聖なる心 侵襲的手術から見た身体図鑑 マックス・アギレーラ=ヘルウェグ 序文 リチャード・セルツァー医学博士 あとがき A・D・コールマン 写真一覧 1: 帝王切開 2: 外科医の手 5: 脊髄手術用に万力で締めた男の頭 6: むきだしの脊髄 7: 目のレーザー手術 10: 胸郭手術後の縫合線 12: 移植用の角膜提供 13: 隔膜逸脱矯正用の手術器具 14: 頸動脈から塞栓を除去 15: 蝸牛インプラント 16: 手術前のゆがんだ頭蓋骨 17: 紙を巻くアルミホイル、口を開く開創器 18: 頭皮を剥く(上面) 19: 剥かれた顔(正面) 20: 剥かれた顔(側面) 22: 頭蓋、ガーゼ、髪 23: 口の中から手術 24-25: 両まぶた治療 27: 白内障手術の準備 28: 局部麻酔の注射 29: 白内障手術 30: 内耳から腫瘍を除去 33: 松果腺腫瘍除去のため頭蓋骨を開ける 34: 頭蓋骨内部の電極プレート 35: てんかん手術のため頭を万力にかける 36: 脳腫瘍除去のために頭蓋骨に開けた穴 37: 腫瘍除去のため硬膜をむく 38: 頭蓋骨が除かれガーゼのかかった脳 39: 頭蓋骨をはめなおして通常の発育を可能にする 41: 脳内寄生虫除去手術 42: 肺切除後に針金で胸骨を縫い閉じる 43: 縫合の前に傷を洗浄 45: 移植の準備が整った心臓 46: 左心室補助装置、通称LVAD 47: 左心室にLVAD用の管を取りつける 49: 胸のくぼんだ少年 50-51: 豊胸手術(術後) 52: 豊胸手術、乳首と乳輪 53: 乳房インプラント(手術の前と後) 55: リンパ腺除去を伴う修正乳房根治切除 56: 乳房切除後に余った皮膚を切除 59: 縫合の前に傷を洗浄 60: 動脈硬化用の頸動脈バイパス形成手術 63: 肝移植 64: 肝硬変 65: 肝臓病に伴う腫瘍 66: 新しい肝臓を縫い込む 67: 移植準備の整った肝臓 68: ドナーのリンパ腺 69: 内臓が取り除かれた腹部と胸部 70: 臓器ドナーの胸を縫合 72: 皮下組織と皮下脂肪 73: 背中の火傷に皮膚移植 74: 腹膜鏡式子宮摘除術 76: 子宮と腫瘍を膣から切除 77: 勃起不全の陰茎 79: 陰茎インプラント手術 80: 陰茎インプラント用の人工器官 81: 陰茎インプラントの動作確認 82: 陰嚢内部の外科医の指 84-85: 帝王切開 87: 帝王切開 88: 胸でつながったシャム双生児 89: シャム双生児・麻酔をかける 90: シャム双生児・分離 93: 卵巣嚢包 94: 開創器・腰関節交換 95: 骨髄を除いた大腿骨 96: 腰関節交換 97: 血液を吸い取るガーゼ 98: 火傷の皮膚をそぎ取った手 100: 深い2度の火傷を負った手 101: ステープルを使った皮膚移植 103: 膝にドリルで穿孔する外科医 104: 移植準備の整った大腿骨 105: 膝蓋骨、脛骨、腓骨の代用の塩化ビニール管 106: 腱膜瘤除去手術後に屈伸を確認 107: 心臓バイパス形成手術用に血管を準備 108: 頭蓋顔面手術に先立って瞼を縫い閉じる 111: 淡蒼球切除手術のため3次元定位装置に入った男の頭 112: 修正乳房根治切除 113: ハンマーとノミ、膝関節交換 114: 脊椎から腫瘍を除去 115: 瞼の治療(側面) 116: AIDS検死 123: AIDS検死:脳 124: 脊椎手術 127: 大腿動脈への動脈バイパス形成手術 128: 目のレーザー手術 真剣に取り組めば何事もかなうと教えてくれた父と、以来ずっとわたしをささえてくれた母に本書を捧げる。 M. A. H. 肉体の真理:すなわち死 医学博士リチャード・セルツァー  「ゾッとしすぎて――嬉しくなっちゃいそう――」とエミリー・ディキンソンは書いている。われわれ全員が、これまで視界から隠そうと必死になってきた恐るべき真実が、ここについに暴露された。外科医のように、写真家は同胞のたる人類の肉体を切り開き、その眼球を摘出し、内蔵のつまった腹部を空にして、鍵につるし、肉体の胸震わす宝を明かりにさらし、その最奥の深みに閃光を送りこむ。外科医のように写真家は真実をあらわにしようとする。われわれは、この戦慄すべき写真を見て、人体のもろさと強さに思いをめぐらせることとなる。  こうした写真をうぶな素人に見せることについて、わたしはいささかのためらいを抱いている。こうしたものは、外科という聖職の秘密とされるべきなのではなかろうか。それを見せるのは、タブーを冒すことになるのではないか。ここに言祝がれているのは、美しいものでもなければ崇高なものでもない。むしろ禁断のものであり、外科医の心臓すらちぢみあがるほどの真実の誕生なのである。医師にして作家だったアントン・チェーホフは、死体解剖の途中で絶望のあまり叫んだと言う:「でも、この魂はいったいどこにあるのだ?」しかしわれわれは、存在するものはすべて認め、何も否定してはならない。そうしてはじめて蒙が啓かれるのだから。科学者、芸術家、菜食主義者のレオナルド・ダヴィンチは、死んだばかりの人体を解剖した――それもイタリアはフローレンスの熱気の中で、全部で40体も。毎回、かれは美と真実を発見して、その偉大な解剖図でそれを世界に報告した。  シャッターの一閃で、写真家はその被写体――通常の心臓だろうと肝臓だろうと、もっろ忌まわしい病理学的ゆがみ――を聖なるイコンに変換しようと試みる。かれのヴィジョンは、予言者のように物事を変化させるヴィジョンとなる。この写真家は、現代外科に神話的なものを復活させる! しかし手術は聖なる部分を持たない。持ってはならない、少なくとも外科医はそう主張する。これらの写真は、それによって何が失われかねないかを告げる。人は、神話によって巨大なものを提供するのだ。われわれは神話に依って生きている。神話を通じ、われわれは知性をバイパスし、あのテクノロジストの悩みの種たる想像力を解放する。神話には直感と本能がこめられている。肉体の出来事を白日のもとにさらして、われわれの解釈に差し出すアーティストは、論理以前のものを追っているのだ。かれは科学の敵、異端である。これらの作品を、少しいっしょに見てみようではないか。  その中には、たぶん女性だと思うが、瞼が縫い閉じられている写真がある。眉の感じから、なんだかそう思う。それとも、彼女のまとっているタオル地のチャドルのせいでそう見えるのか? 瞼が縫われているのは、顔面整形の間、目を守るためだ。あるいは、外科医のほうを守る意図もあるのだろうか。塗っておかないと、医師が彼女の目に何か――彼女の恐怖や非難か?――を見いだして手を止めるかもしれない、というような。  心臓は、たったいま移植用に収穫されたばかり。収穫。移植。農業と土壌のことばで、果実や成長の含意を持つ。われわれの感性は、より厳密な用語――摘出――には抵抗をおぼえるだろう。心臓は、想像したより小さく見え、ほとんど脂肪に覆われている。赤い筋肉が見えるのはほんの数カ所のみで、あとは、上のほうに大血管の切断口が見えるだけ。収穫された心臓はまだ脈打っているが、それはツノザメの心臓を切断して食塩水のビーカーに入れると、8時間くらい脈打ち続けるのと同じだ。それは生きているのだろうか? それとも技術的に生きているだけで、ほとんど生きているように見えるというくらいなのだろうか。それとも実質的に死んでいると言うべきなのか? これらは哲学者や倫理学者の問題であって、外科医の問題ではない。取られたばかりの新鮮な肝臓も、外科医の手のひらにおさまって、か弱いが、しかしその洗浄と製造の力は無傷のままだ。これらの器官はまもなく新しい血で満たされ、脈打つ。心臓が除かれた切開が、シリコン注入外科でやるように美容整形的に修復されることなく、単に開口部が閉じるよう丸められているのがわかる。  少女は、脳に寄生虫がいるのだという。嚢虫症だ。生煮えの豚肉を食べて感染した。寄生虫はもぞもぞと、彼女の脳にまで到達したのだ。若いが、ゆがんだ歯やかわいそうな併発症や、かぶせられたステンレスの王冠などで、最高の様子とは言えない。気にするまい、手術の劇場に恥じらいの入り込む余地はない。一万年前なら、部族の仲間が意識を失った彼女の体に忍び寄っただろう。そして一番鋭い石、放血刀をとって、シャーマンが告げた、頭蓋の侵入者の居場所のところへ、穴をうがっただろう。ここに写っているような万力はないが、別の男の力強い手が少女の頭を押さえていただろう。穴が空くと、古代の外科医はそこにイノシシの脂を詰めてムシを誘い出し、捕まえて引っ張り出しただろう。しかし現代では、三次元定位式冠が頭蓋骨にねじこまれる。緯度と経度をプロットして寄生虫を発見するには、CTスキャンが使われる。まるで変わっていない、そう思わないだろうか?  先天性漏斗胸と呼ばれる。陥没した胸。惨事はかれが生まれる前に起きたものだ。肋骨と胸骨が不均等に発育したために、胸郭の前にくぼみができてしまい、それが一部では、心臓や重要器官を圧迫するほどになっているのだ。父親から息子から孫へと手渡された呪いだ。この少年の胸は、もっとも重要な部分に向けて渦をまく大渦のようなものだ。少年の気持ちを知るのに、顔を見る必要はない。その苦悶のすべては胴で表現されている。乳首をかれの目とせよ。手術の傷跡を、吠えるために開くべき口とせよ。よくあることだが、苦痛、怒り、悲しみが、顔からからだの別の部分に転移して、そこでもっと強力に表現されるのだ。  見てごらん! 男が頭にC型クランプをつけて、天井からぶら下がっている。脊柱管がターゲットだ。椎骨が肥大して脊随を圧迫している。脱力感、虚脱感、初期の麻痺症状などが見られる。かれもまた、己の連隊の制服をまとっている――タオル地の頭衣、皮膚を覆うサランラップ状のもの、気管には挿管、そしてあのステンレスの冠。だが、首の後ろの、かれが切開される場所にはあのしわがある。象形文字のように、珍しい薬物で見えるようになったばかりの珍しいインキで書かれた印。患者から医師へのメッセージ。Primum non mihi nocere. 何よりもまず、わたしに害を及ぼさないでください。そしてこちら、次の写真では、切開によって、椎骨が削り取られたことがわかる。脊髄は、脊柱管の中で息がつけるようになったのだ。  そしてこちらは、肝臓や脾臓、膵臓、腎臓が収穫された腹部。家具を運び出されてきれいに掃き掃除された部屋だ。  誕生の残酷さよ! シェイクスピアがマクダフについて述べた表現を借りれば、帝王切開によって母親の子宮から「月足らずでひきずり出され」たのがこの少年だ。エデンからの追放のようだ。アミノ溶液と母の油分たる胎脂の保護を受けないか弱い皮膚を、冷たい空気がなぶっている。この子には、子守歌など効かない。かれが今泣いているのは、胎盤の枕を求めてのこと。やがて、この子は毛布を求めて泣くようになるだろう。われわれすべてが堪え忍び、そして抑圧したこと――つまり誕生のトラウマだ。またもや写真家はわれわれのもっとも深い不安を呼び覚ます。  そしてこんどは、貴重な角膜を求めて眼球が除去される。何か棒の先につけたような感じで持ち上げられている。ちょうどその背後、陰になって、しめったまつげに縁取られているのは空の眼窩だ。われわれはこの目をのぞきこんだりはしない。崇めるのだ。この態度の差には、われわれのもっとも原初的な恐怖――盲目さへの恐怖――があらわにされている。このくりぬかれた目玉は、ペリシテ人によるサムソンの罰と、自らの手によるオイディプスの失明を思い出させ、そしてわれわれはもう身震いを止められない。これは皮肉なことだ。この収穫の目的は、だれか見ることのできない人が、見られるようにするためのものなのだから。  これらの強力な写真に、言語のランプを掲げてみようとした。が、説明は不要だ。ことばなど、この写真の伝える美と真実にはとうてい及ばない。あらゆる芸術と同じく、この写真も自ら語っているのだ。 頭  馬が跳ね上がり、そのまま後ろに倒れた。わたしは地面にたたきつけられ、木の枝が折れるのを聴いた。でもそれは人骨の音だった。目を開けると空が見え、頭上高くにぶら下がっている木の葉が見えた。ヘリコプターのプロペラ音が聞こえると思ったら、それは馬だった。横転してまた立ち上がり、ギャロップで駆けていってしまったのだ。そして沈黙。わたしはじっと、凍りついたように横たわり、首を動かすと見えてしまうものがこわくて、動く勇気がなかった。頭の中で考えが渦巻く。朝起きて、その日何が起こるかもわからないなんて。一見偶然の積み重ねが、本当に人生を一変させてしまうとは。歯を一分よけいに磨くというようなつまらない出来事が、まさにこの瞬間へと続くできごとの連鎖を変えられたかもしれないとは。もし正面玄関から出る代わりに裏口から出ていれば、あるいは熱いシャワーではなくて冷たいシャワーを浴びていたら、それがタイミングかベクトルかXYZ座標か、ハエだかアブだか馬を脅かした代物の飛行パターンか何かを変えて、そうすれば馬が飛び上がったりもせず、バランスを失いもせず、正確かつ取り返しのつかないような形でわたしの右腕、右肘、右脚の上に倒れてきたりもしなかったのではないか。  わたしは旅行雑誌に派遣されて、牧場の牛追いの写真を撮っているところだった。事故の日に、われわれは炎天下で腐っている子牛を見つけた。そいつの頭にロープを巻いて、小さなトヨタのピックアップトラックのテールゲートにゆわえた。そしてエンジンをふかし、わめいて叫びながら、荒れたワイオミングの大地が死体から骨や軟骨をむしりとるのをバックミラーで眺めていた。まったく大したカウボーイどもだ。後に砂漠の茂みの中で横たわりつつ、わたしは死んだ動物をひきずりまわすことの道徳的意義に想いを馳せた。何か法でも冒したかのようだった。西部では、血は血で、目には目を、歯には歯を、骨には骨を払うのだ。  真夜中頃、わたしは外科医二人、麻酔医と看護婦の顔を見上げていた。逆に数を数えたのを覚えている。99、98、97。しばらくして、深いクスリ漬けの眠りの中で、わたしは目を開いた、外科医がひじのところで、わたしの腕をこれまで曲げられたことも曲がるはずでもなかった方向に、やすやすと曲げているのが見えた。  歩けるようになるまでに数週間かかった。最初は松葉杖を使い、その後しばらくは足をひきずった。しかし、腕を完全に使えるようになるには1年かかる。写真ジャーナリストを20年やってきて、わたしは常に旅をしていた。わたしの仕事、存在そのものは、機動性にかかっていた。いまのわたしはカメラすら持てなかった。三脚を使わなくてはならない。わたしは35ミリの機材をすべて売り払い、大判カメラを買った。どのみち三脚が必要な4x5だ。前から大判で仕事がしてみたいとは思っていたのだった。4x5のネガが描き出せる平面像は極度にリアルで、人の顔の毛穴一つ一つ、髪の一筋、唇のはしからたれている唾の飛沫すらもはっきり見えてしまうのだ。  写真家として仕事をしていると、絶えず新しい状況に飛びこむはめになる。だから、先の計画をたてたり、自分の先の行動について考えたりするのは、現場に着いてからにすることにした。実はそれこそ、写真で一番気に入っているところだ――なまの体験そのもの。たった一週間のうちに、わたしはアメリカに密入国する「外人」たちとトンネルをくぐり、18歳の大量殺人犯と独房のなかで1時間過ごし、ホワイトハウスで副大統領を撮影する。東ロサンゼルスの少女ギャングたちや、メイン州の精神分裂症の双子、12歳の子供たちが親に売り飛ばされてきた、バンコクの売春宿も訪れることになった。  事故から6カ月後、1989年冬、わたしは女性ビジネス誌の依頼で、ある女性神経外科医の写真を撮ることになった。雑誌のアートディレクターは、普通のポートレートとともに、手術中の写真も要求した。最初の手術に立ち会う前夜、気持ち悪くなるのが心配ではないかとたずねてきた友人がいた。気持ち悪くなるどころか、感じられたのは畏怖としかいいようのないものだった。初の手術撮影は、過去の体験のいずれともかけはなれていて、どうにも位置づけられなかった。比べようがなかったのだ。背中の空洞に脊椎があると頭でわかってはいたが、それを実際に見るとなると、まったく話がちがう。  55歳の男性は、突然麻痺におそわれた。CTスキャン(体内の詳細を描き出すコンピュータ化されたX線検査)をとると、脊柱がせばまっている。動脈や静脈に血小板がたまるのと似たかたちで、背中の靱帯や骨が石灰化し、脊椎に異常な圧力をかけていた。椎骨5つの後ろを取り除くことが決まった。その準備として、外科医は男の頭蓋骨に万力をねじこんだ。そして頭をひっぱりあげるとメイフィールドにつないだ。これは手術用の枠で、患者を頭からぶら下がる形で垂直にして、椎骨をまっすぐにし、十分な手術スペースを提供する。  男の目はテープで閉じられ、手術箇所から空気が入って心臓に到達した場合にすぐわかるよう、マイクが胸に固定された。アンプにスイッチが入り、心臓の鼓動がラウドスピーカで手術室に放送される。滅菌室は、その中のすべてが発光しているかのように輝く。蛍光灯の群が、天井の端から端まで埋め尽くしており、患者の頭上にはドーム型の反射装置と手術用ランプがぶら下がっている。目で見ると、二つの光源は混じりあって融合しているように見えるが、フィルム上できちんと露光してみると、手術用のランプが蛍光灯を圧倒していて、背景は黒くなり、手術の開口部に劇的な照明を提供している。  ロイヤル・ブルーをまとい、ヨードに洗われて、患者の肌は黄金に見える。そして日本の石庭の砂のように、さざなみをたてている――手術部位をおおって、皮膚のかけらや体毛、あるいは植生――誕生時に皮膚にとりつき、皮膚の内部で生きるダニや微生物――から執刀部分を守る、粘着シートの影響だ。  外科医は手早く入刀し、焼灼して削った。しかし、外科医の額に生じると考えられる汗の玉は、むしろ鉛管工を生と死、天国と地獄の間に漂わせる麻酔医の眉に生じていた。削られる骨の痛み、切られてまくられた肉、僧帽筋と板状筋はステンレス鋼の歯につかまれて、穿孔され、引き戻され、こじあけられている。象牙色の、石灰化した椎骨は、削り取られて病理診断にまわされた。心拍は遅くなるが、決して止まらなかった。酸素に触れた血液の深紅が、そこに人間がいることを思い出させてくれた。厚い乳白色の膜、それがおおう、脳幹から尾骨までのびる神経組織は、微細で無数の神経に分岐して、暑さ、寒さ、快楽、苦痛の感覚を生み出している。脊椎の硬膜がむきだしになってそこにあった。わたしは祖母のベッドの上にあった絵を見た。子供時代に昼寝から目をさまして目にした絵だ。キリストの絵。心臓から血を流し、いばらに包まれ、炎にのみこまれている。  わたしは自分が、これまでに見たもっとも親密で、もっともか弱く、もっとも非暴力的なものとともにあるのを感じた。脊椎はこれまで光を浴びたことはなく、浴びるはずもなく、しかしこの瞬間には光に包まれているのだ。最初の衝動は、唾をはくことだったと告白せねばならない。なんとか冒涜したいという衝動。自分のレベルまで引きずりおろしたい。もちろんそんなことはしなかったが、しかし非常に貴重で、驚異的で、強力で、純粋で、耐え難い強烈さを持つものと共にある感覚はぬぐえなかった。  「これはなんですか? 何でできているんですか?」とわたしはたずねた。  「ソーセージみたいなものです。中身は練り歯磨き」と医師。 体幹  脊椎のポラロイド写真を、静物写真家の姉に送った。姉は電話をよこし、本にしろと言う。そんなものを出すなんて想像もつかなかったが、しかしこれは手術室に戻るすばらしい口実に思えた。どうしても戻りたかった。あそこにいかなくては。ジャーナリストとして、わたしは舌先だけでいろいろなところに出入りするすべを学んでいた。そこで、まったくその気もないのに、本を出すという口実で、医師や病院や雑誌に話をもちかけ、手術室にまた入れてもらった。そして10の手術を経て、わたしは本気で本の作業にとりかかった。  鼓動をうつ心臓や腫瘍、蠕動(食物の消化のため内臓で自然に起こる、連続した波状の動き)を実際に見る機会を持つ者は少ない。わたしは子供の誕生を見て驚愕して立ち尽くした(写真におさめたのは3回。帝王切開が2回で、自然分娩が1回)。白内障の手術に初めて立ち会った時、わたしは瞳への入刀を見て胸を躍らせた。瞳は、思っていたような黒い透き通った固まりではなかった。ただの穴、目の内側の空洞への窓だった。からだの脂肪分は、かなりの部分が不可欠なものだということを知って驚いた。たとえば、心臓のまわりの脂肪は、この重要な器官が胸の内壁にくっつかないようにするための潤滑剤として必要なのである。初めてシャム双生児を見て、それがフリークなどではなく、普通の子供で、その姿のままで愛らしくかけがえのない存在だったので、わたしは驚いてしまった。それどころか、切り放され、独立した別々の存在になったら、何か失ってしまうのではないかとすら思うようになった。  いくつかの手術は、期待とはまったくちがっていた。特に撮影が難しかったのは心臓だ――決して動きを止めないのだ。硬膜外麻酔だけを使った前立腺切除――患者は意識があって、手術中もしゃべっている――を撮影するのはシュールだったが、できた写真はありきたりで退屈だった。そしてほかの手術は、恐ろしい診断や肉体への侮辱にもかかわらず、神話的とはいわないまでも独特の美しさを持っていた――陰茎インプラントの縫合は、リリパットの小人がガリバーを縛りつけるのに使ったロープを連想させた。腰骨置換施術は、南北戦争の戦場を思わせ、血を吸い取るのに使ったガーゼは、戦場に咲くオランダカイウのようだった。  これらの写真はロールシャッハテストのようなものだ。手術や肉体のことよりも、見る側について多くを物語る。ある日、全国誌の写真編集者にこの写真を見せた。わたしはボーリングボールに似た写真を説明していると――「指を入れる穴みたいに見える開口部が、実は頭蓋骨にドリルであけた穴なんです」――彼女の表情が変わったような気がして、そして自分の声ごしに、彼女の唇が無音で、だがあわてたように、読みとれず理解できないことばを発して動くのが見えた。わたしは続けた。「頭蓋骨をこじあけるとき、外科医はのみと金槌を使うんじゃなくて、圧力で動く特殊なドリルを使うんです。骨を貫通したらすぐ止まるわけです。少なくとも理論的には」その間、写真編集者は、片手どころか両手をわたしの前で振り回し、やめろと告げた。  突然、近くのデスクの女性が立ち上がって部屋から駆け出した。「彼女のお父さんが、脳腫瘍で亡くなったばかりなんです」と写真編集者。  「この写真、前にも見せてくれたことがありますね」と編集者は言う。そういえば、2年前に彼女に最初の頃の手術写真を見せたことがあった。同時に、自分でつくった小さな本も見せた。国境で撮ったメキシコ人たちの写真を満載した本だった。「あの晩、悪夢にうなされましたよ。メキシコ人の貴重な写真集を見ていたんですが、写真はメキシコ人の写真じゃなくて、手術の手順書だったんです――手順の写真じゃなくて、手術そのもの。脊髄。本物。ページをめくってもめくってもめくっても」  作業中の胸部外科医を撮影する仕事をもらった。最初の患者は、40歳の女性で、5週間前に美容整形でシリコンを胸に埋め込んだばかりだった。その1週間後、彼女の手術前の乳房レントゲンがチェックしなおされた。二度目に見たとき、左の乳房に腫瘍が見つかり、それも手のつけようがないほど拡大していた。この4週間というもの、手術台に横たわる彼女はどんな思いで過ごしたのだろう。すぐに大手術が必要だと言われたら、人はどうするのだろう。どんな道のりをたどるのだろう。  乳ガンの原因について医師にたずねた。「正直言ってわからないです。食べ物かもしれないし、水かも。複合的な原因かもしれないですが、断言はまるでできません。唯一ヒントになるのは家族の病歴です。親から娘へ、垂直に伝わるんです」  医師はつけくわえた。「次の患者は、35歳の女性なんです。5年前にやってきて、何の症状もなく、乳房を切除してくれって頼むんですよ。母親がその2年前になくなって、こんどはお姉さんが亡くなったとかで。だから手術してくれって言うんです。断りました。  その5年前にわたしが予防措置をちゃんとしておけば、乳ガンなんかにならなかったかもしれないんですが、でも今更しかたない。今日は、大がかりな乳房除去を左右ともやらなきゃならないんです。しかも筋肉までとるんです」  これらの若い女性の勇気について考えているうちに、外科医は入刀を終え、肉を三角形状に切り取った――乳輪と乳首だ――そしてその下の、乳を作り出せる女性の乳房の複雑な腺を切り取り、それをトレーに乗せた。ナースに病理担当を呼ぶように言って、傷を閉じだした。まるで手術などなかったかのようだ。死に至る部分が除かれたが、患者のシリコン注入は無傷だった。乳房の形はそのまま残った。なくなったものは一つだけ。  「何年か前までは、耳たぶか陰唇の一部をとって、乳房に縫いつけてました。陰唇は、乳房と同じ肉質なんです。しかし併発症がですぎるので、もうしません。かわりに美容整形をします。何週間かしたら、傷跡のところの皮膚をとって、まわして突き出すようにして、乳輪を入れ墨します。乳首をつけるのは日常茶飯です」  若い医学生が手術着で入ってきた。「病理ですが」とかれ。ナースが切除された乳房の入ったトレーを取りあげて、待っている配達係に渡した。ごく一瞬、乳首と乳輪は手術室の明かりの下で輝いて横たわっていた。わたしはこの肉の歴史、その一生を考えてみた。これは欲望の対象となったのだろうか。子供がそれを吸い、滋養と安心を得たのだろうか。あのトレーに乗っているのは、彼女の母性なのだろうか? 彼女の官能的自我が、あの10x8cmの皮膚と腺、管、脂肪のピラミッドの中にあるのだろうか。いいや、それはまだ彼女の中にある。からだがどれだけ切り取られようと、それは彼女の一部なのだ。わたしは再び彼女の道のりに思いをはせた。彼女がとらなくてはならない巡礼、行わなければならない決断を。  その晩、女友達二人と久しぶりに食事をした。その日の出来事を話すと、二人ともいきりたった。「この男性中心主義のブタ!」と一人。「この60年代の遺物のネアンデルタール!」ともう一人。「女をセックス相手か母親としてしか見てないのね。それがペニスを半分に切ったのだったらどうよ!」  このプロジェクトの作業をしつつ、自分が狂っているのではないか、血に飢えているのではないかと思った。自分の病気が楽しくなり、耳のうしろのこぶが手術の必要な嚢腫ではなく、ただの腺の腫れだったので、がっかりしてしまった。歯を抜く時、様子を見られるように鏡を頼んだ。友人が見ると、わたしは鏡を除いていた。自分の目を見るのではなく、抜歯を見るために。それを見て、友人はぞっとしたと言う。  ある非常に長く消耗する手術の後で、1日で外科的猛攻を見すぎたために、目を閉じて寝ようとすると、動脈や静脈の暗い平穏が見えてしまう――皮下組織のイメージが次から次へと――溶けてはうつろい、血塗れの万華鏡のようにうつりかわる。LSD版グレー解剖学。  何カ月もたってから、移植外科に、長くつらい一夜の後で、目を閉じると何が見えるかをたずねた。 「『シャイニング』は見た?」 「うん」 「あのエレベータが開くと、血の海がドアからあふれだしてくる場面」 「覚えてる」 「あれよ。どこまでも血の川」 収穫  いまはかつて小説を読んだように医学カルテを読む。たとえば次に挙げるのは、3人の子を持つ37歳の母親の医療記録の要約だ――彼女の人生の最後の数時間に関する詳細な記録で、厚みは10センチの紙の束になっている。 37歳白人女性、教会で座っているときに硬直。頭をのけぞらせて倒れる。脈拍呼吸停止。CPR3分。脈回復、呼吸なし。20分にわたり夫が経口人工呼吸。救急隊到着、入管(気管に呼吸管を挿入)、O2(酸素)供給。HR(心拍)はS/T変化(心電図の結果。心筋虚血、あるいは心臓傷害の典型的症状)。ER(緊急治療室)移送、心拍停止繰り返す。CPR20分、DEFIBx3(電気ショック3回――電気で心臓にショックを与え、心臓の通常の鼓動や脈拍を取り戻そうとするもの)@300ジュール。ICP(脳内圧力)計測、危機的(非常に高かった)。夫によればPT(患者)は過去に神経症HX(歴)なし。PTをCT(コンピュータ断層撮影。組織構造の詳細な断面映像をつくるX線技術。腫瘍、亀裂骨折、脱臼、体液の滞留などの検出が可能)に移送。CT後、MRI(磁気共鳴画像――電磁エネルギーとその原子核への影響分析――大量の血液、柔らかい組織、脳、心臓などの評価に重要)で動脈瘤R/O(該当しないとしてはずす)。脳内出血検出。PT、OR(手術室)移送。2センチ穿孔、圧力緩和。出血止まらず。ICU(集中治療室)入り。通常反射運動欠如。四肢弛緩、自発的動作ナシ、冷水テスト反応ナシ(冷水を急激に耳に注ぐ)。EEG(脳波計)フラット。脳死証明書要求。夫に告知。死亡時間2100時。同意(臓器提供)要求。  以下の数ページは、神経学的診断、血液と尿の採取と分析、試みられた蘇生手続き、脳死と呼ばれるものの確認行程すべての詳細にあてられている。  死ぬとき、ほとんどはまず心肺機能が停止する。つまり、死の原因はどうであれ――ガンであれ、AIDSであれ、肺炎であれ、殺人であれ――まず肺と心臓が停止する。そしてその少し後に脳機能が停止する。しかしながらごくまれに、まず脳から死に、そのあとで心臓が停止する。脳死が心臓死に先立つには、神経中枢へのトラウマが必要だ。銃で撃たれたり、自動車事故、溺死、バットで頭を殴られる、卒中、脳溢血(血管瘤、通常は動脈が膨張して脳の中で破裂)など。  臓器ドナーは脳死でなくてはならない(器官ドナー――目や皮膚、骨、心弁、伏在静脈――は心臓死でもいい)。生の最後の瞬間に、脳死が病院内で起こり、虚血(心臓に血がまわらなくなること)を阻止できれば、ドナーに入管して人工呼吸装置につないでおけば臓器を生かし続けられる。タイミングが重要となる。心臓は4時間から6時間しかもたない。肝臓は8から24時間。腎臓は、最長3日まで使いものになる。  脳死証明は非常に深刻なものであり、説明も難しい。臓器ドナー候補の家族にとって、愛する者が呼吸装置で呼吸しているのが見えるのに、死んでいると納得するのは難しい。具体的には、脳死と昏睡状態のちがいを説明するのは困難だ。このちがいの不調和や微妙さ、繊細さなどから、一部の州では脳死証明は別々の医師2人から出されなくてはならない。  この37歳の女性の医療記録最後の文書は、肉体器官のチェックリストだった。移植や研究用に提供される臓器のリストだ。それがXでマークされ、ページの一番下には夫の同意を示すサインがある。かれが署名したときの苦痛と寛大さを想像してみようとした。しかしながら、外科医が彼女の胸を開け、その心臓がまだ脈打ち肺が酸素を吸入してるのを目の当たりにしながら、それでも彼女が死んでいるのだと思うことほど不思議なことはない。  外科医のチームがあちこちの病院からやってきた。一つ一つ、かれらは彼女の心臓、肺、肝臓、腎臓、脾臓、膵臓、リンパ腺、大腿骨、脛骨、鎖骨、伏在静脈、眼球を収穫していった。かれらが彼女の裸体にむらがるにつれて、わたしはつい考えてしまう。なぜ彼女は土曜に足の爪にマニキュアをしたのだろうとか、なぜわざわざ日光浴をしたのだろうとか。膝と腿の間に日焼け線が出ている。自分が火曜に死ぬのがわからなかったのだろうか。わたしは幽霊や生まれ変わりなどの超自然現象など信じる人間ではないが、その長い一夜を通じて、彼女がそこにいるという感覚をぬぐえなかった。彼女はそこにいた。見ている。わたしは彼女に深い畏敬の念を感じた。彼女の子供たち。子孫を3人送り出し、そして死に臨んで己を他人が生きられるよう与えている。  開始して6時間後、彼女の胸部は空になった。腹部もうつろに、足は等身大の布人形のように広がっている。脚の空洞には塩化ビニール管が入れられ、かつて眼球のあった眼窩には、脱脂綿のボールがつめられた。提供された肉体の部分を挙げたカードがチェックされ、署名され、彼女の足指に止められた。さもないと、死体置き場で器官がなくて戸惑うからだ。骨と組織担当係が彼女のからだを黒いバッグにおさめ、ジッパーで閉じ、車輪担架にのせて白い布で覆った。朝の6時半だった。かれに押されて、彼女は手術の楽屋である手術控え室に運ばれ、死体置き場か安置所への移送を待った。わたしもいっしょに待った。  あたりが騒がしくなり、朝番の人々がやってきて、最初の患者がとなりの区画に運ばれてきた。ナースは白い布をかけた車輪担架を見て顔をしかめ、二つのベッドをへだてるカーテンをさっと引いた。わたしは即座に侮辱されたように感じた。どうやら恋に落ちたようだ。 XX & XY  死。恐怖。血。ある人には、これらの写真は自分や身近な人々が体験した手術を連想させるだろう。ほかの人には、自分自身の解剖学をビビッドに想起させるにちがいない。これらの写真は病気や治療だけでなく、創造の謎めいた不可解な驚異を連想させる。われわれが機能しているということ、あらゆる細胞、器官、体液にみごとな秩序があること、われわれが歩き、しゃべれ、考えられるということは、驚き以外の何物でもない。  たとえば大網を考えてみてほしい。腹の大湾曲から宙づりになった膜状の組織で、内臓をエプロンのように覆っている。ヘルニアや炎症時には「腹部を守る」組織として知られており、この大間句は、タコのように予告なしに動く――その飼い主の知らないうちに――そしてその患部に巻き付いて、感染に対する戦いを守り、助けるのだ。どうやってこんな機能を身につけたのだろう。なぜどうすればいいか知っているのだろう。あるいはこうたずねてもいい。「どうして一つの細胞が二つに分裂するのだろう。二つの細胞がどうやって多細胞になるのだろう。もとの細胞がどのようにしてちがう器官となるのだろう。皮膚や心臓、腕、カエル、男、女になるのはなぜだろう」  これらの写真は、存在そのものの性格を問う。「われわれは何なのだろう。われわれの居場所はどこなのだろう」われわれは心臓に宿っているのだろうか。精神に? 性器に? 精神分裂病やアルツハイマーの患者は? 切断された腕はどうだ? チベット僧がかつてこう語った。「肉体を頭から爪先まで10センチ角で切り刻んでも、魂は見つかりませんよ」。科学者や哲学者や神学者のみならず、これはアーティストやあらゆる人間の真摯な問いかけなのだ。  早い時期に、わたしはこの写真をだれかれかまわず見せてはいけないことを知った。わたしと同じ反応を見せる人々もいたが、ある人は後ずさり、ある人は怒ったり野卑な反応を見せたりした。ある女性はいきなり泣き出した。やる気をなくすことも多かったが、やがて、このプロジェクトを続けなくてはならないことを理解した。それはこの写真を歓迎する人々のためよりも、むしろこれを一枚も正視できない人のためなのだ。わたしは、人が肉体やヘルスケア、そして究極的には、死を今ほど恐れなくするための、視覚によるテクストを提供したいと願っている。  わたしも免疫があるわけではない。ある手術の写真の前に、よく自分がこの患者だと想像してみる。脚をノコギリでまっぷたつに切断されているのが自分だとか、外科医の手で心臓や肝臓を愛撫されているのが自分だと想像してみる。そして、目を閉じて深呼吸し、震えがとまるのを待つのだ。  解剖学者が、検閲や逮捕の心配なしに人間の切開ができるようになったのは、過去ほんの500年ほどのことだ。解剖学は異端の科学と考えられ、軽蔑されていた。1553年にいたっても、解剖学者ミゲル・セヴェルデが火あぶりの刑に処せられている。これは西洋医学特有の現象ではなく、人体切開は古代支那やインドでも禁止されていた。もちろん、動物の屠殺は、粗っぽいながら解剖学的洞察を提供しただろうし、猟師や戦闘などでの傷は、人体の構造についての考察の機会を提供しただろう。病理学的条件の体系的な知識や認識がなくても、体腔内緒器官――脳、心臓、肺、肝臓、消化器――はまちがいなく識別されていただろう。頭蓋穿孔は、悪霊を追い払ったり、奇妙な行動や頭痛の治療をするのに、紀元前何千年も前から実践されていた。  中世には、大量の解剖や手術が死刑執行人たちによって実践された。法律で拷問が認められていたため、絞首刑執行人は死刑執行だけでなく、人間を使った実験にも従事していたのである。骨を折ってそれをつなぎ、関節をはずしてはめなおし、肉を焼いてはやけどを治療するのがかれらの仕事だった。そうすれば、新たに拷問を加えることができるからだ。実験が終わったら、残骸は道ばたに放り出された。通行人が犯罪生活に足を踏み入れないよう戒めとしてである。人体解剖については、最後の審判における復活の際にどうなるかということで、かなり不安が見られた。  このような障害にもかかわらず、解剖は1405年にボローニャの医学校で正式に教科の一部となった。しかしながら、許可がでても実行するのは必ずしも容易ではなかった。解剖用死体はなかなか学校用に手に入らなかったので、墓泥棒が雇われた。解剖学の授業は野外劇場で行われ、監督官が高い台座にすわり、ギリシャの医師ガレノスの教科書から指示を出し、雇われた床屋か肉屋が解剖を行った。2世紀以来、人間の切開を一度も行わなかったガレノスの摘要が、解剖学の研究だけでなく、診断や治療をも支配していたのだ。  解剖学と人間の切開の事態を近代に押し進めたのは、芸術家たちだったと言えるだろう。ルネッサンスはその根底に、人体への新しい興味を宿していた。16世紀には、科学的探求と、もっとも完全な人体を描こうという芸術的試みとが結びついた。どうしようもなく国家と癒着した教会が、人体解剖と魂に関する立場を軟化させたのは、教会が医療科学を認知するようになったというより、教会の美化に芸術家が貢献したからというほうが大きい。1448年に没したアンドレア・デル・ヴェロッキオをはじめ、アンドレア・マンテーニャ、ルカ・シニョレッリ、そしてそれに続いて巨匠たち――ミケランジェロ、ダヴィンチ、ラファアエロなどだ。  レオナルド・ダヴィンチは、中でも群をぬいていた。かれにとって、人間の形態を視覚化するだけでなく、その深い構造を理解することが必要だったのだ。かれはこっそりと細いナイフやノミ、骨用ノコギリを使い、自分で夜中に死体を解剖した。かれの解剖手稿は300年も隠されてきたが、それでも解剖学的発見をいくつか成し遂げたことは知られている。その見事な観察力にも関わらず、レオナルドはときどき自分の目で見たものをごまかして、ガレノスの意志にあわせて改竄している。ガレノスが人間の解剖学のモデルとして使ったのはサルとイヌだった。レオナルドは1513年のキャリアの終わりまでガレノス主義者だったが、その後は独立した立場をとって、結論をひたすら観察結果のみから導くようになり、生物学的真実そのものの探求者となったのである。  ルネッサンスの間、医学生は主に抽象論述力や、古典の権威の引用能力や、ラテン語の堪能さで評価されていた。臨床経験まったくなしで、医学課程から卒業することもあった。医師の治療は主に瀉血、嘔吐、浣腸だった。瀉血は肌にヒルを張り付けて行われた。嘔吐は、嘔吐を引き起こす薬物。浣腸は、肛門から薬物を注入する。医療記録によれば、ルイ13世(1601-1643)は一年で瀉血47回、嘔吐212回、浣腸215回を施されている。  古来の手術は、一般の床屋兼外科医によって実行された。かれらにとって、床屋とひげそりが定期収入源だった。床屋は学問の世界の医師たちには軽蔑されていたが、フランスの床屋兼外科医のアンブロワーズ・パレが外科業を、技とは言わないまでも科学にまで高めたことで事態は変わった。1573年のトリノ包囲で、若きパレは煮えたぎる油を切らし、焼きごて(灼熱した鉄で、感染した可能性のある組織を破壊し、出血を止めるのに使われた)――銃創ややけどの通常の治療法――もなかった。そこでかれは卵の黄身、バラ油、テレピン油の混合液で傷を治療した。驚いたことに、この非正統的な液体で治療を受けた兵士のほうが、その前日に煮え油や焼きごての適用を受けた兵士たちよりずっとよい経過を示していた。現代の外科は、今世紀の戦争中に開発された技法に多くを負っている。  麻酔や消毒手続きが1800年代後期に導入されるまで、よい外科医とは手早い外科医だった。膿、血液、排泄物が手術コードに徐々にしみこんで固まる。それは決して洗ったりするものではなかった。それがごわごわになればなるほど、外科医の勲章と考えられ、有能な外科医と思われるのだった。今日われわれは、臓器移植があたりまえで、遺伝子治療もほとんど標準になる寸前の時代に生きている。オルタナティブ医療――ホーリスティク、ホメオパシック、ニューエイジ、伝統医療など――がなんと言おうと、外科の技能と職能を含めた西洋医学がこれらより霊的でないという考えには賛成できない。もし神が存在するなら、医学や外科分野における各種の発見や研究、科学の発展は、聖なる作用の働きなのだ。アンブロワーズ・パレのことばを借りれば「Je le pansiat; Dieu le guarit」(わたしは治療しただけ。癒したのは神だ)。似たような条件や病歴を持った患者が、まったく同じ症状や診断を受けて、それでも片方は生き、片方は死ぬかもしれない。ある外科医が語ってくれたように「わたしは切ったり貼ったりをするだけ。癒すのは神」なのだ。 極限  ある日曜、友人との食事を終えてコーヒーを飲んでいると、男性が体を二つに折って倒れた。救急隊がくるまでに20分かかった。数分ごとに、店主が、だれでもいいからCPR(心肺機能回復蘇生法。人工呼吸と心臓への刺激を交互に行う)を知っていたら助けてくれと懇願する。わたしは十代にはライフガードをやっていて、友人に何度もその話をしていた。やっとわたしは近づいて、かがみこみ、蘇生術を開始した。うろ覚えで、自信のないまま、わたしは男の首の後ろを持ち上げ、鼻をつまみ、何回か息を吹き込んだ。耳を鼻の近くにあてて、息をしているかどうか確かめた。胸を見て、上下しているかどうか見た。背の高いやせた男が後ろに立ちはだかってわめいた。「CPRはそうやるんじゃない!」警官がやってきて、わたしに代わった。やっと救急隊が登場した。酸素吸入を行い、心肺圧迫を行い、アドレナリン注射をして、電気ショックを3回行った。男は死んだ。45分がたっていた。かれの顔と唇は青くなっていた。  シャム双生児分離手術の1カ月前、そしてその2週間後には4重バイパス形成手術。手術室であれだけ過ごしたのに、この男性の命を助けられなかった。初めての自己嫌悪。失敗と喪失の感覚。若い医師が、患者を初めて死なせてしまったときに感じるのもこれだろう。後に、救急隊員が死体を運び去ってから、わたしは洗面所をみつけて口をせっけんで洗った。それでも洗い流せなかったのは、男性がわたしの唇に残した髭の跡だった。  自分の娘を強姦した咎に問われている父親と一晩過ごしたり、まったく別の人格を53持っていると自称する女性と午後いっぱいいっしょに過ごしたりして、何の得があるのかわかるだろうか。写真家として、わたしはごくわずかな人しか興味を持たないような、あることさえ認めたがらないようなものを見てきた。わたしがもっとも好きなのは、暗い面なのだ。でも、それをだれに話そう。これらの体験がわたしの魂を養い、自分を見つめ直すようしむけたのだということを、だれがわかってくれるだろう。つきそいばかりで本物の花嫁にはなれない宿命。写真家は覗き魔であり、実体験の外にいて、自分で体験することはない。病棟の廊下を歩きつつ、わたしは好き勝手に恥ずかしげもなく自然の驚異や恐怖を見つめた。この一線を越えて、この世界に自ら入れたらいいのに。これを毎日できたらいいのに。  わたしが外部から内部へ、われわれをとりまく世界から内部の世界へ、写真家から解剖学者へ、そしていつかなりたいと思う医者へと移行しても、わたしの求めるものは変わらない。だれかのポートレートを撮っていると、被写体がたずねる。「どうすればいいんです?」 「普通にしててください」とわたし。 「何を着ればいいんです?」 「何でも普通に着てください」 「何を撮りたいんですか?」 「あなたの魂」とわたしは冗談半分で言う。「あなたの魂の写真を撮りたいんです」  かつてわたしは人間の目を、服のしわを、靴のすり切れ具合を探し求めた。今は肉の凹凸、肝臓の色や質、肺活量を探し求めているのだ。 エピローグ  われわれはしばしば、魂は心臓で、心臓が魂で、心臓がとまったらそれが死だと思っている。しかし心臓移植では、ドナーの心臓は切除された時にはまだ脈打っている。そうでないとダメなのだ。それどころか、あるクスリを射って氷に包んで落ちつけて、移植してから動き続ける力を残すようにしないといけない。このようにして、レシピエントは、ドナーの心拍を、リズムそのものを受け取るのだ。  手術室では、器官が除かれ、取り替えられ、サルベージされ、交換されるにあたり、肉体は単なる容器にすぎない。麻酔術士があなたの血圧、呼吸、痛覚をコントロールする。あなたはしゃべれない。目はテープで閉じられる。あなたの思考、あなたの記憶、あなたの夢が宙に漂う。それはどこに行くのだろう。 マックス・アギレーラ=ヘルウェグ 1997年3月、ニューヨーク市にて 検死解剖 写真と行われた手術について 2 外科医の手 外科医は手を胸近くにあげて、汚染を防ぐ。 5, 6, 124 脊髄手術(32ページ参照) 突然の麻痺におそわれた患者が、脊髄手術に先立って、頭蓋骨にクランプした万力でぶら下げられる。椎骨5つの裏側――椎弓の両側にある平らな部分、椎弓板――が取り除かれ、脊髄をむきだしにすることで圧迫を取り除いた。椎骨は完全に除去されたわけではないので、残った骨と周辺筋が、露出した部位の支持基盤となる。手術の翌日、患者は立ってベッドのまわりを歩けるようになっていた。 12 角膜移植用の眼球 眼球まるごと摘出されるものの、瞳の半分程度をカバーする角膜の真ん中の円盤だけが移植に使われる。白濁したり、ゆがんだりした角膜を持つ患者用だ。アメリカで一番多く行われている器官移植で、年間4万件以上が実施されている。 13 鼻の手術用の器具 14 頸動脈から塞栓を除去 手術室では、外科医同士がお互いに「この血管だと思う?」「いや」「向こうだろう。あっちのほうだと思う」といった会話を交わすのを聴いて驚かされることがある。困ったことに、血管が別のものに見えたりするのだ。この手術では、頸動脈のパッチとして使う予定だった患者の外頸動脈が、本来あるべき場所になかった。このため、医師たちの議論が起こった。  われわれの体内構造はちょっとずつ異なっている。余計な静脈や動脈があったり、器官や臓器の位置が異なっていたりする。そうなると外科医は、肉体の構造を識別するのに余計な努力を強いられる。いったん同定されてしまえば、各器官は色付きのゴムでしるしがつけられて、わきにどかされる。手術の最中には、細かい動脈や静脈、神経などは犠牲にされるかもしれない。しかし重要な臓器や管はたいがい救われる。 15 蝸牛インプラント 生まれつき耳の聞こえない2歳の少女が、内耳に電子装置を埋め込まれる。これは直接聴覚神経を刺激して、脳の聴覚中枢に信号を送る。このようなインプラントによって可能となる聴覚は、通常の聴覚とは異なっている。かつて耳の聴こえた人々の話では、この装置経由の声は、最初は回転数をまちがえたレコードかドナルドダックのように聴こえるそうだ。でもしばらくするうちに、もっと普通に聴こえるようになる。インプラントは、難聴の大人や先天性難聴の子供が会話をできるようにしてくれるが、聾者コミュニティでは議論がわかれている。それが聾文化に対する脅威と見られているからだ。  写真の左側に見える白い管は、手術の排出口で、手術の多くでは最後にとりつけられる。手術後に液体がたまるのを防ぐためだ。 頭 16-21, 22-23 頭蓋顔面の再整形 41歳のこの女性は、クルーゾン症候群をもって生まれてきた。これは遺伝性の身体欠陥で、頭蓋を構成する5つの骨が不均等に成長する――成長が速すぎたり遅すぎたり、まったく成長しなかったり――ため、ゆがんだ、多くの場合は縮んだ頭と顔ができてしまう。眼窩のまわりの骨が成長しなかったため、患者の目は飛び出して、左右ばらばらに動いているような印象を与える。頭蓋骨の側面を示すCTスキャンを見ると、頭のてっぺんはスキーのジャンプ台のように飛び出し、それが眉の真上から絶壁のように90度に下がっていて、通常の額のふくらみがまったくない。顔の正面は平らで、頬骨は見えない。  手術前、患者が髪を刈る不名誉と恥辱を味あわずにすむよう、外科医は髪をゴムバンドで束ねてアルミホイルをかぶせ、術部に入らないようにした。「ちょっとしたサービスの一つです」と外科医。それから医師は、ヘアラインで隠れるよう、頭蓋骨を耳から耳まで切開した。そして、顔の皮膚の上から執刀を続けるのではなく、顔の下半分の手術は口の中から行った。顔の皮膚をむいて、それをもとに戻して進行を確かめるという手続きを交互に繰り返しつつ、医師は骨を整形して患者に新しい顔を与えた。 24-25, 115 両瞼の整形 この整形手術は、瞼のたるみをなおし、上まぶたのしわの多さをなくすために行われた。クルーゾン症候群の女性の治療のため、追加で行われた手術の一つである。 27-29 白内障手術 患者は全身麻酔(意識と感覚を失う)を受けて、目の下に局部麻酔(限られた領域の神経と神経束に作用)を注射される。全身麻酔が切られ、患者は起こされ、手術の間は起きたままとなる。開創器が挿入されてまぶたは開かれたままとなる。白内障(人間の目のレンズの白濁)が除かれて、かわりにプラスチックのレンズが挿入される。 30 内耳から腫瘍を除去 内耳の蝸牛器官に隣接した内耳で腫瘍が成長し、この70歳の女性は次第に聴力が衰えていった。CTスキャンを見ると、この腫瘍は顔面神経にも障害を与えそうだった。難聴の進行と、顔面神経麻痺による顔の反対側の歪みを防ぐために、腫瘍は取り除かれた。 33 松果腺腫瘍除去のための頭蓋手術 下垂体は、成長や再生産、さまざまな代謝過程など、多くの身体機能を調整するホルモンを分泌する。腫瘍(組織が突発的に成長して異常な大きさになること)はこうした機能のどれかに障害を与える可能性があるので、除去されなくてはならない。大腫瘍の除去に備えて、患者の頭は手術用ベッドにしっかり固定された万力に止められる。はさみの束のように見えるのは、頭皮を止める鉗子で、毛細血管からの出血を止めている。 34-35 てんかん軽減手術 野球のボールのように見えるのが、万力に入った頭である。重度慢性てんかん症治療の一連の手術に先だって、二週間前に頭の毛は剃られた。重度慢性てんかん症と診断された患者は、一生にわたって、時には一日数回にもおよぶ発作に繰り返しおそわれることになる。このため定職を持ったり、運転したり、通常の生活に類するものは送れないのが普通だ。この手術は、こうした発作をなくすか、少なくとも回数をかなり減らすため開発された。  てんかんの原因となっている脳の部位は、機能が脳の別の箇所に移ってもはや有益な機能を持っていないと判断されるので、脳切除、または脳葉切除が行われる。手術に先立って、図像検査や和田試験が行われる。和田試験では右脳と左脳が分離され、運動機能や言語能力、記憶などについてテストされる。  外科医は、こうした機能を司る部分は避けなくてはならない。しかし、脳の部位がきちんと同定されれば、最初の手術が行われて発作の源をつきとめることになる。頭蓋が開かれて、電極が脳のてっぺんに入れられる。後頭部から電極の電線をのばした患者は、部屋に戻ってEEG(脳波計)につながれ、脳の電気活動を測定される。24時間のビデオ監視により、医師チームと患者はつぎのてんかん発作を待つ。EEGと、それに並行するビデオ映像をもとに、医師たちは脳のマッピングを行って、脳の問題箇所をずばりつきとめることができる。それから頭蓋がもう一度開けられ、電極が除かれて、切除が実施される。 36-37 大規模頭蓋手術 脳腫瘍除去のために脳に到達するには、頭蓋骨を開くことになる(p. 47参照)。頭蓋骨を開くときには、ハンマーやのみを使うと骨がギザギザの不整形な破片になってしまうので、圧力検知式の特殊なドリルが使われる。これは、骨の向こうに突き抜けると止まる。しかしながら、手応えをしっかり確認するのも重要だ。なぜならこのドリルは、非常にまれに、骨を貫通しても止まらずに、硬膜を破ってその下の灰色の物質に突入することがあるからだ。穴がいくつか開くと、特別なノコギリが使われる。これは刃先に特殊なエッジがついていて、ギザギザの刃が骨以外のものを斬らないようになっている。穴から穴へノコギリで切ることで、幾何学的な(この場合は円形の)骨の部分が切り取られ、腫瘍を除いてからその骨はもとの場所にもどせる。骨が除かれると、硬膜が慎重に一枚ずつむかれる。大脳がむきだしになるが、腫瘍はもっと深くにある。脳の一部を切らずに、大脳の部分が脇に押しのけられて、腫瘍の位置にたどりつく。鉱夫のヘルメットに似たものをかぶった外科医は、光ファイバーによる照明をつけて視界を照らす。特殊な拡大鏡も使って、脳のもっとも奥深いひだの深奥にまで手術できるよう、顕微鏡のような視力がもたらされる。長い、スパゲッティ状の器具を使って、腫瘍はほんの小さなかけらごとに摘出される。  腫瘍が切除されると、頭蓋骨の切除部分がもとの場所に縫いつけられる。患者たちは手術の後で、ときどき頭皮の下の一円サイズの穴の跡が感じられると述べる。 38-39, 108 小児科顔面頭蓋整形 16-23ページに登場した41歳のクルーゾン病の女性の手術も、子供時代に行ったのであればこうなっただろう。この手術は患者の脳の非常に近くで行われるため、まず神経外科が頭蓋骨を除き、整形はプラスチック外科医が担当する。頭蓋骨はパイ状に切断され、金属板とネジで止められて、成長の余地が十分に与えられ右ようにする。38ページの写真てっぺんに見える白い球体を想起されたい。あれが患者の目だ。この手術では、頭蓋骨はパイ状に切られて金属板やねじでとめられ、脳の成長余地をたっぷり与えるようにする。手術に先立ち、患者の頭皮が目に被さるように裏返されるので、瞼が縫い閉じられた。角膜にひっかき傷などの事故が起きないようにである。 41 嚢虫症。若い女性が火の十分通っていない豚肉料理を食べて、嚢虫症にかかった。口から入った寄生虫が脳に住み着き、それが包嚢をつくって脳脊髄液をふさいでいた。手術に先立ち、3次元定位装置という冠が患者の頭蓋骨にねじこまれた。下の輪は、中に方角を示す目盛りを隠しており、てっぺんの部分は六分儀かコンパスのように機能するようになっている。この3次元定位装置をつけたままでCTスキャンが行われた。その結果はコンピュータに入力されて、寄生虫の正確な居場所が緯度経度で示される。外科医は嚢めざして細い穴をまっすぐに空けて、虫を取りだした。腫瘍などの脳内の異物と同様、寄生虫は肉体の通常の身体機能に障害を与える。わたしは手術前に患者がCTスキャンを受けるところを目撃したが、彼女は半ば意識がなく、震えがとまらない様子で、明らかにかなりひどくやつれたようだった。手術の翌日、医師に電話をしたところ、患者は大幅な改善を見せており、回復間近とのことだった。 体幹 42-43 肺切除の後で胸を閉じる。タバコの吸いすぎで生じた肺気腫のため、この女性の肺胞(肺の空気を蓄える小さな房)の一部が、風船ガムのような大きなあぶくにふくれあがってしまった。この結果、彼女は目に見えて呼吸困難に陥ってしまった。肺の一部が切除されて、肺を縮めた。意外なことに、肺の一部を切除すると呼吸機能は改善する。これらの写真は、切除が行われた後に撮ったものだ。胸部の手術の通例で、胸骨を分割して肋骨を左右に分けるため、のこぎりが使われた。胸の骨を元通り縫い合わせるには、鉄ワイヤーが使われた。傷は、縫合前に生理食塩水で洗われる。 45 移植の準備が整った心臓。この心臓は、心肺担当の医師チームに、土壇場になってはねられたものだ。恒例の超音波検査で、壁面に異常があることがわかったのである。最終的には、心臓の4つの弁は保存された。弁は、心臓の鼓動ごとに開いたり閉じたりして、血液を一方向だけに流す役割を果たす、膜状のドアである。そのどれかが機能不全を起こすと、血が逆流するようになって、交換が必要となる。 46-47 LVAD(左心室補助装置)。腹部の隔膜の根本に人工ポンプが縫いつけられる。そこから配管が心臓に続き、左心室で血液をポンプする手助けをすることになる。もともとは心臓移植を待つ患者用の一時的なつなぎとして開発されたものだが、この写真のLVADは、心機能不全に対する長期的な解決方法として使用された、全米初のものである。心臓がからだに血液を送る作業のうち、八割は左心室で行われている。補助装置がその機能を肩代わりしても、荷の軽くなった心臓はもとの場所で、前と同じように機能を続ける。この装置は、患者の腰のまわりにつけたバッテリーで動く。患者はほぼ完全に通常の生活に戻れるが、何もかもできるわけではない(たとえばゴルフはできるが、水泳はできない)。常に手元に予備のバッテリーが用意され、夜になると患者はベッドの脇のトランスに自分のコンセントを差し込んで、そこから電力を得るとともにバッテリーを充電する。バッテリー故障に備えて、手動ポンプも常に持ち歩くことになる。このLVADは、人工心臓の失敗の副産物だが、研究と設計に30年もかかっている。 49, 11 漏斗胸。この11歳の少年は、肋骨が誕生前に成長しすぎた状態で生まれてきた。肋骨は胸骨で出会うのだが、そこからさらに内側に向かって成長を続けてしまい、心臓と胸骨に無用の圧迫を加えていた。CTスキャンを見ると、少年の心臓が動く余裕はほんの1センチほどしかない状況だった。手術が行われ、のびすぎた肋骨は切断され、持ち上げられて、普通の位置に戻された。  こうした手術は、子供が7歳くらいの時に行われることが多い。しかしこの患者は出産が長引き、鉗子を使わざるを得なかった。そしてわずかながら、精神障害を持っている。このため医者と家族は、かれがもっと成長して、この手術が自分を助けるためのもので、傷つけるためのものでないことを理解できるようになってから治療を受けることにしたのだった。皮膚の着色と、黒い穴のように見えるものは、実はベタジンによる洗浄である。これはヨウ素ベースの感染防止剤で、皮膚の消毒に使われる。くぼんだ胸の真ん中にあるベタジンの水たまりを見ると、「コップ」という表現が想起される。これは、この症状の大きさと深さを測る用語だったのだ。 50-51, 52 豊胸手術。これから6ヶ月後に行われる美容整形の準備として、この30歳の女性は乳房をとりまく皮膚をパイ状に切開される。それぞれの乳房から皮膚の一部が除去され、「パイ」の残りの部分が縫い合わせられて、たるみの少ない引き締まった胸をつくる。 53 乳房インプラント:手術の前と後。乳輪の底部に沿って、180度の切開が行われる。外科医はそこに指を入れて、それを360度回転させ、裂け目と皮下組織を分離させてインプラントを入れる場所を開ける。それからいろいろなサイズの「テスト用」シリコンを入れてみて、どれが一番いいかを見る。最適なサイズを選ぶと、恒久インプラントが左右の乳房に入れられ、乳輪に沿った切開線が縫合される。 55, 56, 59, 112 リンパ腺除去を伴う修正乳房根治切除。この55歳の女性は、乳ガンと診断されたが、胸のガン部分のみを切除する乳腺腫瘤摘出を受けることもできた。しかし、彼女は乳房切除のほうを選んだ。乳腺腫瘤摘出にとどめた場合、放射線治療を続けなくてはならないためだ。  通常、女性が乳腺腫瘤摘出を受けると、再発防止のために残りの乳房に放射線があてられる。化学療法は、リンパ腺での腫瘍有無による。もし乳房切除なら、乳房組織は残らないので、放射線は不要となる。放射線治療は局部療法である。化学療法は全身療法となる。  修正乳房根治切除は、乳房根治切除に代わって乳ガン治療のもっとも一般的な外科療法となった。乳房根治切除よりも変形が少なく、術後の腕の浮腫(組織の中に水がたまること)や肩の問題も少ない。  リンパ腺のような組織(ここでは腋窩にある)は、できれば丸ごと完全に、切除された腫瘍組織とつながった形で取り出すのが望ましい。リンパ腺は免疫系の一部として機能している。ガン細胞を止める働きもするが、ガンの転移場所ともなりうる。乳房を丸ごとリンパ腺といっしょに除去すると、病理学医師はガンの転移(からだの別の部分に広がること)の有無を判断できる。  56ページの写真では、外科医は「イヌの耳」状の余った皮膚が、腋窩からぶらさがっているのを切除している。これは大量の乳房組織を切除したために生じたものだ。 60, 127 動脈バイパス形成手術 大動脈における老廃物の蓄積(動脈硬化)を迂回するために、ダクロン人工動脈が使われている。迂回された部分は、切除されるのではなくバイパスされて、そのまま残るが使用はされない。人工血管はY字型をしており、その下の二つの端は左右それぞれの脚に血を供給するよう別個に接続される。患者はすぐにこの手術の効果を感じることができる。それまで何年にもわたり、血液が自由に脚に流れるのを味わったことがなかったからだ。 収穫 63 肝移植 在籍医とインターン2人が、肝移植後の腹腔の縫合準備にかかっている。写真左下に見える腸は、消化活動の一環として不随意運動を絶え間なく続ける。これは蠕動と呼ばれる。手術中、腹腔の縛りから解放されて、腸はふくれあがる。だから腹部手術の終わりには、腸を体内に詰め込むのに苦労することがある。 64 肝硬変 健康な肝臓は、柔らかくつるんとした表面が特徴の一つだが、この写真に写っているような肝硬変の肝臓は、固くてブツブツした感じになる。肝硬変はさまざまな原因で発生する。たとえばアセタミノフェン(頭痛薬タイレノール)、毒キノコ、慢性アル中、先天性肝障害、注射性薬物濫用、ウィルス感染(各種肝炎など)、バクテリア侵入、その他肉体的科学的要因が考えられる。原因は何であれ、結果として細胞がダメージを受け、肝臓はその代謝機能の多くを果たせなくなるのである。 65 肝臓ガン 肝臓病――この場合はC型肝炎――と関連した悪性腫瘍は、やがて肝硬変を生じさせ、肝移植が必要となった。ハンドボールほどの大きさの肝臓ガンは切除され、肝移植が行われた。移植はその後の生活のほんの始まりにすぎない。移植を受けた患者(レシピエント)は、その後一生にわたり、毎日クスリを飲み続けなくてはならない。たとえば免疫作用を押さえるための、サイクロスポリン(地中に見つかるキノコからとった薬品)などの免疫抑制剤などだ。体内に異物――トゲやウィルス、バクテリアなど――が侵入したときと全く同様に、肉体の免疫過程は移植された器官や組織を攻撃し、戦って拒絶するのである。  免疫抑制剤は、免疫系の働きを抑える薬物である。しかし免疫系が抑えられてしまうと、なんでもない病気が致命的なものになってしまう。したがって、それを補うために抗生物質と予防薬が処方される。65ページの写真では、外科医の手には二重の手袋がはまっている。感染症を持った患者の手術をする場合の標準的な警戒措置だ(B型肝炎とC型肝炎は血液を通じて感染力がある)。 66 新しい肝臓 空輸で病院に到着した提供肝臓が、レシピエントに縫いつけられる。 67 移植準備の整った肝臓 この肝臓は、大きさが普通であること、なめらかな感触、色が赤褐色であることによって見分けがつく(64ページの肝硬変の肝臓と比較するとわかる)。 68 リンパ腺 臓器切除の過程で、リンパ腺――写真の小さな房状のもの――が横隔膜や、小腸のかなりの部分を包み、腸と後部腹壁とを結んでいる腹膜組織から切除される。これらリンパ腺はピンの頭大からオリーブ大までとサイズは様々で、単独でも集団でも発生し、首や脇窩や股間にも存在している。リンパ腺の重要な機能は大きく分けて2つある。まずは特定の物質、特にバクテリアが体液流に侵入するのを防ぐためのフィルタとなること。そして白血球の一種であるリンパ球をつくることである。白血球は、感染や病気を防ぐ腫瘍細胞である。組織を中和したり破壊したりするだけでなく、それぞれ特定の抗原にしか反応しない。抗原とは、細胞の表面についたマーカで、「自己」と「非自己」の識別に使われる。このため、リンパ腺は臓器移植においてきわめて重要な役割を果たし、組織のタイプわけ――ドナー(非自己)とレシピエント候補者(自己)との比較――を行って拒絶反応を避けるのに使われる。 69, 70 内臓が取り除かれた腹部と胸部 心臓、肝臓、腎臓、脾臓、横隔膜リンパ腺が、臓器移植のために切除された。調達が終わると(p.70)、胸と腹の肉が簡単に縫合される。生きた患者に施されるような美容処置は行われない。 72-73 皮膚移植 高齢女性がすべって熱湯に落ち、2度から3度の火傷を負った。火傷の皮膚は、特別に設計された剃刀でそぎ落とされる。チーズけずりと大差ない道具を使い、幅8cm、長さ20cmの皮膚が薄く切除された。必要以上の皮膚を取らないですむように、「移植片」はベッドサイドの別の機械で処理され、小さな穴をたくさん開けられた。要するに、メッシュ状にして、引き延ばして、できるだけ広い範囲をカバーできるようにするのである。  皮膚は、心臓や肝臓や目と同じく重要な臓器と考えられており、体内で最大の重要組織である。火傷は結果として大量の体液喪失につながり、代謝を危険なほど上昇させ、ショックの可能性と、感染症の可能性をもたらす。体の広い表面を覆う軽度の火傷のほうが、小さい重度の火傷よりも深刻である(ただし、それが重要な神経や血液保持臓器にダメージを与えていない限り)。皮膚の2/3が破壊されれば、死亡する可能性が高い。 XX & XY 74, 76 腹膜鏡式子宮摘除術 二酸化炭素の注入により腹部が膨らませられ、腹膜鏡器具の動く余地が作られる。へそのへこんだ部分に小さな切開が行われ、ビデオカメラつきの内視鏡が挿入される。他の手術用具を入れるため、追加の小さな切開が行われる。この非侵襲性の手術は、子宮と繊維腫をいくつか除くために行われた。患者は重度の癒着(繊維状の帯が、通常は離れている部分をまとめてしまうこと)、大きな繊維腫(アワビ並の大きさ)、子宮内膜症(子宮内部の膜が以上になること)を生じていた。これらの病巣があまりに大きかったため、膣経由で切除が行われた。  ふくれた腫瘍と伸長した子宮が膣から摘出されているとき、外科医が男性と女性の性器の類似を指摘した。両者の機能が似ているのは明らかだが、その形態の類似は観察者の関心を何世紀も引きつけてきた。ルネッサンス期の大解剖学者ヴァザーリは、両性の性器を同じものが中にあるか外にあるかのだけの差だとして、19世紀に至るまで解剖学教科書に影響を与えた『ファブリカ』に陰茎を膣に見立てた絵を載せている。もっと驚かされるのが、現代の発生学者の描く絵である。受胎後6週間目の終わりの時点では、すべての人間は漢字で、雌になる可能性を持っている。肝臓の近くのちょっとした組織が未来の生殖腺となり、卵巣となるようプログラムされている。股間の小さなかたまりが、クリトリスと陰唇、膣になるはずだ。しかし、ある物質が存在すると、こうしたプログラムをオーバーライドできる。TDFと呼ばれるタンパク質が、生殖腺を精巣になるよう導き、この腺がつくるDHT(ジヒドロテストステロン)というホルモンによって、生殖器のかたまりが陰茎と睾丸になる。TDFをつくるための指示はY染色体にあるので、通常はこの染色体を持つ個体だけが雄になる。しかし突然変異や、ホルモンに反応できなかった場合、生殖腺は雄なのに性器は雌という個体が生じることがある。こうした人々は女性と思われているが、染色体検査を受けてはじめて、自分がXY染色体を持っていて実は男だと知るのである。 77, 79-82 陰茎インプラント 患者は64歳。陰茎の動脈が閉塞して、勃起能力が奪われてしまった。本日、かれはインプラントを受ける。実はこれが2回目だ。最初のものは10年以上前で、その手術も時間がたつにつれてうまく機能しなくなった。こんどのものは最高の、人工器官セールスマンの表現では「ロールスロイス」である(p. 80参照)――円柱状の風船が2本、陰茎の動脈腔に埋められ、そこから配管で陰嚢に隠されたポンプにつながり、腹腔には生理食塩水の入ったタンクが埋め込まれる。陰嚢に隠されてはいるが、ポンプにははっきりした幾何学的な部分が2カ所あって、さわればわかるようになっている。丸いほうを押すと、生理食塩水が貯水タンクから円柱型風船に送られ、陰茎が勃起する。同様に、四角いほうを押すと、勃起がおさまり、食塩水はタンクに戻る。  この種の不能に対して人工器官を導入するのは、エレガントではないが、簡単な解決手段ではある。陰茎をはね橋のように上げ下げできるこの技術は、尿や精液や大便を我慢できないという失禁の恐怖を解決するのにも使われている。オルガズムを得る能力、あるいはオルガズムを得られないのは、神経的なプロセスであって、血液の流れによるものではない。生理学的には、勃起が得られなくてもオルガズムを得る能力が失われるわけではない。 84-85, 87 帝王切開 帝王切開の直後しばらく、幼児はまだへその緒をつけたまま、母親の腹の上に寝ている。睾丸が大きくふくれているのは、体液がたまっているためで、生まれてしばらくすれば落ちつく。帝王切開の写真を撮ろうという最初の試みは失敗に終わった。アーティストとしてわたしが想像していたのは、外科医が腹部に長い切れ目を入れて、すると親指をくわえたまま胎児のポーズで胎内に丸まって眠る、子供の姿が見えるというものだった。その写真を一心に思い描いて、脳裏にやきついたほどだった、現実は、まったくちがっていた。準備にはしばらくかかったが、外科医が子宮に穴を開けると、子供は即座に引っ張り出され(呼吸を開始させるためである)、ピントをあわせることも、赤ん坊をファインダーにとらえておくこともできなかった。だからもう一回戻ってこなければならなかった。 89-90 シャム双生児 へその緒と胸骨の一部と腹筋を共有していた、生後4日の双子が分離される。生物学的につながった二人の別々の人間に、入管して麻酔するという手間には一時間半を要したが、手術そのものはわたしが立ち会った中でもっとも短かった。最初の執刀から分離まで、手術全体で27分しかかからなかった。それぞれの子供の傷を閉じるのに、さらに15分を要した。この手術には、小児科の肝臓外科医が立ち会った。手術前の検査の結果がはっきりせず、外科医チームは、この双子が肝臓も共有しているかもしれないと考えるに至っていたからだ。しかし、実際はちがった。  解剖学的にはつながっているのに、循環系は別々だというユニークな状況は、目でも確認できる(p. 89の写真を見よ)。右側の子だけが、麻酔への反応で手術中に体温が上がり、肌が赤くなっている。子供たちは無事に分離手術を終え、健康で正常な生活を送っている。後に、それぞれの子供に自前のへそを与えるための美容整形手術が検討される。  シャム双生児ということばは、シャム(タイ王国)で生まれた有名な双子チャングとエング(1811-1874)からきている。かれらはサーカスで働くために、アメリカにつれてこられた。この二人は最後まで分離されることはなかった。ノース・カロライナ州の姉妹と結婚して、立派な農夫となり、あわせて21人の子供を持つにいたった。 93 卵巣嚢包 帝王切開後に子宮(写真左手)を閉じる際、手術にあたっていた外科医二人が、ひそひそ声で激しいやりとりを始めた。突然、空気のつまった袋のように見える、非常に大きな卵巣嚢包(写真右手)が患者の腹部から飛び出してきた。患者は硬膜外麻酔を受けていたため、意識も理性も保っていた。片方の医師が口を開いて卵巣嚢包のことを彼女に告げた。彼女は、妊娠2ヶ月前にそういう診断を受けていたが、その大きさはピーナツ大だったという。それに続く11ヶ月で、それがグレープフルーツ大にまで成長していた! その場で彼女から同意が得られたため、これは切除された。 94 開創器・腰関節交換 ナイフとフォークのように見えるものは、執刀部分を開いておくための器具である。体脂肪の量は、患者によって大きく異なる。腰関節交換では、厚さ1cmから20cmまで開きがある。開創器は切開部を開いておくのに使われ、そこを通して外科医は、大工が大工道具を使うように、手術用具を使用する。整形外科手術は荒っぽい力仕事である。ノコギリやハンマー、ノミなどが主に使われる。 95, 96 腰関節交換の途中 大腿骨の頭部はノコギリで切り落とされ、骨髄が除かれてチタンの柱とボールを入れるスペースが作られる。腰の一部がリーマーで穴を開けられ、プラスチックの内張りをつけた金属カップのインプラントが行われる。これが腰関節のボールとソケットのかわりとなる。人工関節は、しかるべき場所に糊付けされるか、あるいは圧着して、骨がその中にのびてくるようにする。皮膚を閉じるにはホチキスが使われるのが通例である。 97 腰関節交換 血液を吸い取るのにはガーゼが使われるが、血を含むとこれは人体組織とまちがえやすい。あらゆる手術用具、ガーゼ、針、糸は、最初の執刀前に数が数えられ、手術の終わりに傷を縫合する前に、2回数えられる。体内に何か残さないようにするためだ。 極限 98, 100-101 皮膚移植:深い2度の火傷を負った手 夫婦げんかで、男が深い2度の火傷を負った。火傷の皮膚はそぎ落とされ、大腿部から組織が剃り取られて指に移植された。皮膚移植は単なる美容整形のためだけでなく、完治までの時間を短縮し、感染症の危険を低減させる。 103, 113 膝関節交換 この手術は、通常は関節炎で障害の出た本物の関節のかわりに、金属とプラスチックの関節を脚に入れる。大工のジグソーと同じく、膝をとりまく金属装置を使って外科医はダメージのある骨や軟骨に正確な切り込みを入れることができる。ジグは実際には骨にとりつけられていて、ノコギリを入れる際に骨を固定している。圧搾ドリルが使われて、ジグと骨にピンを通し、ジグを正確な位置に保つ。それを頼りに外科医は、人工器官をしかるべき位置に止めるピンを入れるのである。通常は外科医が二人で作業を行い、絶えずお互いの作業をチェックして、各段階ごとに仕上げを行い、人工インプラントができるだけ完璧に近いように配慮する。膝がなめらかかつ自然に動くようにするには、人工関節はきわめて高い精度でとりつけられる必要がある。 104, 105 骨の採取 骨の移植は非常に一般的だが、自己移植(自分の器官を自分に移植する)を除き、ドナーの骨の細胞は生き延びない。移植部分は、レシピエントの新しい骨細胞が成長するための支持として使われる。新しい骨が形成されるまで、骨格の障害部分が強度を増すのを助けるわけだ。悪性骨腫の切除と、骨と軟骨の複合体の移植により、四肢を切断せずにすむこともある。105ページの写真は、膝蓋骨と脛骨がドナーから採取された後で、それが塩化ビニールパイプで代用されているところを示す(61ページの文参照)。プラスチック製の膝関節と骨は、臓器ドナーのからだを埋葬用に整えるためのものだ。 106 腱膜瘤除去手術 腱膜瘤は、足の親指の下の関節に生じる骨の棘突起である。ハイヒールや先のとがった靴のせいで、男性より女性に生じやすい。また、遺伝性もある。圧搾式で上下するノコギリをつかって棘突起が取り除かれる。  腱膜瘤が除去されると、外科医は関節の機能と働きを確認する。四肢の手術で特徴的なのは、血液の喪失を防ぐために止血帯が使われることである。時間が何より重要となる。外科医は逆回転する時計を見て、残り時間を確認しながら作業を進める。 107 心臓のバイパス形成手術用に伏在静脈を採取 足から上腿部にかけて伸びる大伏在静脈は、脚の機能をまったく損なわずに切除できるので、心臓の冠動脈バイパス形成手術に使える。もう一つ使える血管は、内乳房動脈と呼ばれる血管で、普通は胸壁に血液を供給している。いずれにしても、配管を変えることで、心臓を平常に近い水準で機能するようにできる。外科医は、血液供給を補う新しい血管をできるだけ増やすほうが、長期的にいい結果が出やすいと考えている。このため、三重バイパス、四重バイパス、五重バイパスなどが行われる(数字は新しく加わった配管の数をさす)。数の大小と病気の深刻さとは必ずしも比例していない。 111 淡蒼球切除手術 一部のパーキンソン氏病には外科的な対処方法がある。患者の意識を保ったまま、頭蓋骨に穴をあけて、この病気の原因となる淡蒼球に中空のプローブが通される。患者が苦痛のあまり絶叫しているように見えるが、これは単にまったく痛みのない、運動機能のテストである。これは手術に必要なプロセスで、患者は口を開いたり閉じたりするように言われる。淡蒼球の中で切除すべき部分の正確な場所を見つけるため、マイクロ電極がオシロスコープとスピーカにつながれ、プローブの内部に入れられる。電極が目標の位置に近づくと、脳細胞の電気的活動がオシロスコープで見えるようになり、スピーカからも強く不規則な音が聞こえる。淡蒼球は、中脳の黒質からやってくる神経がドーパミンをつくるところだ。これは神経送信薬として機能する生物学的活性を持つ化合物である。パーキンソン氏病の場合、この淡蒼球が干上がって自然のドパーミン生産を止めてしまう。ドーパミンの欠乏は、パーキンソン氏病の特徴である硬直や震え、運動緩慢などの症状を生み出す。ドーパミンの前駆物質であるレボドパが投薬治療では与えられるが、これもしばらく使っていると効果がなくなる。手術は淡蒼球の過剰活動を抑え、その自然な細胞リズムを回復させることで、投薬の受容度の範囲を拡大する。きわめて重傷の硬直や震えの場合でも、すぐに効果が現れる。患者はすぐに歩けるようになる。 114 小児神経手術 子供の脊髄のてっぺん内部に、長さ10cmの麻痺性腫瘍が見つかった。脳幹内部に、ゴルフボール大のかたまりが集まっている。腫瘍に到達するため、脊髄を切って開く必要があった。この種の手術は大人には絶対に行われない。麻痺が生じてそれが残ってしまうからだ。しかし発育途上の子供の場合、切断された神経が本当に再接続してなおってしまうこともある。この手術は中枢神経系に非常な障害を与えるので、生理学者の特別チームが手術室内に待機して、患者の機能のあらゆる面をモニターしている。ちょっとした失敗でも、患者の命に関わるからだ。 116, 123 AIDS検死 後天性免疫不全症候群(AIDS)は外科に関わる疾病ではないが、自分の世代を代表するこの疫病をフィルムに捉えておきたかった。AIDSと関連づけられることの多い障害は、体表と同じく体内をも攻撃するだろうし、それは目に見えるものだろうと思っていた。わたしが撮影したこの男性はAIDS患者だったが、死因はAIDSでも、AIDSで連想していた症状をもたらすガン性カポジ肉腫でもなかった。AIDSは、その名前が示すとおり、病原菌に対する免疫反応の崩壊を意味する。症候群というように、AIDSはさまざまな疾患を含む。たとえば肺炎、ウィルス感染、ガンなど。わたしが撮影することになるこの男性は、いずれにも該当しなかった。かれの死は突然で予期せぬものだった。息をひきとる前日、突然重度の錯乱に陥って、やがて心停止を起こしたのである。錯乱の原因と、突然の死の原因をさぐるため、検死解剖が行われた。病理学者が主に関心を持っていたのはかれの脳(p.115)だったが、完全検死解剖の通例として、あらゆる臓器が摘出されて検査された。摘出の一環として舌が切除された――125ページの写真で、喉頭の上に置かれているのが切除前の姿である。舌を切除するのは、口腔ガンや口腔カンジダ症(特にHIV陽性患者の場合)がないかを見るためである。またアミロイド症の可能性があれば、舌にアミロイド堆積がないか調べるのも重要だ。  この検死は、AIDSなどの血液感染症や空気感染症(肝炎や結核など)を持った患者の検死専用につくられた小さな部屋で行われた。ディーネル(検死助手)は減圧マスクをして汚染した空気を吸い込まないようにしており、彼女と病理学者のどちらも3重の手袋をしている。ラテックスの手袋が2重で、一番外側の手袋は鎖かたびらでできている。 7, 128 近視矯正のレーザー手術 エキシマーレーザーを使った角膜の整形。手術後、患者は眼鏡なしですむようになる。医療や手術が本当に何かを治療できることはほとんどない。最大でも、寿命をのばしたり、生活を楽に送れるようにするくらいが関の山である。レーザーによる目の近視矯正手術は、結果がすぐに出て効果も高いという珍しい手術なのである。 謝辞  このプロジェクトは、完成までに7年かかっている。その過程で、多数の人々の支援を受けた。かれらへの感謝の念は、このような短いことばでは表現しきれない。どこから始めればいいのだろう。  まずはフランシス・コンレー医師を撮影する仕事をくれたジナ・デイビス。これが本書誕生のきっかけとなっただけでなく、わたしの人生も完全に変えてしまった。そして無限の世界をかいま見せてくれたコンレー医師がいなければ、あなたが手にしているこの写真も文も存在しなかっただろう。そもそも本をつくれと示唆するだけの洞察力を持っていたのは、姉のドロレス・メッツナーだった。早い時期に、ムター博物館カレンダーを出しているローラ・リンドグレンとケン・スウィージーに出会った。この写真の価値を真っ先に認めてくれて、それ以来ずっといろいろ便宜をはかってくれた。ダニエル・ローバックは最初からこの写真を信じてくれて、さらにサラ・ラジンに紹介してくれると同時に、わたしが夢を実現できるよう仕事をみつけてきてくれた。かれの影響とヴィジョンは本書にもはっきり現れており、今日なおわたしとともにある。サラはもとの数十枚の写真の段階からわたしを導いてくれて、続く7年間にわたってこのプロジェクトのめんどうを見てくれた。そして、不屈の意志をもって出版者までみつけてきてくれた。医学博士ナンシー・アッシャーは、わたしの意図を理解してくれた最初の外科医である。最初にこの写真を収集し、そしてわたしが必要としていたときに医学博士リチャード・セルツァーの著書を紹介してくれたのは彼女である。セルツァー医師の『ナイフの告白』を読んで、わたしは勇気づけられた。この道に先人がいると知り、肉体をこういうふうに見てもいいのだ、解剖学をメタファーとして使ってもいいのだと知ることは大いなる安堵を与えてくれて、作業を続ける勇気をもたらしてくれた。リチャード・セルツァーの序文を得られたことは、本書にとってふさわしいばかりでなく、非常な名誉である。また、セルツァー本人に紹介してくれたイェール大学のジョン・エレフステリアデス医学博士にも感謝する。そして、若き日のわたしの中に写真への愛を呼び覚まし、気前のいいあとがきを書いてくれたA・D・コールマンにも感謝したい。  手術室に入り込むのに使った糸口はいくつかある。病院の広報部、医師から医師への直接の紹介、そしてもっと伝統的な経路である雑誌の仕事。『スタンフォード・メディシン』のローレル・ジョイス、『イェール・メディシン』のマイケル・フィッソーザ、『ディスカバー』のリチャード・ボッディ、『パレンティング』のトリップ・ミキッチ、『ニューヨーク・タイムズ』のキャシー・ライアン、『フォーチュン』のマイケル・マクナリーとアレックス・コロウ、『ヒポクラテス』のジェーン・パレック、ドロシー・マーシャル、テオ・フルタードのくれた仕事のおかげで、外科医たちにあって手術室に入ることができた。『サイエンティフィック・アメリカン』のニサ・ゲラーとジョン・レニーも仕事をくれたばかりでなく、この写真の一部をポートフォリオとして同誌に載せるよう尽力してくれた。デビッド・アルマリオは『スタンフォード・メディシン』と『ディスカバー』で仕事をくれたばかりでなく、この写真集の原型をまとめる手伝いまでしてくれた。  ジョンズ・ホプキンス大学病院のデボラ・バングルドフ、ジョー・マーティン、マーク・クシニッツ、マイケル・パーディー、ミシェレ・マクファーランド、クリス・マッキー=スロートは、受け入れてくれただけでなく、支援してくれ、あらゆる機会を与えてくれた。ロシェル・ラザルスとシェリー・ローゼンストックは、さまざまな支援だけでなく、ニュージャージー州エングルウッド病院で働くという名誉を与えてくれた。ニューヨーク地域臓器移植プログラムのローレンス・スウェイジーとマリアム・ペレツ看護婦は、人間の慈悲の最も感動的な贈りものの撮影のため、長い夜を幾度となくつきあってくれた。このプロジェクトの一番最後に、イェール大学頭蓋顔面センターのジョン・パーシング医学博士とマリアンヌ・バイヤー=ハインズ看護婦兼医療コーディネーターに出会えた。かれらが割いてくれた時間、寛容、能力と技能のおかげで、本書におさまるきわだってエレガントな写真が撮れた。また、コロンビア・ブレスビテリアン病院のアリソン・エスタブルック医学博士とメメット・オズ医学博士にも、その信頼に対して多くを負っている。また、デビッド・コーハンとコロンビア大学の医療予科協会は、同大学でこの作品の講演とプレゼンテーションを企画してくれた。おかげで自分の考えを無理に整理して、この写真を初めて一般に提示することができた。リップ・ジョージス、ローレンス・ゴンザレス、ジョン・ストラスボーにも感謝する。『アメリカン・フォトグラファー』のキャロル・スクワイヤース、『アートフォーラム』のダリル・ターナー、『フォトデザイン』ラリー・フラセラにも感謝しなければならない。正直なコメントをよせてくれたジョアン・ホフマンとリンダ・フェレールにも感謝したい。ソクラテス・カラーリ、ローズ・ラヴィッドとジョイス・ラヴィッドにも特別な感謝を。オーウェン・エドワーズの批評、熱意、洞察にも感謝する。ネストール・ロドリゲス、マシュー・スアレズ、マイケル・シャスターの応援と支持がなければ、このプロジェクトは完成しなかっただろう。  コロンビア・ブレスビテリアン病院の主任外科医ジョン・エドサル医学博士、ニューヨーク病院コーネル医療センターの常勤外科主任アンディ・チュー医学博士は、原稿に目を通してくれた。かれらの友情、助言と支持のおかげでずいぶん助かった。コロンビア大学の生物科学学部デボラ・モーシュウィッツ博士とジュディス・ギッバー博士には、遺伝学に関する非常に専門的な質問に答えていただいた。イェール大学医学校ウィル・ローゼンブラットは麻酔に関する部分に目をとおしていただいた。また、リック・ムーディとメリー・アグネス・エドサルにも、文に目を通してもらえたのは幸運だった。  もう20年以上前に、トニー・レーンはわたしを『ローリングストーン』の写真部の見習い焼き付け士として雇ってくれて、わたしの指導者となった。トニーに本書をデザインしてもらえたのは至福とは言わないまでも幸福なことだった。かれの与えたインパクトは、かれのデザイン感覚や編集上の洞察もさることながら、アーティストとして、人間としてかれがたどってきた軌跡による部分も大きい。また、エリック・カルトマンとクイーンズ・グループの支援にも感謝する。ブルフィンチ・プレスのジャネット・ブッシュ、ケン・ウォン、ベティ・パワー、キャロル・ジュディ・レスリーにも感謝したい。本書を刊行するだけの勇気を持っていたばかりか、さまざまな便宜をはかってくれた。かれらの与えたくれた指導と自由のおかげで、本書はわたしの夢みた以上のものに仕上がった。 外科医たち ナンシー・アッシャー、MD、PhD、カリフォルニア大学サンフランシスコ医療センター肝移植主任 ベンジャミン・カーソン、MD、ジョンズ・ホプキンス大学小児センター小児神経外科主任 ノエル・L・コーエン、MD、ニューヨーク大学医療センター耳咽喉学教授主席 ポール・M・コロンバーニ、 MD、ジョンズ・ホプキンス大学小児センター小児外科主任 フランシス・K・コンレー、MD、スタンフォード医学校外科教授、パロアルト退役軍人医療センター神経外科主任 ハーバート・ダーディク、MD、エングルウッド病院・医療センター肺外科主任 ジェラルド・デル・ザレ、MD、アルバカーキー大学病院産婦人科 フレッド・J・エプスタイン、MD、ベス・イスラエル医療センター神経外科部長 アリソン・エスタブルック、MD、コロンビア・ブレスビテリアン医療センター胸治療主任 マーク・ギンズバーグ、MD、コロンビア・ブレスビテリアン医療センター胸郭治療主任 ロバータ・グリック、MD、クック郡立病院非常勤神経外科、イリノイ大学解剖学助教授、細胞生物学助教授 J・アレックス・ハラー、MD、ジョンズ・ホプキンス大学小児センター小児外科名誉教授 ゲーリー・ハイト、MD、PhD、スタンフォード大学医療センター神経外科 グローバー・ハッチンス、MD、ジョンズ・ホプキンス病院検死病理学主任 ブルース・ジャクソン、CTBS、CST、ニューヨーク地域臓器移植プログラム マイケル・マッデン、MD、ニューヨーク病院コーネル医療センター熱傷部医療主任 フランク・ムーア、MD、神経外科、エングルウッド病院および同医療センター カムラン・ネザット、MD、手術医療教授、スタンフォード大学医療センター産婦人科 ジョン・K・ニパルコ、MD、ジョンズ・ホプキンス病院耳科、神経耳科、頭蓋基底手術主任 ウォルター・R・オブライエン、MD、サンタモニカ・セントジョン病院および同健康センター 整形外科 メメット・オズ、MD、コロンビア・ブレスビテリアン医療センター心臓胸郭外科 ジョン・パーシング、MD、イェール医学校、プラスチック整形外科主任兼教授 エリック・ローズ、MD、コロンビア・ブレスビテリアン医療センター心臓胸郭手術 オリバー・D・シェイン、MD、ジョンズ・ホプキンス・ウィルマー眼科研究所、眼科助教授 ステファニー・シュライナー、MD、ジョンズ・ホプキンス大学、病理学 ジェラルド・シルバーバーグ、MD、スタンフォード大学医療センター、神経外科 マーク・G・スピーカー、MD、ニューヨーク眼科耳科診療所、角膜屈折手術 リチャード・N・スタウファー、MD、ジョンズ・ホプキンス医学校、整形外科教授兼主任 エイブ・スタインバーガー、MD、エングルウッド病院および同医療センター、神経外科 クレイグ・ヴァンダー・コルク、MD、ジョンズ・ホプキンス小児センター、小児プラスチック整形外科 ゲーリー・ワッサーマン、MD、エングルウッド病院および同医療センター、泌尿器科  外科医、ナース、勤務医、麻酔医、そして何よりも、その苦痛と苦しみと希望の中で、己の疾患、そして魂そのものとは言わないまでも、体内の撮影を許してくれた患者のみなさんには心からの深い感謝を捧げるものである。  収録写真の撮影には、エボニーSV45フィールドカメラをギッツォ500三脚にのせ、ニッコールW180レンズとプロントー・シャッターで、フジプロヴィア・クイックロードフィルムとポラロイドのバックを使用。焼き付けはニューヨーク市のベス・シファーが担当した。スキャンはロサンゼルス市エル・セレノ・グラフィックス社リッチ・バウアーが、4x5オリジナルスライドから直接行った。Typeface is Goudy Old Style、Printed by South China, Hong Kong。本書のデザインはトニー・レーンが担当した。 手術の劇場 A・D・コールマン  このマックス・アギレーラ=ヘルウェグの写真は、わたしがこれまで見た中で、もっとも美しくかつ恐ろしいものだと思う。ページをめくっていくと、時にはうっとりさせるほど見事で、オランダの虚無派の巨匠たちによる静物画にも匹敵し、生の有限性に関するはかない思索とも妙に似ているような気がする。時にこれを見ると、冷や汗が出てくる。時にはそれが同時に起こる。  この写真家がこのプロジェクトのひな形を見せてくれたのは、1994年晩冬のヒューストン写真展示会でのことだった。わたしは5分で、当時はまだごく初期の計画段階でしかなかった本書のあとがきを書かせてくれと名乗り出た。次にこの写真を見たのは、約18ヶ月後、かれのコロンビア大学での講演でのことだった。スライドで映写されて極度に拡大されていた。わたしはいきなり気が遠くなり、身震いが抑えられなくなり、うっとりした医科大学予科学生たちでいっぱいの講堂の闇の中で、気絶しかけてしまった。頭をひざの間に入れて、深く呼吸しアギレーラ=ヘルウェグの高く甘い、興奮した声が自分の経験を語るのに集中することで、やっと正気にかえった。  これらの写真は、少なくともわたしにとっては、実存的な自由落下の一種である。一方で、これは現代最高の外科手術の純粋な記録として機能する。厳密に技術的な観点からいえば、これらの写真が撮られた状況は、写真家による解釈の余地を一切与えない。その一方で、これらはほんの数十センチ四方の空間で演じられる、緊迫した生死に関わるシナリオを構成している。医療器具、手袋に包まれた手、そして身体器官によって、象徴的かつ文学的に演じられているのだ。この小さな舞台で、光の集中砲火を浴びつつ、メスの刃が肉体と精神の境界線を何度も引いてきた、あの永遠の哲学的問題の最先端を定義づける。これらの行為と、そこに埋め込まれた霊的な問題に直面させることにより、これらの映像がキルケゴールの言う畏れと身震いを喚起しなかったのであれば、それは見た者が真に見、感じなかったということなのだろう。  これらの肉体に対する容赦ない侵入が同意なしに行われたのであれば、それは強姦となる。もしその目的が治療以外のところにあったのなら、それは危険な武器による攻撃であり、殺人行為となる。雑に行われれば、単なる屠殺となる。この映像は、そうした可能性から目をそむけようとはしない。しかしそれらが全体として表現しているのは、人間のか弱さと信頼であり、地球上の生命と人間同士の深い愛情である。外科技法と科学は、そこから生まれているのだ。現代はまさに、ポール・サイモンがうたっているように「奇跡と驚異の日々」(訳注:「グレースランド」収録)であり、「医学が魔術で魔術が芸術となる」時代なのだ。アギレーラ=ヘルウェグの写真は、以上の3つの思考体系――医学、魔術、芸術――によって三角測量された空間を提示してくれるが、そのどれがいつ関わってくるかの判断は、完全に見る者個人にゆだねられているのである。  過去50年における外科手術の進歩は、われわれの医療や医師――特に外科医――に関する考えを変えてしまった。最新の外科技法や技術によって提起される問題は、明らかに倫理や道徳、哲学、宗教などの領域にまで拡大しており、もはやそれらを議論する場は学術雑誌や医学セミナーだけでなく、日刊紙の社説やラジオ、テレビのトークショー、そして「シカゴ・ホープ」や「ER」のような、手術を中心に展開するゴールデンタイムのテレビドラマや特番にまで広がっている。こうした言説の大部分は、社会的な文脈の中で提供される。現実の外科医のだれそれという個人の一部として、あるいは患者でも医師でもないけれど、それをテレビで演じる役者の役の一部として。したがってこうした問題の何たるかについてのわれわれの認識は、肉体的な自己に対する侵入の代理人――本物にせよ演技にせよ――に対するわれわれの個人的な反応とわかち難くなってしまっている。重要なことだが、これらの表象は非常に運動的である。特に緊急治療室では、しばしば過度に運動的となる。騒々しいサウンドつきの、めまぐるしい出来事と移動は、その根底にある問題が要求するような静かな思索に向いていないし、そんな余裕も与えてはくれないのだ。  したがって、マックス・アギレーラ=ヘルウェグは、これらのすばらしい写真群によって、非常に有用な機能を提供してくれている。まず、これらのプロセスや体験をスチル写真というメディアで示すことにより、こうした医学的な出来事の流れにおける重要な瞬間を動かぬものとして、固定した、静的でイコン的な存在とし、長い思索のためにわれわれに提供してくれている。必然的に効率的で手早く、時にめまぐるしい活動の中で、かれは思慮深く選び抜いた光景を、ゆっくりとした時間のまゆに包みだしてくれるのだ。第二に、かれはこうした手術の描写に通常伴う、気休めめいた物語性をはぎとってくれる。本書の文章で、これら手術の物語を読むこともできるし、これを行った医師の一覧も見ることができる。しかし、これらの写真と短いタイトルで構成される小宇宙の中では、医師や患者のいずれも、名前もなければ顔も人格も物語も持っていない。したがって、これらの映像と向き合うにあたり、われわれはだれにも感情移入できない。唯一あるのは、もちろん、これらの侵入や変更や縫合を受けている、実際の生ける肉体への同一化だ。これはどうしても、自分の肉体と同一視されてしまう。  しかし、これらの写真の機能には、ありのままの(そして圧倒的にすばらしい)報告という機能もさることながら、詩的な要素も働いている。それは中立的な目撃者の役割を越えて、写真家の目の前で展開される奇跡的なものの生き証人とするものだ。この写真を見る際には、撮影にあたっての制限を理解することが重要である。これらの映像の見え方――その被写体はもちろん、照明や色彩や、照明の輪によってつくられたフレームの大きさまで――はかなりの部分が写真家のコントロールの及ばないものだった。このため、このプロジェクトはどうしても、厳密な記録写真の領域に入り込みそうに思える。しかしアギレーラ=ヘルウェグは、こうした制限の多くを、詩人として自らに奉仕するものに変えている。装飾的な効果は、写真家の審美的な選択によるものではなく、探索されている肉体領域に集中した光源によるものであるのは事実だ。照明がきわめて強烈なため、結果としてできた写真では、それ以外のすべてが闇に沈んでしまう。しかしながら、これは強烈にトンネルヴィジョンと同じ効果を生みだしている。トンネルヴィジョンとは、夢やトランス状態で多くの人が体験し、実際の死や臨死体験、幽体離脱体験などでも報告されている、あの「光が消えてゆく」体験である。結果として、これらの映像を見ると、何か肉体自身の体験と同じものを体験しているような気がするのだ。まるで、自分の精神が、メスの下の自分の肉体を眺めているような感覚だ。  これを含むさまざまな形で、写真家のヴィジョンは自己主張している。かれの感じた驚異、好奇心、啓示、畏怖が、これらの写真からは赤裸々に飛び出してくる。そして「手術の劇場」とも言うべきものに対するかれの知覚も。手術台が前舞台となり、肉体とその部品が登場人物となり、医療チームの手がデウス・エクス・マキーナとなり、肉体の限界と変更可能性がその主題となる。これらの驚異的な手術の流れと複雑さから、アギレーラ=ヘルウェグは息をのむようなスチルを抽出した。純粋に記述的でありながら、極度にクリエイティブで、恐ろしく克つ聖的で、聖なる恐怖と共鳴しているのだ。記録写真、創作写真、医学写真の限界を、きわめて挑発的かつ有効に拡大している。これらの写真を見る以前にも、アギレーラ=ヘルウェグが詩的な性向を持つ記録写真家であることは知っていた。このプロジェクトに長期にわたって取り組んだ結果として、かれが自ら医師になろうと決意して医学校に入学したと聞いても、わたしは驚かなかった。こんな写真を撮れるのは、3つの領域すべてに足場を持った人間だけなのだから――ここでの出来事について、医師の理解を持ち、記録者として対象から距離をおく能力を持ち、そしてその劇的な意味についての詩人の高い意識を持つ人物。 ――A・D・コールマン ニューヨーク市スタッテン島にて 1997年4月 (表紙見返し) 聖なる心 侵襲的手術から見た身体図鑑 マックス・アギレーラ=ヘルウェグ 序文 リチャード・セルツァー医学博士 あとがき A・D・コールマン  感覚的に強烈で不思議に美しい本書において、マックス・アギレーラ=ヘルウェグは、ほかのどんな芸術写真家にも不可能だった場所にわれわれを導く――侵襲性手術中の人間の体内に。肝移植。脳腫瘍切除。修正乳房根治切除。帝王切開。これらは本書でマックス・アギレーラ=ヘルウェグが記録した50の手術プロセスのごく数例にすぎない。『アメリカンフォト』誌は本書を「医学芸術の新たな突出したビジョン」と評している。  4x5カメラと特殊照明を使い、アギレーラ=ヘルウェグは外科医の技能を生き生きとよみがえらせる――そして、メスの下でのわれわれの身体の、衝撃的な真の姿をとらえる。このタブー破りの画像は不穏かつ魅惑的、強烈で、そして心臓の弱い方には決しておすすめできない。人体を図に落とそうとする探求のなかで、ヘルウェグの写真は、存在そのものの性質を問い直す。各手術の過程に関する詳しい説明と、アギレーラ=ヘルウェグの手術室体験を述べたエッセイをあわせて収めた本書『聖なる心』は、これまで隠されていた秘密の世界の驚くべき探検であり、新たな地平を拓く数少ない写真の一つなのである。 「これらの驚異的な手術の流れと複雑さから、アギレーラ=ヘルウェグは息をのむようなスチルを抽出した。純粋に記述的でありながら、極度にクリエイティブで、恐ろしく克つ聖的で、聖なる恐怖と共鳴しているのだ。記録写真、創作写真、医学写真の限界を、きわめて挑発的かつ有効に拡大している」―― A・D・コールマン (裏見返し) マックス・アギレーラ=ヘルウェグは20年以上にわたり、写真ジャーナリストとして活躍してきた。『ローリングストーン』誌でアニー・レボヴィッツのもとで見習いを経て、フリーランスの写真家として『フォーチュン』『ライフ』『ニューヨークタイムズ』『エスクワイア』『ヒポクラテス』『ディスカバー』など多数の雑誌と契約して世界を巡る。数年前に、手術中の神経外科医の撮影を行ってからは、解剖学や外科医学、医療に興味を持ち、39歳にしてコロンビア大学医学予科に入学。 リチャード・セルツァー医学博士は、25年にわたりイェール大学医学校で一般外科の臨床と指導にあたってきた。著書にMortal Lessons, Confessions of a Knife, Down from Troyなど。 A・D・コールマンは、アメリカにおける写真批評と写真史の学長に等しい存在とされている。かれの文章は、『ARTnews』『ニューヨークタイムズ』『ビレッジボイス』など多数の出版物に掲載され、評価の高い著書も多数。 「詳細緻密な手術の映像により、この写真家は、われわれが何者 / 何物であるかについてのヒントを看過している」――『日経サイエンス』 「だれもが一生に一度くらいは手術を受けるのに、手術室の内部――そしてわれわれ自身の体内――ほど秘められた場所はまずない(中略)マックス・アギレーラ=ヘルウェグはその両方の世界を記録した…」――『Details』 「これらの写真には暴力がある。が、この写真家の特長として、威厳を持った優しさもあるのだ。そのメッセージとは、これらの手術が必要だというだけではない。それらが神々しく人間的だと告げているのだ。これらの写真は、最良のかたちで先鋭的であり、悲劇力においてはアリストテレス的である。そして人間に可能な仕事を崇高なものとするのである」――『ニューヨーク』 (裏表紙) 「詳細緻密な手術の映像により、この写真家は、われわれが何者 / 何物であるかについてのヒントを看過している」――『日経サイエンス』 「これらの写真は、わたしがこれまで見た中で、もっとも美しくかつ恐ろしいものだ」――写真評論家A・D・コールマン、あとがきより 訳者略歴:東京大学大学院都市工学修士課程およびマサチューセッツ工科大学不動産センター修士課程修了。本業は地域開発関連調査、副業は翻訳と雑文書き。訳書は『ソフトマシーン』(バロウズ)、『神経政治学』(リアリー)、『アホダラ帝国』(アッカー)、『アイアンマウンテン報告』(リュイン)など多数。