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: 追記―― : 一冊目 : 六月二日   目次

六月三日

奴は私に感謝した。こともあろうに。奴はこうのたもうた。「あなたがこれを大変混乱したことだと思っておいでなのはよく理解できますよ、サケッティさん」(おまけにサケッティさんときたもんだ!)「信じていただきたいのですが、私たちはこのキャンプ・アルキメデスでの私たちの権限の及ぶ限り、転換をより容易なものにするためのあらゆることをしたいのです。それが私の〈役目〉ですつあなたの〈役目〉は観察すること。観察して解釈することです。しかし今すぐ始める必要はありません。新たな環境に適応するには時間がかかるもので、それはよく理解できます。ただこれだけははっきりと申し上げておきましょう、適応してしまえばあなたはこのキャンプ・アルキメデスでの生活を、いまスプリ ングフィールドでなさることになっていたであろうよりもはるかにエンジョイなさるはずです――あるいは実際にスプリングフィールドでしておいでになった以上に。あなたがあそこでつけておられた数少ない手記を拝見しました、それはご存じでしょう――」

私は知らないと口をはさんだ。

「ああ、そうでした、スミード所長がご親切にも送って下さって、私はそれを読んだのでした、大変ためになりました。実は、あなたがあの日誌をつけはじめるのを許されたのは私の依頼があったればこそなのでして。私は、いわばあなたの作品のサンプルが欲しかったのですよ、ここにお連れする前にね、 あなたはスプリングフィールドでの生沽の実に悲惨な情景を描いておられた。正直申し上げて私はショックを受けました.お約束いたしましょう、サケッティさん、ここでは決してあんな非道なめにあわせたりはいたしません。それにあんな穢らわしい変質者も一人もおりません。めっそうもない! あなたはあの刑務所でご自分を空費しておられたのですよ、サケッティさん。あそこはあなたのような知的な才能のある人がいるべき場所ではありません。私もR&D局の専門家のはしくれです。大才といえるようなものではありませんよ、そこまではとてもとても。しかし専門家であることは確かです」

「R&D?」

「リサーチ・アンド・デベロップメントですよ、ご存じでしょう。私は才能に対して鼻が利きましてね、ささやかながら少しは知られているんですよ、この方面では。ハーストと申します、Aの二つあるハースト」

「まさか、ハースト将軍じゃないでしょうね?」私は訊いた。「あの太平洋の島を取った人では?」私が思ったのは、もちろん、軍が結局私を手に入れたのだということだった(そして今わかる限りでもそれはそのとおりなのかもしれない)。

彼は視線を机の面に落とした。「以前はそうでした。でも今はもう老いぼれですよ、あなたもそう指摘しておられたように思いますがね?」と恨みがましく見上げて、「あまりにも年配で……軍にもいられない」年配という言葉を一音節のように発音した。

「まだ少しは軍にもつてはあって、今も私の意見を尊重してくれる友人がいますが、みんな私と同じ年配です。私の名からアウアウイを連想なさったのには驚きました。一九四四年といえばあなたが生まれるより前でしように」

「でも本で読んだし、あれが出たのは……いつだったかな?……一九五五年ですよ」私がひき合いに出したその本というのは、ハーストにはすぐにわかったのだが、フレッド・べリガソの「マルスの合ごう」で、アウアウイ作戦に関するほとんど扮飾のない記述だった。出版から何年ものちに私はあるパーティでベリガンに会ったことがある。素晴らしい情熱的な男だったが、ひどく悩んでいる様子だった.自殺のわずか一カ月前のことだった。これはまた別な話だ。

ハーストは渋い表情をした。「私はあの頃も才能に鼻が利いた。ところが才能というやつは時に反逆と結ぴつく。しかしまあ、あなたとベリガンの件について論じ合っても得るところはないでしょうな、あなたもどうやらそう判断しておいでのようだし」

彼はそして "歓迎ワゴン"役に戻った。私に蔵書を認める。週に五十ドル支給(!)して酒保で使えるようにする。火曜と木曜の夜は映画。ラウンジでコーヒー。といったようなこと。何より、自由な気分にならねばならない。自由な気分に。ここがどこにあるのか、なぜ私がここにいるのか、解放されたリスプリングフィールドに送還されたりする望みがあるとすればそれはいつなのか、といったよ うなことについてはこれまで通り説明を拒んだ。

「ただいい日誌をつけることですよ、サケッティさん。それがわれわれの求めるすべてです」

「おや、ルイと呼んで下さっていいんですよ、ハースト将軍」

「それは、ありがとう……ルイ。では私のことはHHと呼んでもらえませんかな? 友人はみんなそうしとるもので」

「HH」

「ハンフリー・ハーストの略ですよ。ただハンフリーといラ名はこのあまリリベラルならざる時代にはよからぬ連想を誘うものでね。ところで――日誌の件だが、中断した箇所、ここへ連れてこられた時点まで戻って空白を埋めてはもらえないだろうか。日誌はなるべく徹底したものであってほしいんでね。事実を、サケッティ――失礼、ルイ――事実をね! 天オとは、格言にもあるように、労をいとわぬ無限の能力のこと。何というか、この……キャンプの……外にいる誰かにですな、きみの身の上に起こっていることを説明するといった感じで書いてもらいたい。そして思いきり正直になってもらいたいんですよ。つまり、思ったままをね。私の感情を付度することはない」

「そうしてみましょう」

力ない微笑。「ただ、一つだけ原則を常に心にとめておいてもらいたい。あまり、何というか……曖昧になりすぎんようにしてもらえんかな? よろしいか、われわれが求めるのは事実だ。決して……」彼は咳ばらいした。

「詩ではない?」

「私自身は、わかってもらいたいのだが、決して詩を嫌うものではない。好きなように書いてくれることは大歓迎だ。実のところ、是非ともそうしてもらいたい。ここには詩の好きな連中が少なくない。ただ、日誌の中ではほどほどにしてもらわないと困るのですよ」

くそったれHH。

(ここで子供時代の思い出を挿入せねばならない。新聞配達をしていた頃、十三ぐらいの時だ、受持ちの配達先に退役軍人がいた。木曜の午後が集金日で、老ユーアット少佐は私が薄暗い記念品だらけの居聞に入って話を聞いてやらないと払ってくれなかった。彼が好んで独白するものが二つあった。女と車だ。第一の主題にっいて、彼の感情はアンビバレントだった。私の幼いガールフレンドたちにうずうずするような好奇心を示しながら、その合い間に性病についての神託じみた警告を 織りまぜる。車はもっと好きだった。彼のエロチシズムは恐怖によって複雑化されてはいなかった。彼はそれまでに持った全部の車の写真を札入れに蔵っていて、私にそれを見せてはいとおしげに悦に入る。過去の征服の戦果を愛撫する老好色家。私はいつも思うのだ、二十九の齢になるまで車の運転を習わなかったのはこの男を恐れていたからではなかったろうか。

この逸話の要点はこうだ――ハーストはユーアットの鏡像なり。二人とも同じ型紙から切り抜かれている。キイワードは壮健。ハーストが今でも毎朝二十回腕立て伏せをして、美容用自転車で仮想上の数キロを走行するさまが思い浮かぷ。雛だらけの顔の皮は太陽灯でこんがり焼きあげて。白くなりかかった薄い髪はクルーカットにして。彼は、死などというものはないのだというマニアックなアメリカ的信条を極限にまで押し進める。

そして彼はおそらく癌の園だ。そうしゃないのかい、HH?)





T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日