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論座2007/02

ゲーム脳のすすめと人類の進歩

(『論座』2007年2号)

山形浩生

要約: ゲーム脳なんてのはインチキな妄論。ゲームが実際に脳に役にたつ例は、脳トレーニングやボケ防止のゲーム利用などいろいろある。そしてネットやケータイや漫画が、文化の破壊者のように言われていたのに、気がついてみると文字文化や書籍の最後の砦となっていたりするように、ほんのしばらくすればゲームや2ちゃんねるだって何か人類にとって重要な機能の維持に役立っていたということにもなりかねない。科学者たちがゲーム脳説批判に立ち上がってくれたのはありがたいことだし、いずれ自分たちがこうした年寄りの反動議論に荷担しないよう注意しなくてはならない。



 ゲーム脳というのがどういう議論かについて、いまさら本誌の読者の皆さんに解説するまでもないだろう。テレビゲームをしている人間の脳波を取ると、痴呆状態の人間の脳波と同じく、アルファ波が多い状態となる。したがって、ビデオゲームばかりやっている子供の脳は痴呆状態にも等しいきわめて不健全な状態になっている。そうならないシューティングゲームなどは、逆に緊張を強いてストレスを貯めるので、これまた脳にとってはよくない。結果として、いずれにしてもゲームはよろしくないのであり、ゲームばかりやっている子供の多いいまの日本は大問題である、という話だ。これを主張したのは森昭雄『ゲーム脳の恐怖』(NHK出版)だった。

 この議論は非常に通俗的な人気を得たし、メディアなどでは大いに人気を博した。一方で、著者の森はこの議論をゲーム以外にも拡張し、テレビや携帯メールや各種IT機器でも同じ現象が見られるので、こうしたものもゲームと同じくよくない、という議論を展開している。

 さて、この議論については、多くの批判が出た。『ゲーム脳の恐怖』が持つ数々の論理的な矛盾、データや証拠の恣意的な使い方については、SF作家でと学会でも有名な山本弘による徹底した批判が展開されている。『ゲーム脳の恐怖』にあがっているグラフを見ても、ゲーム時の脳波の変化と、運動をしたとき(ちなみにゲームはダメだが運動はよい、と森氏は述べている)の脳波の変化とはまったく同じであり、片方がよくて片方がダメというのはまったく理屈が通っていないし、そもそもアルファ波が増えるのは痴呆状態だからではなく、リラックスしているときや脳をつかっていないときに出るものなんだから、騒ぐことおかしい、というのが基本的な批判だ。

 さらに、同書の議論の根拠にもなっている脳波とその測定方法についても、根本的な批判が精神科医の斉藤環によって展開されている。脳波の測定機器、測定方法、解釈のすべてにおいて根本的な問題があり、とうていまともなものとは言い難い、という批判である。

 こうした流れの全体像については、社団法人コンピュータエンターテインメント協会(CESA)による『テレビゲームのちょっといいおはなし・3』pp.24-41に収録された府元晶「ゲーム脳とは何か?」に詳しい。そして、森昭雄をはじめこうした批判に対して正面から答えたものはまったく見あたらない。

 筆者の見る限り、ゲーム脳談義については、批判者たちの言い分に圧倒的な分があり、そもそものゲーム脳の主張はきわめて疑問である。脳波の測定などについてはさておき、山本弘による批判などは詳しい専門知識などなくてもごく常識的な論理的判断力を持っていればだれにでも思いつくものだろう。それがなぜ急激に人気を得てしまったのか? そこには「水の伝言」と同じ心の働きがある。人は自分の信じたいものを信じようとし、それを肯定してくれる理屈を探す。それは必ずしもリテラシー欠如のせいではない。ゲームやケータイ、パソコンやインターネットの普及に取り残された人々は、自分たちの適応力や好奇心が衰退しているせいだと認めるよりも、それが有害で手を出さないほうが賢いのである、という理屈を求めているのだ。それはテレビの普及にともなう一億総白痴化の議論などと同じ、おもしろくもない現象の繰り返しにすぎないことではある。

 が、ゲーム脳の議論においておもしろいのは、それが飽きられて下火になると同時に、明らかにそれを否定するような現象や議論が生じてきたことだった。まず、二〇〇六年に大きな人気を博した、各種の脳トレーニングゲームが挙げられる。ゲームは痴呆のようなゲーム脳状態を引き起こすどころか、かえって脳のトレーニングにも使えることが、こうしたゲームの普及によって多くの人の知るところとなったし、またその効果を実際に経験した人も増えてきた。

 似たような話ではあるが、刺激の少ない暮らしを送りがちな高齢者に対し、ぼけ防止策の一貫として指と脳に刺激を与えるためにゲームをしてもらおうという動きも普及しつつある。ゲーム脳理論が正しければ、ゲームはぼけをかえって促進させそうなものだが、そんなことは起きていない。ネットワーク型のゲームでチャンピオン級の腕前を身につけてしまい、その世界で英雄扱いされるようになった老人の話題などもちらほら見られるようになっている。

 さらに、二〇〇五年にアメリカでなかなかおもしろい本が出た。スティーブン・ジョンソン『ダメなものはタメになる』(翔泳社)である。この本は、やはり欧米でも猖獗を極めているテレビやゲーム、ネット有害論に対する反論として書かれている。欧米でのゲーム批判論は、それが暴力を助長し、お手軽で単純で即時の報酬ばかりを提供するために子どもたちは複雑な思考ができなくなり、条件反射しかできないキレやすい状態を生む一員となっているのだ、ということだった。

 だがもしそうであるなら、とジョンソンは述べる。何故にゲームはどんどん複雑になってきたのだろうか。異様に複雑で、そもそも何をしたらいいのかすぐにはわからないゲームもたくさんある。いつまでたっても報酬の得られない、ひたすら忍耐を強いられるゲームもどんどん増え、それがやたらに人気を博している。それをどう説明するのか。

 テレビでもそうだ。かつてのテレビドラマは、一回完結型ワンパターンで、何の深みもなかった。『水戸黄門』や『遠山の金さん』を考えてもらえばいい。でも、近年のアメリカのテレビドラマは、異様な複雑さを持つようになっている。日本でも人気の『24』や『プリズン・ブレイク』は、すさまじい数のストーリーが並行してからみあいながら進行する。白痴化して単純なものしか受け容れない人々なら、そんな面倒なものを見るはずもない。ところがそうしたドラマは大人気を博し、視聴率もとれるばかりか、高いDVDも飛ぶように売れてしまう。

 逆にそうしたゲームやテレビは、むしろ人々の忍耐力を養い、与えられた環境や情報を自ら探求する能力を身につけさせているのではないか。複雑な状況を理解する訓練として機能しているのではないか。脳はもともと、謎解きをしたがるようにできている。謎をとけば報酬が得られるような仕組みを作れば、人は謎解き能力をどんどん向上させる。テレビやゲームは、まさにそうした脳の仕組みを活用し、それを活性化させているのだ、というのがジョンソンの議論だ。そしてその証拠として、先進国の知能指数テストの生の成績が一貫して上がり続けているという通称フリン効果が挙げられるのだが、これについては本稿では割愛しよう。

 結局のところ、ゲームだってテレビだってネットだって使いようではある。これらについて言えるのは、何事もやりすぎはよくありませんね、と言う程度のことのようだ。確かに引きこもってゲームやテレビばかりで時間をつぶすのは不健康だ。でも、それを言えば本ばかり読んでいるのも不健康なのだ。

 さて、ゲーム脳の議論は科学的にも常識的な理屈の面でも明らかにまちがっていると考えられる。だが今後もまた、こうした根拠レスな議論が学問の意匠をまとって出てくるだろう。斉藤環は、なぜゲーム脳に対してもっと専門家たちがきちんと批判しないのかと苦言を呈している。その通りだ。まともに相手をするのもばかばかしいと思ってのことかもしれない。だがそれは結果的に、そのばかばかしい議論が蔓延するのを許してしまった。その意味で、「水の伝言」について科学者たちが(明らかにうんざりしつつも)真剣に対応し、その無根拠差と問題点を指摘してくれているのは非常にありがたいことだ。そして10年後、20年後にまたこの手の代物が不覚にも広まってしまった場合にも、それがまた繰り返されるものと信じたい。

 だがもう少し大きな可能性を考えてみよう。ゲーム脳とはちがって、今後出てくるそうした変な議論は完全にまちがっているわけではないかもしれない。通俗的な人気を得る暴論は、半分くらいは正しいことが往々にしてあるのだから。使わない機能はすぐに退行する。技術の発達、新しいメディアや通信手段の発達は、結果として確かに人間の能力の一部を失わせることもあるのだ。だが重要なのは、それだけを見てあれこれくさすのは、不適当かもしれない、ということだ。それがもたらすもっと大きな影響を見る必要がある、ということだ。

 多くの民俗学者や文化人類学者たちは、各種の録音技術や文字記録が持ち込まれたとたんに多くの土着部族の口承文化が失われるのをまのあたりにしている。その土着部族の古老たちも「テープレコーダ脳が」「文字脳が」と嘆いたことだろう。我が国の古事記は、稗田の阿礼が暗記していたものを、太安万侶が書き取ったものだ。つまり稗田の阿礼は古事記を暗唱できていた。いまはそんなことができる人はいない。文字という記録技術の普及は人間の記憶力を低下させるのだ。稗田の阿礼ならたぶん「最近の若い者はたかがこんな本一冊分も暗唱できないのか。紙だの文字だのに頼るからこんなできそこないが生まれる、文字脳が日本文化を滅ぼす」とでも思ったことだろう。  でも、と進化学者のニコラス・ハンフリーは指摘する。人間は常に、何かを失うことにより、もっと大きなものを手に入れてきたのだ、と。紙や文字の導入は、各種情報を人間が記憶する必要性をなくし、記憶力を衰退させたけれど、でも口承なんかとは比較にならないほど広範な人類の情報共有と保存を可能にし、そして人間文化はとてつもない進歩をとげた。テープレコーダもそうだ。

 あるいはつい先日も、コンピュータで文を書く人が増えたので漢字の書き取り力が落ちている、美しい日本語の危機だ、といった論調を見かけた。確かに「薔薇」と手で書ける人は減っただろう。でも、みんながコンピュータに頼ることで、「薔薇」という漢字を文中で実際に使う人ははるかに増えている。それはかえって文字文化を拡大していだろう。個別に見ると退行に見えることが、実際には社会や人類全体で見たときには、かえってよい結果を招いているのかもしれない。ゲームが一見人間の能力を低下させているように見えても、安易な批判を展開刷る前に、実はそれがよい結果をもたらすかもしれないという可能性についても考える必要はあるだろう。

 そしてもう一つ。社会の変化とともに、各種の技術や媒体、行動の位置づけは変わるということだ。アメリカの社会学者パットナムは、アメリカにおけるボウリングの衰退に社会資本の低下を読み取った。ボウリングは何人か集まらないとできないけれど、それが衰退した背景には、近所づきあいの低下、ひいてはコミュニティの低下があるのだ、というのがかれの理屈だ。日本でも、麻雀について類似の議論がきかれることがある。麻雀は4人を長時間拘束することが必要だけれど、最近の大学生はもう麻雀をしなくなり、コンパもしなくなり、集団行動や社会性が衰えていてダメだ、という話だ。かつて麻雀は不良おちこぼれ大学生の独壇場だということになっていた(各種麻雀劇画での描かれ方を見てみるといい)。「あいつは麻雀ばかりしてやがる」と言ったら、それは悪口だった。それがこの議論では、実は社会性を示す代替指標として賞賛されるべきものとなっている。

 マンガもそうだ。かつては、マンガを読むとバカになると言われた。だから我が家では長いことマンガが禁止されていたっけ。マンガは本のうちに入れてもらえず、就職試験で趣味が読書というやつが、愛読書をきかれて『明日のジョー』と答えた、なんていうのが笑い話として成立した。ところがいまや、これが冗談ではなくなっているときく。もう本を読むなんて言うめんどくさいことをする大学生は壊滅して、マンガであっても読んでくれるなら上出来なんだとか。

 ゲームやテレビでも、同じことが起こる可能性を考えなきゃいけない。いま、ゲームはけしからん、テレビやケータイメールはけしからん、と言っている人々が、しばらくするとそれですらないよりはましだと言わざるを得ない事態に追い込まれるかもしれない。新しい現象の一部だけとらえて論難しているうちに、やがてそれを後悔する事態に追い込まれる可能性だってあるのだ。

 もちろん、こう書いたからといってゲーム脳のような議論がなくなるわけもない。だれだって、自分が時代に取り残されると思うのはいやだし、自分の能力の衰えを認めたくもないのだもの。酸っぱいブドウめいた屁理屈をこねてでも、何とかそこから目をそむけようとする。だから、また数年したら似たようなことが起こるだろう。ネットやゲームやケータイの次の流行りがなんなのかはわからないけれど、たとえば脳を直結するような通信システムができてすさまじい普及をとげたとき、たぶんぼくたちの世代のだれかが、ゲーム脳まがいの世迷いごとを言い出すだろう。「最近のガキは2ちゃんねるを通じた罵倒合戦で鍛えられていないから生きる力が足りない」とか。「昔はカラオケを通じて人々が社会性を養成したのに」とかなんとか。ネットを通じた文字コミュニケーションが文明の頂点であり、それを失った人々は退化する一方であるとか。メディアを通じた表現こそが人間の本質であって、脳を直接つないだような人間のありかたはもはや個人をすてた群生生物への退行であり、だから最近の子供は前頭葉が退化しているとか遺伝子が減り始めているとか。そしてだれかは、それをいい加減な進化論や脳科学や計算理論で正当化し、メディアの関心を集めようとするだろう。それは以前も起きたことだし、今後も必ず起きる。

 ただ希望が持てるのは、今回「水の伝言」で起きているような科学者たちによる反論啓蒙活動だ。これをもう少し強力に展開できるような仕組みが今後できればありがたいのだが。そしてもう一つ注目すべきは、バカげた話のバカげた部分に注目させてくれる、『トンデモ本の世界』のと学会のような活動がそれなりに人気を博していることだ。いったんマスメディアなどを通じて広まってしまった「ゲーム脳」だの「水の伝言」だのといった話について、まちがっているから忘れろ、といってもなかなか通俗的な人気を消すことはできない。むしろそうした議論について笑いのツボを教えることで、影響力をなくす方策を考えることも重要だろう。深刻な顔で憂慮するだけでなく、ネタにして遊ぶ――こうしたやりかたを今後の科学リテラシー教育にうまく組み込んでいけたら、未来の「ゲーム脳」やら「水の伝言」の弊害も最小限にとどめることができるはずなのだが。

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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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