聞いたことがあるなんて」

ジョージはくすくす笑った「彼が驚いた……」ゆっくりとひっぱるようにいう。 「……本当に……ぼくが彼の名を聞いていたんで!」

これには少なからず困惑させられた。

ジョージは眼を閉じた。「すみません」と、ほとんど囁くようにいった。「光です。光が明るすぎるんです」

「きみがいったモルデカイというのは…?」

「ぼくがここへ来るのが好きなのは風のせいです。また息ができる。風を吸いこめる。ほっとして」それとも「そっとして」といったのだろうか。続けてこういった。「静かにしていると彼らの声が聞こえる」

私はとても静かにしたが、聞こえるものといえば貝殻の中の海鳴りのようなエアコンの音、部屋の連なる通路を吹きぬけていく冷気の荒涼たる風音だけだった。

「誰の声?」少しぞくっとしながら訊いてみた。

ジョージは白い眉をひそめた。「え、天使たちですよ、もちろん」

狂っている、と私は思った――そして、ジョージが私の詩を引用してみせていたのだと気がついた――私が「ドゥイノの悲歌」に対しておこなった本歌取り兼パロディなのだ。このジョージが、純朴なアイオワの若者が、私の詩集未収録作品の一節をこうも軽がると引き出してみせようとは、彼の気がふれているのだというような単純な推測などよりもはるかに私を動揺させることだった。「あの詩を読んだのか?」と私はたずねた。

ジョージはうなずき、するとまるではにかんだようにトウモロコシの穂の毛のもつれが光沢の弱い眼にかぶさった。

「あまりいい作品じゃないよ」

「ええ、そう思います」ジョージの手が、今までは背中で結ぼれあっていたのが、顔のほうへと徐々に上昇しはじめた。眼にかぷさっている髪をはらいのけるところまで行くと、ひたいのてっぺんで罠にでもかかったように動かなくなった。「でもこれは本当ですよ……彼らの声が聞こえるんです。沈黙の声が。それとも息吹きか、どちらでも同じですけれど。モルデカイは呼吸も詩だといってます」手がゆっくりと光の弱い眼の前まで降りる。

「モルデカイ?」ややもどかしさをこめて私は繰り返した。この名をいつかどこかで聞いたことがあるような、そんな印象をふりはらうことができなかった。今もできない。

だがそれは、潮流によって抗し難く運び去られていくボート上の人間に話しかけるようなものだった。ジョージは身をわななかせた。

「行って下さい」彼は唖いた。「お願いです」だが私はすぐに立ち去らなかった。彼の前にしばらく立っていた。しかし彼はもう私のことをすっかり忘れてしまっているようだった。そっと前後に身をゆすっていた。踵から足の指のつけねへ、そしてまた踵へと。ほそい髪が通風孔からの着実なヒューと鳴る排気にそよいでいた。

彼は声に出してひとりごとをいっていたが私がとらえることのできたのはほんのわずかだけだった。「連鎖する光、通廊、階段……」単語には耳慣れた響きがあったが、私はそれを位置づけることができなかった。「存在の空間と至福の遮蔽」

不意に彼は顔から両手を離し、私をみつめた。「まだいたんですか?」と問うた。

すると、答は自明だったのに、私は、うん、まだいたんだよ、といった。

通路の薄闇の中で彼の虹彩は拡がっていた。たぷんそのせいだろう、彼はひどく悲しげにみえた。またも私の胸に三本の指を置いた。「美は」と彼は荘重にいった。「われわれがかろうじて耐えることのできる恐怖の始まりにほかならない」そしてこのことばとともにジョージ・ワグナーは相当な量の朝食のすべてをあの純粋ユークリッド空間に吐きもどしたのだった。ほとんど直ちに衛守たちがわれわれを、この黒い母鶏のヒナどもをとりかこんで、ジョージに口をすすがせ、あたりをモップで掃除し、二人をそれぞれの方向に導いていった。私にも何か飲むものをくれた。トランキライザーだろうと思う。でなければこんなふうに気を鎮めてあの出会いについて書きしるしてなどはいられないはずだ。

だがなんと不思議な男だったことか! リルケを引用する農村青年とは。農村青年でもホイッティアぐらいは、あるいはカール・サンドバーグまでも、暗諦するかもしれない。しかし Duineser Elegien となると?



T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日