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山形浩生の「無節操。」 (2000-2002)

 オンライン書店 bk1 でやってた連載。何人かお抱えのレビューアーに、この手の連載書評をやらせることで客を集めようという試みの一貫。あとは瀬名秀明とか、宮崎哲弥とか、それ以外には筆舌に尽くしがたいのもいたな、その他あれこれ。他の人はだいたい分野とかあるんだが、ぼくだけはないので、まあこんなのになりました。一年だか二年だか続けたところで、原稿のさいそくが一向にこなくなって、なんかなし崩し的になくなり、リニューアルにあわせて何やらアクセスもできなくなった。

 とはいっても、サーバ上から消えたわけじゃなくて、一応あるにはある。

http://www.bk1.co.jp/contents/columns/backnumber/00000000_0019_0000000009.asp

この url の09.asp の部分を01.asp から35.asp まで変化させると、コラムが出てくる。なんかデータベースの仕組みがよくわからなくて、初回を見ても、02.aspが上で、01.aspが下になっているのは不思議。でも、リンクはすべて消えているし、検索にもひっかからくなっているし、いちいちこんな url にアクセスするのは面倒だし、いつまで残るかもわからないので、ここにサルベージしておこう。

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2000年6月

★山形浩生の「無節操。」第1回

6月某日: マーギュリス&セーガン『性(セックス)とはなにか』(せりか書房)。マーギュリスは共進化の考え方を確立した人で、ミトコンドリアと核とが協力しながら進化したのを解明し、ガイア仮説の確立にも、ミトコンドリア・イヴのアイデアにもとても大きな役割を果たした人だ。この人自体は、とっても立派な科学者で、彼女の本を読んで頭のゆるいエコロかぶれの連中とかフェミニズムの連中とかがすりよってくるのを、ボコボコにしてやるのが日課だとか。でもこの本なんかを見ると、彼女自身の書く物がそういうゆるい人々をひきつけやすいレトリックを持っているのは明らかに事実なんだよな。「私たち科学者は、なぜ生命に関する算術の基礎を顧みないのだろうか? 生物学においては、1+1 は 2 ではなく、1+1=1 なのである」とか。ただこの本は、単に「有性生殖は多様性をつくるのに有利です」なんて話で終わっていなくて、セックスをめぐる人間の情熱とか、さらには将来のコンピュータネットワークと一体化した人間における生殖のあり方と性、なんていうわけのわからないところにまで思考を進める。すげー。

6月某日: こないだ森ビルですれちがってアヤシイ雰囲気を漂わせていたので、ふと手にとってみた米倉誠一郎『ネオIT革命 日本型モデルが世界を変える』(講談社)。なんだい、もう「ネオ」かよ。「日本は後追いは得意だからこれから!」とか「日本は便器に手洗い機能をつけたりするエコロな小技が得意だから、これからIT+エコロだ」とか言うんだけどさぁ、ただの思いつきでしかない。却下である。一方、ぜぇったいまともなもんじゃないと思って手にとった日本ブーズ・アレン・アンド・ハミルトン編『Eビジネス:勝者の戦略』(東洋経済新報社)は、玉石混淆ながらそこそこいいな。「ネットワーク効果」を否定した論文とか、デジタルデバイド論批判とか、傾聴に値する議論も出ているし。ただし後半の「Eケイレツ」とか称する代物とか「日本のIT産業の云々」とかはよくあるうんざりするような代物。日本の系列は、取引だけでなくて資本関係や各種情報面でも密接に結びつくことで合理性を高めた。それをオープンなWeb取引にてe-系列と呼ぶのは勝手だけれど、それではかつての系列のような密な情報連携は絶対に果たせない(だってどこが受注するかわかんないもん)。なんでもeつけりゃいいってもんじゃないのよ。ちなみに、これに類したBPRとかの難点については日経ビジネス編『こんな経営手法はいらない』(日経BP社)を参照のこと。これはおもしろいっす。

6月某日: エスピン・アンデルセン『ポスト工業経済の社会的基礎』(桜井書店)。おもしろすぎ。まだ読んでる最中だけれど。この本の議論は、福祉を提供するのはこれまでひたすら国の役割だと思われていて、福祉国家かそうでないか、という話ばかりが問題にされてきたけれど、でも実際にはそうじゃなくて、労働市場と家庭と国のそれぞれが福祉というのを提供していて、そのバランスをどう考えるかが大事なんだ、という議論。おおお。なるほど。定量化できるところはきちんと提供しているし、読みやすいしわかりやすいし、すばらしい。下手をすると、家庭に福祉をおしつける口実として使われかねない部分はあるので、注意は必要だけれど、たぶん将来的にこの人の考えていることを無視しては、社会運営は不可能ではないかな。訳者はこれを「社会経済学の云々」という学問的な枠内でしかとらえてないけど、いやいやこれは、今後の社会のありかたそのものに関わってくる本です。読め。

6月某日: ナボーコフ(ナボコフという表記になっているけれど、発音はナボーコフのほうが近い)『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』(講談社文芸文庫)。300ページで1,200円の文庫本。うーむ。でもナボーコフの、記憶のひだをぬちゃぬちゃ愛撫するようにたどる小説は、ぼくは大好きなのだ。複数の人の記憶と自分の記憶がからみあい、懐かしさと喪失感とぬくもりと悲しさがただよう。いいなぁ。なにか事件が起きる小説じゃないし、こういう文章に耽溺するような小説が好きな人は好きだし、好きじゃない人は絶対好きじゃない小説なんだけれど。ナボーコフ入門には、『ロリータ』よりこれのほうがいい(でも短編集のほうがもっといいけど。『ナボコフの一ダース』再刊しないかな)。ただし、この文中にどうでもいい注を入れるのはやめてくれないかな。「ブーメラン」だの「ハムレット」だのに注なんかいらないよ。うっとうしくて耽溺のじゃま。

6月某日: ぼくは分厚い本が好きなのでつい手にとった吉田武『虚数の情緒』(東海大学出版会)。ふーん、いまの教育みたいなのに危機感をおぼえた京都の先生が、中学生でも独学できる、日本語論から教育論から科学論から、ありとあらゆる話題をつめこんである。最終的には、数学や科学の解説本なんだけれど、その過程で歴史や文化の話にどんどん脱線して、総合的な「学」を構築しようとしていておもしろい。ただぼくから見ると、その脱線の仕方がピントはずれで間延びする部分もあって、中学生が本当にこれで独学できるかどうかは不明。ゆっくり学べばよいのだ、という姿勢は江沢洋『物理は自由だ!』(日本評論社)にも通じるものがあっていいんだけれど、プレゼンテーションにもう一ひねりほしい感じ。

6月某日: 「書物復権」というものものしいフェアの中に混じっていた、カール・マンハイム『自由・権力・民主的計画』(未来社)。へえ、すごーい。自由放任主義だけではだめで、なんらかの計画単位を考えなきゃいけなくて、その中で個人主義とか、宗教や職能集団、エリートの意義と問題、その基礎としての教育のあり方。戦後すぐの本だけれど、まったくそのまま今にあてはまる話ばかり。要精読。

6月某日: キャロル著、金子國義訳・挿画『不思議の国のアリス』。むかしからアリスにこだわってる人だし、まあまあ悪くないできではあるのだけれど、翻訳という点でみればしょせんぼくの訳のあしもと程度ですわね。オホホホホ。それと金子國義ですら、アリスのイメージをつくるのにテニエルのイラストの呪縛からは逃れられていない。ううむ。本のイラストの役割ってもっと検討されるべきだと思うんだけれどな。

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2000年 7月

★山形浩生の「無節操。」(第2回)

7月某日
 前回の訂正。サンリオから出ていた『ナボコフの一ダース』は、すでにちくま文庫で再刊されている。名短編集なので、好きな人は必読。訳も、ナボコフ邦訳の中で最高。ぼくも久しぶりに読んだんだけれど、いいなぁ。

 パチェーコ『メデューサの血』(まろうど社)。おお、こんな本が出ていたんだ。メキシコの詩人にして短編の名手、パチェーコの本邦初の単行本。とても個人的で秘めやかな気分や印象の記述が、ラストのたった一文でいきなり拡散して世界そのものが崩れ去るような、すごい小説ばかり。起承転結の明確で教訓のある小説でないと気がすまない人にはさっぱりわからないだろうけれど、詩の論理に敏感な人にはたまらない短編集。

 ところでこのbk1の書誌情報ってまだまだだな。たとえば、このパチェーコで検索してみよう。するといくつか候補が出てくる。

 ここまではいい。この中から、アンソロジーの『ラテンアメリカ五人集』(集英社)を選ぶでしょ。すると出てくるのがこれだ。

 なんか、前のページからほとんど追加の情報がない無駄なページだよね、これって。それで内容細目というのを表示させると、やっと使える情報ありげなページになるんだけれど……

 これが使えそうで使えない。見て。訳者名はあるのに、各作品の著者名がなんと出ていない! これだけじゃなくて、いくつかラテンアメリカ系のアンソロジーを見たけれどみんな同じ。これっておそらく、一人の作者の短編集を複数訳者で処理することを念頭につくったデータベースなんだろうけれど、それでは明らかに不足。

 正しいやりかたとしては、この「内容細目」のページに一回のクリックですぐとばすようにして、さらにここに著者名も入れておくことですわね。書評を書くボタンもこのページにつければいいのよ。まだまだ改善の余地があるなあ。

【編集部より】
 え~、bk1編集長の保森です。結論から申し上げますと、ご指摘の「内容細目に著者名が出ない」問題は解消されました。最初に山形さんの原稿を読んだ時、頭を抱えてしまいました。bk1の書誌データは、TRC(図書館流通センター)の書誌データベースから提供されています。「歴史ある巨大DBの『仕様変更』という大それた申し入れを、このオレがしなければならないかもしれない…」。小心で体も弱い私は、お盆やら夏休みやら風邪やらもあって、I cannot get started(言い出しかねて)状態でした。さりながら、原稿の方は8月16日にオンエアしましたから、当然TRCのデータ部(強力なキャリア女性ユニット)の方々も読むわけで…。「どうして元DBにはある著者データがbk1には表示されないんですかっ!」という強烈な抗議が、F通のbk1開発部隊に直接飛んだのだそうです。結果、bk1からの依頼では考えられない速さで問題は解決されたのでありました。山形さん、有意義なご指摘ありがとうございました。
 もうひとつのご指摘についてですが、「これ」(書籍詳細画面)には通常「内容紹介」と「著者紹介」が付きます。また、「識者書評」や「読者書評」をn個表示することもできます。一方、「情報ありげなページ」(内容細目)は付いている本と付いてない本があります。『ラテンアメリカ五人集』の場合は、「内容紹介」「著者紹介」に割り当てられたデータ量では入りきらないため、代わりにもっと容量が大きい「内容細目」に収録した、とご理解下さい。

7月某日
 ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』(静山社)。世界的ベストセラー。ドリトル先生やナルニア国シリーズに匹敵する、21世紀の西洋世界の共通体験ともいうべき児童小説シリーズになると期待されている本。ニューヨークに遊びにいったとき、知り合いの大プッシュに負けて、原書を買って帰りの飛行機の中で読んでみました。かわいいね。いや、決して悪い話じゃないんだけどさ。ただ個人的には、うーん。主人公のハリー・ポッターくんは、最初っから有名人で特別な存在なんだよね。エリートになるべく運命づけられている人が、ちょっとは苦労しつつも、ひいきされつつ予定通りにエリート街道を進むという話は、共感しきれないところがあるんだけれど。でもとりあえず、続きは読んでみるけど。

7月某日

 エリス『アメリカン・サイコ』(角川文庫)。宮崎哲弥が絶賛しているので読んでみたけれど、つまらないな。『なんとなくクリスタル』程度のものでしかない。当時の風俗がみじめなほどに古びてきて、いまは滑稽なだけ。さらに、ここに描かれた殺人とかが実はすべて主人公の妄想にすぎないとか、主人公が実は無教養でセンスのないなりあがりであるがゆえに、コンプレックスのかたまりで各種ブランドとマニュアルにすがるのだ、という描かれかたになっているとか、宮崎哲弥はそこらへんを読めているのかな。かれが思っているほどの一般性はないと思う。訳も、ブランドのディテールに鈍感で気に障る。

 アーダ『ヒエログリフを書こう!』(翔泳社)。わははは。これであなたもエジプトの象形文字が書ける! すごいなあ。ぼくはいろんな文字が好きで、アラビア語やハングルやタイ文字も、アルファベットだけは覚えてみたけれど、ヒエログリフ! これは楽しい。もちろんロゼッタストーンをはじめ、ヒエログリフとその解読をめぐる背景や歴史についてもきちんと解説してあるし。これ、あとはフォントのディスクをつけてくれると完璧なんだけどな。せっかくコンピュータ書に強い翔泳社の本なんだから。ほかにもニューヨークメトロポリタン美術館編『古代エジプト文字ヒエログリフであそぼう』(福音館書店)なんかがわかりやすい。

7月某日
 ジャレッド・ダイヤモンド『セックスはなぜ楽しいか』。久々に入った古本屋にて。1000円なら買うでしょー。ただ、セックスに関する本としては、前回買ったマーギュリス「性とはなにか」のほうが迫力勝ちだな。ダイヤモンドはこの後、あの驚異の大著『Guns, Germs and Steel』が控えているので、こちらは絶対に読みのがさないこと。

 生井英考『新版 ジャングルクルーズにうってつけの日』(三省堂)。ベトナム戦争というものが、小説や映画や写真などの各種メディアでどのように捉えられてきかたかを克明に追った名著。これも古本屋で1500円。買い。旧版から多少の改訂と加筆がなされていて、あとがきによればかなりの改編があったみたいだけれど、漫然と読んでいる一読者として、そんなに極端な差には気がつかなかった。もっとも旧版を読んだのがかなり前だということもあるんだろうけれど。アメリカ文化に影響されつつもいちおうは部外者である著者(そしてわれわれ日本人読者)外部からの視点がとても有効に機能している。

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2000年9月

★山形浩生の「無節操。」第3回

7月某日~九月某日

宮崎哲弥『新世紀の美徳』(朝日新聞社)
 ぼくは一応、宮崎哲弥は評論家として信用はしている。でもかれが最近特に対小林よしのり戦で使うようになった論法はすごくあやういし、かれがやろうとしているような論議のベースとなるものではない、と思うのだ。その論法とは「生は幸不幸をこえてそれ自体に価値がある」というものだ。一見もっともな議論だけれど、これはそのままカースト制にも直結しかねないおっかない議論でもあるのだ。この本は、その集大成みたいなもの。いくつかの雑誌の時事ネタコラムの連載をまとめたものだけれど、そういう困った部分が全開になっていている。個別の議論はすごく納得できるのだけれど。

 宮崎は、とっても宗教っぽい議論をすることで現実の社会的な話から論が浮いているんだけれど、それに対して橋本治『宗教なんかこわくない!』(ちくま文庫)は、もっと宗教の本質みたいなところに迫っていてすごみがある。それでいながら、実際の生活なり考え方なりにそれが直結している、相変わらずの橋本節。日本では会社も一種の宗教だ、というのはなるほどな指摘。

佐藤亜紀『検察側の論告』(四谷ラウンド)
 書評集。ぼくは口が悪いってことになっているけれど、この人に比べればまだまだ。ぼくはだいたい直球ストレート勝負で、こういうよそ見したふりしながらうしろにまわってさりげなく(でも思いっきり)股間に蹴りを入れたりしないもの。鋭い。きつい。でも(いやだから)最初っから最後までニヤニヤし通し。彼女の復刻版『鏡の影』(ビレッジセンター出版局)も買っとこう。

ケリー&アリソン『シティバンク 勝利の複雑系』(コンピュータ・エージ社)
 ぶわっはっは! 思わず見た瞬間に馬鹿笑いしてしまうタイトルだが、中身もろくでもない代物。「外の意見をとりいれましょう」「組織の中だけに閉じず、外との協力も考えましょう」「個々の職員がプライドを持てるようにして人材を充実」この手の、だれでも言えるようなつまんないお題目に、複雑系だの共進化だの自己組織化だの、複雑系っぽい用語をはりつけた、サイテーな本。結局言っていることはあたりまえのことだから、別にこれを読んで実害はないだろうけれど。いやぁ、シティバンクって、こんなのにお金をつっこんでるわけか。バカにされるためにあるような本だけれど、アメリカの経営学と称する代物の、一つの典型例を見るという意味ではおもしろい。それにしても解説を書いている京大の出口弘という人は、この本を「真剣な試み」と評しているけど、本気? 企業を生き物に例えて安易なアナロジーにたよっただけの羅列に、学問的良心が痛まないのだろうか。

乙部厳己+江口庄英『pLATEX2e for Windows another manual Vol.1 Basic Kit 』(ソフトバンク)
 ソフトのインストールをしなおしているときに、CD-ROMを破壊してしまったのでしょうがなく再購入。こういう実用書は、bk1ですぱっと買っちゃえるのが実に便利、ではあるのだが、買い物ついでに近くの本屋で買ってきてしまう。
 ついでに買ったのがジョーンズ『経済成長理論入門』(日本経済新聞社)。経済成長についての経済学的な考え方を、とってもわかりやすくまとめた本。古典的なソローモデルから、アイデアや各種インフラの役割に着目した内的成長の理論までを明快に説明していていいな。いずれ買おうと思ってほってあったのだ。数式は、最初はとばしてもいい。それに、本の最後に「数学の復習」というのがあって、成長率の求め方、みたいなごく基礎的なところまで説明してあるのには感心。

和田慎二『超少女明日香』1~5巻(白泉社)
 おお、なつかしい。ぼくの少女マンガ体験で、弓月光『ぼくの初体験』萩尾望都『11人いる!』竹宮恵子『地球(テラ)へ…』と並ぶ原点ですな。古本屋で一冊買ったのを機に、残りをbk1でそろえた。むかしは暗記するほど読んでいたんだけれど、「緑の豹」かなんかのエピソード以降、しばらく間があいたのと、ぼくの環境が変わっていたのとで読んでいなかった。で、ひさびさに読んだが……。
 前半は、なつかしい感じ。七〇年代の、土建屋型国土開発を背景にして、それに対する自然の力というのをテーマに、とってもわかりやすい。でも最近の五巻になると、メシア、だって? なんか話がでかくなりすぎて、わけわかんなくなっている。ちなみに、国土庁の長官なんて、こんなに権限はありませんからね。まだシリーズとしてはつづくのかなあ。これをどうやって落とすんだろうか。でもこれって実は、実際の自然保護の考え方自体の変化も反映していて、なかなかに社会の影響がはっきりしていておもしろい。実世界と同じく、自然と人間の共存という考え方がマンガの中でも壁につきあたっている。結構社会的なマンガだったんだなあ。

西原理恵子のやっぱりおくられてうれしくないポストカード』(竹書房)
 さて、モンゴルは絵はがきのバリエーションが少ないので、「いろいろ変な絵はがきをつくってみんなが手紙を出したいと思うようにさせなさい」というわけで持っていったのがこれ。西原理恵子のえはがき集。もともともともとリブロポートから出ていたけど、竹書房から再刊……されたの? ぼくはリブロポート版を持っていたけれど。でもあまり理解されなかったみたい。あ、ついでながら、同じく西原理恵子『できるかな』『できるかなリターンズ』(扶桑社)も絶対のおすすめ品。ちなみに、『できるかな』は一部、英語版をつくっちゃったんですけれど、興味ある方はご一報を。

 モンゴルにいる間に、キリスト教聖書についての訳書の解説を書き上げて、その中でふれたバーナード・ルドフスキー『さあ横になって食べよう』(鹿島出版会)を実家においたままなのを思いだす。そこで、帰国してからルドフスキーの本を全部まとめて注文。手に入るかな。
 ルドフスキーの本はすべて、建築家としての目と、鋭いフィールドワーカーとしての目とが組み合わさったすばらしい本ばかりなんだけれど、特にこの『さあ横になって食べよう』は、すごい。ルドフスキーは、聖書のほんの一行の記述を疑問に思って、当時のパレスチナの食習慣を見直すのだ。そしてわかったこと:当時のパレスチナでは、人はテーブルで椅子にすわってものを食べたりしなかった。ごろごろねっころがってごはんを食べたのだ。だから、あのダヴィンチの『最後の晩餐』の絵とか、まったくちがうのね。ぼくあこれでキリスト教観が変わった。ほかにも『みっともない人体』のファッションの考察とかは鋭いし、日本論も秀逸。いまのうちに入手しといたほうがいいよ。

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2000年10月

★山形浩生の「無節操。」第4回

 仕事で買った東洋経済編『経済統計年鑑』は、最新の2000年版から中身がごそっと付属のCD-ROMに移行して、本そのものは薄くなった。これはまあいいのだが……そのCD-ROMについてくるソフトが、なんとウィンドウズ9xでしか動作しない! ウィンドウズ2000ですら動かない! ばっかもーん、仕事で使う人も多かろうにウィンドウズ2000やNTで使えないとは何事だ! さらにそういう説明は表紙にちゃんとつけておけ! せめてブラウザで見られるくらいの仕掛けにすればよいのに。大減点。とはいえ、類書がないので買わざるをえない本ではある。でもどうしようか、これだけのためにウィンドウズ 95なんかインストールしたくないし……。(注:翌年度以降はもちろんこんなバカなことはありませんでした)

 ところでぼくは、各種写真集というのはもっとオンライン書店でばんばん売れるはずだと思っている。店頭でもシュリンクラップがかかってるから中身が見られないし、さらに街の書店だと必ずしも品揃えがアレだし、注文するほどのファンでもないし気恥ずかしいし、するとこれにもうちょっとレビューつけて中身の見当がつくようにすると、オンライン書店のほうが有利じゃないかとさえ思うのだ。
 というわけでまず米倉涼子写真集「Tough」(朝日出版社)。もとから米倉涼子は好きだけれど、こいつはすごいねー。表紙の180度開脚写真からしてうっひゃーという感じ。中身もふつうのアイドル写真集ではないぞ、これは。動きもポーズも表情も全部、かなり異色、というか三割くらいアクロバットの世界にまで突入してます。おおおお、口の中! 歯が数えられます! それがどうしただけれど、こないだ買った坂井優美の写真集は、表情がぜんぶ同じでなんか半分くらいで飽きてしまったんだが、これは飽きることだけは絶対ない。なさすぎて、通常の写真集の定番(ホテルの部屋で適当にしどけなく、それからビキニを三通りくらい、さらにちょっと日常がかったのいくつかで、ソフトなエロっぽいの演出)みたいなのがまったくないので、そういうのを期待している人は手を出さないこと。でも楽しいしきれいよ。特に最後のページの脳のCTスキャン、そそるよなー。やっぱ海馬は最高だぜー、うひひひ。それにこの脳梁部分のくいこみ。たまんねーなグフフフ。
 それに比べて(というか比べちゃかわいそうだが)ごくごくふつうに展開しているのが平山綾写真集『Candy』(学研)。一部で品田ゆいと平山綾のどっちがいいかという話をしていたのだけれど、圧倒的に平山綾だよなー、とぼくは思うのだ。品田ゆい写真集『Yuiゆい』とあわせて比較してみるよろし。二年たったらどっちもがらっと変わっちゃうんだろうけれど。
 
  バカ高いポストモダン本にお金をつぎこんだ、貧しき大学時代のうらみをはらすべく、「浅田彰のクラインのつぼ」を書き上げる。その参考資料として買った浅田彰『構造と力』(勁草書房)は、いま読んでみると、そんなにわるい本ではないな。1ページで書けることを本一冊にひきのばしているきらいはあるけれど。でも、クラインの壺の使い方はまちがっておるぞ。
 さらにそのまちがいをそのまま孫引きしているときいて、東浩紀『存在論的、郵便的』(新潮社)もチェック。ははーん、確かにクラインの壺の誤用はさらにひどくなっている。ただし、本そのものの議論との関わりから言うと、浅田の本より傷は浅い。が、東がときどき持ち出す、ポストモダン思想好みの数学理論(不完全性定理)なんてのを、かれが実はちゃんと理解していないことはばれてしまったなぁ、これで。

 1970年までに出た本は、翻訳権10年留保というのがあって、刊行10年以内にどっかが翻訳権を取得して出版していなければ、権利が消滅するのでだれにもあいさつせずに好き勝手に出版していい。ぼくはこれは古い規定で、いまはもうダメなんだと思っていたのだけれど、1970年以前に出た本については、これは今でもいきているんだね。知らなかった。これを教えてくれた人のアドバイスにしたがって宮田昇『翻訳出版の実務』(日本エディターズスクール)を買って読む。ふーん。でもそれにしては、結構いろんな本で、古い本でもちゃんと翻訳権を取得している例があるんだよな。よくわからない。

 マネックス証券の松本大にインタビューするので、AERA増刊『ITリボリューション IT革命本番はこれからだ情報革命に勝つ』(朝日新聞社)を購入。クソの役にもたたなかった。ここにのってる松本大に関する記事ってのは、もうひたすらかれ個人の、高校でなにしたの大学でなにしたのという伝記を追うだけで、肝心のマネックス証券が何をしてるのかってことはぜーんぜん。そこらへんは、松本大のメディア操作のうまさでもあるんだけれど。ちなみに松本大以外の記事も、ろくでもない代物。同じことが『マネックス証券松本大が語るeに挑む』(ワック)という本でもいえて、肝心のかれがマネックス証券についてどんなたくらみをもってるのか、とか、こういうどこの馬の骨かもわからんところ(失礼。でもそうでしょ)と組んだソニーが何を考えているか、とかまったくと言っていいくらい書かれていない。みんな、松本個人の話。実際に会うと結構気さくだけれど、いろいろきいても結構のらくらはぐらかすし、アマゾンのジェフ・ベゾスをかなり勉強して同じスタイルを採用してるところも含め、かなりの策士。ブンヤどもは完全に手玉にとられているみたいね。今後、もっとまともな本が出てくるといいな。

 ひさびさに小説。ピータ・アクロイド『原初の光』(新潮社)。派手じゃないけれど、しんみりしていていいな。天文台と、そしてストーンヘンジみたいな遺跡とを中心に起こるちょっとした騒動と人間関係の変遷を描いた小説なんだけれど、天文台とストーンヘンジ、というのがすごくうまいしかけで、どっちも人間が天とのつながりを求めてつくった施設なんだよね。星の動き、ビッグバン、膨張する宇宙というような天文学の話が、その人間たちの動きと上手にからんで、そして苦しくて天をあおぐ人々の気持ちがまた天に戻って、そんな小説。人々はなぜ天を仰ぐのか。これで久々に読み返した楽しい好著『オカルティズム・魔術・文化流行』(未来社)で、ミルチャ・エリアーデは人々が占星術にはまるのを「それは失われた天や星々の世界と自分との結びつきをよみがえらせたいという人々の痛切な願い」と分析している。これを日本の血液型占いにあてはめると、なかなか含蓄が深いのだけれど、それはさておき、この『原初の光』はその天や星々との結びつきを求めつつ地上にうごめく人々を、優しく描き出している。

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2000年11月

★山形浩生の「無節操。」第5回

 はい、仕事だ仕事。日本リスク研究学会編『リスク学事典』(TBSブリタニカ)。いろんな形でのリスクを総覧的にまとめた本で、とっても便利。分野によってかなり出来に差があるとは思うけれど、これだけまとめた本はいまのところほかにない。リスクそのものの考え方から、それをどう伝えるか、どう政策的に手をうつかまで、ざっとした理解を得るには最適。

 Kaufuman他『IPSec導入の手引き』(翔泳社)。いま OpenBSD に興味があって、これはフリーUnix系のなかでセキュリティに力を入れていることで有名。そのドキュメントを訳しているので、その勉強もかねて買った。んーと、中身としてはぼくが訳した OpenBSDの文書を見てもらってもだいたいわかるけれど、全体を見渡すにはこういう本があったほうがいいな。VPNなどを考えなきゃならない人は、まず必読。具体的な導入や設定については、OpenBSDのFAQのほうが、実例つきで一歩ずつ設定をおさえていって勉強になるとは思う。


 瀬名秀明『八月の博物館』(角川書店)。だれだ、瀬名秀明によけいな入れ知恵して現代文学理論(のいちばんくだらないところ)なんか読ませたやつは。創作に行きづまった作者が、なんと自分の小説の登場人物とお話しちゃったり、自分の作者に語りかけたり。ベースとなってる博物館の話やエジプトの話は(書き込みが足りないけれど)すてきなのに、こういうくだらない仕組みがそれをぶちこわしている。いくつかちがったレベルが出てきながら、それを貫く仕掛けも弱い。ふつうのフィクションにもまだ難がある人が、メタフィクションなんかに手を出すもんじゃない。特にこの仕掛けは、みんな鈴木光司の『ループ』(だっけ、最後のやつ)でいっせいに石を投げたのを見ているはずだろうに。

 その瀬名秀明が、このbk1コラムで採りあげていた佐藤亜紀『掠奪美術館』(平凡社)。これは面白うございました。中身についてはその瀬名秀明のコラムを見てほしいのだけれど、ぼくはこの佐藤亜紀の一本調子できれめなくひたすらまくしたて続けて空間を埋めていくことばの使い方が好きだ。この本でもそれは遺憾なく発揮されている。最後のモローについての一文だけ、佐藤亜紀がほかのところのちょっと冷笑がかった書き方(『クラナッハの女って絶対やりまんだよな』)を離れた切実さを漂わせていて印象が濃い。

 エリファス・レヴィ『魔術の歴史』(人文書院)。ぼくは魔術は昔から好きで、この方面の知識はセリグマン『魔法:その歴史と正体』(人文書院:編集部注・版元にも在庫ございません)でおぼえたんだけれど、エリファス・レヴィといえばその名も高き本物の魔術士(と言われる)。でも、魔術の本って、悪魔を呼び出したり牛を消したりする方法が書いてあるのかと期待しても、そんなのがあったためしがないのはちょっと肩すかし。本書も、読んでいくと結構堅実な歴史と文化史の本で、最終的には科学に収斂するような内容なので、その意味では結構感動する。

 科学・数学への収斂という意味では王青翔『「算木」を超えた男:もう一つの近代数学の誕生と関孝和』(東洋書店)がおもしろかった。小学生の日本史で、江戸時代には関孝和の算木が、というような話を習うけれど、それがどんなものかがわかってる人はたぶんいないはず。この本は、その算木とその意味についての本。中国の数学、ベトナム数学と、それが関孝和にどう受け継がれ発展されていったか、という話。算木というのは、連立方程式の解を求めるための手法で、やがて高次方程式の解にも応用されて、そして関孝和がそれを高度な極限操作や補完法を含むものにまで高めていき、微分の考え方の寸前まで到達していた話。
 この本のおもしろさは、そういう独自の体系が開発されつつあったこともさることながら、それが最終的には西洋数学と異なるものではなく、その一部を構成するものだった、ということ。ときどき文化相対主義な人が、西洋の科学や数学は単に一つの見方にすぎなくて、正しいとは限らない、というようなことを述べ、その根拠として世界にはほかの数学大系もあった、というような話で算木なんかを持ち出すんだけれど、実はそれは相対主義の根拠どころか、むしろ数学・科学の普遍性を示すものだったわけだ。というところで、今月はこれまで。

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2000年12月

★山形浩生の「無節操。」第6回

 モンゴルにいる間、外が氷点下三〇度であまり出歩く気にならず、夜はホテルにこもって森博嗣の犀川&萌絵シリーズを『すべてFになる』『冷たい密室と博士たち』『笑わない数学者』『詩的私的ジャック』『封印再度』(講談社文庫・ノベルス)とずっと読んでいたのだ。
 うーん、確かにトリックのアイデアはおもしろい。ただ殺人者の動機がどれもえらく薄くて、それが不満。犀川助教授の謎解きは、まあ純粋に物理的な可能性で詰めていくからいいんだけれど、その後の犯人(あるいはその仲間)の解説でも、人が人を殺す生々しさとかが一切なくて、さらにはそれを(素人が)計画して実行するためらいも恐怖もまるでなくて、おそうめんを食べるみたいにツルツルとみんな人を殺すのね。一方でそれが唖然とするくらい凡庸((c)柳下毅一郎)かというと、そうでもなくて、なまじもっともらしい人間的な理由づけはある。
 それが森の小説のつまらなさになっている。小説の中にたびたび登場する、研究の無意味さ――無意味で無駄だからこそ価値があるんだ、というか人間らしいんだ、という犀川助教授の持論。この論自体はわかるし、共感もするし、それは朝永振一郎『鏡の中の物理学』(講談社学術文庫)で述べられているのと同じアレなんだけれど、それが殺人とは一切関係なくて、木で鼻をくくった感じ。だから小説としては深みが出ないで、ただのパズルに終わっている。その意味で、『すべてFになる』『笑わない数学者』は傑作寸前、それ以外は、愚作になりかけたのをいくつかの意匠がなんとか救った程度。時間つぶしの読み物としてはどれもおもしろいんだけれど、惜しいな。もう一段深くなれるのに。

 これに対してたとえば笠井潔の矢吹駆シリーズ『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』『哲学者の密室』なんかは、一応矢吹くんの哲学的な考察が、その殺人事件の核心にあるのね。ある種の思想は、殺人を正当化し、ニヒリズムに到達するしかない。矢吹くんは、哲学の学生としてこうした思想的問題を考えると同時に、そういう思想から生まれる殺人事件の解決にも取り組んでいるのだ。その意味で、森博嗣よりも全体ががっちりした印象になっている。
 ただその結果として、思想の浅さが小説の浅さに直結してる。矢吹駆シリーズの背景になっている思想は、すべて後ろ向きな局地戦だから(この人は、自分の全共闘時代の思想を精算したいだけなのね)。これはこれでまた困りもので、探偵役の矢吹駆くんは、とにかくしょっぱなからもうなんでもわかってます、とすかしてばっかで、なぜわかる、と言われると現象学的直観です、というんだ。直観ですんだら警察はいらないわい。
 いや、ぼくは大学時代にこのシリーズを読んで、現象学というのを勉強すればこういうすっごい直観的な洞察力が身に付くのかと思って、フッサールを読んだりもしたんだ。『厳密な学としての哲学』(世界の名著62(中公バックス)収録)あたりがお手軽で入門にはいいかな。でも「現象学はえらい、ほかのはダメダメ」と延々書いてあるだけで、現象学的直感ってなんなんだ、とか、あるいはぼくが何かを直観したとき、それが現象学的かどうか、どうやればわかるんだ、というのはまるっきりわからない。ぼくがバカなのかな、ほかのところに書いてあるのかなと思ったけれど、実はないみたいね。加藤尚武もこの点を批判している。「現象学という知は存在しない、現象学という文体が存在するだけである」。きびしー。でも激しくうなずくワタシ。あと、笠井潔は森博嗣に比べると、ユーモアのセンスは皆無で、ナルシスティックなベタベタした文章を書くのが鼻につくかも。森博嗣の文は(犀川&萌絵の漫才に依存しすぎなければ)、決まるときには決まる。

 ちなみにこういう長いシリーズって、読み始めると一時は憑かれたように読みあさるけれど、あるときふっと憑き物が落ちたみたいに、興味がなくなるのが不思議。京極夏彦もそうで、傑作『鉄鼠の檻』『狂骨の夢』『絡新婦の理』はむさぼるように読んで、残りも制覇、だけど『塗仏の宴』の上巻まででぱたっと興味が失せて、下巻は読んでいないのだ(最後だけ立ち読みして、かなり行き倒れた。おんどぉりゃあっっ、そんななんでもかんでも催……あ、これはネタばれなので自粛)。森博嗣も、すでに面倒になってきている。『夏のレプリカ』とかどうしようかな。たぶん読まないだろう。『有限と微小のパン』は読む、かもしれない。

 お勉強用に買い込んだ原信一郎『Rubyプログラミング入門』(オーム社)。同時に結城浩『PerlでつくるCGI入門』(ソフトバンク)で、PerlとRubyでふたまたかけつつスクリプト言語のお勉強をするつもり、なのだがいつになるやら。Ruby入門書としてはいまはこれしかない感じだし、Perl入門書(特にCGI向け)は数あるなかで、たぶんこの結城浩の本がいちばん懇切ていねい。初学者のはまりそうな落とし穴やちょっとした見落としが、もうくどいくらいに説明されていて、読んでいて途中で置き去りにされて途方にくれるようなところがまったくないのには感心する。

 最近出たブルース・マウの作品集『Life Style. '00:10.』(洋書よ)を読んでいるんだけれど、その中でちょっと触れられていたのがベンヤミン『複製技術時代の芸術』。名前は何度も何度もきいて、すっかり読んだ気になっているけれど、実は読んでなかった本。ふーん、こういう話なのか。要するに、昔はもうオリジナルはこれ一つ、いま、ここでしかない、という作品のアウラ(オーラ)ってのがだいじだったけれど、複製がどんどんできると、もうオリジナルの意味はなくなって、そのオーラというのも意味を失う、という話。ブルース・マウは、ベンヤミンのこの議論は明らかにまちがっていて、複製が氾濫すればするほどアウラ(オーラ)がだいじになってきている、という。うん、そうなんだが……それ以前にぼくは、ベンヤミンのこの論文での後半の議論がいま一つつかみきれない。散漫な試験官? うーん。これっていったいなんで評価されてるの? 最初だから? マルクス主義芸術論だから?

 ところでこないだ本屋でふと気がついたエルンスト『百頭女』『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(河出文庫)。ええっ、こんなの、文庫になってるのぉ?? おっほっほ。これは爆笑というかニヤニヤというかの、コラージュコミックというか小説というか、わけわかんない大傑作本。うん、ストーリーはね、悪の手先で、百の頭で人々を監視して圧制のもとに置こうとする百頭女と、正義の味方の怪鳥ロプロプの黙示録的大バトルを描いた一大叙事詩とでもいおうか。是非とも黒澤優に感想文を書いてほしいです。

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2001年??月

★山形浩生の「無節操。」第7回

 前回、ベンヤミンの『複製時代の芸術』をとりあげたらメールをもらった。それによると、晶文社版の訳はあんまりよくないし、底本にしているのがかなり端折ったバージョンだから奨められないんだって。ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション I』に入っているやつのほうが底本もきちんとしているし、ずっといい、とのこと。ありがとうございます。ベンヤミンはそもそもむずかしいから、わからなくてもしょうがない、とのこと。そうか、そうなのか。とりあえず安心だが……じゃあどこが評価されてるんだろう。


 さて、前回のこのコラムとほぼ同時に更新されていた、宮崎哲弥のコラムで罵倒されていた澤口俊之・南伸坊『平然と車内で化粧する脳』。

 この本の主張はつまりこういうことだ:人間は進化の過程でネオテニー化(成熟しないままでいることね)が進んだ。このため、特に黄色んぼたちは脳の情動を司る部分が発達していない。だから後から訓練して発達を促進しなきゃいけない。ところが最近は西洋から個人主義が輸入されて、ガキのしつけがなってない。だからみんな脳の情動部分が未発達のままで、だから恥を感じることができず、電車の中で平気で化粧したりする。戸塚ヨットスクール式の体罰ビシバシのしつけを復活させて、脳を発達させなきゃいけません。おしまい。

 宮崎哲弥を含む多くの人の批判は、前半はさておき後半の「最近恥知らずが増えた」という検証がされてないし、ましてそれを脳の状態と関連づける検証がいっさいないってことだ。ごもっとも。でもそれ以前に、この理屈の流れを見ただけでこれがまるで理屈になってない、おかしなこじつけだというのはすぐ証明できる。ここで注目すべきキーワードは「化粧」の一語だ。

 人は何のために化粧をするの? なぜその連中は、電車の中でわざわざ化粧なんかしてると思うの?

 電車のついた先のどこかに行ったとき、化粧が崩れてたら恥ずかしいと思うからだ。そうでしょ? 本当に恥という感情を知らない人が、化粧なんかするわけないじゃない。つまり、電車の中で化粧をする子は、ちゃんと恥の感情を持っている。単に、その出方がちがうだけだ。よって、澤口俊之の書いてる、ネオテニーだから脳異常で情動が発達していない、という理屈はぜーんぜんなりたたない。証明終わり。

 要するにね、恥という感情そのものがない、というのと、いまの社会のマジョリティにとって常識とされる場面で恥を感じない、というのとでは、ぜんぜん別の話なんだ。もし生物学的に、脳がどうした、情動が未発達、という話がしたいなら、恥そのものがない、ということが言えなきゃいけない。でも、化粧する子たちに恥がないか? いいや。かれらは、自分たちのコミュニティ内の規範には信じられないくらい敏感だ。ある種のファッション。ある種のブランド。ある種のコミュニケーションのやりかた。かれ、彼女たちは、その規範からはずれることを異様におそれている(つまり恥だと思ってる)。この澤口俊之という人は、その程度の観察力もないのね。そして、それをほめている愚かな連中も。すぐ見破れよな。

 ちなみに、この本にこの bk1 で絶賛批評をつけている安原顕という人物がいる。この本の基礎概念である「ネオテニーを」「オテナニー」と誤記する浅はかさ。これがプロの編集者? さらに後のほうになると、ブレア政権がどうしたこうしたって、それが何の関係があるの? 終戦も明治の官僚も「オテナニー」(失笑)。ここまで何も読めていないレビューっていったい何? 勝手な妄想たれながしてるだけ。いやぁ、これでよく編集者がつとまったもんだ。この人は天才ヤスケンとか自称してたそうだけれど、かれが編集していた『リテレール』というつまんない雑誌でやってた連載でも、編集者が言うことをきかない作家を干した話とか、要するに編集者がいばりたいだけね、この人。

★編集部注:誤記については、編集部の校正ミスでもありますので、山形さんの指摘を受けた時点で修正致しました。

 かれが(大した理由もあげずに)罵倒しているブレア政権のブレーンと言われる、アンソニー・ギデンス『第三の道』は、状況論としてはそれなりにおもしろいんだけれど、なんか決定的な洞察が見られるかというと、そういう気もしない。すべてに穏健中庸。目新しさはあまりない。ブレア政権は、一時ほどの盛り上がりはないし、多少ボロは出てきているけれど、まあ確かにこの穏健路線でしばらくは続きそう。

 それを読んでいたのは、グラミン銀行に話をききにバングラデシュに出かけたときだった。このグラミン銀行とそのマイクロファイナンスは、世界の貧困対策の救世主の一つ。『ムハマド・ユヌス自伝』(早川書房)はその考え方がとてもよくわかって、読み物としてもおもしろい。でも、なにげなく書かれていることの含みをよく読みとってね。貧困対策とはいえ、慈善じゃない。五人組を作らせて、相互監視させるかなり厳しいとりたて方式。甘い顔では物事は動かないのだ。

 ジェシー・ヴェンチュラ『プロレスラー知事』こいつはおもしろい。シュワちゃん映画『プレデター』にも出ていた人。それがアメリカの二大政党に属さないまま、ミネソタ州知事に当選している。その自伝ですな。慈善はしない。ドラッグ対策や犯罪対策もしない。とにかく政府がやんなくていいことはしない方式。でも、「子供を公立学校にやらない人が増えると、コミュニティ意識が希薄になる」という理由で自分の子供は公立にやり、政治的にはとても明快で首尾一貫している(ただし思いつきだけという批判もある)。田中康夫が長野県知事になったのと共通する部分もあるけれど、政治的なポジションの明快さはヴェンチュラのほうが圧倒的に上。ただし実際に会うと、自慢話ばっかでかなり閉口させられるらしいけれど。

 コーン『報酬主義をこえて』(法政大学出版局)。人に仕事をさせるにはどうしたらいいか? ニンジンをぶら下げて、あめとむちで仕事をさせればいい、というのが普通の答え。だから企業は、ストックオプションや業績連動のボーナスで従業員の尻をたたくし、親や教師は子供に「百点とったらごほうびあげる」と言って勉強させる。でも、これはまちがっている、というのがこの本。仕事や勉強そのものが楽しいから仕事や勉強をする、というのがいちばんいい成果をあげるのであって、お金のために仕事をさせると、関心がお金のほうに移って仕事の質が落ちる! ハッカーたちの、フリーソフト開発においても理論的根拠の一つとなっている本。おもしろいです。

 この本を読んで興味を持った人は、この人の前の邦訳『競争社会をこえて』(法政大学出版局)も読んでみよう。パフォーマンスをあげるためにはとにかく競争させるのがいちばん、という常識に対して、競争を過大にあおると、汚い手を使って順位をあげたがるやつが出てきて、逆に全体のレベルを下げることもある、という指摘。もちろん、これがすべての場合にあてはまるわけじゃない。健全な競争や健全なインセンティブの威力は、なんだかんだ言いつつ実証されている。ただ、特にクリエイティブな面においてそれがどこまで効くか、という点と、仕事したくない人を競争やえさで釣るよりも、その仕事自体に興味をもたせる方策を考えるほうが、ときには有効かもしれないという点はだいじ。

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2001年??月

★山形浩生の「無節操。」第8回

 イェーガー『新制度派経済学入門』(東洋経済新報社)はなかなかためになる本。特にp.59 の練習問題を見て爆笑。一挙に買い。「キリスト教の教義は交換のプロセスを促進するか、それとも抑制するかを論じなさい。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のうち、取引費用が最も低いのはどれか。それはなぜか」
 これだけ見るとなんかインチキ臭いような感じもするかもしれないけれど、地域ごとの制度とか文化が経済のいろんな面に影響を与えるのは、だれしも感じていること。それを取引コストを中心に整理して理論化しているのが制度派と思えばいい(のかな)。途上国経済への適用についても、よくまとまっていて参考になりそう。

 長谷川真理子編『虫を愛し、虫に愛された人:理論生物学者W. ハミルトン』(文一総合出版)は、ほのぼのしていていいなぁ。W. D. ハミルトンは、血縁淘汰の理論をつくった人で、利他行動や性の存在理由について強力な説明を提供した人としてしか知らなかったけれど、こんな昆虫マニアでもあったのか。本当にかれは、望んでいたような昆虫葬をしてもらえたのかな。この本は、二〇〇〇年に亡くなったハミルトンの追悼本で、かれの昆虫をめぐるエッセイと、そして日本人数名の追悼文を集めたものになっている。ただ、追悼文がただの思い出話になっているし、それもあって本としてはハミルトンを知っている人以外は手にとらないようなものになっているのが残念。編者は「この学問の世界に足を踏み入れたいと思う若い人々が一人でも多くでてこられるようなきっかけができれば」と言うけれど、それならこういうスタイルでは……でもハミルトンの文はホントに楽しいよ。これで1200円は、まあ安いと思う。
 ファインマン『ファインマンさんベストエッセイ』(岩波書店)は、本屋でもかなり売れていたようだったし、まあここで紹介するまでも……でもおもしろいからageって感じ。なかみはいつものファインマン節ですな。読め!

 グループK21+一ノ宮美成『闇の帝王<許永中>』(別冊宝島Real010、宝島社)はなかなかおもしろい。というか、ホントにこんな世界があるのねー、という感じでひたすら感心。でもよくわかんないんだけれど、フィクサーってなにする人なの?

 伊東豊雄『透層する建築』(青土社)。この人のいちばん有名な建築てぇと、横浜西口の風の塔、になるのかな。なんとなく透明っぽい薄い膜を重ねたような建築が得意な人で、うーん、ぼくはあんまり好きじゃない。仮構性とか可変性とか、最近の建築家の多くはいろいろ口実をつけるけれど、実はひたすら自分の思いきりの悪さを隠すための逃げ口上を言ってるだけだという気が時々して、この人の建築はある意味でその思い切りの悪さの権化のようなシロモノだと思うから。この本は伊東の雑文集だけれど、そういう思い切りの悪さ全開で、エフェメールとかサランラップとか。メディア環境を考えることはだいじなんだけれど、なんかはずしている。電子メディア社会において、電子メディアとの関わりまで建築が面倒を見る必要はあるのか? なんで建築がなんでもかんでも負担できると思うんだろう。でもはずしきってもいないのだけれど。まだぱらぱら読んだだけなので、ほかのところに何か書いてあるかもしれないから、これはとりあえずの印象。

 クーター、ユーレン『法と経済学』(社団法人商事法務研究会)は、こないだ訳出したレッシグ『CODE』(翔泳社)の参考文献に挙がっていたので手にとったのだけれど、いい本だね。法というのを、いろんな社会コストの低減のための仕組みと考えて、そのための法規制の考え方のベースとなる経済分析についてわかりやすく述べた本。訳もかなりこなれていて、読みやすいしわかりやすい。みんながこのくらい法と経済の関係を理解すればいろいろ世の中スムーズになるだろうに。最初に紹介した『新制度学派経済学入門』とも通じる内容で、ただこちらは法に力点がある、という感じ。

 小谷野“もてない男”敦『恋愛の超克』(角川書店)。ベストセラー『もてない男』の落ち穂拾いと聞いていたのだけれど、どうしてどうして。みんながみんな、怒濤の恋愛なんかしてないし、できないし、無理することもないという、当たり前の話しから、日本のヒョーロンカどもがいかに恋愛神話にドクされているかを述べ、そこから売春の肯定・否定論に話はとび、資本制を打倒しないとダメだという話に持っていって、そしてさいごにそれをまとめる「新近代主義」なるものの提唱にまで及ぶ。重箱の隅をつついたような議論に頼らず、正攻法のコロンブスの卵みたいな議論の積み重ねで、かなり説得力のある保守派議論を構築してしまっているのには感心する。かなりすごい本ではないの。ただし最後の「資本制(資本主義)」の議論は、なにを念頭においているのかがよくわからなくて、イマイチわかりにくい議論になっている。でも読むべし。
 この『恋愛の超克』とのからみでおもしろいのがゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』(講談社学術文庫)。恋愛と、女を買ったり妾を囲ったり、女の前で見栄の張り合いをするための贅沢が資本主義の基礎を作ったという話。ただ、昔の人はスケールがでかくて、女のために宮殿作ったりするもんね。たかがせこいマンションごときの現代の連中とは桁がちがう。楽しいです。

 そもそも資本主義ですらもっと大きな陰謀の一部にすぎないことを見逃してはいけませんねー。笹川英資『超権力グローバル・ゲーム:爬虫類DNAと人類支配の秘密』(工学社)。ユダヤは実は爬虫類人であってそれが人類を家畜化しておるのだ! 実はは虫類人たちは恐竜による地球支配の復活を目指しているのであーる! 有名どころのは虫類人というとヒラリー・ロダム・クリントンで、ビル・クリントンは実は半分しかは虫類人ではないために、ヒラリーの奴隷としてこき使われているのだ(そうだったのか!)。そして人類を滅亡に追いやるツールが、世界の中央銀行と金融システムで、かれらはバブルをつくってはつぶすことで人類を混乱に陥れ、隷属させようとしておるのだぁっっ! ぎゃははは、最初は散漫に見えたけれど、読めば読むほど笑えるトンデモ本。アメリカのFRBは実は営利目的の株式会社だ、とか(そうか、じゃあこれからはグリーンスパン社長と呼ぼう!)細部も見所満載。トンデモ本として結構水準高いので、と学会のみなさん是非どうぞ。ただ著者が実はノンケではないか、という疑念は若干残る。p.18で、ユースタス・マリンズがユースケサンタマリンズになってるところとか。テメーが訳したはずの著者名をまちがえるんじゃねえや。しかもそのまちがいかたがなんか……。それに、なんであの工学社がこんな本を出しているんだ?

 といったあたりですでにかなり字数オーバー。今月はいろいろ買い込んでいるけれど、あとはまた次回じゃ。では。

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2001年??月

★山形浩生の「無節操。」第9回

 昔読んでおもしろかったので、手に入れておこうと思って注文した『お笑い大蔵省極秘情報』が届いたのだ。多くの人はこれを冗談だと思っているようだけれど、これはたぶん全部大蔵省の官僚の本音そのものだというのは、役人にアゴで使われた経験のある人ならみんな知っていること。で、まあ楽しく読んでいたんだが……なんと文中に変な伏せ字の箇所があるではないか。むかしこんなのあったっけ? あと本にパンフがはさんであって、佐高信が文中で自分の本に言及されている部分について名誉毀損だと称して、出版社と匿名で語っている大蔵官僚を訴えたんだって。そんなことがあったのか。知らなかった。で、どこが名誉毀損かというと「バカげた本と言った」とか内容の要約が不正確だの云々。やれやれ。ちなみにそのパンフには、佐高信の訴状が載っているので、読むと佐高のXXさ加減がよくわかる。本書の中での佐高批判(というか批判すべき存在ともミナされていないけど)はほぼその通りで、訴状からもそれがよみとれる。一冊で何度も楽しめる、お得な本です。ちなみに佐高信のヘタレぶりについては、日垣通の「偽善系2 正義の味方に御用心!」でもかなりページを割いて論じてあるので、立ち読みでもするといいでしょ。ただしこの「偽善系2」自体はそんなにおもしろい本でもないから、買うことはないんじゃないかな。

 オールディス『スーパートイズ』(竹書房)。昔の海外SFファンなら知らぬ人のいない、ブライアン・オールディスの久々の短編集。表題作がキューブリックの遺作『A.I.』の原作なので、こんな時期にでてきたのだ。実はこの表題作、ぼくの初の商業誌掲載翻訳だったという個人的に思い出深い作品。商業誌といっても、「SFの本」という同人誌に毛の生えたようなシロモノだったけれど。ちなみにこれは別の意味でも思い出深くて、さっさと訳をあげて送ったら「これでは日本語になっていないから使えない」と編集長に言われて、ぼくは「おお、商業誌というのはなんと厳しい世界であることよ、やっぱプロはレベルがちがうのだなあ」と最初感動したのだけれど、しばらくして朱の入った原稿が送られてきてぼくは唖然とした。時制が原文とちがうとか、関係代名詞 which の処理をまず後ろから訳して「……ところの……」としていないとか、まるっきりの受験英語添削。すでに予備校レベルの受験英語ですら、そんな指導はしなくなっていたといふのに。いやあ、商業誌ったって、ぜーんぜん大したことないんだぁ、とぼくが世の中をなめる一因になったのがこの一作。さらに、この掲載誌が送られてきて開いた時、別の衝撃が待ちかまえていたのだが……それはまた別のお話。
 でもオールディスの作品すべてに共通する欠点はここにも出ている。読んだあと、まったく頭に残らずに、一瞬で忘れる。作品にあまりにひっかかりがなくて、そつなくまとまりすぎているのだ。小説として、決して悪いできではないんだけれど。そして決しておもしろくないわけではないんだけれど。本書でいちばん記憶に残るのは、巻末にのったキューブリックとの対決の模様。これは必読。

 ハリス『ハンニバル』読みました。そうなんだよねー。脳味噌ってうまいんだよね。こう、あの小説のすばらしさというのは、あちこちに食事のシーンをまぜ、そこになにかとカニバリズムがらみのネタをからませるうちに、最後のシーンまでいくとつい読者も人間が喰いたくなるというか、人を食うことに何の違和感も感じなくなるというか、そういうところだと思うんだけれど……映画は未見。名画座落ちしてきたら観よう。それまでに、前作も読んでおこうか。

 フリーマン『マーガレット・ミードとサモア』は、文化人類学の世界で名高いマーガレット・ミードの『サモアの思春期』に疑問をなげかけた問題の書。ミードの名前は、ぼくも高校時代に倫理社会かなんかで登場したっけ。で、それが日本でも中根千枝とかに影響を与えて、とかいう話だったように記憶している。でも本書はこの世界で揺るぎない大家の地位を確立していたミードの研究の不正確な部分や思いこみに支配された部分をビシバシ指摘した。ミードは、人はすべて後天的な環境要因で左右されるという思いこみがあって、だから「サモアの人は環境要因がアメリカより抑圧的じゃないので、性的にも解放されているし、社会的にも暴力や悩みがまったくない夢の世界」と論文で述べてしまったわけ。実際のサモアは、暴力も不安も悩みもある、われわれと同じような世界だったのだ。
 この本には実は後日談があって、実はミードは、サモアの女の子たちのいたずらにひっかかっていたのだ、ということがその後わかってしまっている。ミードのガイド役をつとめたサモアの女の子が「実は仲間の女の子同士の『デートなんかしょっちゅうしてるもーん』という誇張をミードは真に受けてしまったようだ」という証言を、当時の詳しい状況とともに述べているのだ。ミードのおかげで、サモアはフリーセックス天国だと思った馬鹿な西洋人がいっぱいやってくるのを、この女の子はずっと心苦しく思っていたのだそうな。
 ただしフリーマンは、ミードが学問的に誠実だったことは断言するし、彼女が故意に結果をゆがめたわけではないことを強調する。いろんな条件が重なって、そういうバイアスがかかってしまったのは仕方なかった、というのがかれの結論。でも、当のミード自身がまさに環境に左右された視点の見本になってしまったとは、歴史って皮肉なものだ。
 あと、すべてを環境要因で観ようとするミードが、なぜ戦後のアメリカで爆発的に受け入れられたのか、彼女がその知的環境の中でどういう役割を果たしたのかについてはハイムズ『サイバネティクス学者たち』がおもしろい。

 ヘマをやらかした有名な学者といえばフロイト。これについては、アイゼンク『精神分析に別れを告げよう フロイト帝国の衰退と没落』が抜群におもしろいのだ。フロイトが著書で各種理論的根拠に使った症例というのは、ほんの5つほどしかない。そして、フロイトは自分の理論をもとにした臨床でかれらがよくなったと主張するんだけれど、実はそのいずれも、患者たちはまったくなんの改善もみられていなかったことが、ほかの人の追跡調査でわかっているのだ。もちろん、ほかにも患者はいたのかもしれないけれど、なぜ自分の理論をまとめるための代表的な症例として、すべて失敗したものを選んでくるね。また、フロイトが考案したとされる無意識という概念も、すでに当時の文化環境の中であちこちで萌芽がみられ、決してフロイトの考案ではない、かれの口唇期だの肛門期だのいう、精神の発達段階の話はまったく根拠レスなでたらめ等々。フロイト信者は、是非ご一読を。

 リーブス&ナス『人はなぜコンピューターを人間として扱うか 「メディアの等式」の心理学』は、もっと周到に人間の心を探るんだけれど、ここでとりあげあられているのは、人間とコンピュータや各種メディアの関係。人間は無意識のうちに、コンピュータとかを人間の一種と見なしている! メディアと現実とを、人は区別しきれない。これまでの進化の過程で、なんかピコピコ情報をよこすものに対し、生きた意志あるものとしてとらえるように脳がプログラミングされているから! すごい。本書はそこから、インタフェースの有効な作り方なんかに話を進めるけれど、この前半で述べられている人とメディアの関係だけでもなかなかこわい。
 訳のやわらかさは、人によって好みがわかれるだろう。ぼくは、自分の訳と近いなるべく口語に近づける意志が感じられるから大好きだ。口調になじめなくても、訳は正確であぶなげない。また、訳者の判断で日本語の関連文献紹介などもついていて、とても便利。
 その訳者である細馬宏通の『浅草十二階 塔の眺めと〈近代〉のまなざし』が出ている。まだ中身は読んでいないけれど、かれの長年のテーマであるエレベータの中の人間行動についての、最初の本となるはず。おもしろいのはまちがいないので、次回には紹介できると思う。

 条件付けの話としては、これまたキューブリック映画で有名なバージェス『時計じかけのオレンジ』。久々に読み返したけれど、おもしろいね。ただし実は今出ている翻訳の文庫版は、最終章を削除されたアメリカ版をもとにした不完全版。ほんとはこの最後に、急にアレックスが「おれも歳だし、そろそろ家庭とか奥さんとか子供とかほしいなあ」とたそがれる章がついているのだ。
 実はバージェス自身は『時計仕掛けのオレンジ』を習作レベルと思っていて、それなのにこれが一番有名な作品になっちゃったものだから「わたしはもっと優れた本をたくさん書いているのに……」と常々ぼやいていたそうな。でも、ぼくは『時計じかけのオレンジ』はかれの最高傑作の一つだと思っている。まずバージェスは構成に難のある作家といわれていて散漫なのね。「時計じかけのオレンジ」にもその欠点は出ているけれど、短いのと、あとスタイル上の工夫でそれがあまり意識されずにすむ。また管理社会と全体主義の可能性についても、本書は手短な分だけふくらむ余地があるのだ。本書の背景となる現代における全体主義の可能性についてバージェスは『1985年』という作品で詳しく論じているんだけれど、いまこれを読むと、バージェスが政治的な理論家としては三流であったことがよくわかる。そういう下手な理屈がなまじ展開されていない分、『時計じかけのオレンジ』はロシア語とビクトリア朝英語のいりまじった異様な俗語に埋もれた、まったく異様な世界を切実に感じさせてくれて実にすばらしい。バージェスは言語感覚は天才的な人で、この俗語の説得力はすごい。実は一部、ホントに的中してしまったりしている。余裕があったら原文でも読んでみてほしいな。

 てなあたりで今回はうちどめ。うー、こないだまとめて買ったブルース・スターリングものの話ができなかった! が、これも次回じゃ。

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2001年??月

★山形浩生の「無節操。」第10回

 映画「AI」がらみの諸般の事情で、その原案『スーパートイズ』作者のブライアン・オールディス。かつては、英米SFを語る上で名前くらいは必ず出すべき人物だった。ただし、名前は出すけれど、それ以上に特筆すべき存在というわけでもなかった。穏健なんだよね。かれの『地球の長い午後』(早川文庫)は、いま読んでも傑作。自転が止まって植物に覆われた地球。いいなあ。その一方で、『グレイベアド』(創元推理文庫)はいま読むと、なんか古くさい感じがするのはなぜだろう。また、SF史とSF評論の定番『十億年の宴』(版元品切れ、重版未定です)『一兆年の宴』(東京創元社)は、この分野では一応必読の基本文献。

 この『一兆年の宴』で絶賛されているのがブルース・スターリング。この人の本はどれもおもしろくて、未来の社会がどういう仕組みや価値観で動いているかについてのとっても独創的な考察と、それをうまく人間の生き残りへの意志や権力闘争と結びつけた明快なストーリーで読ませるし、考えさせられるところも多い。いきなり長編を読むと消化不良をおこすので、最初は短編集『蝉の女王』(早川文庫:版元品切れ、重版未定です)あたりがよみやすいでしょう。それがすんだら『タクラマカン』『グローバルヘッド』を読むか、あるいは長編『ネットの中の島々』(上・下、早川文庫:版元品切れ、重版未定です)『ホーリーファイアー』。この二長編で描かれている社会モデル――前者のボランティアに基づく企業と、後者の健康と医療に基づいた社会経済システム――は、かなり一般性があって、ホントにできそうだ。

 同じSFでおもしろいのがスティーブンスン『スノウクラッシュ』(早川文庫)。祝文庫化。マフィアがピザの宅配を仕切り、人々が仮想世界のアヴァターと現実世界を行き来する未来のアメリカで、現実と仮想空間をともに浸食するおそるべきシュメールのミームが解放された……スターリングよりも小ネタのジョークがいっぱいあって(「ベルボトムジーンズは悪しきミームである!」)、ツボにはまる人ははまる。ただしこの人は話を広げすぎたあげくに収集をつけられなくなるという悪い癖があるんだが……でもこの『スノウクラッシュ』は、それをなんとかおさえきっている。楽しいよ。

 さてリドレー『赤の女王』(翔泳社)は性について進化遺伝学の立場からいろいろまとめた本。一歩まちがえると竹内久美子で、それに近い部分も散見されるけれど、でもちゃんとまともなところに踏みとどまっているし、理論の基礎的な部分はきちんと説明されているし、竹内本に散見される、自分勝手な妄想の展開は見られないので好感が持てるし勉強にもなる。
 だが本書自体よりも、ぼくは訳者のあとがきに強い衝撃をおぼえた。訳者の長谷川真理子はこう主張する。

 「科学的事実というものには、それなりの重みがあるし、それが我々の持っている価値観と異なっている場合には、そのギャップを埋める方策を考えなければならない。そして、そうするため納得のいく方策が出せないのならば、むしろ科学的事実を明らかにしないほうがよい、という意見もあながち否定できるモノではないと私は思う」

 「科学的説明を提出するときには、処方箋をも考えなければならない、と私は思うのである」

 自分の価値観にそぐわない事実は隠してもいい、と彼女は言っているわけだ。自分に処方箋が思いつかなければ、都合の悪い事実は隠蔽すべきだ、と。長谷川真理子は、遺伝と進化の話ではとっても優れた仕事をしているし、彼女の言いたいこともわかる。その問題意識もわかる。わかるけれど、ぼくはこれから、長谷川真理子の書いたものをもはや信用しないだろう。彼女が何かを隠し、事実をゆがめている可能性を排除できないだろう。それに、ぼくは彼女のこの発想そのものがまちがっていると思う。そもそも事実がきちんと提示されないで、どやって解決策だの処方箋だのを考えられるのだろう。それに処方箋の考案まで、ファクトファインディングを行う科学者が負担できるのか? ぼくはできないと思う。それができると思いこんで戸塚ヨットスクールを称揚した、偏狭な科学者の失笑モノの処方箋については、すでに数回前に述べた。さらになにがいい事実で、なにが悪い事実かをどうやって判断するのか? 価値は変わるんだし。

 さて、男女差別の話のからみでジョアナ・ラス『テクスチュアル・ハラスメント』(インスクリプト)。この本の訳者はぼくをいま訴えていて、この本もそのからみで出されている。笑い話にはおもしろい本なんだ。いろいろ女の書いたものを、女だからという理由で馬鹿にするいろんな手口が紹介されていて。読んで「あるあるこーゆーのー」と喜ぶにはいい本だろう。ちなみに、原著は表紙にその手口が一通り整理されていてわかりやすかったんだけど。ただ、フェミニズムのプロパガンダとしてはこれでいいんだろうけれど、そのあまりに単純な図式のせいで、現実にまったく有効性のないアジテーションで終わってしまっているのがとっても残念。
 その図式というのは、「男は過去数世紀にわたって一貫してまったく変化なしにひたすら女の物書きを見下し、すきあらば葬り去ろうとしてきた」というものだ。この図式があるから、いろんな時代のいろんな手口がまったく同列に並べられてしまう。
 でも実際はそうじゃないのね。女の、そして女の物書きのもつ力や意義は、明らかに時間を追うにつれて変わってきている。そしてそれにつれて、それに向けられたことばの持つ意味は変わる。「バカ」ということばが、友達の間と敵の間とではまったく意味も役割もちがうように。女に選挙権すらなかった時代のことばと、いまのことばとでは、同じことばでもぜんぜんちがう。だれがどういう状況でそのことばを言うかでも。いまは、女がモノを書いたり本を出したりすることには、何の違和感もない。書評の意味あいもちがうし、かつてはご大層なものだった「芸術性」だの「文学的価値」だのも、そのギョーカイ内以外では何の意味も持たなくなっている。そういう変化をまったく考慮していないこの本は、だから本質的に「女らしからぬ」がさつな本なんだ。もっとも、フェミニズムというのは一貫して美的センスや繊細さに欠けていたし(これは最近とんとご無沙汰のカミーユ・パーリアも指摘していたこと)、ある意味で、女だってがさつでいいでしょ、という主張こそがフェミニズムだと言えないこともないんだけれど。
 この本はこのラスの本に、訳者がまたいろいろよけいなものをくっつけている。が、これはラスにさらに輪をかけたがさつな代物で、それこそ紫式部だ清少納言だと、女の物書きが昔からいて評価され、さらに紀貫之みたいに、あえて男が女のふりをして書くことにすら昔から価値が見いだされていた文化圏で、フェミニズム以前の英米における各種事例をならべたてた本書の内容がそのままあてはまると思いこんでいる。日本側で挙げられている事例は、一世紀以上前のマイナー歌人の話だけ。ねえ、いまはもうそういう時代じゃないんですよ。さらに情けないのはそれが……いや、やめとこう。でも、こんなに怒るとはねえ。ホントにごめんなさいね。

 黒田晶『メイドインジャパン』(河出書房新社)おう、女だてらに(笑)なかなかいいできじゃねーかよ。しかも一見勢いで流して書いてるようで、ときどきちゃんと遠景を入れて奥行きを出してる。ただ、もうちょっと改善の余地があるな。まだ世界の全体像みたいなのを提示するには至っていなくて、読者の世界観にかなり頼っている。この子にあと必要なのは、もっと冷たい客観描写ね。ジャーナリスト修行をするといいと思う。そういう文体をうまく使い分けられるようになると、書くものに幅と深みがもっと出てくる。あるいは三人称で書いて見るとか。いま「文藝」に載ってるやつは、これより落ち着いた感じでいいんだけれど、でもまだ一人称の語りがあまりに高い比重。でも、これは「文藝」の新人賞かなんかとったそうだけれど、審査員の評がなんだかなー。みんな、この程度でそんなにショック受けるの? スナッフショーのライブなんだけど。みんなヤワでうぶなんだね。まあ売り出し用におおげさに言ってるのかもしれないけれど。

 で、ぜんぜんちがうネタで『ホバークラフト・トータルガイド』(パワー社)。わぁ、こんな世界があるんだ! 手作りホバークラフトの世界。エンジンの調達からファン、スカートまで、みんな自作してるのね。キットも完成品もあるのか。組み立てから操縦方法、さらには日本や世界の愛好者クラブ一覧までいたれりつくせりの内容。さらにはホビーとしてのホバークラフト製造を産業としてどう育成するかまで(ちょっとだけど)考えていて、おもしろい。もうちょっと広い庭とかガレージとかあったら、(あと暇と)ぼくもなんかやってみたいなぁ。

 てなところで今回はとりあえずおしまい。

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2001年??月

第11回

 山本義隆「重力と力学的世界」(現代数学社)を初めて読んだのは高校時代だったはずなんだけれど、いま読み返してみると、いやぁ、ぼくって昔は頭よかったんだねー。これをそこそこまともに理解できていたんだ。要するに、なんだかわからないけれど「重力」なんてものが魔法のようにあって、何も伝えるものがないのに月と地球の間になにやら力が作用している、なんていうのは気持ち悪い――いわれて見れば確かにそうだな、というこの考えが、いかに物理学の世界観に影響し、理論の構築にもインパクトを与えたかについて、山本は実にていねいにたどる。数式がいやなら、とばしてもまったく大丈夫(わかったほうがいいけど)。「重力ってなんだ」というのを敢えて考えないことで成立した、古典力学の完成が、最終的には場の考えかたで乗り越えられる中で、力学的世界観から最後まで抜け出せずに終わったケルヴィンと、かれの社会的な制約について述べた最終章が、昔読んだときもいま読んだときも感動的。ちんけな相対主義パラダイム科学論者は、こういう本をきちんと読んでひれふすがいいのだ。当然、この続編ともいうべき「熱学思想の史的展開」も読むべし。
 昔から読み直したいなと思っていたんだけれどずっと版元品切れだった。それがしばらく前に増刷かかったみたい。現代数学社のwebページで見てそれを知って、あわてて注文しようとしたらbk1では取り扱い不能。ゆるせーん! 某amazonでは入手できたぞ!(……と、これを書いたのでもうbk1でも在庫しているはず)。

 実はこの「重力なんて変だ、あらゆるものはお互いに引き合うなんてウソだ、だってだれでもゴミゴミしたのはいやだし、放っておくとなんでもバラバラになるじゃないか」というしごくもっともな常識的発想をもとに、重力というのはウソで、万物はおたがいに排斥しあう力を持っていて、重力というのは、ほかのすべてのものから遠ざかろうとした結果、たまたま近づいているだけなのだという目からウロコの革新的理論を考案して小説にしたバリントン・J・ベイリーの傑作『禅銃(ゼン・ガン)』……はなんと絶版なので、同じベイリーの『カエアンの聖衣』(ハヤカワ文庫)をおすすめしておきましょうか。それ以外にも、この人のむちゃくちゃな発想はアイデア小説としてのSFの真骨頂っす。

 エスピン=アンデルセン「福祉資本主義の三つの世界」(ミネルヴァ書房)。この本については、何よりも一言:グズ。こんな本訳すのに何年かかってやがる。しかも7人がかりで。遅れたことについて「お詫びしたい」って口先ばっか。頭でも丸めて見せろと言うのだ。だいたいぼくは「お詫びしたい」とか「お礼を申し上げたい」とかいう言いぐさが嫌いだ。したいんなら、やれよ。ごめんなさいって書けよ。ありがとうって書けよ。
 福祉社会、というか、ある社会において福祉というのを提供するやりかたがいくつかある。本書はその類型を、実証データに基づいてきちんと分類した本。今後、日本(世界)の高齢化にともなってきわめて大事なテーマだし、それを具体的に政策化する中でも、本書はとっても重要な本。枠組みの一つのスタンダードを提供するはずの本だ。が、日本ではすでに「ポスト工業経済の社会的基礎」(桜井書店)が出ちゃっていて、いま薦めるとしたらまずこっちから、だと思う。「三つの世界」はどうしてもその前段の書ということになっちゃうだろう。「ポスト工業経済」は、本書をベースにしてさらにその先が出ているから。確認の意味で興味があればこの本も読んでみたら、という感じだろう。この本を紹介するのに、こんな添え物的な扱いにしかできないのは本当に残念。でも、ものごとにはタイミングとか順番ってものがある。本書の訳者どもと出版社は、それをぶちこわすことで日本での本書の価値を大幅に下げている。

 激裏情報&にらけらハウス『WWW激裏情報』(三才ブックス)うぷぷぷ、うひゃああ。こぉんな本が出てしまいましたのねオホホホのホ。爆発物の作り方! ドラッグ製造法! ぱちんこ攻略法! うわぁぁ、いいのかこんなぁ、という感じ。実は本家サイトはもっとすごいんだけれど。
 しかしぼくは、にらけらの、あの韓国と中国にはさまれたところをネタにしたシリーズのほうがもっと読みたい。なんか諸般の脅しなどもあって最近ストップしてるのが残念だな。

 イブン・ハルドゥーン「歴史序説」(岩波文庫)。ぼくはもともと、昔の旅行記みたいなのが好きで、ヘロドトス「歴史」(岩波文庫)なんかもとってもおもしろかったんだけれど。「なんでもアフリカの奥地にはハゲ民族がいて、頭が日に当たって鍛えられているから頭蓋骨が分厚い!」とかいうトンデモな記述で大爆笑するのが好きだったのだ。イブン・ハルドゥーンはそれがまともになってきて、まず伝聞者の誇張をいちいち真に受けずにもっときちんと常識とつきあわせようよ、というのと、そしてその歴史を元に、現在に活かせる知恵や教訓ってなんなのかきちんと考えようよ、という立場。なかなかおもしろいし、ヘロドトスなんかで感じる、ものの考え方のちがいみたいなのがあまりなくて、いまに共通する態度や感性みたいなのがある。政治腐敗の原因とか、王朝の興亡の原因とか。ちなみにこの人はチュニジア出身で、こないだまでいたチュニスの目抜き通りにも、この人の銅像が建っているのだ。

 あ、あと岩波文庫では「トロツキー自伝」結構いいっす。まだ読みかけだけれどなかなか味わいあり。これについてはまたいずれ。

 ところで西原理恵子が「SPA!」でまたすごいことをはじめている。「脱税できるかな」ですって。うううう、税務署相手に、そりゃちょっといかに西原先生とはいえ無謀でわ……でも多少なりとも応援の意味をこめまして「できるかな リターンズ」(扶桑社)。ロボット! カンボジア! 樺太! 相変わらずむちゃくちゃでしかも笑えて、さらにかなり鋭い。インドネシアの学生暴動の取材とかその際の記述とか。え、でも西原理恵子って、年間売り上げ8千万もあるの?? じゃあ応援しなくていいか。

 ダレル「海のヴィーナスの思い出」(新評論)。ロレンス・ダレルを検索していて見つけた本。ふーん、こんなの出てたんだ。ロレンス・ダレルはいつも地中海っぽい、日差しはきつくてあついけれど風は涼しいような文章を書く人で、くどいようなあっさりしているような、妙な味わいがあって好き。この本も、それが感じられていいな。でもダレルを知らない人はやっぱ「ジュスティーヌ」「バルタザール」「マウントオリーブ」「クレア」(河出書房新社)のアレクサンドリア四重奏から入ってあの文に浸ってから、こういう小物に手を出すのが正解だと思う。あとダレルの「マルーシの巨像」って訳が出てないんだっけ? あれも出せばいいのに。

★筆者付記:『マルーシの巨像』はダレルではなく、ヘンリー・ミラーの作品であるとのご指摘をいただきました。確かにその通りで、お恥ずかしい限りです。ロレンス・ダレル氏およびヘンリー・ミラー氏にお詫び申し上げます。失礼いたしました。

★アレクサンドリア四重奏すべて版元品切重版未定です(編集部)。

 小松左京『継ぐのは誰か?』『復活の日』『果てしなき流れの果に』(ハルキ文庫)。いや、実はぼくは小松左京は全然読んだことがなくて、堺屋太一と同列の低級な御用政治物書きだと思ってた。だってぼくがリアルタイムで知っている小松左京って『首都消失』とか『こちらニッポン……』とか、つまんないのばっかで、それなのにいろんな委員会だのなんだのに名前を連ねてあちこち顔出してたんだもん。きわめつけはあの罵声の飛び交った映画「さよならジュピター」。原作読もうとか思わないでしょー。
 でもわたしがまちがっておりました。
 稲葉振一郎の薦めでヘヘーンと思いながら読んだのだけれど……。
 すごい。とりあえず読んだこの三冊、どれもすごいけれど特に「果てしなき流れの果てに」。いずれも自分たちが大きなうねりの中の存在で、その中で次の段階に進む過渡期にいるんだ、という強い意識と、そこへの主体的な関わりとは、というのを強力に打ち出してきている。「継ぐのは誰か?」はちょーっとだけ仕掛けが古びているかもしれないけれど、一方で軽めだから入門にはいいかも。正直言って、村上龍の最近の小説なんかではこれにまったく太刀打ちできない。一部の問題意識みたいなのは共有されているんだけれど、それを小手先の風俗で安易な答を小細工ででっちあげてしまうのが最近の村上龍で(たとえば『希望の国のエクソダス』とか)、それに比べて小松左京はなんとすさまじい迫力を持ち得ていることよ。もっとも、そういう大きな変化の認識そのものが、小松小説の欠点というかちょっとアナクロっぽい部分にもなっている可能性はある。でも、表面的にはそれは感じられない。
 なんか、SFのレッテルが売れるの売れないのという話があるんだけれど、そしてそれはいつもなにやら新刊書が売れる売れないという話なんだけれど、それよりジャンルとしてのまとまりみたいなのを維持するにはこういうのをちゃんと残して、もり立てるというのがどっかで必要だと思うんだけどな。

 これまたぜんぜん関係ない井上章一『戦時下日本の建築』(朝日新聞社)。これはぼくが前に図書館で流し読みしたきり入手しそこねていた『アート・キッチュ・ジャパネスク』改題だけれど、とってもおもしろいね。日本建築史の見直しで、日本の建築デザインの世界で戦後に一大勢力となったモダニズム派の連中が、自分たちの反ファシズム的ポーズをあとづけで正当化するために、いかに帝冠様式(国立博物館みたいな、コンクリの箱に日本屋根をのっけた様式)を悪者に仕立ててポーズをつけようとしたか。そしてその反動が、たとえば丹下健三みたいな形での、ある意味での反モダニズムを生み出していったか。それは同時に、日本的ファシズムのありかたがヨーロッパのそれといかにちがっていたかを理解するためにもとっても重要な視点。井上章一がそれをやってくれたのはホントにすばらしいことだと思うのだ。昔読んだときにも、いまこれを読み直してもそう思う。
 ところが本書で、反ファシズムを実はあまりまじめにやらなかったと指摘された人たちが本書をかなり酷評して、それで井上章一は嫌気がさしてもう建築史から離れてしまったみたいなんだけれど、残念。もっとやってくれないかな。ぼくはかれの美人論ってあまりおもしろいと思ってないもんで。

 三原弟平『カフカ『変身』注釈』(平凡社)は、ある意味であまりに饒舌でうるさくてうっとうしい本ではあるのね。カフカの『変身』にいろいろ注釈をつけた本。原文一行あたりに2ページずつくらい注釈がついていて、注釈も単なる事実関係の注釈から、いろんな三原の連想や解説まで実に様々。何度か読んで、だいたいわかっている人が、とりあえず流されてみようという感じでずっと注釈を含めて読み進んでいくと、いままで気がついていなかったところ、舞台の切り替え、ちょっとした細部の指摘なんかがかなりおもしろい。「読む」ってことをある意味でナボーコフが『ナボコフのドン・キホーテ講義』(晶文社)でやってるみたいな形で教えてくれる、おもしろい本だと思う。

てなとこでまた次回。

★『カフカ『変身』注釈』は版元品切重版未定です(編集部)。

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2001年10月

★山形浩生の「無節操。」第12回

 ぼくは、なるべく自分がしゃべるのに近いことばで文章も書こうとしている。ただし、実際にしゃべった通りのことを書くと、これはまったく文にならない。会議とかのテープ起こしをやったことのある人なら知っているだろう。ふつうにしゃべっている日本語は、まったく文章になっていない。だから、しゃべるのに近いことばと言っても、そこには自ずとなんらかの操作編集が入る。
 で「橋本治が大辞林を使う」(三省堂)。しゃべるように書く、というのを昔から実践してきた人が、その考え方の背景、実際にどうやっているか、それがどういうところに現れているかを述べて、その中で大辞林がなぜ役にたつかを述べた本。おもしろい。ぼくの漠然と考えていたことを橋本治がある程度整理して書いてくれているのは、とても気持ちいいし、また一方で先を越された感じはある。ただ、大辞林の話はあんまり出てこないんだよねー。

 さて、最近ポール・クルーグマンのインフレ目標による景気回復という提案を、ほぼ完全にまとめた論文「復活だぁっ! 日本の不況と流動性トラップの逆襲」を訳したのだ。これがどんな理論か概要を知りたい人は、『クルーグマン教授の経済入門』(メディアワークス)に原論文が収録されているので見てたもれ。同時に小泉政権で株価がどかどか落ちて、景況も悪化してきて、インフレ目標論を支持する人も前より増えてきている。そのからみで、これにケチをつける人もいろいろ増えているんだが……。
 たとえばの斉藤精一朗『日本経済非常事態宣言』(日本経済新聞社)。この本はクルーグマンの説について、理論的にはそこそこ評価しつつも「『期待』に頼りすぎている」「経済学を心理の世界に迷わせる」と非難、モラルハザードが起きる(それって心理に頼った議論じゃないの?)、国際的な影響(日本の景気低迷のほうが影響大きいでしょ)という理由でインフレ期待策はダメだと言うんだが、代わりに出すのは、まあ例によって構造改革ですな。
 ちなみに先日古本屋で、この人の 1998 年の『10 年デフレ』(日本経済新聞社)を見つけたんだけれど(こんな本、別に24時間出荷にしなくていいですからね。取り寄せ扱いで十分すぎ)、こんどの本と比べてみるとおもしろいだろう。いまの不況はバブル後遺症、構造改革万歳、金融ビッグバン礼賛、ITニューエコノミー支持――それが今回の「非常事態宣言」では金融ビッグバンについてはほっかむり、ニューエコノミーについては「いやあれは長期の話だ」と逃げをうち、その他の話はそのままだな。さらにこの人が雑誌でクルーグマンの提案について「クルーグマンは今後4%のインフレを15年続けろといっているが、15 年なんか待っていられない、ここ2-3年で回復が必要だ」と発言している。ちがうのー。15年インフレをやるぞ、と宣言することで、いますぐ景気が回復する、というのがクルーグマンの提案なのー。あなた、実はわかってないんじゃないの?

 ひどいのが宮崎哲弥編、木村剛、金子勝『日本経済「出口」あり』(春秋社)。この中で金子勝は、『セーフティーネットの政治経済学』なんかでは比較的納得のいく議論をしているのに、本書ではクルーグマン提案をマネタリストの議論としていてなんだかわかってないみたい。そして最悪なのは木村剛。かれは昔からクルーグマンの議論がお気に召していなかったようだけれど、毎度使う手口が、卑しい人格攻撃だ。本書でも「クルーグマンは、自分とは関係ないし業績の本流とは無関係で、まちがっていてもどうでもいいと思ってるから、ああいう無責任なことが言える、日本なんかイエローモンキーの国だからどうなってもいいと思ってるのだ」という目を覆いたくなるような罵詈雑言。それでクルーグマンの主張は一向にわかっていない。「100 円ショップの品物の値段が 200 円になったら景気がよくなるのか」みたいな。来年 200 円になるとわかれば、今のうちに買っとこうと思うだろうに。「日本経済は不良債権で目詰まりをおこしているのに、クルーグマンの主張はそれをものすごい水圧で一気にふっとばそうというもの」って、ぜんぜんちがうー!
 で、木村の主張ってのは、日銀には日本の景気回復より重要なプリンシプル(つまりインフレにしないこと)があって、だから日本がどうなろうとそのプリンシプルを維持するのが日銀の存在意義である、と(かれはだからこの春の日銀金融緩和にえらくおかんむりだ)。ちなみに、斉藤精一郎も木村剛も、もと日銀マン。やれやれ、そこまで昔の職場に義理立てしなくてもいいのになぁ。
 ちなみに今回のテロにからんで、クルーグマンはしきりに「アメリカもそろそろやばいから、日本みたいな状況になったらインフレにしろよ」と主張している。イエローモンキー説はどうしたね。木村くん。さらにだね、これはすでにクルーグマンの大きな業績の一つとして積極的に認知されはじめているのを、かれはちゃんと見てないね。すでにこれは、メインストリームの議論になりつつあるんだ。だからもうクルーグマン一人を人格攻撃したって、何の役にもたたないんだよ。

 それが証拠に、そのクルーグマンの説をベースに気鋭の経済学者たちと日銀がやりあった記録が日銀金融研究所編『ポスト・バブルの金融政策』(ダイヤモンド社)。日銀側は、ちょうどゼロ金利解除をしたばかりで、防戦一方。それに対して外国勢は強力。なかでもラース・E・O・スヴェンソンは、インフレ期待を実際におこさせるための具体的な政策まで提案していてとってもおもしろい。ちなみに、このbk1にに掲載されている、日経による本書のレビューは(珍しく)実に辛辣で的を射てる(一方ブックレビュー社のレビューは、本書のものに限らずよくてもやもや、ふつうでピンぼけ、下手するとまったくピントはずれ。使えないことおびただしい)。特に最後の部分。痛烈だね。
 また、IT は生産性にまったく寄与していないという議論の最右翼ロバート・ゴードンもクルーグマンの議論を支持していて、かれのマクロ経済学の教科書の原著最新版では、IS-LMモデルの応用問題として日本経済の現状分析にページが割かれている。

 ちなみにこのゴードン『現代マクロエコノミックス』(多賀出版)は、たぶん数あるマクロ経済学の教科書の中で個人的にはいちばんいいんじゃないかという気がする。国民経済計算の基本をおさえたら、この教科書はいきなりIS-LMの詳しい解説に入る。ほかの教科書は、成長理論みたいな話が間に入るんだけれど、ゴードンは「そんなのは使う場面はほとんどない。実際に世の中のマクロ経済政策がらみで重要になるのは、なんといってもIS-LM だ」とそれをゴリゴリ徹底的にやるのだ。いいねえ。邦訳はこれより古い第6版のものだから、日本の流動性の罠の話は載っていない。でも、いまの説明からもわかるように、ゴードンのよさはある種の頑固さなのね。だから版が新しくなっても、構成はほとんど変わっていない。したがって勉強するにはなんの不都合もない。
 また、こないだノーベル経済学賞をとったスティグリッツ『入門経済学日本版第2版』 (東洋経済新報社)にも、日本の不況について、クルーグマンの分析に沿った詳しい記述がある。
 ノーベル賞といえば、同じくノーベル賞をとったアカロフ。この人は「レモン(不良中古車)の市場」で有名だ。これは、買い手より売り手のほうが商品について詳しく知っている場合、買い手は不良品(レモン)をつかまされるんじゃないかと警戒して値段を低めにつける、という理論。すると売り手のほうは、平均の売値を下げるためには不良品をもっと多くさばかなきゃいけない。すると買い手はさらに警戒して買値をさらに下げて……これを繰り返すと、まったくモノが売れなくなる可能性がある。そういう理論だ。でも、その論文は読み物としても結構おもしろい。この「レモン(不良中古車)」なんてのをあえてマジな論文タイトルに使うあたり、ぼくは大好きだ。この論文を含むかれの論文集『ある理論経済学者のお話の本』(ハーベスト社)は、ぱらぱら拾い読みするにもいいんじゃないかな。ただ訳がかたくて、もっと優しいおじさんみたいな口調にできなかったなー。
 それにしてもアマルティア・センはノーベル賞とったらいっぱい本が出たりしたのに、今回はずいぶんと静かなような気がするんだけれど。スティグリッツはいろいろやりすぎていてしぼりきれないってのもあるかもしれないけれど、アカロフはこれしか本がないんだから、もっとプッシュすればいいのに。センは逆にいっぱい本が出過ぎて、いまじゃ迷いそうだ。鈴村・後藤『アマルティア・セン』(実教出版)が解説書としては最高だから、ここからたどっていけばいいと思う。

 あと、最近これからの東京のあり方について本を書いたりしたんだけれど(『New Tokyo Life Style Think Zone』)、そのとき都市計画から見た東京の歴史みたいなのも書くことになって、そのアンチョコがこの越沢明『東京都市計画物語』(ちくま文庫)。越沢明は、ぼくが大学の頃は日本の植民地都市計画の研究で有名だったし(『満州国の首都計画』なんかを参照)それをテコにした東京の都市計画についての発言は、重みと説得力があってすごく参考になったのだ。もっとみんながこういう本を読んで、都市計画ってものについて考えてくれればな、と思う。いまはもう、大型の都市計画ははやらなくて、チマチマした隙間を埋めるようなことばっかりみんなやりたがる、とぼくの共著者の森稔をはじめいろんな人がぼやいているんだが、それじゃダメだ。アメリカはNYの復興支出でたぶん景気刺激がかなり出る。日本も、そろそろそれをやんなきゃ。
 とりあえず、今回はそんなところ。

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2001年??月

★山形浩生の「無節操。」第13回

 ご無沙汰。なので、今回のはむちゃくちゃ長いぞ! 覚悟するように。
 オナニーがらみの本を昨年末から何冊かまとめて読んでいる。特にこれといって理由はなくて、たまたま本屋に行ったら並んでいたというのと、あとかつて金塚貞文の一連のオナニー論を読んでいたく感動したため、なにかそれに類する感動があるんじゃないか、と思ったからなんだけど……。
 まずはその金塚貞文『マリー・アントワネットは夜、哲学する』(三笠書房)。フランス革命で断頭台の露と消えたマリー・アントワネットが、宮廷での一生を語りつつ、自分に貼られた淫乱放蕩女というレッテルを検証し、性欲や同性愛、不倫や近親相姦という観念について述べるという趣向の本。まあおもしろいんだが、かつての『オナニスト宣言』(青弓社、でも絶版)や『オナニズムの仕掛け』(青弓社)でかれが繰り出した、やけくそみたいなパワーはない。これらの本で出てきた議論を無理にアントワネットの語りという仕掛けにはめこんだ感じで、弱いなあ。でも、読み物としては楽しい。
 オナニーについての研究でありながら、この金塚貞文の業績についてまったく触れていないのが石川弘義『マスタベーションの歴史』(作品社)だ。これは、近年の欧米での議論の通覧としてはまあそこそこ。でもそれだけだな。本当の意味でのマスターベーションの歴史にはなっていない。さらに、自分がやっていることが、外国の研究のつまみ食い紹介でしかないくせに、かれは最終章で、横のものを縦にするだけの日本の研究者を論難して悦に言っている。じゃあそのあんたが、たとえば第V章でやってることはなんだね。ただの他人のまとめの紹介、ではないか。その他の章も。そこでのあなたのオリジナリティは何なの? これが何もない。
 その最終章でかれは、フーコーに影響されて外国の理論をもってくる学者をけなし(これ、たぶん金塚が念頭にあるんだろう)、「オナニーの言説空間」という言い方がわからない、という。だったら黙ってなさいな。石川は自分がやっていることがまさに、フーコー式の「言説」をなぞる系譜学なんだというのが理解できてない。そして、その視点がないために、過去のオナニーに関する各種の学説が現代的に持つ意味については一切考えられていない。つっこみも浅いな。それを補うために、各章末でくだらない自分語りをしておしまい。ケロッグ博士の足跡をたずねてバトル・クリークに行った? マネーの顔を思い浮かべた? それで?
 この本が書かれるきっかけになったのは、オナニー悪者論を確立したティソの本を見つけたことだそうだ。このティソ前後の資料を発端に、同じくオナニーの歴史をまとめたのがスタンジェ&ファン・ネック『自慰』(原書房)。こちらのほうは、オナニーが社会的に批判対象となってからそれが逆転するまでについて、いろんな人の発言を紹介するにとどまらず、その社会的な影響についての考察があって、もっとおもしろい。もともとオナニーなんか大して問題視されていなかったのが、あるクスリ販促用のパンフレットをきっかけに、急激にオナニー悪者説が広まったそうな。この分析はなかなか。ちなみに、石川は本書からの図版を引用していながら、参考文献にはこの本が出てこない。なんでかな。ただし、本書も通史としては19世紀からこっちだけで、さらにティソの話が終わると駆け足で一挙に現代にきてしまう。石川のほうが、あまりに浅い記述ながらも触れた論者の頭数は多い。まあ両方あわせて読むといいのかな。それよりもっと安く手軽にすませたければ、デシュ『オナニズムの歴史』(白水社)を読めばだいたいめぼしいところは用が足りるだろう。

 で、それとは全然関係なく、最近ちょっと科学教育なんてことを考えていたりするのだ。一つは、立花隆の批判本、別冊宝島Real『立花隆「嘘八百」の研究』に寄稿したせいだな。かれはしきりに、IT教育がどうしたこうした、日本の大学生は学力が低下して云々、てなことを言っている。それらを含め、かれの発言がいかにいい加減できちんとデータを見ていないかつつきまわしたのが谷田和一郎『立花隆先生、かなりヘンですよ』(洋泉社)。学部出たてのくせに、じつにうまくまとめているのに感心。立花の、ITがらみや科学がらみの話で変な部分はほとんどこの本で尽きてしまっている。東大生、やるじゃーん。『「嘘八百」の研究』で書いている各種の著者は、ほとんど谷田に負けている。勝っているのは、菊池信輝による、立花の硬直した政治観批判の文章だけだ。ただし、この論考のためにだけでも『「嘘八百」の研究』は買う価値があるとは思うぞ。

 もっとまともな教育の本としては、盛口&安田『骨の学校』(木魂社)。これはなんともおもしろい本で、高校の先生たちが理科室を骨格標本の巣窟にしてしまう様子をじつに楽しそうに描いたあとで「さあみんなも豚足を使って骨格標本を作ってみよう!」と薦めるという、読み物と実用書が一つにまとまった見事な本。先生たちがおもしろがって標本を作っていると、だんだん生徒も集まってきて、やがて――という。そうだよな。教育って本来こうありたいよな、というお手本のような本。こういう先生がいたらなあ。
 ちなみに、本書では骨から肉を取るのに、煮てからナイフでこそげ落とす方法がとられているけれど、奥野良之助『金沢城のヒキガエル: 競争なき社会に生きる』(どうぶつ社)ではオタマジャクシに喰わせる方法が紹介されている。この本は、9年にわたって金沢城のヒキガエルを個体レベルで観察して、弱肉強食でもない、各個体がそれなりにニッチを見つけて共存している平和な社会を描いた楽しい本。半分は著者の金沢生活記みたいなものだけれど、のんびり生きているヒキガエルたちと、それに共感しておもしろがっている著者の筆とが絶妙にからみあって、にこにこしながら読める。
 グリーン『エレガントな宇宙』(草思社)は、売れているそうでなにより。これは本当にすごい本。相対性理論の簡単な解説から入って、最後には超ひも理論からM理論まで手際よくまとめ、大統一理論への道筋まできれいにまとめた名著。さらにその最先端での丁々発止の各種理論興亡、さらにはそれにからむ物理学と数学の交流と反目――著者自身が最先端の研究者であればこそ出せる迫真性。11次元カラビ=ヤウ図形云々などという話をおもしろく読めてしまうというのは、驚異としか言いようがない。もちろん全部なんかわからないけれど、わかるところだけ拾い読みしても十分おもしろい。高校生くらいがたくさん読んでくれるといいなあ。
 レヴィ『暗号化』(紀伊国屋書店)は、なんか変なタイトルだけれど、暗号をめぐる技術と政治と個人のからまりをじつにおもしろくまとめた本。公開鍵方式暗号の誕生を、ヘルマンとディフィーの人間像から入って描き出し、それに対するアメリカ国家安全保障局の圧力、技術を商業化しようとする人々と、それをフリーで公開しようとする、PGP開発者ジマーマンらの攻防。じつはヘルマンやディフィーは、PGPなんかダメだと思っていたとか、ジマーマンはPGP開発者なのがわかってストリップ小屋で優遇してもらえたとか、どうでもいいことがいろいろわかって楽しい一方で、暗号政策の背景にあるアメリカ政府の考え方まで浮き彫りにされて非常に読ませる。プロジェクトXなんかよりずっと迫力あるよ。
 瀬名秀明『虹の天象儀』(祥伝社文庫)。これもぼくは科学書の一種だと思っている。五島プラネタリウム閉館を種に、プラネタリウムでタイムトラベルができるようになったある館員の旅を描いた作品。
 ぼくは昔瀬名の作品について、もっと無念とか想いとかを描かなきゃダメだ、と言ったことがある。それに影響されてかどうかはわからないけれど、本書はその「想い」を一つの核にしようとして……それに必ずしも成功していない。劇作家織田作之助の「想い」が、やっぱりぼくにはよくわからない。かれが「想いが残る」と言って死んでいったにもかかわらず。逆に、この館員がプラネタリウム――そしてこのツァイス作の機械――に対して抱いていた想いは、すごくよく伝わってくる。その両者のからみあいがまだ弱いんだ。だけれど、この小説は中編なので、それがあまり大きな欠点にはならずにすんでいる。ぼくは――そして多くのかつての科学少年たちは――たぶん何年も前に行ったきりプラネタリウムに足を運んだこともなくて、五島プラネタリウム閉館のニュースを聞いて、ああ行かなきゃ、と思いつつ結局行きそびれていた。本書を読むと、それについての後悔と、そしてずっと昔にプラネタリウムで感じた興奮――あの星空と、そしてあの異様な機械――が思い出される。ついでに、最後に行ったときはそこらじゅうアベックまみれで、みんな星空そっちのけでいちゃつきまくっていたのも思い出されるけれど、まあそれはさておき。たぶんそうした人々は、本書を読んで、プラネタリウムへのかつてのあこがれをふとよみがえらせるだろう。それは小説としてのうまさとは別の水準で機能しているものではあるのだけれど。でもいい本です。

※編集部注:今回のは本当にむちゃくちゃ長かったため、第14回と2回に分けて掲載致します。

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2001年??月

★第14回

 小説としての出来のイマイチさ、ということで言えば、最近読んだのがキャサリン・ネヴィル『8(エイト)』(上、下、文春文庫)。この人は、話を広げるのはすごくうまいのだ。凡人作家が小説を構築するための定番手段は、いろんなネタを塗り重ねることで、その部分は彼女は最高にうまい。古代より宇宙をも支配できる力の謎を秘めたチェスの駒。それをめぐって、フランス革命期の尼僧たちとタレイランやエカチェリーナ皇后が陰謀をめぐらし、そしてそれと現代のプログラマとチェスマニアのコンビの活躍が相互に入り組む大活劇! ただ、そこは凡人の悲しさよ。この人はひろげた風呂敷をまとめられないのね。ちりばめたいろんなモチーフが、最後になってあっさり捨てられて、異様につまらないオチにシュルシュルと収束してしまうのは、怒りを通り越して呆然とさせられる感じ。下巻の半分までは読んでいいな。でもその後は、できれば読まないほうがいいかも。

 小説としての圧倒的なうまさでという点では、フリオ・コルタサルの短編はすごい。『通りすがりの男』(現代企画室)、『すべての火は火』(水声社)。コルタサルの小説はほとんどすべて、ある閉じた世界の仕組みにとらわれてしまった人々の物語だ。かれらがゆっくりと、しかし確実に世界の網の目にとらわれていくところが、人称の微妙な使い分けやかすかなほのめかしによって編み上げられていく。そしてそれが、時にラストであっとひっくり返されたりするときのかっこよさ。この人は、短編作家だけあって、無駄な複線は一つもない。テクニックもスタイルも、洗練のきわみ。洗練されすぎていて、逆に血の気が薄い感じがしてしまうほど。
 逆にマーヴィン・ピーク『行方不明のヘンテコな伯父さんからボクがもらった手紙』は、そういう洗練というのはまったくないんだが、そこが最高におもしろい部分でもある。なんと言っていいかわからないけれど、タイトル通り変な叔父さんが北極から送ってきた冒険絵日記みたいな手紙をまとめた本だ。お供にカメイヌを連れて、伝説の白いライオンを追いかける……まえにいろいろ余談が入って話は一向に進まないのだけれど。ピークのイラストは見事だし、また原作の、誤字脱字訂正だらけのヘタなおじさんの手紙をうまく日本語にしようという訳者や編集者の努力はすばらしい。ゴーメンガスト三部作のおどろおどろしい世界を予想していたら、いやいやどうして、眺めて楽しい読んで笑えるご家族みんなに薦められる健全作品。ピークの変なイラスト作品はもっとあるから、これが売れればもっと出るぞ!
 その中間くらいにいるのがクロウリー『ナイチンゲールは夜に歌う』(早川書房、版元品切重版未定です)。表題作は、涙が出るほどすてき。古い、よくある話――アダムとイブの失楽園――をここまで美しく書き直せるとは。最後の、作品を書こうと考えをめぐらす作品は、小説家志望必読の一方で、まとまらぬ考えの散漫さと開放性を兼ね備えた変な小説だし、真ん中のタイムトラベル小説は、それを支えるために新しく時間理論まで構築してしまったという懲りよう。今までつんどく状態だったけれど、これを期に大作『リトル、ビッグ』(国書刊行会)にも挑まなくては。

 つん読消化で手にしたのが、コリン・ウィルソン『オカルト』。コリン・ウィルソンと言えば、独学で独自の地位を築き上げた、アカデミズムの学者も一目おく市井の哲学者、だとぼくは思っていた。だからこの『オカルト』だって、傾聴すべき見解がちゃんとあるんだろうと思っていたら……おおまちがい。ただのヴァカ丸出し。「悪い予感があたった」とか、「捜し物が偶然みつかった」というのを、いろんな人の著作や発言から聞きかじってきては「これでもう霊感の存在は疑いがたい」って、そんなのいくらでも疑えるよぉ。科学者は頭が固いとか、既成観念にこりかたまっている、進化論も昔は受け入れられなかった云々というのを理由に、だから科学は信用ならんという昔ながらのビリーバー論理。クロワゼットとか霊感捜査もいちいち真に受けてるし、なんとかしてくれ。
 その後の、各種魔術オカルト系話の網羅的なまとめ方はそこそこ役にたつかもしれない。易やカバラの解説とかね。でもちょっときちんとしたまとめが続いた直後に「この易をやった直後にわたしは事故に遭いそうになり……」と始まってがっくり。詩や宗教的恍惚、あるいはドラッグで、いまとはちがう認識体系みたいなのが感じられるのは事実。それを感じる能力が高い人がいることも事実。さらに、だれでもそれを感じられるはずだと思いたい気分もわかる。でもそこからちょっとした表面上の暗合に一喜一憂して、なんでもありのだらしない妄想垂れ流しになってしまう様子は、見るに耐えないものがある。
 コリン・ウィルソンについては触れていないけれど、クロワゼットの批判とか、オランダの屋根から落ちて霊感捜査ができるようになった人のインチキ暴きとか、そこで挙げられているトピックについてかなり触れられているのが、かのと学会主要メンバーによる『新トンデモ超常現象56の真相』(太田出版)。これは、この前の『トンデモ超常現象99の真相』と並んで、資料的にも勉強になります。書きっぷりも例によってわかりやすい。いろんな事件の現場にまででかけて、当事者たちに直接インタビューまでやっている調査力には感服します(相手にはあきれられたそうだけれど)。ちなみにこの本の最後の、棺桶が動く島の話は、ぼくが小学生の頃に「世界怪奇物語」とかいう本に、なまなましい挿し絵つきでのっていて、その挿し絵が恐くてぼくは夜眠れなかったりしたけれど、ふーん、そうか、そういう話だったのね。

 さて、先日知り合いからいきなり、クリストファー・アレクサンダー『パタン・ランゲージ』というのを知っているか、と質問を受けて、懐かしい記憶がよみがえってきた。一時は大好きだったけれど、その後急に熱が冷めたのはなぜだっけ……と思ってアレグザンダー『時を超えた建設の道』(鹿島出版会)を買って読み直してみた。そして思い出した。そうだ。ぼくはこの新興宗教じみた代物に嫌悪を感じて、こっちには近寄るまいと思ったのだったっけ。
 この人は、ぼくの大学生時代にはすごくはやった人なのだ。それも建築業界だけじゃない。かれの「都市はツリーではない」という論文は、これまた最近新興宗教をやっている柄谷行人がドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」(『千のプラトー』(河出書房新社)に収録)との類似性を云々したりして、ニューアカ方面でも結構もてはやされた。ぼくも一時すごくかぶれて、いっしょうけんめい読んだんだけれど、この『時を超えた建設の道』の原著を読んで、げんなりしてやめたんだ。「だが、パタン・ランゲージこそが、無我の域に達する手助けになる」「それは、もはやランゲージを必要としないほど自分の心に忠実に活きる、あの心境へと導く門口にすぎない」「そして最後には、万物の根底に横たわるこの形態が必ず出現する――だからこそ、時を超えた建設の道は真に時を超えているのである」。ぬわんじゃあ、これは。パタン・ランゲージというのは、要するに人は自分がどんな建築をいいと思うかはわかるんだけれど、それを表現することばを持っていないので、いくつか「よい」建築パーツを表すことばを用意して、その組み合わせで一般人に意見を言ってもらおう、という話なんだが……。

 それが途中から、いやそのランゲージは人と場所によってまったくちがうのだとか言いだして(だったらあんたの本はなんなんだい)、さらにその理論を使ってこの人の作った学校が埼玉の 盈進学園東野高校 だけれど……異様だよ。特に周辺から見ると。中も、段差のある柔道場とか、危険がいっぱい。ここを見て、「これが本当に人々の求めた建築なのかなあ」と疑問がわいて、ぼくはもうこの人の本をおいかけるのをやめたのだった。でもこの新興宗教っぽい部分を除けば、いくつか参考になる議論はしているし、また住民参加の方法としても確かに見るべきところはあるんだけれどね。ぼくはこの人が時を超えた建築の真理に到達できたとは思わないし、またかれの手法が一定規模以上で実現可能だともまるで思わないのである。

 同じ建築の本でも、都築響一『賃貸宇宙』は、アレクサンダー的な大仰な構えなしに、実際に人々が住んでいる部屋を、実際に住んでいるままに集めて、さらにそこを彩るいかにも日本ならではの小物(ファンシーケース、タオルケット、卓上コンロ他)をいろいろ切り出して見せる。インテリア雑誌とは無縁、「建築」とも無縁の、でもアレクサンダーが口先では唱える「生きた」日本の空間がここにはある。某誌連載のRoadside Americaは許せないけれど、でもこういうのを真っ正面からできてしまう都築はやっぱりすごい。

 さてこの調子でいくといつまでたっても終わらないので、最後に永瀬唯『腕時計の誕生』(廣済堂出版)。
 サイボーグ的な人間のありかたは永瀬の大きなテーマの一つで、その一環として身につける機械の代表である腕時計にかれの関心が向くのは大いにうなずける。でも、そういうネタを序文でちょっとは振りつつも、この本はそこにはまったく入ることがない。「腕時計は(中略)人と機会の関係性、ひいては人の自身の体へのイメージが根本から変わるに際しての原動力となった」と言うんだけれど、その「人の自身の体へのイメージ」がどう変わったのか、という記述が一切ないのだ。かろうじて最後の、腕時計型携帯電話が普及しないことについての考察が最後にあるけれど、それもまったく不十分なものでしかない。「携帯電話や PHSの普及によって、人は腕時計を持つ必要がなくなった」? いや、単にそこらへんに時計がいくらでもあるから、でしょう。それに続いて腕時計型の携帯電話が普及せず、みんな携帯を首からぶらさげたりポケットに入れたりしているという話から「人と機械の関係性は、十九世紀的なそれ、懐中時計のそれへと回帰するのだろうか」なんて言うんだが……あのですね、腕時計型の携帯電話が普及しないのは、操作時に両方の手がふさがるという決定的な欠点があるから、なんだけどな。ヘッドセット型携帯電話も同じ。入力操作の有無という機能的な考察を無視して、腕時計型とか懐中時計型とかいう形式だけを問題にするのはあまりにお粗末。大月隆寛がレビューを書いているけれど、ほめすぎです。
 本書の価値は、永瀬ならではの執念深い調査力を活用して、腕時計が各地で(たとえばロシアやアメリカ、あるいは女性進出のオフィス)どういう推移をたどってきたかについては実に入念に描きだされているところにあるけれど、それをかれのサイボーグ史観に組み込む作業は、次回作に期待、というところ。でも、腕時計のうんちくを仕込むにはなかなかいい本かも。

 というところで今回はおしまい。

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2001年??月

★第15回

 ご無沙汰っす。最近、朝日新聞の書評委員なんてものをやっているので、なかなか自分できちんと本を買わなくなってしまっているのですよ。日本にいない期間がたまたま増えて、きちんと本屋通いができないというのもの痛い。同時に、本の読み方が粗くなってきたような気がする。書評委員というのは、仕事柄たくさん本を読まなきゃいけないのです。で、本を投げるように読んでいる感じ。
 が、そんな中でなめるように読んだのが石丸次郎『北のサラムたち』(インフォバーン)。ちょうど北朝鮮拉致問題が大きくなってきたところで、よいタイミングで出てきた本。あの瀋陽の日本領事館駆け込み亡命事件の仕掛け人の一人だった著者が、かれの北朝鮮亡命者たちとの関わりを中心に、北朝鮮の惨状とそこから必死に逃げ出す人、逃げ出せない人たちをたんねんに描いたすごい本。著者が亡命者たちに注ぐ目は、尊大さ皆無。かれらの必死の努力を描くとともに、かれらの醜い足の引っ張り合いや密告心理までをしっかりとらえ、読むものを暗澹とした気分にさせる。これじゃうかつに南北統一なんかしたらどうなることやら。北朝鮮の動きが怪しくなる中で、必読の一冊だと思う。同じ著者の『北朝鮮難民』(講談社現代新書)もよい。ここまで深刻なものが重たすぎる向きには、テリー伊藤『お笑い北朝鮮』をおすすめしておく。

 少し軽いものとしては黒田晶『世界がはじまる朝』(河出書房新社)。毎日記憶をなくしてやりなおす女の子の、フラストレーションというか悲しさというか。設定としてはおもしろいし、堂々巡り感とそこからの脱出(寸前)も悪くない。これは『メイド・イン・ジャパン』(河出書房新社)とちがうようで、実は同じような閉塞をテーマにしていて、そしてそれは著者自身の持つ気分をそのまま反映させたものだ。それはそれでストレートで好もしいし、読んでいて変な技巧のない素直さが感じられるのもそのせいだ。ただ、そろそろ一人称以外で書く練習をしたほうがいいと思うぞ。自分のまわりからすこしずつ世界を広げるんじゃなくて、世界から絞ってくるような書き方を練習したほがいいと思う。
 黒田晶のフラストレーションを思いっきりゆがめたのが『クラム』。アンダーグラウンド・コミックの帝王と呼ばれたロバート・クラムのベスト版。足フェチ、高校時代にひたすらいじめられて、女の子にもバカにされてコンプレックスの固まりだったのが、いきなり(多分に誤解半分で)アンダーグラウンドの帝王扱いされてチヤホヤされて、いい気になって女遍歴、虚勢半分で肥大化した自信と、これでいいんだろうかという自信のなさがないまぜになり、ゆがみきったコンプレックスが露悪的に描かれるコミックの数々。登場キャラクターは、爽快感のかけらもないいやな連中ばかり。小心で、卑怯で、こずるくて――そんなあなたにだけお勧め。自分のかさぶたや傷跡を、いけないとわかりつつもつついてしまうような、そんな後ろめたい歓びのあるコミック(人によっては)。
 これを編訳した柳下毅一郎は最近いろいろ精力的に出している。まずは爆笑ものの町山智浩&柳下毅一郎『ファビュラス・バーカー・ボーイズの映画欠席裁判』(洋泉社)。いろんな映画のくだらなさからハリウッドの最低ゴシップまで縦横無尽にカバーしたバカ対談本。でも書いてある内容は、正確きわまりないのが驚き。
 そしてその柳下毅一郎が20年かけてついに出したのがラファティ『地球礁』(河出書房新社)。柳下が初めてこれを訳したのは、ぼくが編集したSF研究会の会誌だったのだ。それが20年たって、やっとやっと本になるとは、個人的にも思い出深い一冊。地球人の親戚筋にあたるプーカ人たちがやってきて、地球をなんとかしようとするが、地球人は性根が悪いし、それにプーカ人たちも地球病にかかっちゃう。そこで地球病に耐性がある、地球生まれのプーカの子どもたちにその任が託され、かれらはバーガハッハ詩を武器に山羊をつれて筏で川を下り、地球人を殲滅すべく血みどろの戦いを繰り広げる……というような話のような代物。通常の、流麗な感情移入ドロドロの臨場感小説とはぜんぜんちがう、ぶっきらぼうで不合理でつじつまのあわない変なお話。でも、なんか裏があり、もっと深い意味がありそうに思える。本当の意味で「神話的」な小説。ただし、あらゆる神話と同じように、骨だけ。いまの小説みたいな丁寧な説明がないので、自分で少し掘り下げられない人はつらいかも。

 ギンタス他『平等主義の政治経済学』は、リアル・ユートピア・プロジェクトというすごい名前のプロジェクトの成果。空想的なユートピアじゃなくて、現実的なユートピアを考えてみよう、というプロジェクト。でもほんの二三冊しか成果物が出ていないのだ。まだプロジェクトとしては続いているのかな。で、この『平等主義』は、その中の経済システムに関する一冊。社会主義というのはもともと、平等を重視する経済システムという見方ができるんだけれど、それが崩壊したために、平等主義の立場がいますごく悪くなっている。経済発展のためには、勝ち組がどんどん勝てるようにしてインセンティブをつけることだ、つまりは貧富の差をどんどん拡大させるようにする弱肉強食資本主義こそが正しい、というのがいまの考えかたの主流になっている。でも、それはまちがいじゃないか、もっと財産の平等を推進したほうが、経済発展に役立つかも、というおもしろい可能性を検討した本。最初の立論と、他の人たちの反論やコメントがおさめられていて、バランスのとれた本になっているんじゃないかな。単に「平等はいい」というだけだと一方的なプロパガンダになりがちなのを、うまく抑えていると思う。がぁ。訳があまりにひどい。全部とにかく金釘流直訳。PTAくらいきちんとPTAと訳せよう。まともに読めたものじゃない。
 まあそれでもおもしろいのが、この本の考え方というのがベロック『奴隷の国家』に非常に近いこと。これはもう1世紀近く前にイギリスで書かれたものだけれど、資本の集中と人々の賃労働化をうれいている本。大工場が一つあるより、小さな工場や商店がたくさんあって、所有が分散されていたほうがいい、というのがこの本の主張だ。賃労働者は、生産の方向を左右もできないし、奴隷にすぎないというのがかれの議論。ただ、それでもかれは悩んでいて、大工場のほうが効率よいという現実の前に、理念的にしか議論を展開できずにいるのだ。その悩みは、本書の弱さでもあるし、おもしろさでもある。
 そしてこの議論は、実はローレンス・レッシグが近著「The Future of Ideas」でインターネットについて展開しているものと非常に似通っている。所有の集中は、その上でおこなわれる活動のコントロールにつながり、それは新しいアイデアの自由な発展やイノベーションを阻害する、というもの。そしてまた、過度な著作権保護や特許保護が、過去のアイデアの利用を阻害してイノベーションを殺ぐという主張も、同じ問題の一部として指摘されている。これまたかれが『CODE: インターネットの合法・違法・プライバシー』で展開した、インターネット上の自由の議論を、イノベーションという観点から語りなおした本。邦訳近刊。実は、この『平等主義』や『奴隷の国家』の所有の集中の話は、かなり現代性を持っているかもしれない。ただし、もうちょっと文脈をしぼってね。
 仕事でも趣味でも環境問題、特に地球温暖化の話が避けて通れなくなりつつあるので手にしたのが『沈黙の惑星』。火星を見れば、地球の将来がわかる、というんだ。火星はかつては生命に満ちた緑の惑星だったのが、いまの死の惑星になった。地球温暖化をなんとかしないと地球も死の惑星になるぞ、と。この理屈でいくなら、火星も温暖化のために死の惑星になった、ということが言えないとダメなのはわかるよね。ところが。この本がいうのは、火星はかつて二酸化炭素による温暖化のために生命が栄えていたが、隕石衝突で大気がふっとんで死の惑星になりました、ということ。じゃあ、火星なんか見ても地球温暖化の先行きなんかわからないじゃないの。そして、火星に生命があったという証拠は一切なし。さらに二酸化炭素をたくさん吸うと人は死ぬ、なんてくだらない話をちりばめて、だから二酸化炭素を減らせ、と脅し、そして今後の対策としては核融合の研究と宇宙移住を進めろ? そんなのまともに実現可能性が(近い内に)あるとでも思ってんの? 支離滅裂、トンデモ、現実感覚皆無。読んで久々に本気で腹がたった本。

 腹がたったといえば、『スポーツイベントの経済学』。イベントの経済効果ってむずかしいんだよね。すでに記憶の彼方だけれど、ワールドカップがあったでしょう。チケットは売れたしグッズも多少売れたけれど、一方で試合中はみんな夜遊びしないでテレビ見たので、街がさびれていて繁華街やタクシーは商売あがったりだったのを覚えているでしょう。結局、本当にワールドカップ開催(あ、共催、ですな)は経済的によい効果があったのか、実はよくわからない。あの各種スタジアムを今後どうするのかも頭痛の種だ。でもこの本は、そういうことをまったく書かずに、もうひたすらスポーツイベントはいい、経済を潤す、とはやし立てるばかり。無責任もいいところ。そしてそれもそのはず、著者はJリーグや大阪オリンピック誘致の委員。だからスポーツイベントはいい、と書くのも当然だわな。悪質なプロパガンダ本。

 高山宏『エクスタシー(高山宏 椀飯振舞 I)』(松柏社)。高山宏は、いろんな外国の理論家を紹介してくれているのには感謝しているんだけれど、こうしてかれの文だけを集めると、かなり辟易。自慢ばっかりで、そればかりか他人が自分を誉めている文やファックスまでぶちこむ有様。あとこの人は博覧強記なんですがそれ以上の構築力がなく、あれこれ他の理論家の名前を並べ立てるだけでその間にはさまる理屈がほとんどない。たまにあっても、実に浅はかな時評と一知半解の世間話。コンピュータがどうしたとか言いたがるわりには、デジタル化とプログラミング言語の概念もよくわかっていない模様だ。おまけにポピュラー文化に疎いくせに何やらひけらかしたがる様が吹き飯もので、ラストのカヒミ・カリィ論なんか読んでるほうが赤面しちゃいます。やっぱりかれの文は、翻訳書の解説くらいで読むのがまあいいんじゃないか、という感じ。
 高山のコンピュータ音痴ぶりは、ミッチェル『リコンフィギュアード・アイ』についての文あたりにも出ていて、ほめた最後に変な揚げ足取りはするけれど、この本の決定的な詰めの甘さを指摘できていない。それは、いったんデータ化されてCGになったとき、「視覚」というものがいままでの意味を失う、ということなのだ。CGのある一部の「10010」というデータと、サンプリングされたサウンドの同じデータとは、まさに「同じ」データだ。その可能性をミッチェルはまだ考えきっていないのだ。それでもミッチェルのこの本は、視覚のテクノロジーと文化的意味とを橋渡しする上ではとてもいい本。
 それと、高山の似たようなことを言っているものをたくさん並べて系譜を指摘する、というやり方は今後、どんどん意味を失うだろう。似たものがあるだけでは、もはやそこに系譜や関係性は言えなくなりつつある。人口が増えると、確率的になんでも起きるようになってしまい、何かできごとの間に関係を見いだすのは不可能になる――その可能性をスタニスワフ・レムは『捜査』(ハヤカワ文庫)や、絶版だけど『枯草熱』で指摘していた。そして同時に、ウィリアム・バロウズのカットアップ技法は、いろんなものをランダムに切って並べ替える。そのとき、二つのものが同じ内容を含んでも、そこに系譜を読みとるのが正しいかどうかはわからなくなる。それは『裸のランチ』(河出書房新社)のいろんなエピソードの併置でもそうだ。それは音楽ですでにあたりまえとなっている、リミックスやサンプリングともつながる発想だ。そしてそれを自動化して押し進められると、いずれ機械の「文化」、機械の「小説」なんてものも可能になるかもしれない。

 てなことをいろいろ考えたのが、ぼくの連載をまとめた山形浩生『コンピュータのきもち』だ。コンピュータのデータ処理、その原理や考え方、おたくのコンプレックスに著作権とネットの自由の話を山ほどぶちこんだ、まあ例によって得体の知れない本。個人的にはそこそこうまくまとまったと思うんだが、まあそれはみなさまの評価次第。てなことで。

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