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: 解説 : 『アサイラム・ピース』より6編 : 夜に   目次

頭の中の機械

何か物音がする。とてもかすかで遠い音、その うえ、わたしには何の関りもない音で、関心を払 うべき必要などこれっぽっちもありはしない。に もかかわらず、わたしを目覚めさせるには充分で しかもその穏やかならざるやりくちは空襲警報の ように激しく荒々しく衝撃的だ。時計がちょうど 七時を打っている。わたしが眠っていたのは一時 間か、あるいは二時間か。こんなふうに残酷に起 こされて跳ねおきてみると、薄れゆく眠りの縁が 悪意をもって引きはがされた暗い掛布のように、 ベッドの足元をすべり、たちまち閉じた扉の下に 消えていくのを、一瞬、視野の隅に捕えることが できる。それを追って駈け出しても無駄だし、全 くの徒労でしかない。わたしは、思わしくないこ とにもうはっきりと目覚めてしまったのだ。わた しの支配者、鉄輪は早くも初期活動の震動をはじ めている。全機構が、わたしが魂を奪われた奴隷 として仕える単調な憎むべき作動を開始しようと 準備している。

「停まって! もう少し待って――早すぎる―― もう少しだけ猶予を!」全く無益なことがわかっ ていながら、わたしは叫ぶ。「あと少しだけ眠らせ て――一時間――三十分――それだけでいい」

感覚のない機械類に訴えて、いったいどうなる というのか? 歯車が動き、エンジンがゆっくり とはずみをつけていき、低いハム音もすでに知覚 できるまでに至っている。どうして全ての音が、 難渋する始動音の一つ一つの震えがこれほどはっ きりと聞きとれるのだろう? 慣性という忌わし い親近感がその最も悪しき面であり、血液内の疾 病同様、耐え難いと同時に逃れられないものなの だ。今朝、それは反抗へ、狂気へとわたしを駆り たてる、頭を壁に打ちつけたい、頭を弾丸で撃ち 砕きたい、この機械を頭蓋骨ともども、粉々にな るまで打ちのめしてやりたい。

「なんて不公平な!」自分がそう呼びかける声が 聞こえる――何に対してか、誰に対してか、知る 人はいないだろう。「ほとんど眠らずに、こんなに 長い時間働くことなどできるはずがない。わたし がこんなレバーや鉄輪の真只中で死にかけている のを知っている人はいないのだろうか? 心配し てくれる人はいないのだろうか? 誰もわたしを 救えないのだろうか? 本当に何も悪いことなど していないのに――ひどく気分が悪い――眼をあ けることもできそうにない」

そして事実、頭がおそろしく痛み、わたしは崩 壊の一歩手前にいるのを感じる。

不意にわたしは、これほどまでに眼を痛めつけ ているものが、太陽の発する光であることに気づ く。そう、戸外では現実に太陽が輝き、雪のかわ りにきらめく露が草を覆いつくし、薔薇の繁みの 下には早くもクロッカスが咲き乱れてシンメトリ カルな焔を小さく上品に燃えたたせている。冬は 過ぎ去って、春が来たのだ。驚いたわたしは窓に 駈け寄り、外を見る。いったい何が起こったのだ ろう。わたしは目妄いを感じ、当惑する。こんな ことがありうるのだろうか。わたしはまだ、太陽 が輝き、春には草花が咲きほこる世界にいるのだ ろうか。そのような世界からは遠い昔に追放され たと思っていたのに。わたしは疲れた眼をこすっ てみる。それでもなお、陽の光はあり、ミヤマカ ラスが楡の老木の巣のまわりで騒がしく羽ばたい ていて、やがてわたしは、その小さな鳥たちのさ えずりのあまりの美しさに聴きほれてしまう。し かし、そこに立ちつくしていても、すべての幸福 な事どもは遠のきはじめ、夢のプラズマの織物の ように透明な幻影と化していく。それを押しのけ て現れる滑車や鉄輪や棒軸の凶悪な機械群の外 郭、それらはいつもながらの規則正しい非情な展 開を示し、徐々に執拗さを増しながら、わたしに 注目を強要しはじめる。

遠景に溶け入ろうとする蜃気楼のように、目を 凝らすとまだかすかに見わけることができる。陽 に照らされた草地、青い青い空のアーチ、そこを 遙かな放物線を描いて横切り飛ぶ緑の姿、幻の中 に投じられたエメラルドの短剣の亡霊。

「ああ、停まれ――停まれ! もう一分――あと 一分だけ、緑のキツツキを見る時間を!」わたし は懇願するが、手はすでに自動的な従順さを示し ていつもの忌わしい任務を遂行しはじめている。

機械が緑のキツツキのことを気にかけたりする だろうか。鉄輪はさらに速く回転し、ピストンは シリンダーの中をなめらかに往復し、機械類の騒 音が全世界を充たしていく。恐怖のあまりに奴隷 のごとき服従に陥って以来、わたしは自分の足で 立つことすらほとんどできなくなっているにもか かわらず、いまなおある非情なる源からこの苛酷 なる労働をつづける力を引き出しているのだ。

磨きあげられた金嘱の表面に、わたしはふと自 分の顔が映っているのに気づく。蒼白く、打ちの めされた孤独な顔で、瞳は何も見ておらず、悪夢 の世界で孤立した恐怖と脅えの表情を浮かべてい る。何か、はっきりとはわからない何かが、わた しに子供時代のことを考えさせる。硬い木の机の 前に坐っていた小学生の自分、風に豊かな金髪を 揺すられながら公園の白鳥に餌をやっていた幼な い少女の自分を思い出す。そしてわたしにとって 不思議であり悲しくも思えるのは、そうした幼な い頃の年月のすべてが今日の準備に費されたこと だ。今日わたしは誰からも忘れ去られ、疲労 しきった顔を見せて、太陽から遠く隔った場所で 機械類に仕えなければならない。



hiyori13 平成18年7月6日