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: 88. : 二冊目 : 86.   目次

87.

スキパンスキーが遂に真相吐露の恐怖を克服。スキリマンがわれわれの邪魔に入った晩以来、スキパンスキーは雄弁な〈悪の軍勢〉と寡黙な〈善の軍勢〉との間の例の平衡を失ったまま決着のついていない対話に巻きこまれっぱなしだった。

「理をみつけなくてはと自分に言い聞かせ続けました。ところが理は常に二つ一組でやってくるんです――賛と否、テーゼとアンチテーゼ、完全に互角なんです。遂に効を奏し たのは不合理な考えでした。ヴィッカースが Die Frau Ohne Schatten の鳴鐘転調アリアを歌うのを聴いていました。それだけのことなんです。そして思ったんですこんなふうに歌えさえしたらなあ! もちろん、ぼくの年齢やらなにやらを考慮すれば不可能だろうとは思います。でも、本当にそうしたかったんです、ほかのどんなことであれ一度だって望んだことのない望み方で。そしてそれこそがぼくの待ち望んでいたものだったに違いありません、その後は全然ジレンマがあるようには思えなかったんですから。

もしもここから出られたら、そして死ななくてもいいのなら、それこそが、自分でやっていくつもりでいることです。声楽を勉強するつもりなんです。それが、その決心をしたんだということがわかると、気分が……とても爽快なんです。そして、いざ生きたいと思うようになっている今、ひどいことに、そうはいかないんですよ」

「ここで残された時間をどうするつもりなんだね?」と私はたずねた。

「実は、医学の勉強を始めたんです。すでにかなり生物学の心得がありました。難しいことじゃありません。医学部でどこまでやらなきゃならないかなんてことは実のところ的はずれな問題です」

「それで、ワトソンやクワイアやバーネスは?」

「この企画は元々、ワトソンのものだったんです。彼には、羨ましいことに、どんな時でも自分のしていることこそ、唯一の論理的で道理に叶った実行可能なことだと信じる才能があるんです。スキリマンは彼と話し合ってもどうにも埒があかなくて、それで彼の頑固さがぼくらみんなの助けとなるんです。それに、今ではぼくらは四人――あなたを含めていいなら五人――ですから、彼のいうことに、彼のする脅迫に、うろたえずにいるのもずっと容易ですよ」

「勝ち目があると思うかい?」

数分間の沈黙。それから「すみません、サケッティさん。首をふるのがあなたに見えないってことをつい忘れてしまうんです。いいえ、実のところ、あまり勝ち目はありませんね。治療法をみつけるのは、いつの場合も、多かれ少なかれ試行錯誤の問題になるでしょう。それには、時間が、費用が、設備が要ります。主として、時間がかかります」



T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日