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55.

彼のモノローグ。

「さあ、さあ――われわれに教訓を垂れてくれよ、サケッティ。そんな黙んまりは、きみらしくないぞ。善くするのがなぜ善いのか言ってくれ。逆説で徳に導いてくれそれとも、天国にか。だめかね? 微笑じゃ答にならんよ。私はそれを買わんね。微笑も、逆説も、美徳も買わんよ、それにまた天国もね。そんなものはみんな地獄へ堕ちろだ。だが、地獄は買うよ。少なくとも、地獄があると信じることは可能だ、地獄とは、事物の中心にあるあの有名な惨たらしい穴のことだよ。きみは疑わしそうだが、それはあるんだよ、きみ、どうしようもなく明白に見えているじゃないか。別なふうにいってみようか。地獄とは、熱力学の第二法則のことだ。うんと長生きすることを悲惨にする、あの凍りついた永遠の方程式のことだよ。普遍的な〈無秩序〉だよ、あらゆるものがばらばらになってしまって、どこへも行きようがない。そして地獄はそれ以上のものだ。地獄はわれわれが作れるものなのだ。それこそが、最終的に、その魅力なんだよ。

きみは私を軽薄だと思っているね、サケッティ.唇を歪めるが、答えない。そんなことをしようとするのは無分別だと心得ているんじゃないのか? なぜなら、正直であろうとすれば私の側につくことになってしまうからだ。きみはそれを避けるが、それはきみの顔前に迫るルイ二世の勝利は近いぞ。

ああ、そうとも、きみの日誌を読んだのだよ。ほんの一時間前にぱらぱらと拾い読みした。ほかのどこでこんな調子のいい弁舌を手に入れたと思うんだね? チータにも読ませるべき箇所があるよ。そうすれば彼もあんな嘆かわしい個性を改良しようとするかもしれないんでね。面と向ってだと、あれほど彼に対して軽蔑的になれるかどうか疑問だね。 なあ、おまえさんのようなつまはじきの人間の唇こそ、ルイスのような聖者たちが接吻す るようにしなくてはならないものだそうだぞ。いやはや、実になんともフロイト的な隠喩だよ!

だが、われわれはみんな人間なんじゃないのかね? 神でさえも人間的だ、われらの神学者たちが発見して無念に思ったようにね。 神について話してくれよ、サケッティ、きみがもう信じていないと公言しているあの神について。価値について、そしてなぜわれわれが幾らか買うべきなのか、話してくれ。われわれは、チータも私も二人とも、価値がかなり不足しているんでね.どうも私はそいつを建築学の根本規準のように、経済学の法則のように、実に独断的だと思いがちなんだよ。 これが価値に関する私の問題でね。独断的というか、もっと悪いことには、利己的だとね.つまりだ、私だって食べるのは好きだがね、だからといってピーナツバターを不滅の、不朽のパンテオンに奉献する理由にはならんよ、神かけて! きみはピーナツバターを嘲笑するがね、私はきみという人間を知っているよ、サケッティーきみは別のベルの音に唾を湧かせるのさ。パテ・フォワグラ、トリュイト・ブレーゼ、トリュフ。きみはフランスの価値のほうがお好きだが、腸まで行った頃にはみんな同じ乳廃になっているんだよ。

私に話してくれよ、サケッティ。何か永続的な価値を示してくれ。きみの流童の神の玉座には何の光輝も残されてはいないのかね? 力はどうだ? 知は? 愛は? さだめし、この古い三幅対のうちひとつぐらいは、声を大にしてわれわれに語る値打があるんじゃないのか?

実をいうと、力はわれわれモラリストにとっては些か問題がある、些か露骨でね。もっと父性的な相での神と同じく、或は爆弾と同じように、力はどちらかというと非情なものとなる傾向がある。力は他の価値によって定められる――そしていわば囲い込まれる――)必要がある。たとえば? ルイス、なぜ黙りこくっているんだ?

知だ――知についてはどうかね? ああ、どうやら知も避けて通りたい様子だな。この林檎には些か食傷、というんじゃないかね? となると、いよいよ落ちつく先は〈愛〉だな、ほかの誰かのピーナツバターになりたいというあの欲求だよ。いかにエゴは切望することか、その狭い境界を打ち破ってまさに万人の上に薄いぺーストとなって拡大していきたいと。きみは私が実に一般論を語っているというだろうね。これがいつの場合にも最も賢明なのだよ、〈愛〉について語る時には個々の例を避けることがね、それらは利己的なものに思えがちなものだから。たとえば、人が自分の母親に対して感じる愛情がある――人間の愛のまさに範例となるものだが、それを考える際には、おっぱいに向けて唇がすぼむのを感じずにはいられない。それから、人が自分の妻に対して感じる愛情があるが、これもやはり、パブロフ的な「報酬だ!」との講りを免れない。といっても、ご褒美はもう、ピーナツバターじゃないがね。こういうのよりももっと広がりのある愛もあるが、最も高尚なもの、最も利他的なものでさえ、その根はわれわれのあまりにも人間的な本性の中にあるように思える。天なる花婿がテレジアの上に降臨した時の彼女の、修道尼院の壁の彼方での仇惚を、考えてもみるがいい。ああ、フロイトが書きさえしなかったなら、われわれはみんな、どんなにかもっと幸せでいられるだろう! 何か愛の弁護をしてやってくれ――さあ、サケッティ。手遅れにならないうちに。

価値! こんなものがきみの価値かーどれひとつとして、われわれの足を人生の踏み車の上にしっかりと保っておいては、歯車をそれらにとって実に高貴なあの日々の循環に勤しませておいてはくれない――消化管、日々と夜々の循環する世界、鶏から卵、卵かヤリャヤヤら鶏、鶏から卵への閉回路に。正直な話、時おり抜け出したくならないかね?



T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日