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ascii.PC 連載 コンピュータのき・も・ち

――あるいは How to be an Computer Otaku

番外編: 著作権を尊重しすぎるのは、本来の趣旨に反することなのだ

コンピュータのきもち

(『コンピュータのきもち』単行本)
山形浩生

コピーと知的財産

コンピュータそのものからはちょっと離れるけれど、コンピュータを 使うにあたって必ず問題になることがある。それは著作権の問題だ。

  コンピュータがいちばん得意なのは、まあ計算だということになって いる。でも、実際にコンピュータの普及に役にたったのは、それがいろ んなものを簡単にコピーペーストできるということだ。だれかの文章。 いろんな数字やデータ。プログラム。ファイル。それをどんどんコピ一 して、再利用できることこそが、コンピュータの普及には大きく役にた った。最初にパソコンが大きく普及する原因になったのはまずは各種の 表計算ソフトとワープロソフトだった。1回作ったデータや文書を、何 度も使える――これがいかに便利だったことか。国勢調査データや大景 の実験データで何か研究をした人なら、1回作ったデータを再入力しな おす作業のむなしさはよく知っている。しかも、打ちまちがいの入り込 む余地がない。これがどんなにすごいことかは、容易に想像がつくだろ う。もういろんなものをゼロから作る必要はない。すでにある基盤をも とに、ちょっと修正したり、自分なりの加工をするだけでいい。

  そしてここでもまた、マッキントッシュの果たした役割はすごかった。 従来は文字や数字だけだったのが、画像や音声までコピーペーストでき てしまうーそれも、たとえばある絵の背景だけコピーしたり、好きな 色をコピーしてきたり。それはコピーペーストで可能になることの範囲 を圧倒的に広げ、そしてそれを一般の人にも広めてくれた。

  インターネットがここまで大きく広がったのだって、コピーペースト のおかげだ。みんながウェブページをどんどん作るようになったのは、 そのソースをみんなすぐに見て、他人のやったことを真似できるせいだ。 この人が、このぺージの字をチカチカさせるのはどうしているんだろう とか、文字を大きくするのはどうすればいいんだろうとか、疑問に思っ たらその場ですぐにソースを見て、それを自分のぺージにぺーストして 使える。そうやってみんなお互いにコピーしあうことで、ウェブは爆発 的に広まり、そして現在に至る。

  コンピュータだけじゃない。写真というものが生まれ、映画が生まれ、 テレビが生まれ、レコードやテープレコーダが生まれたことで、20世紀 には複製による新しい表現や可能性や産業が爆発的に拡大した。日本の 発展だってそうだ。日本は欧米のいろんな製品をコピーして、それをさ らに改良することでオリジナルを上回るものを作り、それによって発展 をとげてきた。あるいは子供の育ち方を考えてほしい。コピーする能力、 真似する能力は、人間の発展の基礎になってきた。コンピュータが人問 の発展に寄与するとしたら、それはまさに他人の(あるいは自分の)成 果をコピーする能力を拡大してくれるせいだ、とさえ言える。

知的財産は人類全体の財産

  ところが、コンピュータでそういうことをはじめるとて、 必ず問題になってくるのが、著作権【注1】というやつだ。

  いま、ぼくたちが耳にする著作権がらみの話のほとんどは、「著作権 は守りましょう、違法コピーはいけません」というものだ。「これはあ たしが作ったんだから、あたしのものだ」「おれが撮った写真だからお れのもの」「ぼくが書いた文だからぼくのもの」――これは一見もっと もな主張に思える。そして、いろんな著作権を守りましょうという議論 は、それを盾にして押してくる。「あなただって、自分の作ったものを 勝手に断りもなしに使われたらいやでしょう、だから違法コピーはいけ ないのです」というわけ。

  でも、これをあっさり認めてしまうのは危険なことだ。コピーこそが 人間の発展の原動力の一つなら、それを著作権なんかで制限してしまっ ていいんだろうか?これはよく考えないといけない。そしてそれをき ちんと考えるためには、著作権とか知的財産権の基本的な意味を考えな いといけない。

  知的財産というものを考えるにあたって、絶対におさえておくべき基 礎がある。それは、知的財産というのが基本は人類全体の財産だという ことだ。知的財産、つまり情報はいくらでもコピーできて、いろんな人 が同時に使える。ぼくの知っていることをあなたに教えても、ぼくの知 識は減らない。そしてぼくが知っていることをあなたに教えれば、あな たとぼくとが同時にその知識を使っていろんなものを生産できる。その 知識を知っている人が多ければ多いほど、生産できるものは増える。だ から、知識は本来、なるべく広くたくさんコピーしてばらまいて使える ようにすべきものだ。それを制限してはならない。だれかが何かを たとえば E=mc2とかいう理論式でもいいやを思いついたら、そ れはもうだれでも原則として自由に使える。シェイクスピアや近松 や、マックOSやウィンドウズも、『千と千尋』もマリリン・マ ンソンの歌やビデオも、原則としてだれでも何の気兼ねもなしに白 由に使ってかまわない。コピーするのも自由、勝手に刻んで自分なりに アレンジするのも自由。アイコラだってもちろんやっていい。小説 も、映像も、音楽も、すべて原則としてどんどんコピーしてばらまいて かまわない。あなたがシェイクスピアや近松の戯曲をいくらコピーして 配布しても、何の問題もないどころか、そうすることは望ましいことだ。 これが知的財産の基本だ。基本はすべて、コピーしても無料でばらま いてもかまわない。それをきちんと理解しておこう。

  ただし、もしそうやって何でも自由に配布していいことにすると、作 るほうの人が苦労して新しい知的な財産を作らなくなるだろう、という 心配がある。見返りがなければだれも新しい発明や、新しい小説や、新 しい音楽や映画を作らないだろう。それではかえって困るので、一時的 に限られた独占権を認めることで、発明家や開発者やアーティストたち にいろんなものをどんどん作ってもらおう。そのための独占権が、著作 権というものだ。

  だからそれは、完全な独占権を認めるものじゃない。一時的、部分的 な独占を認めるもので、いずれ自由にそれは流通させてもらうよ、とい うのが基本的な前提になっている。そしてその権利の範囲も、無制限じ ゃない。それは開発者たちや作者たちが、次の作品を作り出すだけのや る気が出る程度に認めるべきものだ。それ以上著作権の範囲を広げるこ とは、そもそも自由に流通して万人に使ってもらうべき人類全体の財産、 という知的財産の根本的な性質を妨げるものだ、ということだ。新しい ものが生み出される程度に、ほどほどに認めればいいし、それだって一 時的なものにすぎない。

  ところが、いまの知的財産権の動きは、この基本をどんどん無視する 形で進んでいる。著作権をどんどん拡大解釈して、あれもこれも、保護 しろ、尊重しろの一点張りだ。いろんなパソコン雑誌でも、著作権がど うしたとかいう話になると、必ず著作権の専門家と称する人が出てきて、 尊重しましょう、無断で使ってはいけません、保護しましょうのオンパ レードだ。本来、そういうもんじゃないはずだ。そりゃあメタリカの連 中は、自分の曲がネットで違法コピーされて出回ったらおもしろくない かもしれない。だからメタリカは、ナップスターつぶしの旗をふっ てさわいでまわったし、結果としてナップスターみたいな音楽ファイル の共有はダメだということになった。でも、本来考えるべきだったのは、 メタリカの連中のご機嫌うかがいなんかじゃなかったはずなのだ。曲が 多少違法コピーされたら、メタリカはもう新しい曲を作らなくなるだろ うか?本来考えるべきはそういうことだ。そしてぼくは、別にメタリ カの子たちと知り合いじゃないけれど、ナップスターがあったってかれ らは曲を作るだろう、と思う(それに最近のメタリカはつまんないので、 別に連中が引退したってぼくはいっこうにかまわないのだ)。そしても しメタリカの連中が曲を作り続けるのであれば、ナップスターをつぶす 理由はなかったことになる。そして、それでメタリカの連中が多少気分 を害したところで、それがどうしたといふのだ。

何もないところから作ることはできない

  そもそも、著作権を認める根拠となっているフィクションが一つある。 それはこう、えらい作者が、無からいきなり「作品」を作りあげる、と いうお話だ。人はあたりまえのように「これはあたしが作った」「ぼく が書いた」と言う。だからこそ、その人に一時的にせよ独占権を与えま しょう、という話になるわけだ。

  でも――「あたしが作った」とか「ぼくが書いた」というのはどこま で本当なんだろうか。写真の例がいちばんわかりやすいだろう。あなた は具体的に何をしただろう。構えてシャッターを押しただけだ。実際に その写真を物理的に作ったのは、そのカメラだろう。あるいは(まだ銀 塩フィルムを使っている人なら)そのフィルムじゃないか。あなたじゃ ない。さらにそこに写っているものは、別にあなたのおかげでそこにあ るわけじゃない。そこに写っている建物、家具、街路や車、そして人 ――それはみんな、だれか他の人が作ったものだ。あなたの撮った写真 は、そういういろんな他人の作業からのインプットがあって初めて成立 している。じゃあ、カメラマンが自分の撮った写真を「おれの写真」と 言うのはおかしいじゃないか。自分一人がそれを「作品」として作りあ げたようなことを言うのは、変じゃないか。あなたは他人の作ったもの を組み合わせただけだ。あなたカメラ会社に断ったの? 背景の道路や 建物の作者に断ったの?

  文だってそうだ。あなたが映画を見て、その感想を書く。あるいは本 を読んで、それについて何か書く。あるいは何か旅行について文章を書 く。それはあなただけの文か?「だってあたしがいなきゃこの文はあ り得なかった」とあなたは主張するかもしれない。でも、それを書くた めの材料を与えてくれた映画や本や旅行先のいろんな風景や施設だって、 その文にとっては重要だろう。それがなきゃ、あなたはそんな文を書こ うとは思わなかったはずだ。あるいはそれを書いた紙は?鉛筆やペン は?コンピュータは?

  もちろんそれに対してカメラマンは「いや、カメラはちゃんと金払っ て買った、それをおれがどう使うかはおれの勝手だ」と言うだろう。あ るいは文なら「いや、この映画や本はちゃんとお金を出して買ったんだ し、それをどう料理しようと自分の勝手」と言うだろう。じゃあ、なぜ 写真でそれが認められないの? ぼくはこの写真を買った。それをどう 使おうがぼくの勝手だどうしてそう言えないの? あるいはあなた はこの本を買ったんだから、それをコピーしようとウェブに載せようと まったくかまわないはずだ(ちなみにこの本の大部分はホントにウェブ に載っているけれど)。

  ぼくの言いたいことはわかるだろう。だれも、何もないところからな んかものは作れない。いろんなインプットがあってこそはじめてモノづ くりは可能になる。これもまた、著作権なんてものを野放図に認めるべ きでない理由の一つだ。アーティストと称する人たち、クリエーターと 称する人たちだって、いろんなところからいろんな材料をもらって、そ の基盤の上で新しいものを作っている。中にはかれらがお金を払ったモ ノもあるだろうけれど、そうでないものも無数にあるはずだ。そしてそ うやって自分たちも無料でフリーの材料に負うところが大きいんだから、 他人に対しても、無制限に権利主張をすることが認められていいはずは ない。それをやると、いずれ自分の首を絞めることになる。

  そして実は、まさにいま言ったようなことが本当に起きはじめている。 他人に対して、著作権を守れだの無断使用をするなだのと小うるさいこ とを言い続けてきた映画業界は、これでいま非常に困った状況になって いる。いま、映画のエンドクレジットを見てごらん。すごく長いでしょ う。昔の映画は、最初にぞろぞろっと出演者の名前が出て、最後に The End と出たら映画はそこで終わりだった。ところがいまは、エンドクレ ジットが10分くらい続く。そしてそこを見ていると、信じられないよう なものまでいちいちクレジットされている。ロケ隊の食事のケータリン グをしたのがどこか、とか。主演のスターのペットの面倒を見たのがだ れか、とか。ロケ用の携帯電話はどこの会社のものがどこの代理店経由 で手配されたか、とか。送迎用の車はどこが手配したか、とか。そんな、 だれも興味を持つとは思えないような話がいちいち書かれている。そし て、それをしないとアメリカでは訴えられたりする。だからいまアメリ カの映画製作者は、画面に映るものすべてをクレジットして、すべてに 許可を取る。たまたまロケをした部屋に、日立の冷蔵庫があったら、日 立に許可をもらう。コクヨのホチキスが写っていたら、コクヨに許可を 取らなきゃ。アスキーの本が写っていたら、アスキーの許可を取る。そ れがぼくの著書なら、山形にも許可を取る。それが映画とはなんの関係 もなくても、だ。

  そして万が一何か抜けがあると、たいへんなことになりかねない。 『12モンキーズ』という映画は、どこぞのデザイナーが「映画の中 にオレのデザインした椅子のスケッチに似た椅子が無断で映っている」 とゴネたために公開が中断したりした。『バットマン・フォーエバー』 は、どこぞの建築家が、画面に映った庭のデザインが自分の設計による ものだというケチをつけて、公開が遅れそうになったそうな。

  こんなのが本当にいいことだろうか?こうやって権利を守ることで、 新しい映画が生まれるようになるだろうか?映画作家たちは、「これ で安心して映画が撮れる」と思って新しい映画をどんどん作るようにな るだろうか?まさか。そんなんじゃあ、だれも自分で映画を撮ろうな んて思わないだろう。カメラマンになろうなんて思わないだろう。だっ て面倒だもん。こわいもん。どこでどんなものが映るかわからないし、 許可が取れるかわからないし、見逃したら訴えられるかもしれないし。 もしそうなら、この著作権や知的財産権の発想はまったくの失敗だっ た、ということになる。というのも、知的財産権なんてものを考える唯 一の理由は、さつきも言ったように、みんながいろんなものをどんどん 作るように、やる気を出させるためだからだ。新しくものを作る妨げに なるようじゃ、その目的はまるで達成されていない。

だれのための著作権なのか?

  残念ながら、著作権を弱くすることでメリットをこうむるのは、未来 の人、これから出てくるアーティストや視聴者たちだ。それを強くして 儲かるのは、既存の著作権保持者だ。後者は金もある。組織もある。前 者は、いまはだれかさえわからない。すると世の中は、既得権益の保持 者たちが、知的財産権を使って目先の利益を確保するにはどうしたらい いか、ということしか考えないような方向に進むことになる。いま起き ているのは、まさにそういうことだ。そしてその連中の言うことは、ど んどん異様になりつつある。資料や媒体のなるべく自由な利用によって メリットを得るはずの新聞社や出版社なんかが、知的財産権を守れ強化 しろというキャンペーンの先頭に立って旗を振ったりしている。日本の あるテレビ会社は、自社ビルに肖像権がある、なんてことを真顔で言い 出している。そういう主張が、当のテレビ局自身のクビを絞めることに なるのがわからないんだろうか(わからないんだろうね)。みんながそ んなことを言いはじめたら、ニュースもドラマも、何一つ成立しなくな るぞ。それがわかっているんだろうか。ある物書きの寄り合いは、図書 館や新古書店のおかげで自分たちの本の売り上げが減っているから、図 書館に自分たちの本を置くな、なんてことを真顔で主張してる。図書館 に置かれることで生まれる新しい読者のことを考えているんだろうか、 その人たちは。そして自分がものを書くときの資料集めに、図書館が多 少なりとも役にたっていることを考えないんだろうか?

  著作権がらみの話を読むときは、だから口先のことだけ考えずに、い ま書いたようなことをちょっと念頭においてほしい。いろんなパソコン 雑誌なんかで、著作権の話をするときに出てくるのは、たいがいが既得 権益保持者の手先たちだ。かれらはもちろん、著作権を強化しろ、と言 うだろう。それが連中の仕事だもん。著作権はどんどん強化されるべき で、罰則はどんどん厳しくするべきで、みんなも自分が著作権を侵害し ていないかひたすら自主検閲すべきだ、という話をする。でも、そんな のはウソだ。それによってあなたが、何か新しいもの――それがアイコ ラであれ、替え歌であれ――を作る気がなくなってしまうなら、それは 著作権の本来の意義を踏みにじるものでしかない。だからみんな、そん なものは無視してしまえ。いくらでもコピーして新しいものを作ってそ れをばらまこう――と言えればどんなにいいことか。でも、くやしいこ となんだけれど、いまの法律とその運用のもとでは、これはそこそこの リスクを負う行為であることは事実だ。

  じゃあどうすればいいだろうか? いますぐ法律を変えることはできないんだし。

とりあえず、あなたにできることからはじめてみよう

  ぼくもこの大きな流れを変えるにはどうすればいいかわからない。た だ、もしなんらかの選択をする機会がきたら、いまぼくが書いたような 話を考えてみてほしい。

  実際、こうした風潮を嘆いて、具体的にそれに対抗しようとしてる人 たちは多い。白分たちはいろんなものをフリーで享受したんだから、自 分でも何かそこに足して、他の人たちにお返ししよう、という人たち。 あるいは、やたらに「権利」を主張しすぎることで、かえって新しいも のづくりや学習の機会が失われている状況を嘆いて、自分で新しく価値 あるものを作って、それをフリーで公開しようとする人たちだ。新聞や 雑誌で、リナックスやフリーソフトについて読んだことがあるだろう。 ボランティアの人たちが、なんの対価もなしにどんどんソフトを開発し、 改良して、ほとんどなんの制限もなしにそれを無料で公開して、それを 他人が勝手にいじって変えるのも自由。そしてこれが、多くの支持者を 生み、優れたソフトがたくさん生まれている。

  文章でもそうだ。自由にコピーできる文章をいっぱい作ろうとしてる 人たちがたくさんいる。たとえば著作権の切れた文献をどんどん.電子化 して無料で配布できるようにする、プロジェクト・グーテンベルグ。 その日本版とも言うべき青空文庫。ぼくも及ばずながらやっている。 フリーの翻訳をどんどん公開して自由に使えるようにしようというプロ ジェクト杉田玄白だ。

  みなさんも、もしこの文を読んで思うところがあるなら、こういうプ ロジェクトにちょっとでいいから参加してみてほしいな、とは思う。そ して、それ以上にこういうプロジェクトとは関係なしにできることがあ る。自分の作ったものを、なるべくフリーで公開することだ。利用に条 件をつけないで、だれでも好き勝手に使えるようにしてどんどん発表す ることだ。

  人は自分には甘い。この文を読んで、ふんふんとうなずいてくれてい るあなたでも、いざ自分がウェブページを作って、それがどこかで罵倒 されていたり、あるいは雑誌でいつのまにか無断で紹介されていたりし たら、いきなり知的財産権だの自己同一性なんとかだのをふりかざしは じめる。無料の利用ならいいけど、商業利用はダメだ、なんてのも多い。 でも、そういうせこいのはやめよう。いいじゃないか、無断で紹介した って。なぜいけないの?「それが礼儀だ」とかいう間抜けな意見以上 のまともな理由をぼくはきいたことがない。お金儲けされるとそんなに いや? もともとあなたはそれでお金儲けをするつもりなんかなかった んだから、他人がそれでお金儲けをしたって別に気にしなくたっていい じゃないか。だからウェブページを作るときに「禁無断転載」だの「営 利目的の利用を禁ず」だのとかいうくだらない条項をつけるのはやめよ う。だれでも、自由に使っていいものをどんどん増やそう。そして、す でにあるフリーの材料をどんどんコピーして増やしていこう。それがま さに、コンピュータの得意技でもあるんだし。


【注】

著作権

自分の著作物を他人に勝手に利用さ れないように、原作の無断使用を禁 止する権利で、著作権法によって定 められている。その適用範囲は、文 学、学術、美術、写真、音楽、脚本 などの創作物でプログラムなども含 まれる。保護のための条件としては オリジナリティ(他人の作品を模倣 したものでないこと)があげられて いる。保護期間は、創作時から著作 者の死後50年間に及ぶ。しかし、コ ンピュータとネットワークが普及し て、だれでも容易にさまざまな著作 物のコピーが可能になり、法律が実 体に追いついていない面がある。

E=mc2

この式は、天才科学者アルバート・ アインシュタインが1905年に発 表した特殊相対性理論の中で明らか にしたもの。Eはエネルギー、mは 質量、cは光の速さ (秒速約30万㎞) を表している。エネルギーと物質の 質量は変換可能であるということと、 その際のエネルギーは膨大であると いうことを示している。原子爆弾や 原子力発電は、ウランやプルトニウ ムなどの物質の質量を膨大なエネル ギーに変換している実例といえる。

シェイクスピア

1564年生まれのイギリスの劇作 家。喜劇、悲劇、史劇など幅広いテ ーマの作品群を創作した。1616 年没。

近松

近松門左衛門。1653年生まれの 劇作家。浄瑠璃・歌舞伎作者として 活躍。代表作に「曾根崎心中」「女 殺油地獄」「国性爺合戦一などがあ る。1724年没。

『千と千尋』

「千と千尋の神隠し』。2001年に 公開されて大ヒットした宮崎駿監督 によるアニメ映画。どこにでもいる 現代っ子の千尋という少女が不思議 な街に迷い込み、冒険しながら成長 していく物語。2002年のベルリ ン国際映画祭にてグランプリにあた る「金熊賞」を受賞。

マリリン・マンソン

1989年に米国で結成されたロッ クバンド。過激な楽曲とライブで宗 教団体からバッシングを受けたり、 99年に起きたコロラド州の高校生の 銃乱射事件では犯人に影響を与えた として排斥運動を受けたりしたが、 それを逆手にとったライブビデオを リリースしたりとしぷとく活動中。

アイコラ

アイドル・コラージュの略.アイド ル写真と他の人物の写真を画像編集 ソフトで結合し、現実にはないアイ ドル写真(多くの場合はヌード写真) を合成したもの。

メタリカの連中…

ヘビーメタルバンドのメタリカは2 000年4月に、著作権を著しく侵 害されたとしてファイル交換ソフト 「ナップスター」の開発元のナップ スター社に対して訴訟をおこした。 ナップスター社は著作権者からの相 次ぐ訴訟によってサービスを停止し たが、ファイル交換ソフトは「WinMX」などに進化し、著作権者と ユーザの争いはまだ続いている。

『12モンキーズ』

1995年に公開されたテリー・ギ リアム監督によるアメリカ映画。ほ とんどの人類が細菌で絶滅してしま った未来から、過去にその原因を主 人公である囚人(ブルース・ウィリ ス)・が調査に行く物語。

プロジェクト・グーテンベルグ

著作権が失効した古今東西の文献を 電子テキスト化するというプロジェ クト。入力はボランティアにより行 われていて、収録文献数は5000 を超える。複製の配布は基本的に無 償で行え、商用利用にも一定のライ センス料をとるだけで許可を与える。 プロジエクト名は、活版印刷をなし とげたグーテンベルグに由来する。

青空文庫

日本語の著作権切れの文章を電子テ キスト化するプロジェクト。入力は ボランティアで行われ、ウェブサイ トでは多くの日本の作家の名作を無 償で読むことができる。

プロジェクト杉田玄白

著作権が切れた文章や著作権の存在 しない文章を翻訳して、フリーで公 開するプロジェクト。通常の翻訳物 では、原作の著作権が切れても翻訳 者の著作権が残り、公開が遅れるの で、それを是正しようとしている. ボランティアの翻訳者によリ、『不 思議の国のアリス』『賢者の贈り物』 『聖書』等、多数の名作が翻訳され ている。主催者は本書の著者。


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