主はわが光にしてわが救い、それを恐れることがあろうか?主はわがいのちの力なり、それを怖れることがあろうか?
悪しき者、まさにわが敵、かたきども、わが肉を啖わんと迫りし時、躓きて倒れり。
たとい大軍、われに対して陣を張ろうと、
わが心、恐れることなからん。たとい戦さ、われに対して起ろうと、これにわれ確信あらん。
われ、主に願いたるひとつのこと、希求せん。わが生涯のすべての日々、彼の館に住まいて、土の美を拝し、みもとにて尋ね奉らん。
私は実に素晴しく、実に猛烈に、実に純一に、実にまったく予想に反して、幸福だ――巨大な善意ある蒸気ローラーによる如く幸福に圧倒され、〈善〉に押しつぶされている。私は見ることができる。肉体は十全だ。いのちが返され、そして世界は、素敵な再び帰ってきた世界は、少なくとも、その出発命令を拒否するチャンスなしに、ハルマゲドンヘは向うまい。
おそらく、説明せねばなるまい。だが、ただもう歌いたいのだ!
筋道を、サケッティ、筋道を――始めと、中と、そして終りを。
前述93項は、スキリマンが、忠僕を含むかなりの人数の衛守と共に、医務室に再登場したことによって打ち切られた。
「オーライ、膿づらぼうやども、もう立去る時間だぞ、サケッティさんは大層お加減が悪くて見舞客の相手ができんのだ」
「失礼ですが、博士、ぼくらはここにとどまります。なにしろハースト氏からそうする許可を得ているんですからね」これは、震える声で、スキパンスキーから。
「きみたちは、六人とも――クワイアはどこだ?――自力で即刻、その扉から歩いて出ていきたまえ、さもないと一人ずつ運び出されることになるぞ。公正にみて正当と判断される限りで、手荒な扱いをしてくれてもいいと衛守たちにいっておいた。誰か、あの騒々しいタイプライターから、あの不愉快な手を取除いてくれんかね?」
この任務を引受けたのは、予想どおり、忠僕だった。私は冷静なそぶりでタイプライターから顔をそらせようとしたのだが、忠僕はずいぶん近くに来ていたに違いない(衛守たちがもう部屋中に散らばっていたのか?) 右手を掴んで私を椅子から引き出しながら、絶妙な拷問の要領で、それを捻ることができた。(彼の唇から小さな満足の喘ぎがこぼれた。) 痛みは、何分も後まで続いた。いやそれどころか、最後の最後まで。
「ご苦労さま」とスキリマン。「では、諸君、これより……」
以下省略となったのは、ハーストがクワイアとともに登場したことによる。HHは当惑した声でいいはじめた「私が連れてこられたのは事情を――」
「ようこそのおでましで、将軍!」とスキリマン、冷静に即興の機略でまくしたてた。「もうほんの一足早くおいで下されば、上官抵抗の全景をご覧いただけたでしょうに。まず、なさるべきことは――私が現在の危険状態をあなたと論じ合えるようにするためこれらの若者たちを各自の部屋へ連れて行かせることです」
六名のクワットは抗議と説明の叫びで妨害したが、そんな乱流をも越えてスキリマンのかん高い雄弁はアーチを架渡し、鋼のオレンジよろしき画然たる双曲線をえがいた――
「将軍、ご忠告申し上げますこれら若き共謀者どもを互から隔離なさらなければ、キャンプ・アルキメデスの保安は重大な危機に晒されるでありましょう。ご自身の経歴と名声を重んじられるなら、閣下、私の言をお聞き届け下さい!」
ハーストは不明瞭にもごもごと言っただけだったが、スキリマンに従えとの衛守たちへの合図が伴っていたに違いない。クワットたぢは抗議しながら部屋から連れ出されていった、
「思うに」とハーストは切り出して、「きみは山をモグラ塚だと大袈裟にみているのかもしれんぞ」何か言い間違えをしたようだと気がついて、そこでいいやめて考え込んだ。
「提案してよろしいでしょうか、将軍、これちの問題をもっと論じる前に、サケッティをここに残して医療スタッフの看護に委ねてはいかがでしょう? 些か……その……彼には聞かれたくないことがあるもので」
「だめだ! 彼がそんなことをいうのには理由があるんだ、ハースト。今、ぼくの前で、運命を定めてくれ、でないと得るところのない議論になるかもしれない。ぼくは彼を疑っているんだ」
「彼の疑いなど、煩わしいかぎりですぞ! 事は保安に係るのです。それとも、死体には好きなようにさせておけとおっしゃるのなら、一緒に上へ連れていかせるがよろしかろう」
「上、どこだね?」とハーストはたずねた。
「上ですよ――これまでは時どき上へ行く認可を下さったでしょう。なぜ今、逡巡なさるのです?」 「逡巡? 私は逡巡などしておらんよ! さっぱり理解できんね」
「ここではその問題を論じたくないんですよ!」
(いまなお私には、スキリマンがこのとき何のために固執していたのか、定かではなく、それは決定的なことを実に予見し難い方法で説明しようとするようなものだった、というのも、よもや、予見されていなかったのか? この点で自分の思いどおりに、まったく独断的にやれれば、もうあとはどんな問題ででもそうやっていけるという、確信にすぎなかったのだろうか?)
「よかろう」とハースト、その声の(これまでになく習慣的な)黙諾には、彼の年齢が聞きとれた。「サケッティが同行するのを手伝ってやってくれんかね?」と衛守たちに求めた。「それから、何か彼に外套のようなものをみつけてやってくれ。毛布でもいい。上は寒いんでな」
私がわれわれのエレベーターの或るもので行なった最長の旅の何倍もかかるものだった。われわれ六人(忠僕とあと二名の屈強な衛守が、私の逃亡を防止するのに必要とされたのである)は私の耳のはじけるような音を除いては完全な沈黙の中で上昇。
エレベーターの籠を出ると、ハーストがいった、「さて、もうあんな謎めかしはやめて、何が問題なのか説明してくれなきゃならん ぞ。ルイスが何をそんなに恐しいことをしたんだね?」
「上官抵抗を企て、あわや成就寸前のところまで持っていったのです。しかし私の行きたかったのはここではありません、もっと安全でしょう……外のほうが」
衛守たちが、両腋の下にそれぞれ手を入れて私を案内、カーペットの敷かれていないフロアを越え、扉を抜け、また扉を抜けると、顔にそよかぜを、まるで死んだと信じていた最愛のひとの息吹のように感じた。よろよろと三段おりた。衛守たちが掴んでいた手を放した。
空気!
そしてスリッパ穿きの私の足の下にあるのは、ユークリッド的なそっけないコンクリートではなく、不慣れで多様な感触のある大地だった。このときはたして私が何をしたのか、声をあげて叫んだのか、盲いた眼から涙が流れたか、また、どれくらいの間、顔を冷たい岩に押し当てていたのかも、まるでわからない.我を忘れていた。生涯にそれまで一度も感じたことのないほどの幸福をおぼえた。なぜなら、それは何か月も前に私が排除された世界の、本物の空気であり、紛れもない岩だったのだから。
彼らは二人はたぶん数分間話し合っていた。今は、私をめざめさせたのが、ハーストのびっくりした「何だって!」だったのか、極度の寒さなのか、それともわが身の危険に対する意識が甦ってきたからに過ぎないのか、思い出せない。
「彼を殺すんです」とスキリマンが抑揚のない声でいった。「さあ、これ以上明解になれとおっしゃっても無理ですよ」
「彼を殺す?」
「彼が逃げようとしている間に。ほら、彼の背中はわれわれに向けられているでしょう。彼は逃走中に毛布を失くしました、あなたは発砲しなくてはならなかったのです。まさに古式ゆかしい情景じゃありませんか」
ハーストはなおも気の進まぬ様子を示したらしく、スキリマンはさらに押した――
「彼を殺すんです。そうしなくはならないんです。彼がひきつづきキャンプ・アルキメデスに存在すれば、その行きつく結果はひとつしかありえないということを、私は論理的に明らかにしました。まもなく彼の増大する知力は、一緒にいる時でさえもいったいどんな巧妙な網を張りめぐらしていのやらだれにも見当すらつかないところまで行ってしまうでしょう。彼がきょう彼らに何を話していたか、申し上げたでしょう――脱出ですよ! われわれが彼らの全計画を盗聴しても、それでもなしうる脱出でなければならないと彼はいったのですよ! 想像してみて下さい、彼がわれわれにおぼえているに違いない軽蔑を! 嫌悪を!」
想像の中で、ハーストの頭が弱々しく左右に揺らいでいるのを見ることができた。「しかし……私にはできんよ……私にはできない……」
「しなくてはならないんです! しなくてはならないんです! しなくてはならないんです! ご自身でなさらないのなら、衛守の一人をご指名ください。志願者を募るのです。 一名はよろこんでお手伝いするでしょう、必ずや」
〈忠僕〉が即座に、忠僕ぶりを発揮して、進み出た。「自分でありますか?」
「さがっていたまえ!」とハースト、その声には弱々しさは微塵もなかった。それから、尻すぼみの態度で、スキリマンに――「衛守にさせるわけにはいかんよ……そんな……」
「だったら、ご自分の銃をお使いなさい。今すぐ手を下さないと、すでに彼の網の中に捕われていないとは言い切れなくなりますよ。あなたがこのフランケンシュタインの怪物を創ったのです、ですからあなたが滅ぼさなくてはならないのです」
「そんなことはできんよ、私には。彼とは懇意だった……あまりにもしばしば……それに……しかし、きみは? きみではいかんのか? 銃がきみの手にあったなら?」
「お寄越しなさい――直接的にお答えしましよう!」
「衛守、きみの銃をスキリマン博士に渡したまえ」
このやりとりのあとの長い沈黙の中で立ちあがってふりかえると、吹きさらしの風を顔に受けた。
「いいか? いいか、サケッティ? 何かいいたいことはないか? 辞世の二行連句は? 生意気なせりふは?」声の緊張の中に、彼が意志の鞍に完全に安定して乗ってはいないと示唆するものがあった。
「ひとつだけ。あなたに感謝するということを。再びここに来られて、実に素晴しかった。もう表現できないくらい素晴しい。風、そして……いってくれないか? 夜なのか……それとも、昼?」
答えたのは沈黙、それから銃声。また一発。
全部で七発。それぞれのあと、私の幸福は新たな直径へとはずむように思えた。
生きている! と私は思った。私は生きている!
七発目の銃声のあとには最も長い沈黙が続いた。それからハーストが――「夜だよ」
「スキリマンは……?」
「彼は銃弾を――星に向って発射したのだよ」
「文字通り?」
「そう。特にオリオンの帯を狙っているようだったな」
「わけがわからない」
「きみは、土壇場で、充分に大きな標的ではなかったのだよ、ルイス、彼の悪意の並々ならぬ大きさにとっては」
「それで、最後の銃弾は? 彼は自分で……?」
「たぶんそうしたかったろうが、そこまでは踏み切れなかった。最後の一発は私が撃ったのだよ」
「まだ理解できない」
鼻風邪で濁ったバリトンで、ハーストは「私は築きます、天国への階段を」のふしをハミングした。
「ハースト」と私はいった。「あなたは……?」
「モルデカイ・ワシントン」と彼はいった。
二枚の毛布を私の肩に戻した。私は考え込みはじめた。
「何にしても今は下へ戻るのが一番のようだな」