朝日新聞書評 2005/1-3

 

前田建設『前田建設ファンタジー営業部』(幻冬舎)

 かのマジンガーZの格納基地――それも移動エレベータから割れるプールまですべて――を実際に作ろう! 中堅ゼネコン前田建設がこの問題にマジで取り組んだのが本書。放送の各回を見ては仕様を読み取り、図面を引いて、技術的な可能性をあれこれ探る――それもどうせアニメだから、といい加減に取り組むのではなく、工法や設備などを現在の技術的な可能性の中で十分に検討し、それにちゃんとお金と時間の裏付けをつける! お値段しめて七十二億円、工期六年五ヶ月だそうな。地味なそろばん勘定と思われている積算プロセス(いや、地味なそろばん勘定ではあるんだが)を、ここまで笑えて勉強になる夢のあるものにした力業には感服するし、だれも実現するなんて思ってなかったものに敢えて生真面目くさって取り組んで平然と実現してみせた、地味な土建屋ならではのちゃめっけに脱帽だ。しかしこれを本気で発注する道楽者がどっかにいないもんかなあ。

(コメント:掲載時には改行を入れられた。確かによく見ると、全部ずらずら続いてしまってるなあ。書評としては、時間切れ気味だったのと、あと CUT とかでもほめたので、まあ 400 字かなと思って。)
 

スタニスワフ・レム『高い城・文学エッセイ』(国書刊行会)

 レムは『ソラリス』などで知られるポーランドのSF作家である。論理的ながら(いやそれ故に)異様なアイデアと、厳密な知性のもたらす緻密な作品世界は根強いファンを擁する。だがSF評論家としてのレムは、まとまった形では本書が待ちに待った本邦初紹介となる。

 一読して驚かされるのは、レムのSF論の異様なまでの堅苦しさと偏狭さだ。レムにとって正しいSFの方向性は一つ。種としての人類や社会に科学や知識や進化がどう影響を与えるか、厳密かつ論理的に検討すること。それ以外は上っ面だけのまやかしでしかない――。

 えー、そんな勝手な基準を勝手に作られましてもねえ。

 典型的な例はダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』の評。このSFは急激な知能増大と喪失を経験する少年の喜びと悲しみ(それは人間すべてが共有するものだ)を描いた名作だが、レムは知性増大の社会的影響の考察がないと批判する! レムのSF論は、こうしたピント外れな議論だらけで一般性のかけらもない。偏狭さからくる論理的厳密性は、作品構造の分析などには威力を発揮している。だが一方で、ナボコフ『ロリータ』をロリコン性愛文化小説としてのみ論じた一文の奇怪さなどはちょっと比類がない。

 だが……当のレム自身の小説は、まさにかれが推奨する「理想の」SFになりおおせている。その偏狭な、というかストイックなSF観は、レムが数々の傑作を生み出す基盤になっている。確かにそこには、見落とされてきた可能性があるのだ。だがそのレムは、普通の小説から、架空の小説の序文や書評といった妙な形式に移行し、八〇年代には小説の断筆宣言までしている。これまた何事かを物語るものではある。

 SFの真の可能性とは何なのか、そしてレムの小説の核心はどこにあるのか――収録された三〇年も前の論文群のつきつける問題は、今なお力を失ってはいない。さらに本書には、レムの回顧録『高い城』も収録されている。これまたレム好きにはたまらない一編となっている。

(コメント:レムコレは、最初のソラリスはパスしたけど、まあこれはやんないと。文学エッセイはもうちょっとまとまったものをやってほしかったんだけれど、まあ愚痴をいってもしょうがない。それに控えてるので、扱えそうなのは、フィアスコに変身病棟くらいで(復刊はダメだし短編集は、いまイチのような気もするし、ネタになるかどうかわからん。それと、レムのSF論ってみんなほめるけど、偏狭で一般性はまったくない。厳密な分析しているように見えるのだって、偏狭な基準を設定しているからこそ可能になっているだけ。それはだれかが指摘しないと。沼野ジューギはそれがわからないはずないんだけれど、解説では日和っている。)
 

赤沢威『ネアンデルタール人の正体』(朝日新聞社)

 編著者の赤澤威は、シリアのデデリエ洞窟でネアンデルタールの全身化石を掘り当てたラッキーな人物だ。その赤澤を中心に、ネアンデルタール人の全体像を描き出そうとした野心的なシンポジウムの記録が本書だ。

 しかもそのプレゼンがいい。読まれる本であることを最大限に活かし、出土の状況や人類史の位置づけはもとより、遺伝子分析、骨格の復元や食生活から、頭蓋骨から推定される脳の構造をもとに、かれらの言語や精神世界まで、各分野の専門家にきっちり説明してもらう。さらにはそれを総合した生活像まで、現状で学問的に推定できる範囲できちんと示してくれるのだ。

 これで読者はネアンデルタール人たちが俄然、身近な存在に思えてくる……かどうかはわからない。実はぼくは、むしろかれらとの溝のほうを強く感じてしまった。従来の通俗的なネアンデルタール像は、人類との類似性を強調する。死者に花を供えて埋葬したとか、壁画を描いたとか。でも本書はそういう媚びたサービスはしない。いまの人類と姿形や暮らしは似ているのに、脳の構造から推定してかれらはまったく違う精神世界に住んでいたらしいのだ。似た部分とちがう部分のコントラストが、わずかな差から生じる両者の溝の不思議をくっきり浮かび上がらせるのだ。

 本書にはもう一つポイントがある。個別領域を狭く深く追求するのが学問のありがちな方向性だけれど、本書はそれを集大成して全体像を見せようとする。その全体像から今度はその個別分野――言語学や骨格の再現技術、人間の成長分析その他――が迫力を得る。古代人類学とは一見無縁に思える分野が、協力しあうことで未知の世界を描き出せる――本書はそうした学問のつながりとパワーまで感じさせてくれる。こういう努力がもっと増えれば、一部で騒がれるような理系離れや学問離れも食い止められるんじゃないかな。どうやってそうした総合を実現するか――本題のネアンデルタール人とは別のところで、これまた本書から読み取るべき重要な点なのだ。

(コメント:はい、最終回。赤沢先生の講義は一学期ほど受けたことがあるんだ。まだデデリエ人を見つけていない頃で、その頃からいろいろおもしろい研究はしていたんだけれど、「やっぱり骨を見つけたいよねー」としきりに言ってたんだけれど、ホントに見つけられておめでとう、と思っていたら、かなりたってからこんなおもしろい本が出てきた。)



朝日書評一覧 山形日本語トップ


YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)