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ascii.PC 連載 コンピュータのき・も・ち

――あるいは How to be an Computer Otaku

連載第 8 回:コンピュータのネットワークは、貧乏くさいのである。

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(ascii.PC 2002 年 1 月号)
山形浩生



 ネットワーク。これはつまり、コンピュータ同士をつなぐわけだけれど……考えてみれば変な発想ではある。だれも冷蔵庫や洗濯機や、電気釜やガスレンジを相互に接続しようとは思わない。いや、まあそういう発想はなかったわけじゃない。一時はインテリジェント家電とか全自動住宅なんてものがあって、いろんな家電製品を結んで、そのすべてをプッシュホンで制御、というアイデアはあった。が、まったく普及しなかった。

 もちろん、洗濯機とコンピュータじゃやることがちがうんだから、洗濯機をネットワーク化するなんて意味がない。でもじゃあ、コンピュータをネットワーク化することに、何の意味があったんだろうか? そしてなぜそれが普及したんだろうか?

 これについては、いろんな説明があるだろう。ネットワーク化すると、ああいういいこともある、こういう御利益がある、云々と。考え方もさまざまだ。でもぼくは、「あれができる」とかいうメリットからコンピュータのネットワークってものを理解するのは、必ずしもいいやりかたじゃないと思うのだ。それは、その根底にある一つの発想、そしてコンピュータそのものが持っている一種の欲望みたいなものを隠すコトになると思う。それは、ショボいから共有する、というある意味で貧乏くさい発想と、そしてなるべく遊び時間をなくしてめいっぱい使いたい/使われたいという欲望だ。

 ネットワークというのは、なにもコンピュータのネットワークだけじゃない。電話のネットワークもある。その他郵便ネットワーク、鉄道ネットワーク、電力のネットワーク、道路のネットワーク、その他いろんなものがある。こうしたネットワークの基本的な機能は、何かを運ぶということだ。A地点からB地点へ、そこにないものを運ぶ。それはメッセージだったり、電気だったり、車や電車、そしてそれに乗った人や貨物だったり、いろいろだ。そして、通常コンピュータのネットワークを分析するときも、こうした他のモノを運ぶネットワークと同じやりかたで検討されることが多い。でも、コンピュータのネットワークには、大きなちがいがある。コンピュータのネットワークは、もちろんデータを運ぶものではあるんだけれど、そのねらいがちがうんだ。ほかのネットワークは、単に伝える/運ぶものだ。でも、コンピュータのネットワークは、基本的に資源を共有するためのものだからだ。

 電話のネットワークでは、共有なんて発想はいっさいない。ぼくの留守番電話を5人くらいで共有して使いましょう、なんてことは絶対に起きない。鉄道ネットワークでも、こっちの駅と向こうの駅で何か共有されるわけでもない。でも、コンピュータのネットワークが何に使われるかというと、それはいろんなリソースを共有するためだ。たとえば、オフィス全体で一台のプリンタを共有するために、オフィスの中にLANを引いたりする。あるいは、どこかにあるでかいハードディスクを共有するために、ネットワークを構築するわけだ。冷蔵庫で、でかい冷蔵庫をみんなで共有というのはないわけじゃない。が、それはネットワークの発想にはならない。

 じゃあ、なぜコンピュータでは、共有化のためのネットワークが重要だったかというと、それはむかしのコンピュータがショボかったからだ。単体では何もできず、また外付けのいろんなものを自前でそろえるほどのお金をみんな持っていなかったからだ。みんな貧乏が悪いんや――ある意味でコンピュータネットワークの根っこには、こんな気分がある。

 ちょっと歴史の話をして説明しよう。

 ご存じのとおり、パソコンっていうのは本体だけじゃ大したことはできない。まず、いろんな周辺装置がいる。プリンタがなければ印刷できないし、カメラやスキャナがないと画像を取り込めないし。また、使うためには前回まで話した、オペレーティングシステムなんてものが要る。そしてその上で、実際に人間さまに直接使われる、いろんなアプリケーションソフトがあるわけだ。たとえば表計算のエクセルとかネットスケープとかポストペットとかね。

 で、パソコンのネットワークは、まず周辺機器が不足しているからみんなで共有しよう、という発想から始まった。一般にその最大のものはプリンタだ。オフィスでは、書類なくして仕事は進まない。高速で品質の高いプリンタ、特にレーザープリンタは、もうだれもが使いたがったんだけれど、これは初期はすごく高価ででかいものだったし、とても一人一台なんて無理だった。ぼくが初めて就職したとき、レーザープリンタは20人くらいで一台を共有している状況で、そのため職場の床にはそれぞれのコンピュータからケーブルがぞろぞろのびて床中を覆い、プリンタ切り替え機を三段くらいかませて使っていた。  ちなみに、ここでもマッキントッシュはすごかった。そもそも当時は、ネットワーク機能のついたマシンのほうが珍しくて、LANを構築しますというと、業者を入れて大騒ぎになって、すさまじい請求書をつきつけられるのがふつうだった。それがマックだと、標準装備。コネクタをピッと刺すだけだ。さらにいま、インターネットに接続しようとすると、いろんな「設定」と称するものがいっぱい必要なのはご存じだろう。でも、マッキントッシュのネットワーク機能は、そんなものがほとんどなかった。ほとんどそのままでネットワークが構築できて、10分でみんながレーザープリンタにつながっているし、ファイル共有もできる。

 いまでも、人によってはこれを超えるパソコン系のネットワークは登場していないとさえ言う。もちろん、データをやりとりする速度の面では、当時といまじゃ桁がちがう。でも、つなげばそれでおしまい、というこの手軽さに関しては、確かにマッキントッシュは未だに目を見張るものがある。ましてそれを10年以上前に実現していた先進性は、もう脱帽するしかない。

 ショボいから、共有するためにネットワーク――これはパソコンに限った話じゃない。何度か前に説明した大型計算機では、ショボかったのは何よりも CPU の処理能力だったのだ。だからこそ、ネットワークを作って、空いてるCPUを探してそこに自分のファイルを送りつけ、休まず仕事をさせられるようにしよう、というのがネットワークの基本的な発想だった。CPUの側から言えば、CPUは高いものだったので、遊ばせるなんてもったいない。だからなるべく休みなしで使ってもらえるようにするのが吉。

 インターネットだって、そもそもの発想は、こういう無駄のない共同利用をどう実現するか、という話だ。いま、人がいちばんよく使うネットワーク系のサービスは、たぶん電子メールだろう。でもあまり知られていないことだけれど、インターネットで最初に整備されたのは、ファイル転送だ。ほかのマシンにファイルを送って処理してもらおう、というわけ。電子メールは、そのファイル転送の変な使い方として後から出てきた。お手紙をファイルにして送るやつが登場して、これは便利だってことであとから分かれて整備されてきたものだ。

 ときどき思うことだけれど、いまみたいな高性能システムが20年前に普及していたら――CPU時間は余りまくり、ディスクはもうガバガバに余ってて、レーザープリンタ一人一台だって十分に可能だったら――ひょっとしてネットワークなんてものは発達しなかったかもしれない。

 もちろん、ショボいというのは相対的なものでしかない。パソコンとかなり似たものとして、その昔ワープロ専用機っていうのがあった。これは中身はパソコンそのもので、性能的にはいまから見ればショボかった。でも、ここにはネットワークの発想は起きなかった。それはそれで、完成されたものだったからだ。ハードウェアは完全にそろい、ワープロソフトにかな漢字変換ソフト完備、プリンタは内蔵され、ファイルの保存も可能――そこには何も欠けていなかった。だから、ネットワークをつける必要はほとんどなかったし、またその後、あとづけでネットワーク機能をつけたワープロ専用機なんてのも出てきたけれど、とっても所在なげだったし、すぐ廃れた。

 そしてワープロ専用機は、きちんとした目的がある。でもパソコンの多く、いわゆる汎用コンピュータの多くには、これといった明確な使用目的がない。新しいソフト、新しいハードを追加すれば、どんどん新しいことができる。でもその一方で、このためにパソコンはつねにショボい状態におかれることになる。新しい目的が出現したとたんに、それはしょぼくなる。だからこそ、常時いろんなものを共有する必要が出てくる。パソコンでのネットワークはそのために普及したんだという見方もできる。わかるだろうか。

 さらにこういう「ショボいから共有でなんとか」という発想は、もちろん人間側の都合もあるけれど、一方で実はマシンの側の都合で決まっている。手持ちのハードを、なるべく遊ばせないでなんとかいちばん効率よく使おうというのがその根本にあるからだ。必ずしもそんなことをする必要はなかった。オレは自分だけで自分のマシンを使うもんね、という態度をとることだってできた。でも、それは無駄の多い、非効率なこととして排斥された。それはある意味で、マシンの欲望でもある。

 そしてもちろん、コンピュータでいちばんショボくて不足していたのは、ソフトウェアだ。昔のソフトウェアは、ハードウェアのおまけだったり、あるいはみんなが自分で使うために勝手に書いたものだから、どんどん共有されていった。もちろんその頃は、ソフトウェアを商品として売る、という発想はそもそもなかった。コピー禁止だの、改変禁止だの、そんなことはそもそも考えるまでもなかった。むしろ、どんどん共有をすすめることがコンピュータを最大限に使うことにつながり、それはよいことだ、というのがかつては基本認識だった。

 その後、商用ソフトやパッケージソフトというのが出てきて、こういう認識は変わった。それでもその間隙をついて、たとえばナップスターとかグヌーテラとかWinMXとか、いろんなファイル共有のための仕組みが出てきている。これはある意味で、足りないモノを共有で、というネットワークの基本にとっても忠実なソフトでもあるわけね。そしてCPUの空き時間を使って宇宙人探しをしたり、暗号を解読したり、白血病のクスリを探すプロジェクトが最近出てきているけれど、そういうのにみんながホイホイ協力するのは、ある意味でコンピュータを最大限に使いたいという欲望(それが人の欲望か機械の欲望かはさておき)におどらされているわけだ。

 そしてこうして見ると、インターネットの普及によって、一時は劣勢を強いられていたUnixが復権をとげたこと、そして中でも、共有の原理を極端にまで押し進めたリナックスをはじめとするフリーソフトが大躍進をとげたのは、いまにして思えば必然だったような気もしないでもない。Unixの利用者にはもともと、いろんなものを共有しようという文化があった。お互いに人の書いたソフトを使って、独自に改良してはそれをみんなの共有知識に中に戻す――それによって、みんなが幸せになろうという文化がかなりあった。そしてインターネットそのものも、そうした文化の一つの発露だった。ソフトの共有。くだらない情報の共有。学術的な知識の共有。それを実現させるための手段としてインターネットは開発され、発展をとげていった。それが一般に普及したときも、Unixはネットとの相性がきわめてよかった。

 そしてそのネットワークの根本原理である「共有する」「貧乏人同士が助け合う」を徹底的に実践することでできてしまったのが、リナックスなどのソフトだったのね。みんながソフトを自由に使って、自由に改良して、改良した部分を他のみんなにも提供する――理想としては美しいけれど、実際には絶対不可能だとほとんどだれもが思っていたことが、あっさり実現した。いろんな人がソフトをチェックすることで、まちがいの少ない品質の高いソフトがボランティアだけで作られてしまった。

 すごい。

 なぜそんなすごいことが実現できたのかについては、いろんな議論や研究がある。でも、ぼくは最近、それはコンピュータのネットワークというもの自体が持っていた、共有したいな/共有させてね、という、ある意味で貧乏くさい欲望の発露だという気がしてきている。ネットワークを使うときやいじるとき、その欲望が実感できるかどうかで、相性がかなり変わってくるんじゃないか――ぼくはそう思うのだ。

 じゃあ具体的には? それを次号でちょっと書いてみよう。


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