朝日新聞書評 2004/01-03

 

チョムスキー『生成文法の企て』(岩波書店)

 子供は「パパでちゅよー」等のろくでもない単純な文章を聞いているだけで、すぐにややこしい文章を理解し、自分でも無限の文を作り出す能力を獲得する。その入力の分析だけでそれが可能だとは考えにくい。人間だけが生物として持つ言語器官があるのでは? その器官の能力にいろんな変形処理が加わって、普通の言語能力が実現されているんじゃないだろうか。とすればその器官の能力(生物学的)と、変形処理の仕組み(プログラムみたいなもの)が解明できれば、世の中にある言語が、もっと見通しよく説明できるようになるだろう。

 本書はこうした発想の生成文法理論をめぐり、その開基の祖たるチョムスキーが縦横に語った実におもしろいインタビュー集だ。決して入門書ではない。訳者解説も詳しいし、注も丁寧だけれど、特に生成文法理論自体(とその進展)に関する議論はかなり専門的で、業界の内輪話的な部分も多い(逆に専門家にとっては大きな魅力だろう)。でも、これは専門家だけのための本ではない。非専門家にとっての本書の醍醐味は、言語学と他の各種学問分野との関係についての議論だ。言語の生物学的基盤、脳科学や進化論との関わり、人工知能やコンピュータからのアプローチ、そしてかれが何を捨て、何が有望と考えているか。言語学の現状に対する不満(まだ記述にとどまり科学になっていない、等)、言語学は認知心理学の一分野になるべきだ、といったどこまでまじめかわからない発言や、科学における「正しさ」と「美しさ」の関係についての議論など、言語学自体の広がりを示すとともに、幅の広い知的関心を刺激してくれる。ピンカーの著書などで生成文法に関心を持った向きにはお勧め。

 またチョムスキーの社会問題関連発言にしばしば影を落とす、経済学に関する一知半解ぶりを示す発言まできちんと収録され、注でそのまちがいぶりがばっちり指摘されているのには、驚くとともにその誠実さに感心。参考文献や索引も完備され、学問的な良心を貫徹させた好著だ。

(コメント:言語学系ってやなんだよねー。言語学関連の人ってほんっと重箱の隅つつくのが好きだし、排外主義的だから。でも、これはむずかしいけど紹介しといたほうがいい本だと思う。特に、チョムスキーの経済学がらみのトンデモが堂々と載って、堂々と批判されているのはすごいと思った。ふつう、教祖様の話をありがたくうかがう式になりがちなこの手の本で、大拍手。あと、田中克彦本への恨みも草稿では入れたが、さすがに字数の都合で最終的には削った。なお、「おめー、わかってねーだろ」とのおしかりが早速とぶ。ううううう)
 

米田雅子『田中角栄と国土建設』(中央公論新社)

 いまや田中角栄といえば、日本の土建国家化の主人公で、政治家の地元利益誘導や官僚のばらまき公共事業など現代日本をダメにした仕組みを作った主人公、ロッキード事件の汚職政治家というのが一般通念だ。ところが本書は、角栄が「列島改造論」をはじめいかに優れた構想力と実現力を持っていたか、そしてそれが現代日本の基礎を築くにあたっていかに重要な役割を果たしたかについて、むしろ肯定的に描いた本だ。かれの政策がその時代の日本では合理的で革新的な政策だったことを示しつつ、現在ではそれを超える新しい産業や国土発展の仕組みが必要だと訴える。類書に多いつまらん人間ドラマに頼らず、シンプルながらフェアで客観的な記述で、角栄の政策の迫力をきちんと伝えている。おかげで著者が提案する新しい仕組みが相対的にしょぼく見えてしまうのはご愁傷様だが、まあそこまで要求するのは酷か。建設的な田中角栄理解に通じる数少ない一冊だ。

(コメント:著者は NPO の人で、どうせまたありきたりな角栄批判か……と思ったら、意外や意外。しかも検索かけると、角栄がらみの本って、ホントどうしようもないくだらないゴシップ集みたいなもんしかないのね。ちゃんとこうやってフェアな政策評価が出るのはえらい。)
 

クッツェー『夷狄を待ちながら』1200 字ボツ版(集英社文庫)

 クッツェーはとても達者で器用な小説家だ。それはこの『夷狄を待ちながら』でも明確に見て取れる。舞台はある帝国の植民地。地元民たちは帝国の支配に従っているものの、先住遊牧民である夷狄たちのゲリラ攻撃は次第に強さを増し、帝国は軍事と拷問による恐怖政治で弾圧を図る。話者たる民政官は夷狄の女を通じた対話路線を模索するが、相手にされないばかりか、内通者の嫌疑をかけられて自らも拷問を受ける側に立たされる。やがて帝国支配は混乱のうちに消え去り、話者はその体験を記録しつつ、夷狄たちの到来を待つ……

 支配者/被支配者、男/女、著者/読者、善/悪――ここには一見、こうした単純な二項対立のように見えるものが多数登場する。しかしその「対立」は決して正面切ってぶつかることがない。両者は常に、微妙にずれ、第三項を介し、やがてはその対立そのものの存立が揺らぐ。しかもそれらの対立構造は、相互にからみあい、重ね合わされ、それが小説全体に深みを与えるよう入念に計算されている。最後の雪だるまの寓意を筆頭に、その記述も上品で実に巧妙だ。

 そして……それがクッツェーの凡庸さなのだ。これらが実に教科書通りでしかない、ということが。

 この小説に描かれているのは、南アフリカ(ひいては植民地)における善意の統治者の不安だ。それはそれで、植民地支配の一側面としておもしろい視点ではある。だがなぜそれを小説に? 別に厳しい検閲下にあるわけじゃない。もっと具体的な記述はいくらもあり得るのに。それどころかここでは、その視点が小説として抽象化されることで、ただの上品な知的意匠になり下がっている。ぼくたちはすでにここに描かれた「問題」を知っているし、それに対してどういう顔をするのがファッショナブルかも知っている。そしてこの小説の記述は、逡巡した挙げ句に話を先送りにするところまで、まさにそのファッション通り。そこには何も新しいものはない。本来、各種の対立概念の解体には、その対立の構図自体がある種の枠組みの押しつけなのだ、という批判がこめられていた。でもここでは、それはむしろ日和見と優柔不断の正当化となり、もったいをつけるための道具としてのみ機能している。

 そしてこれは、小説というジャンル自体の問題でもある。いま小説を書くとはどういうことなのか? テレビも、映画も、ノンフィクションもある時に、小説が持つ比較優位とはなんだろう。それはできあいの「問題」を上品に優柔不断化して安心させる仕掛け、ではなかったはずなのだ。だがそんなクッツェーが二〇〇三年のノーベル文学賞を受賞したということは、ある象徴的なのかもしれない。『夷狄たちを待ちながら』は、決してつまらなくはない。適度な問題意識、高い洗練度にスノビズム少々――見事ではあるし、知性をくすぐる読書体験はお保証できる。が、それだけだ。そして、それだけじゃダメなはず、なのだ。

(コメント:載るかどうかわからない。ただ、クッツェーって久々に読んだけれど、器用なのに深みのない作家。さらに、なぜ小説でなければいけないか、という必然性がまったくなくて、現代において小説を書くということについての自覚が全然ないのが致命的。逆にそれが、いまのノーベル賞だとか小説の現状について何事かを語っているだろう、と思って書いたが、基本は罵倒書評は載らないはずなので、これもどうなるか不明。載らなければ使い回す。(結局載らなかったので、CUTで使った。)

 

クッツェー『夷狄を待ちながら』(集英社文庫)

  最近の芥川賞にお嘆きのあなた。身辺風俗雑記にとどまらぬ現代的な問題意識、多様で風格を保った文体、安易な解決を許さぬ深い思考、そんな大文字の文学をお求めのあなたにお薦めの一冊。舞台はある帝国の植民地。先住遊牧民である夷狄たちのゲリラ攻撃は次第に強さを増し、帝国は軍事と拷問による恐怖政治で弾圧を図る。話者たる民政官も対話路線を模索するうちに内通者の嫌疑で拷問を受ける側に立たされる。やがて帝国支配は混乱のうちに消え去り、人々は夷狄たちの到来を待ち続ける……

 支配者/被支配者、男/女、著者/読者、善/悪――こうした単純な二項対立図式が、本書では常に微妙にずらされては揺らぐ。まさに教科書的な二項対立の解体。テーマも植民地支配/グローバリズム、セックス、権力関係と暴力という具合に、時事性の高い世界的な問題が見事に重層化されている。最後の雪だるまの寓話などの語りすぎない上品で巧妙な表現力も心憎い。

 そして……それがクッツェーの凡庸さなのだ。

 本書は、流行りの現代的問題をきれいに小説化している。でも、それだけなんだもの。そこに新しい思考材料や独自の答への試みはあるか? ない。本書は「南アで私は黒人が怖かった」という著者の個人的な問題を知的意匠で一般化して逃げている。そして文学/小説という仕組みは、ここでは抽象化と洗練により問題を直視しないためのごまかし機構なのだ。

 さて小説ってそんなものだったっけ?

 それは現代における小説や文学の困難でもある。飢えた子供の前で文学が何の役にたつか、と聞かれて「その飢えた子供を問題化するのが文学だ」と述べた人がいる。その意味でなら本書は立派に文学している。でも今や問題を伝えるならテレビやネットのほうが圧倒的に有利だ。もうそれじゃ足りないのだ。ならば今日の文学や小説の比較優位とは何だろう。本書は実に過不足なくおもしろいし、読んで決して損はしない。でもたぶん重要なのはそこであなたが何を感じないか、なのだ。

(コメント:ホントはもっと長くいいたかった。たぶん、小説とかのあり方が写実性ではすまなくなっている、ということ、そしてそれはバージェスが言っていた、第一種小説と第二種小説の差をますます浮き彫りにするものだ、ということ、そしてたぶん、第二種小説の中でもさらに細かい区分を考える必要があるかもしれない、という話もいずれしなきゃ。だが 800 字ではこれが限界。つめこみすぎたかな?
 あと、訳者の行った「夷狄」ということばの選択は、ぼくはまちがっていると思う。もちろん、文筆業界の自主検閲は知っているけど、でも barbarian ということばの普通さとはかけはなれた、わざとらしいことばでしょ。土人とか野蛮人にすべきだったと思う。
 もともと 1,200 字欄用に書いたんだけれどボツ。1200 字欄はやっぱ強力大プッシュ本をとりあげたい、とのこと。まあそうだよね。というわけで 800 字にしました。ちょうど芥川賞を女の子二人がとって、ブンガク云々という声も大きくなったことだし。)

 

マゲイジョ『光速より速い光』(NHK出版)

 物理学者の伝記は多いし、すごい人はすごい。でも物理学者が楽しそうだと思わせてくれるものは少ない。せいぜいファインマンくらいかなあ。ニュートンは生涯童貞だったし、みんな専門バカのつまらなそうな人だったり、あまりお知り合いになりたくない明らかな変人だったりするんだもの。

 そんなところに出てきたのが本書。いまのインフレ宇宙論って変じゃないか。光速度一定という前提を見直し、エネルギー保存則を破れば、もっと簡潔な説明があり得るんじゃないか、という理論を唱えている若き(ぼくより若い!)気鋭の物理学者の、半分自伝のような、半分自説解説のような一冊だ。

 いま、ちょっと物理の知識のある人ならトンデモ警報を激しく点滅させただろう。エネルギー保存が破れたら、世の物理法則はめちゃくちゃだい。何をバカな。ところがこれはちゃんとした理論なのだ。こういった法則は、局所的には正しい。でも、宇宙の他の場所ではちがうかもしれない、ということ。本書は、この理論の大枠について実に要領よく解説してくれる。同時にその理論がいかにして発展してきて、どう受け入れられてきたかという経緯も実に詳しい。友情、恋愛、ゴアでのレイブ、反目と和解。著者のそうした生活の各種要因が、この理論の発達と実に有機的にからみあっている。リンゴが落ちてくるような革命的な出来事が一つあるわけじゃない。生活のすべてが物理理論の探求と関係しあう――そうか、物理学者であるって、こんなに楽しく生き生きとしたものなのか!

 しかもその物言いの率直さ(というか口の悪さ)は実に痛快。いまや物理学界で最もファッショナブルなM理論(超ひも理論のなれの果て)やループ重力理論に対し、かれはエレガンスだけで自己陶酔してバカじゃねーの、と述べて曰く、こうした理論は「「神様が自分にフェラチオしてくれると思ってる」! いいなあ、若いって。物理学することの興奮を直接に味わいたい人、そして最先端のちょっと非主流派理論に興味のあるすべての人にお勧めの一冊。

(コメント:なかなか元気が良くてよろしい本。)

 

コウ『マヤ文字解読』(創元社)

 マヤ文字というと、あの変な顔みたいなのが並んでいる、得体の知れない「字」だ。著者はその解読を担った世界的な研究者グループの一員だ。実は一九五〇年代にはマヤ文字解読の下準備は整っており、理論的な方向性も示されていた。にも関わらず、実際に一九七〇年代頃まで解読は実現されなかった。

 解読につながったのは、マヤ文字の相当部分が表音文字と表語文字だという発見だ。ソ連(当時)の科学者クノローゾフは、五〇年代にこれを指摘し、解読への突破口を開いた。かれの指摘の意義を説明するにあたり、著者はそもそも文字とは何か、というところから話を説き起こし、文字をめぐる考え方や哲学の差を入念に説明する。これがただの年代記にとどまらない深みを本書に与えている。

 だが一方でマヤ文字研究は、学会のボスであるトンプソンの頑迷な信念と政治力によって数十年にわたり停滞し続けた。かれはマヤ文字は絵文字か、世界観を著すイラストのようなものだと信じ、それ以外の主張はすべて排斥してきた。本書はその抑圧に屈せず、他領域の成果を積極的に導入して解読が実現されるまでの苦闘の物語にもなっている。

 そのドラマは、今なお続いている。マヤ文字が解読されても、発掘系考古学者の多くはそれを黙殺するばかりか発掘品を見せてくれないとか。本書はこういうケチな学問セクト主義に率直な批判を投げかける。それに対して解放された自由な知の探求がもたらした成果を誇らしげに描き出す著者の筆致は、当事者ならではの熱意と興奮と軽やかな希望に満ちている。

 そして本書で、読者も著者たちの興奮の一端をかいま見ることができるのだ。マヤ文字は実は漢字や日本語と似ているし、漢字の偏やつくりに相当するものがある。それを理解するだけで、あの顔の行列のおどろおどろしさが消え、前よりちょっと文字っぽく見えてくる! またマヤに限らず文字解読一般についての議論も楽しい。マヤ文明に関心ある人だけでなく、文字全般に少しでも興味ある人すべてにおすすめ。

(コメント:こいつはおもしろい! マヤ文字の話にとどまらない、文字というものについての長い長い前置きも、人間ドラマもとても楽しい。あともう一つ、本書で批判されているトンプソンのマヤ文字に対する神秘主義的理解というのは、日本では白川静の漢字論にとっても近い。文字そのものに、なにやら神秘主義的な含意を読み取る立場ね。それはおもしろいんだけれど、でもそれで止まる袋小路ではあるのだ、ということもよくわかる。「都」っていう字は、白川の言うように、城壁に生け贄の首斬って埋めた呪術の名残かもしれない。でも、漢字の言語ツールとしての発展は、たぶんそういうのを切り捨てることで実現されているのだ。白川説をいくら見ていても、いまの言語につながるものは出てこないんじゃないか。この本はそんなことも考えさせてくれる。)
 

クルーグマン『嘘つき大統領のデタラメ経済』(早川書房)

  ノーベル賞目前とまで言われる大経済学者ポール・クルーグマンが、この数年でアメリカを代表する名コラムニストになってしまったのにはみんな(当人も含め)驚いている。本書におさめられたコラム執筆をかれが始めた直後から、アメリカの政治経済情勢は一変した。同時多発テロ。エンロン等の会計問題。アフガン爆撃、イラク侵攻。強引な減税と巨額の財政赤字。これらの政治的な意味や、長期的な経済への影響をクルーグマンは次々に指摘し続けた。他の報道メディアが、テロ以降の愛国心至上的な雰囲気の中でブッシュ批判を避ける中で、その記述は突出していた。カリフォルニア電力問題での電力会社の価格操作など、クルーグマンの指摘が後になって検証された例も多い。いまでこそ、ブッシュ批判の本がだんだん登場しつつあるけれど、クルーグマンはリアルタイムでそれを行っていた数少ない人物の一人だった。だから本書の第一の意義は、ここ数年のアメリカの政治経済情勢をめぐるリアルタイムの批判的記録としてのものだ。

 それにしても、なぜクルーグマンだけにそれができたのか? 特殊な情報源があるわけでもない、一介の大学教授に? そこに本書のもう一つの意義がある。クルーグマンは、まさに自分が普通の公開情報しか使わなかったからこそまともな批判ができたんだ、と述べる。特ダネだのスクープだのに依存したジャーナリズムは、実はマスコミが大情報源――往々にしてチェックすべきまさにその相手――に依存せざるを得ない状況をつくりあげ、報道を偏向させる。本書は、そうした現代のジャーナリズムに対する警鐘ともなっている。クルーグマンはその経済理論においても、公開情報に基づく厳密な分析をもとに因習的な理論を次々にひっくり返してきた人だった。その歯に衣着せぬ「熱い」文体になじめない人もいるだろう。でもそれは、正しい分析による結論は甘い通念なんか蹴倒すのだという、かれの学者としての――そして一言論人としての――誠実さのあらわれなのだ。

(コメント:原著を読んでるので、翻訳はいまさらという感じではあるけれど、この本がおもしろくて楽しいのは文句なし。既存ジャーナリズム批判の視点もいいのだ。)
 

パウロス『天才数学者、株にはまる』(ダイヤモンド社)

 ぐふふふ。人の失敗とは美味なものであることよ。著者はこれまで日常生活にまつわる数学上の勘違いを指摘する本をたくさん書いてきた。こんな簡単な数学もわからんのか、バカだねえ、ワタシはそんなまちがいは決してしないよフフン、というような本だ。ところが本書では、その数学者自身が株に手を出して(しかも当時話題のワールドコム!)、ちっとも理論通りに動けずに大損をこいてしまいました、という実になさけない本。わはは、ご愁傷さま!

 でも本書はただの失敗談じゃない。自分の失敗を例にひきつつ、著者は株にまつわる様々な考え方を解説する。有名なケインズの美人投票理論から、テクニカル分析、ファンダメンタルズ分析、リスクとリターン、効率的市場仮説とその限界、果てはカオス理論やゲーム理論の適用まで。高度な中身をおもしろおかしく説明する著者の才能は定評あるし、さらにその大やけど体験が迫力とお笑い風味を添えている。そして何より、理論と実践の差というのを、本書はトホホ感あふれる筆致で描き出す。

 はまる人がはまるのは、かれらがバカだからじゃない(こともある)のだ。著者だって、わかっちゃいるけど「もうちょっと我慢すれば」と思い、手持ちの株に有利な情報しか目につかなくなって、最後に大損をこいた。まして理論すらおぼつかない自分がそうそう(もう)かるものだろうか……と思い至った人は、本書の価値を十分引き出した人だ。

 一時流行(はや)ったデイトレーダー本にのせられて大損こいた人は、自分をなぐさめるためにどうぞ。そして今ちょっと好調な株式市場にのせられかけてる人は、まず本書を読んで頭を冷やしなさいな。もっともヤケドをする人は、そこで「自分だけは大丈夫」と思っちゃうのだ、というのも本書の教えなのだけれど。手を出す気はなくても株式投資の基礎をざっと知りたい人にも、本書はなかなかよい入門書だ。そしてもちろん、単に他人の失敗を嘲笑(ちょうしょう)するのが趣味のイジワルなあなたにも、本書は十分なリスク織り込み済み収益をもたらしてくれますぞ。

(コメント:かつて査読書を書いたけど版権を先に取られた本。変な訳になってたら承知しないわよー、と思って読んだら、まとも。おもしろい本だし、「きみたち数学を知らないおばかさんね」という高見からの見下し嘲笑がなくて、数学わかっててもはまるものははまる、というのを教えてくれるよい本。)
 

アーリック『トンデモ科学の見破りかた』(草思社)

 元祖『トンデモ本の世界』シリーズは、確固たる常識の立場から明らかにヘンな本や議論を物笑いのタネにするという、ある種悪趣味な、だが(だから?)むちゃくちゃにおもしろいシリーズだ。ただ一方で世の中には、そうしたイカレポンチの妄想以外に、まだ主流派ではないが筋の通った異説もある。まちがってるけど重要な洞察を含んだ議論だってある。相対性理論だって大陸移動説だって地動説だって、当時の常識からすれば超トンデモだったけど、それを真面目(まじめ)に拾った人がいたからやがて主流になった。ぼくたちもアインシュタインやガリレオを嘲笑(ちょうしょう)して捨て去らないためにどうすべきか?

 そこで出てくるのが本書だ。世の中では珍説・奇説・異端説とされているものを取りあげて、それが本当にお話にならないのか、それとも十分に根拠はあるのかを、かなり中立に近い立場で検討している本だ。

 具体的に言おう。「石油や天然ガスは生物起源ではない」「エイズはHIVウイルスが起こすものじゃない」「フロン廃止によるオゾン層保護は実は有害だった」。いずれも本書で検討されている。この中に一つ、文句なしにトンデモなものがある。

 たった一つ? そう。他はまともな検討に堪える正当性のある議論なのだ。意外でしょ。ぼくも驚いた。でも、本書はそれをきちんと公平に十分な知識をもって説明してくれるのだ。

 本書の議論は、当然ながら常識的な科学知識には立脚できない。このため記述はちょっと専門的な部分もある。統計的な検定とかサンプリングって何、といった科学の基本的な検証手続きの概略を知っているほうが効用は大きい。でも著者は、そうした手法まで手をぬかずに解説し、しかも楽しく笑える読み物に仕立てるという驚異的な手腕を発揮している。科学のプロセスの何たるかをいま一度教えてくれるよい本。訳者の細やかな配慮も吉。そして自分は科学に詳しいと思ってる人こそ、是非読んでほしい。たぶんあなたの科学常識は、二回くらいはひっくりかえるはず。続編も邦訳希望。

(コメント:これは意外な本だった。馬鹿なアホ理論と思っていたものに、こんなに根拠があったとは!)
 

ビッスン『ふたりジャネット』(河出書房新社)

 この本を読み始めて、ぼくは思わず笑い出してしまったのだった。いや別に、すごいギャグ満載ってわけじゃない。いまや小説の多くは、作者の意図と時に反する形で、風俗小説としてしか読まれなくなってしまっている。先日の芥川賞娘二人組や村上龍、舞城王太郎はもちろん、果てはクッツェーも、ステープルドンも、川上弘美でさえも。時事的な風俗、現代的な問題がどうしたこうした。ところがこのビッスンの作品集はそれがない。現代的な符丁への目配せがほとんどなしに成立している。もちろんいくつかの固有名詞は現代のものだけれど、そうでなくても一向にかまわない。それがえらく爽快(そうかい)だったのだ。

 なぜないのか。それはこの小説の登場人物たちには、秘めた内面がないからだ。本書収録の短編は、軽めの数編を除けば、実は登場人物の内面がそのまま外の世界となっている。だからそこには外的な風俗は、よくてもその引き立て役くらいにしかならないわけだ。怒りや笑いはある。でもドヨーンとした深い苦悩する精神はない。すべてはあけっぴろげ。だから人の内面を隠しつつ小出しにして、それに風俗をまぶすことで成立する風俗小説っぽさがない。人々の心の動きはすぐに外の世界の変化となり、イギリスはアメリカに向かって航行し、クマが黙ってたき火をし、盲目の画家が臨死体験に没入して、携帯電話ごしに時空がゆがみ、そのすべてが中国人の数式で即座に説明される。

 そうだ。そうだった。こういう小説をぼくはここ半年ほど忘れ果てていた。眉根にしわよせて考え込んだりしないし、読者への隠し事もない。ほとんどどうでもいいアイデアが軽やかにまとめあげられ、それが読者の顔色をうかがったりせずに投げ出される。読んでもそこに、何ら教訓も実用性もない。書く方にとっても読む方にとっても無駄ではある。が、無駄はまさに遊びの本質でもあるのだし、小説もまた人間のお遊びの一つだ。そしてこの本は、そのお遊びとしての小説の楽しさを満喫させてくれるのだ。

(コメント:久々に小説の外に変な目配せのない、小説そのものだけで勝負する作品。嬉しい。なお驚いたことに、この短編集の小説ですべて、人の内面の願望その他が外部世界の変化となっているのだ、ということがほとんどの人はわからなかったとのことで、訳者の中村融は怒り狂って、もう二度とビッスンはやらないとSFセミナーで吠えたとか。かわいそうになあ。せっかくほめてくれたところでも「そこが見所じゃねーんだよ!」と怒鳴りつけたくなるものばかりだとゲンナリだもんなあ)



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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)