朝日新聞書評しなかった本 2003/01-03
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「現代アフリカの社会変動」(人文書院)
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総評:
全体に、西洋植民地主義批判に終始しているが、自分が西洋「帝国」主義の手
法を使った学者でしかなく、自分たちがあれこれ言うこと自体がかれらの批判し
ている帝国主義的介入と同じだということに気がついていない、無邪気な善意の
学者たちの雑多な文集。アフリカは、旧宗主国言語とアフリカ系諸語に階層分化
されていて、政治経済教育の多くが旧宗主国言語で行われているから、アフリカ
はまだ植民地支配から逃れていない、という論法だけれど、すでに独立してるん
だし、だれも英語やフランス語を使えと強制してるわけじゃない。現地の人たち
が政治経済教育をどうやるかは、現地の人たちの選択。それを外の日本人が嘆い
てみせるって、あんたら何様? 嘆くのはいいけど、その先何をしたいの? そ
れもなし。「多元的な価値観」とか「植民地主義の克服」とかよくきくお題目が
並ぶだけ。
「プロローグ」:総評そのまま。
「ことばと社会の生態史観」:言語分布の地図以外、総評そのまま。
「多言語都市ジガンショール」:ジガンショールは、多言語性が維持されていて、
それは後背地とのつながりのせいだという。フィールドワークとしてはおもしろ
い。
「英語、アラビア語、ジュバ・アラビア語」:ピジン化したアラビア語の可能性。
これもそこそこおもしろい。
「エチオピア西南部の近代化」:銃の流通が近代化と歩みを共にしている。ふー
ん。
「アフリカの民主化とは」:アフリカの民族虐殺抗争は、エリート層と軍に支配
されたもので、単純な民族抗争や宗教抗争ではない。はあ。「軍隊ときけば、規
律正しくクリーンなイメージを持つ人がいるかもしれない」とか、通常の人の感
覚とかけはなれたことが書いてあること以外は、まあまあ。でも、あまり説明に
なってない。
「スワヒリ語はなぜザイールに広がったのか」:ことばの浸透の歴史的解説とし
ておもしろい。
「多言語国家における教育と言語政策」:旧宗主国言語が強い。おしまい。そう
ですか。
「多言語社会の言語選択」:いろんな条件で言語は選ばれます。はあそうですか。
「一つの言語とは何か」:ザンジバルにはいろいろ方言があります。はあそうで
すか。フィールド調査としてはおもしろい。
「創られた言語」:「アフリカ社会は、本来、その内部に異質なものを認め、排
他的性格を持たなかった。そこに排他的な近代西欧言語イデオロギーが持ち込ま
れたのである」つまり、ぜんぶ白人が悪いんや、というわけね。アフリカ社会が
排他的性格を持たないなんてはずないでしょうに。社会はすべて、排他的性格を
大なり小なり持つの。歴史的な記述はおもしろいが、とってつけたようなバカな
結論でぶちこわし。
「民主化時代における農村地位の社会変動」:いろんな開発援助活動があります。
はあそうですか。
「ムブナはおいしくない?」:マラウィ湖の魚に対する態度の変化をたどった論
文。プロセス自体はおもしろいが、結論が「(ムブナの捉え方の変遷)のプロセ
スは本論でたどったように、植民地遺制そのものといえるだろう。しかし、この
ような自然物の意味の単純化、象徴化は、果たして日本で無縁なのだろうか。日
本の環境問題の現場で起きている問題、たとえば、琵琶湖といえば、その水量し
か見ない「水がめ」という発想、あるいは「水質」といえば「チッソ、リン」と
いう物質に還元する考え方、このような嗜好も、ある意味で物質的要素のみを自
然世界の意味とみる、近代科学思想の象徴化作用ともいえるのではないだろうか」
と、無理矢理日本人の心にも潜む植民地主義、という結論に落として悦にいるお
めでたさ。じゃあ生活と文化の関わりを重視すると、環境問題はどう記述・解決
されるのか言って見ろとゆーのだ。ばかものめ。
「セネガルの開発政策」:あまりうまく行ってないけれど、農民たちだってバカ
じゃなくて結構私利私欲のためにうまく立ち回ってる。はあはあさよですか。でも、少なくとも変な理想化してないだけましかも。
「ジンバブエの農業におけるアフリカ農業の基本構造」:アフリカ農業は労働集
約の小規模農法。植民地がたの資本集約とはちがう。植民地型農業の脱却が必要
では? という理屈なんだが、なぜ脱却しなきゃいけないの? 近代農法がどういう欠点を持つかという検討は皆無。それにさあ、脱却してどうすんの? 労働
集約型農法の低い生産性で、人口増分を喰わせられるの? 何も考えてません。とにかく植民地化をきっかけに入ってきたものはダメ。
「支配の技法としての森林保護」:森林の歴史にも植民地支配とそれへの反発の
動きを見ることができる、という検討。それが結論で一転して「森林保護を植民
地の論理からコミュニティの生活の論理へと転化させるべき。」となる。コミュ
ニティの生活の論理って何? それで具体的に何ができるの? おまえ、つまんないキャッチフレーズ思いついて悦に入ってるだけで、なーんも考えてねーだろ。
「世界観の植民地化と人類学」:植民地時代のアフリカの宗教記録は、記録者の
西欧的バイアスを反映している。はあそうでしょうねえ。
「ポストコロニアル時代の移民文学」:宗主国言語と文学という形式、そしてア
フリカの地域性との間で悩んでます。がんばってね。
「女たちの声をどのように記憶し、記録するか」:女はアパルトヘイトの証言に
おいても抑圧された存在となっている。ふーん。それで?
「拡散する声」の文化」:コンゴやカメルーンでは、どうでもいいことを怒鳴っ
たり、私的会話と村全体への連絡が混ざったり、なかなか不思議なコミュニケー
ションが行われている。これは、フィールド調査としてはおもしろい。
「中心を移動させる」:総論そのまま。
結論:
ほとんどすべての論文が、あらかじめ決まった結論を言おうとしているだけで
つまらない。また、旧宗主国言語で植民地支配と嘆いてみせるけれど、それに対
して現地の人はどう思っていて何をしたいのか? そういう視点は皆無。取り上
げる価値なし。
- 「アウシュヴィッツから現代建築まで」
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建築論と称するものにありがちな、枝葉のあげつらいをもとに文化論じみた話をするだけのあまりインパクトのない文章。途中から必死でテロ話につなげようとするのも鼻白む。わざわざとりあげる価値はない。
- 竹山「現代日本文学「盗作疑惑」の研究―「禁断の木の実」を食べた文豪たち」
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独創性というか盗作度を定量化していると山崎浩一がいうので楽しみにしていたのだけれど、定量化できていない。「文を盗作」「構成を盗作」「描写を盗作」といった具合に、かれなりの段階分けをしているだけ。こんなの定量化しているとは言わないのですよ、山崎さん! それ以外のところはひたすら「似てまーす」「関係ありまーす」というのが羅列されるだけで、それ以上の知見が出てこないため平板。冒頭の谷沢永一はしゃぎすぎ。そんなわけであまり感心せず。
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金子隆一「最新恐竜学」
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日本では世界の恐竜学からかなりおくれた情報が「常識」として出回っている、と冒頭で檄が飛ぶので、じゃあそのまちがいを次々に指摘してくれるのかと思うと、実はそうではない。ウルトラザウルスが、もうほとんど否定されているのに日本ではまだかなりポピュラーだ、とか、NHKスペシャルがまったくナンセンスな恐竜番組を作った、といった断片的な情報がぱらぱらと紹介されるだけで、まとまりに欠ける。その断片は決してつまらないわけじゃないんだけれど。ジュラシックパークの可能性について書いた部分とか、中国での恐竜化石盗掘とそのブラックマーケットをめぐるエピソードはおもしろいし、そこから「コレクターの所有権を認めて、データ公開と研究者のアクセスだけは保証させるようにしろ」という提案が出されていて、これは傾聴に値する。しかし他の断片的な記事に
埋もれて、それがきちんと前面に出てこないのでつまらない。
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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)