人は最初は白紙状態で、環境や努力ですべてが決まるという思想は、ここ数百年で とても大事な役割を果たした。不合理な差別は劇的に減ったし、教育の整備なんかも この思想の影響が大きい。  でも、この思想には大きな問題がある。まちがってるんだもの。人間の相当部分は 遺伝的に決まっている――それがこの本の主張だ。  類似テーマの本は多い。昔のものは遺伝要因を意図的に過小評価しがちだったが、 近年の研究成果から遺伝要因の重要性を明言する本も出てきた。だがその社会的な意 味となると、類書の多くは言葉を濁す。本書はちがう。本書は「人は最初は白紙」と いう思いこみが今や有害だと明言する。人間の遺伝要因を否定すれば問題の真の解決 をかえって遅らせてしまう、と。  たとえば暴力。人間は本来は暴力的ではないという節がある。暴力や戦争は文明の 病であり、暴力的なメディアや子供時代に受けた暴力等のせいだ、と。でも先住民族 は実はどれもえらく暴力的だし、メディアと暴力もほとんど無関係だ。人は生まれつ き暴力的で、文明社会はむしろその傾向を抑えてきた。テレビやマンガなんか規制し たって何の解決にもならない、とピンカーは言う。  あるいは男女の性差。男と女は遺伝的にちがう。それは嗜好にも出る。男女の職業 的な偏りは、社会の洗脳のせいだけじゃなくて、遺伝的な部分が大きい。だから女の 政治家や重役が少ない等の結果平等を求める悪しきフェミニズムはまちがっているし、 「男の子/女の子らしい」遊びを弾圧し、性的役割分担をすべて否定したがる昨今のジェ ンダーフリー思想は、子供を混乱させるだけだ、と本書は述べる。  他にも子育て、政治、芸術と、ピンカーの批判は多岐にわたる。日本での各種議論 (メディア規制やジェンダーフリー教育等)にも直結したものばかりだ。結論の多く は「進歩的」とされる発想や論者をまっこうから否定するので、驚く人も多かろう。 だがピンカーのていねいな記述は、読んで楽しいばかりかきわめて実証的だ。さらに 邦訳は、注や参考文献まできちんと載せ、議論の根拠をすべて検証可能にしてくれて いる。  過去に遺伝要因を指摘した本の多くは、欧米では反動差別文書として大迫害を受け た。ピンカーもこの一冊で社会生命を断たれる可能性だってあった。そんな危険を冒 してまで本書を世に問う勇気と知的誠実さには頭が下がる。そして既存理論を批判し つつ、本書は進化に根ざした新しい人間理解を提示し、それに対応した教育や社会像 まで描いてしまう。人の遺伝的欠陥を補う望ましい社会とは――本書はそれを提案し つつつ、単なる通俗科学解説書を超えて来るべき新たな総合学問体系すら浮かび上が らせてしまう。恐るべきパワーと射程だ。もちろんピンカーの期待する社会が実現す るにしても、あと優に五十年はかかる。だが半世紀先の見通しを与えてくれる本が、 ここ二十年で他に何冊あっただろうか?