レヴィット、ダブナー『ヤバい経済学』(東洋経済新報社, 2006)
(『論座』2006 年 8 月号)
山形浩生
要約: 『ヤバイ経済学』は、経済学がお金だけを扱うものではないことをはっきり示し、その方向性を次々に打ち出している実に楽しくも有意義な一冊だ。でも日本のタコツボ経済学の世界はそれをきちんと評価できない。「お金ばかりを重視してはいけない」と年寄りの説教は大好きなくせに、ではお金以外をどうやって学問として考えようかについてまったく考えていない。本書はそれをやっているのが偉大なところである。
本書は刊行されてからすでにかなりの時間がたっている。ぼくは原書で読んで狂喜したし、すでに版権が取られていて自分では訳せないことを知って不安になったが(だってこんな楽しい本が、どんよりした学者訳になっていたら一大文化的損失だもの)、それがここまで見事な訳で出たことで、その不安も杞憂に終わった。すばらしい。で、当然のように絶賛書評の嵐となるものと思っていたが……
なんだ、この反応の悪さは。
書評もごく限られていて、しかも相当部分がピントはずれ。日経新聞に載ったやつなんか、目を疑ったね。表紙やタイトルが悪いとか途中のレヴィット自身に関する紹介文がいらないとか、くだらない揚げ足とりばかり。そして、本書で扱っているテーマがいかに意外で、いかに笑っちゃうほど楽しいものでありながら、いかにそれが経済学の本質と未来にとって重要か、ということにきちんと触れた書評はほとんど見あたらない。
なぜだろうか。ぼくはそれは、主に日本の経済学(いやアカデミズム全般)の世界にはびこる、悪しき病気のせいだと思う。
それは生真面目さと、その派生物であるタコツボ主義という、社会の活力を削ぎ、人々を死に至らしめる恐ろしい病気だ。
本書は経済学の本なのに、お金の話はほとんど出てこない。お金はせいぜいがアメリカのギャングたちの家計簿くらいだ。これが経済学? と多くの人は思うだろう。相撲の八百長の研究、出会い系サイトに隠された暗黙の偏見や不動産広告の変な言い逃れ、犯罪と中絶の関係から子供の成績の決定要因? なにこれ? 本書があまりとりあげてもらえないのは、(アマゾンのレビューにも見られるように)そもそもこんなのは経済学のやるべきことじゃない、人気取りの悪質なスタンドプレーにすぎない、という意見がかなり多いせいじゃないか。
さて経済学のツールでもっと広い社会現象を分析しようとした一派は前にもいた。ノーベル記念賞学者ゲーリー・ベッカーたちだ。かれらは浮気や殺人やドラッグ中毒まで経済学の概念を使って分析しようとした。要するに人は、自分にとって得でなきゃそんなことはするまい、というわけ。その試みは(もちろん制約はあったが)予想外に説明力を持つ重要なものだった。
ところがこれに対して日本のえらい経済学者たちは、こうしたテーマを経済学が扱うこと自体が嘆かわしいと論じた*1。だいたいドラッグは人の効用関数を破壊するから合理性の前提が崩れる、分析できない、と*2。だがベッカーは、まさにその効用関数がドラッグによって、どう変化させられるのか、というのを考えようとしていたのだ。分野そのものを勝手に狭く定義づけ、その外にあるものを排除するのではなく、それを自分たちの分析の中にとりこむ手段を考えたところにベッカーの慧眼があった。
そして実は、そうした考え方は、タコツボ経済学者たちにとっても、本来は重要であるはずなのだ。前出の人物も含め、日本のえらい経済学者は才能が枯渇すると、みな同じ道をたどる。ホモ・エコノミカス批判のお説教だ。経済学は、人に合理性ばかり追求し、儲けばかり求め、人の心と倫理を失わせグローバリズムで人々を不幸にする悪しき思想だ、ホリエモンのような連中を量産するばかりだ、経済学に人間の心を、経済ばかりを追求して金の亡者になってはならない等々。救われないことに読む側もこの手のお説教が大好きで、学者としての評価は決して高くないガルブレイスに人気があるのもそのせいだ。
でも、こうした人たちは、心だの倫理だのをどうやって経済学に導入するのかについて、何もアイデアがない。嘆かわしいことです、とくだらない説教をするばかり。かれらは、眉根に皺を寄せてる自分が好きなだけだ。そこには経済学を未来へと開くものは何もない。
そしてそれこそ、本書が経済学の未来を担うものである由縁なのだ。経済学がお金ばかり考えてるのはけしからん? そうかもしれない。だったら、人がお金以外のものにどう反応するかをきちんと考えることこそ、まさにこれからの経済学のやるべきことじゃないか。そして、それがお金とどうからみあって最終的な人間の選好が決定されるか、それを見極めなきゃいけないじゃないか!
本書がやっているのは、まさにそういうことなのだ。そしてそれを何とかれらは楽しくやっていることか! 自分で経済学のテーマを限定しておきながら、それがお金ばかりを考えると説教する日本の経済学者たちの、生真面目さと陰気さともったいと偏狭さの無限タコツボスパイラルに比べて、本書の経済学の何と軽やかで開かれていることか! たぶん著者レヴィットは、日本では経済学者とすら認められなかっただろう。だがかの国では、偉大な経済学者も哲学者も諸手を挙げて、かれの融通無碍さを支持したそうな。うらやましい。
というわけで読者のみなさん、本書を読んでおこう。ヘンテコなネタに爆笑することうけあい。いまは本書が経済学らしからぬ変わった本だと思うかもしれない。でも今から五〇年後、いまとはまったくちがった、倫理も道徳も包含し、進化論とも接合した総合学問としての経済学(ぼくはそうなると思う)を前にして、あなたは気がつくことになるかもしれない。その新しい道への大きな分岐点は、あの『ヤバい経済学』にあったのだ、と。そしてその新しい道を拓くのは、本書の読者たちになるだろう。
*1: たとえば宇沢弘文『経済学の考え方』(岩波新書)pp. 199-200 を参照
*2: たとえば森嶋通夫『思想としての近代経済学』(岩波新書)p. 192 を参照
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