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五月十八日

夕方、若きリゴル・モーティスと一時間を過ごす。このあだ名("死後硬直")は不当なものかもしれぬ。RMは私がここでみつけた友人に最も近い存在なのだから。正統派信者でかたぶつながら善意の人で、われわれの会話はレトリックの演習以上のものだと思う。 私の側では、彼を改心させようとする伝道者的な衝動以上に、彼を理解したいというほとんど必死の願望を自分が抱いていることに気づいている。なぜならRMやその同類こそ、この途方もない戦争を推進し、そうすることで道義的な務めを果しているのだと、私の疑問など寄せつけぬ誠実さで信じている人たちなのだから。それとも私はこの新たなミルズ 主義者(というよりは新たなマキャベリアン)たちのテーゼを受けいれるべきなのか――選挙民などは操られるべきもの、この世界的なドラマの立見の観衆にすぎず、世論などはワシントンのオリュンポスにいる彼らの秘密の主人たちが新聞を(これはいかにもそのとおり)操作するように簡単に作り変えてしまうのだと主張するこの連中を?

そうであればいいと私は願ってすらいるのかもしれぬ。説得がそうもたやすきわざであるなら、数少ない正義の声もあるいはなにほどかの効果を望めるかもしれぬからだ。だが現実はといえば、私も、また〈一方的平和委員会〉で知り合った連中も、この戦争の愚かしさと不道徳性を誰かに得心させたことなど一度もなく、実のところ人はすでに心同じゅうせず、説得ではなく安心立命をのみ必要としていたのだった。

たぷんアンドレアが正しいのだろう。戦争などは政治屋や扇動屋に――専門家と称される連中にまかせておくべきなのだろう。(ちょうど、アイヒマンがユダヤ人問題の"専門家"として知られていたように。なにしろ彼はイーディッシュ語が話せたのだ!)議論などやめて、私はミューズにのみ才能を捧げればいいのだ。

そして魂は悪魔に?

そうじゃない。異議申し立てが望みえぬことであれ、黙従はなお悪しきことであるはずだ、ヤンガーマンの揚合をみよ、彼は黙従した、現状を放置した、良心を圧殺した。イロニーが彼を支えていたのか? それともミューズか? きみが開会の辞を述べるために立ちあがるとき聴衆の半ばが歩み去れば、そのとききみの高尚なる無関心はどこにあるのか、ねえ詩人君? そして彼の最後の本は――ひどい、まったくひどいものだ!

だがヤンガーマンは少なくともおのが沈黙の意味を知っていた。私がRMに話すとき、言語そのものが変化してしまうようだ。意味を掴もうとすると、渓流のウグイのように身を翻して逃げ去ってしまう。もう少しいい比喩でいうなら、恐怖映画でおなじみのあの秘密の扉のようなもの。書棚の一部のようにみえるが隠されているばねをはずすとくるり一回転、裏側はざらざらの石の面。このイメージ、繰りひろげてみねばならぬ。

RMについて最後の一言。われわれはおたがいを埋解していないし、おそらく理解できないだろう。時どき思うのだが、その理由は彼が愚かだからというような単純なものではないようだ。



T. M. ディッシュ『キャンプ収容』 野口幸夫訳     平成18年7月16日