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ascii.PC 連載 コンピュータのき・も・ち

――あるいは How to be an Computer Otaku

キーボードとディスプレイの間には 深くて暗い川がある(かも)

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(ascii.PC 2001 年7月号)
山形浩生



 前回は、パソコンが「わかる」ようになるためには、コンピュータの「きもち」がわかるようになったほうがいい、という話をした。自動車を運転するときの「車両感覚」みたいに、コンピュータが自分の一部になったような、パソコンがなにをしているのかが感じとれるような、そういう感覚を身につけるのが大事だ、という話をした。

 というわけで今回は、そのパソコンと人間とのいちばんの接点、キーボードとディスプレイの話。

ディスプレイとキーボードのセットがコンピュータだと思っている人は、実は結構いる。ディスプレイって言うのは、その字とか絵とかがいろいろ表示されているテレビみたいなもんだ。最近は液晶が増えてきて変わったけれど、しばらく前はパソコン全体で一番でっかく、しかも机の上でいちばんいい場所を占領していたのは、そのディスプレイだった。そしてもちろん、いちばん手の届きやすい場所を平然と占領しているのは、キーボードだ(マウスの話はまた後で)。だから多くの人の意識の中で、パソコンといったらそれはキーボードとディスプレイのセットのことだ。コンピュータ初心者が引っ越しのときに、ディスプレイとキーボードだけ持ってきて動かないと文句を言い。「本体はどうしたんです」と言われたら「あの箱は使わないしじゃまだから捨ててきた」と答えた、という冗談があるけれど、これはかなりの人にとってマジな話。

ラップトップのパソコンを見なれている人はなおさらだ。デスクトップから入った人は、ラップトップというものを見るとき、無意識のうちにそれを薄く横に切っている。そして、ふたになったディスプレイと、いちばん底の本体と、そして本体の上に薄くのっかったキーボードと、という切り分けをやってしまう。でも、ラップトップしか知らない人だと「本体とキーボード」という概念区分なんか必要ないから、もちろんそんなことは考えない。で、そういう人に操作を電話で説明するとき、「本体の横にフロッピーディスクを入れるところがあるから」というと、「本体って、このキーボード?」とそういう人はきいてくる。薄く切ってしまうぼくなんかはそこでつい「いやキーボードじゃなくて本体……」と言ってから、しまった、と思うのだ。

ディスプレイとキーボードという見えやすい部分。そしてそれと独立した(ように見える)本体。そこにいまのコンピュータの、わかりにくさの一つの原因があるんじゃないか、とぼくは思っているのだ。

 キーボードとディスプレイという組み合わせは、だれでも見当がつくことだけれど、もともとヨーロッパ系言語のタイプライターがモデルになっている。タイプライター、というものを知らない人はいないだろう。むしろぼくを含め、年寄りのほうが、実物を見たこともあってよく知っているはずだ。ぼくはむかし、母親の持っていたオリベッティのポータブルタイプライターで遊んでいたのだ。当時の普及版マニュアルタイプライターは、とにかくコスト節約と小型化のために数字の1がなくて、小文字のLで代用したんだよ。あと数字の0(ゼロ)は、大文字のOね。むかしディルバートで同じネタが出てきたときには懐かしくてつい笑ってしまった。あと、シフトキーを押すと、印字機構全体が下がるんだけれど、それが重いんだ。しばらくやると、シフトキーを押す小指がガチガチになってきて、半分くらいしか押せなくなって、そうなるとできた手紙の大文字は全部、半文字ほどずりあがってるんだ。

 それはさておき、マニュアル式のタイプライターには、メカニズムの明快さがあった。なにせ、ほとんどすべてはむきだしになっていたから。キーを押す。するとテコの原理で、活字のくっついたアームが勢いよく飛び出してきて、インクリボンの上から紙をたたく。すると字が目の前の紙に叩き出される。キーボードとディスプレイは、ここでは完全に一体になっていて、そしてキーボードからディスプレイ(つまりは紙)につながる一連の動きもはっきりと見て取れたし、指にこめる力の強弱が、打ち出される文字の濃淡にはっきり反映される。

 いまのあらゆるパソコンは、このインターフェースをモデルにしている。マッキントッシュとか、ウィンドウズとか、Linuxとか、いろいろパソコンにも流派がある。でもそのすべてのキーボードの並びは、タイプライターのキーの配列をそのまま再現したものだ。日本で普及しているものは、数字の下の一行が左からQWERTYという文字の並びになっている。これは英米式のキーボードがそうなっているからだ。フランス語のタイプライターは、これがAZERTYという並びになっている。だからフランスのコンピュータのキーもそういう並びだ。

 パソコンとワープロの普及で、たぶんいまの20才以下の人は、タイプライターの実物なんかさわったことはないんじゃないかな。ぼくがこれまでまわった発展途上国でも、タイプライターをいまだに使っているのは、バングラデシュくらいのものだ。でも実物は消え失せようとしているのに、いまもタイプライターの呪縛は、パソコンを支配している。

キーボードだけじゃない。年長の人は書類をプリントアウトするとき、つい「打ち出す」と表現してしまう。レーザプリンタやインクジェットしか知らない人は不思議に思ったかもしれない。あれは人がいかにタイプライターにとらわれているかをはっきり示す表現だ。タイプライターは、書類を本当にバシャバシャと音をたてて「打ち」出す。多くの人はその感覚が、いまだに指先や耳に残っているんだ。ちなみにそういう人は、紙のコピーを「焼く」と言うことが多い。これも「青焼き/黒焼き」という古代テクノロジーの名残だ。これはまた別の機会に。

 そんなわけで、タイプライターの記憶は、コンピュータを本当に深くしばっている。日米のコンピュータ格差のかなりの部分は、おそらくそれ以前のタイプライター普及度の差に原因があるのだ。タイプライター経験の多いところは、パソコンも入りやすい。タイプライターの呪縛から逃れようといういろんな運動はある。別の配列のキーボードを使おうという運動や、TRONキーボードやeggみたいにキーボードの形そのものを変えようとか。音声入力を主流にしょうとか、もっと肉体の動きをそのままコンピュータに読ませようとか。でも、どれもイマイチ成功していない。唯一これとちがったものを実現して、しかも成功しているのは、ザウルスやパームという電子手帳みたいなものだけだ。

そしてその呪縛は、キーボードとディスプレイの関係にもまだ残っているわけだ。むかしは、それは直結していた。その直結ぶりは、目でも、指先でも確認できた。そしてそれは直感的にとてもよくわかる関係だ。だから多くの人は、パソコンでもキーボードとディスプレイが同じように直結している、という感覚を持っている。本体がそこで何かの役割を果たしているという考え方が、どうしても実感として理解できない。だから最初のほうで出てきた、「使わない箱(本体)は捨ててきました」という発想が出てくる。

でもパソコンでは、それは直結していないのだ。キーボードとディスプレイは、パソコンでは断絶しているんだ。  それはパソコンで始まった断絶じゃない。実はそれは、後期の電動タイプライターが出てきた時点ですでに登場した断絶だ。電動タイプライターは、指先でキーを押す力にかかわらず、一定の強さで印字してくれた。もうあの重いシフトキーを小指で押さなくてもいい。文書の文字に変な濃淡もできないし、シフトのずれもない。そして後期の電動タイプライターには、さらに大きなメリットがあった。マニュアルタイプライターは、ある程度以上高速でキーをたたくと、キーがつまる。一つの字のアームが戻る前に次のがきてしまうと、そこでアーム同士がからまってしまう。初期の電動タイプでは、ごくまれに機械が追いつかないと字がとぶこともあった。ところが、後期の電動タイプライターでは、それが絶対に起きない。押したキーを機械がおぼえていて、少し遅れても機械がきちんとその順番に印字していってくれたからだ。

 でも、それはとっても不思議な感覚だった。自分がタイプし終わった5秒あとまで、タイプライターはパチパチと字を打ち続けている。それは確かにぼくが打ったキーボードの字ではあるんだけれど、でもその時キーボードと印字面(ディスプレイ)との間には直接の結びつきはなくて、間に何かが入っていて、それがぼくの打ったキーを真似している。そして普段でも、キーを押すのと実際に印字されるのとの間には、ほんのちょっとだけれど、確実に感じ取れる遅れがあった。機械式のマニュアルタイプライターになれたぼくにとって、その遅れはすごく気持ち悪いことだった。その変な間に入ったぬるぬるしたもの(という気がしたけれど、それはむしろキータッチや、電動タイプのすごく静かな動きからきた印象だったかもしれない)が、本当に信用できるのか、一ヶ月くらいぼくは半信半疑だった。自分が指先から伝えていた思考のダイレクトささえ失われて、その遅れの間に自分の考えまでがなんだかゆがめられるような気さえしていた。

 パソコンも、まったく同じ仕組みになっている。それどころか、その間に入ったぬるぬる野郎が、もっとでかいツラをするようになっている。電動タイプライターの、間に入ったぬるぬるは、それしかしない。こちらの打ったキーをおぼえて、それを印字する部分に次々にわたす仕事をひたすらやるだけだ。そしてそれだけは確実にやってくれる。ところがパソコンの場合、キーボードを押すとなにが起きるかは状況によってまったくちがう。たいがいは、キーを押すと、なんかそれに対応した字が画面に表示されることが多い。でも、それはその間にはいったぬるぬる君が、たまたまそうすることにしているから、というだけの話だ。キーを押すだけでは、コンピュータにとっては何の意味もない。なにが起きるかというと、キーに対応したデータが送られるだけだ。それをどう解釈して、どう処理するかは、キーボードにつながった本体でどんな処理がされることになっているか、という約束ごとでしかない。たとえばスペースキーは、ワープロを使っていたらそのまま空白が画面に表示される。でも、ワープロでだって、スペースを押すとかなが漢字に変換される場合だってある。ゲームではミサイルを発射するキーだったりする。そのときのぬるぬる君の解釈に応じて、パソコンの本体はいろんな処理をする。そしてその結果(のごく一部)が、ようやくディスプレイには表示されるわけだ。

 この、キーボードとディスプレイの間の断絶を感じとること。その間にいる、ぬるぬるした存在を実感として感じること。パソコンをパソコンとして使ううえで、最初の大きな障害はこれだ。初心者は、キーボードとディスプレイの間に確固たる関連がない、というのをどうしても直感的に把握できずにいる。キーボードの動作と、コンピュータのディスプレイ上の動きとが、一対一の対応関係がある、とついつい思ってしまう。表計算での操作が、電子メールでもできると思ってしまう。

 その発想を、まず捨てなきゃいけない。

ぼくはいま、これをパソコン上のエディタ(ワープロのできそこないだと思ってくれい)で書いている。キーを押すと、人間にわかる遅れはいっさいなしに、それが画面に反映される。

 でも、ぼくはそこに遅れを感じている。何かそのキーと画面の字との間に、ぬるぬるしたものがいるのを実感として感じている。自分の思考が加工されているのを感じている。データがキーボードから流れて、足下のこの箱や、地球の裏まで送られて、そしていじくられたあげくに、送り返されて、このディスプレイに表示されている、そのデータの流れをなんとなく感じている。キーボードとディスプレイの間に、実はあまり関係がないのを、そうやって感じている。

 あなたもそれを感じなきゃいけない。

 むかしは、マシンが遅かったから、それを感じるのは簡単だったのだ。だまっていても、キーを押してから画面に字が出るまでには遅れがしばしば出た。マシンが高速になったおかげで、それがかえって理解しにくくなっているのかもしれない。

いまでも実際に遅れが出ることはある。いくらキーをたたいても、それが受け付けられずに、しばらくしてからパラパラっと、さっきタイプした文字が表示されることがある。

 パソコンの理解というのは、その遅れを常に感じることだ。その遅れの間に、なにが起きているかを理解することだ。パソコンのすべては、そのキーボードとディスプレイの間にある。だからそこに「間」があることを、まずは理解しなきゃいけない。わかるだろうか。つまりあなたは、まずタイプライターの呪縛――キーボードとディスプレイの直結――から逃れなきゃいけないのだ。


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