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論座2008/7

排出削減慎重派の翻訳をする理由

(『論座』2008 年 7 号)

山形浩生

要約: 温暖化していることは、ほとんどの人は反対しないし、そこに人為的要因があることも認めている。でも、温暖化の被害は過大に言われすぎではないか、そして排出削減なんてできるのか、もしできたとしても、効果あるのか? この点については多くの人があまりに単細胞。排出減らしてもごくわずかに温暖化を緩和するのが関の山。その金をいま困っている人の対策に使えるのに。そしてそれを知っているのに、大衆なんかだましていいんだとばかり温暖化を悪用する人もいる。そういうことを知ってもらいたいと思う。




 ぼくはいくつか、地球温暖化に関する本を訳している。しかも、そのほとんどは(いやすべては)いま行われている地球温暖化「対策」なるもの――つまりは京都議定書など各種の二酸化炭素排出削減策――を疑問視し、それがあまり実現性を持たず、実現したとしても温暖化はほとんど緩和せず、しかもそれを実施しようとするだけですさまじい費用がかかり、他のことに使えたはずの貴重なリソースをひたすら無駄遣いするものでしかない、と主張する本だ。

 もちろん、訳者が訳す本をすべて支持する必要もない。が、この問題に関する限り、ぼくは自分の訳した本の主張がかなり正しいと思っている。そして、その主張そのものに同意しない人であっても、そこでの議論はきちんと検討するべきだと思う。温暖化は事実だし、それが人間の排出してきた二酸化炭素によって、(ある程度)影響されていることも否定する人は少ない。が、その対策として出てくるのが、炭素排出の削減だけだというのはあまりに変だ。他の対応手段だってあるはずだ。しかも削減したら、本当に地球温暖化は止まるのか? 本当にそれは、みんなの心配しているような問題を解決するんだろうか?

 それを考えるために、ぼくが本業で直面したある場面をご紹介しよう。ぼくの本業はいわゆるODA(開発援助)――特に電力部門――の経済分析を行うコンサルタントだ。その業務で赴いたある途上国で、ぼくは温暖化をめぐる議論の縮図に出くわしたのだった。

いまここにある電力危機と温暖化

 具体的な国名は挙げるまい(見当はつくだろうけど)。インド洋の島国だったと言うにとどめよう。その国は、電力危機を迎えていた。とにかく電気が足りない。首都は計画停電が続くがそれでも需要に追いつかなくて、電圧降下や予定外の停電は日常茶飯事だ。少しでも供給を増やすため、非常用の高価なディーゼル発電機を常時回し続けているために、発電のコストはうなぎのぼり。でも政府の規制で電気料金はなかなか上げられない。だから電力会社は大赤字で借金がかさみ、いまにもつぶれそうだ。背に腹は代えられないので、政府も電気料金の引き上げを認めざるを得ないんだけれど、国民としては停電まみれなのに値上げとは何事かとカンカン。そして電気事情の不安定さのため、各種産業をその国にはきたがらない。人々も勤勉で真面目だから労働力もそんなに悪くないし、海運事情もいいのに。おかげで産業も発展せず、工場が立地しないから失業率も高い。そしてそれが政情不安にもつながっている。

 解決策は一つで、何年も前からみんな知っている。大きめの石炭火力発電所を作ればいい。電力供給は一気に回復し、停電もなくなる。発電コストも下がって電力会社も黒字になり、しばらくすれば電気料金も引き下げられる。産業もきて、雇用も促進され、人々の所得は上がって生活も向上する。ちなみに、その発電所の用地選定も設計も環境アセスメントも住民交渉もすんでいる。あとはそれを作ればいいだけ。それですべてが解決する。

 が、建設はいつまでたっても始まらない。なぜか?

 一つには、利権をもった政治家が妨害工作をするというのもある。だが……もう一つ理由があった。環境団体が反対していたのだ。西側先進国の環境 NGO と、それに入れ知恵された地元の(金持ちインテリ大学生の)NGO と。そして反対の理由は? 石炭火力は二酸化炭素排出が多いから、地球温暖化を悪化させる、というわけ。そんなものは許すわけにはいかない!

 さて、あなたはどう思われるだろうか。地元の人にきけば、地球温暖化クソ食らえ、いまここにある電力危機をなんとかしてくれ、と言う。当然だろう。地球温暖化で本格的な影響が出てくるのは、今世紀も末になってからだ。それだって百パーセント確実ではない。その影響を避ける手段だっていろいろある。一方で、電力不足のためにいまここにいる人々が停電に苦しみ、いま人々が雇用のないまま苦しみ、いまその国の人が低い生活水準を強いられ――教育も保健もその他すべての点で満足なものを得られず――環境団体は、それでもかまわないと言うんだろうか?

 その環境団体たちは、ぼくたちが説明会を開くたびにやってきては、毎回同じことを言うのだった。とにかく温暖化するから石炭はだめだ、と。いろいろ考えて石炭のほうがいいんですよ、と言っても、他の評価法を使えば石炭はダメだということになるはずだ、と固執する。実際やってみても、そんなバカな結果にはならないのだけれど。いまここにある電力危機をなんとかしないと、と人々が苦しんでいることを訴えても、風力だの太陽光だのを使えばいい、という。どう考えてもいまの需要を満たせるだけのものは作れないし、作れても値段が高すぎるんだけれど。でもそれを何度説明しても、かれらは相変わらず同じことを言い続けるだけ。アル・ゴアも引用していることばだけれど、「何かを理解しないことで給料をもらっている人に、それを説明するのは至難のわざ」なのだ。

 この人たちは、「温暖化で途上国の人々が被害を受けることが懸念される」なんてことをしゃあしゃあと述べていた。それなのに、いまここにいる途上国の人々を助けようとは思っていない。人々が停電で苦しみ、低い生活水準を強いられることを、この環境団体たちはまったく意に介していない。それどころか「電力があることが本当に人々の幸せにつながるか考えなくてはならない」などとぬかす。大きなお世話だ、それを決めるのはあんたらじゃない、実際にここで暮らしている人だろうに! かれらの口上をききながら、ぼくは毎回考えてしまうのだった。いったい、だれのための、何のための排出削減なんだっけ?

 さて、あなたはどう思われるだろうか?

温暖化防止は何のため?

いまの話は、特に誇張もない、ありのままの実話だ。そしてなぜこれが温暖化議論の縮図かといえば、二酸化炭素の排出削減自体が完全に自己目的化して、いったいそれが何のためのものなのかがすっかり置き去りにされているからだ。

 まずそもそも、いったいなぜ温暖化を防止したいと思うんだろうか。温暖化したらあちこちの氷がとけて海面が上昇するから? でも海面上昇すること自体が悪いわけじゃない。海面上昇したら、いま人が住んでいるところが水没して、困る人がたくさん出るからそれを防止したいと思うんだろう。台風などが増えたり大型化したりするから? それだって、なぜ嫌かといえばそれが人々に被害を与えるからだ。病気が増えるとか、メキシコ湾流が止まってヨーロッパが氷河期にたたき込まれるとか、すべて結果的にそれで人的被害が出るから問題視される。唯一、シロクマが絶滅するとか生態系が変わるとかいう話は、それ自体としてよくないように思えるけれど、これだってよく考えれば人間の各種活動や喜びに影響が出るから取りざたされるだけの話だ。

 結局、温暖化したら何がいけないのか、という疑問に対する最大の答えは、それが人々の被害や苦しみにつながるから、というもの以外はあり得ない。

 だとすれば、それにどう対応するかを考えるときには、どうすれば人々の被害や苦しみを減らせるか、というのを最大の尺度として考えるべきじゃないか。そして、人々が被害を受けて苦しむのは、別に温暖化だけが理由じゃない。だとすれば、温暖化だけを特別視する理由もない。ぼくが上に挙げたインド洋の島国で、温暖化を放置すれば20年後に1万人が苦しむとする。でも温暖化対策として発電所建設をやめたら、いま5万人が苦しんでいる。そしていまの人々の苦しみは、続く世代の苦しみにもつながる。だとしたら、この国の人々は温暖化を容認していま発電所を作るほうがいい。少なくとも、かれらにそういう選択肢があってしかるべきじゃないだろうか。いまの人がいくら苦しもうと、とにかく石炭火力はダメ、といった物言いは、何か物事の筋をかんちがいしていないだろうか。

 こういう議論をすると、「いや地球温暖化では何億人が死んだり苦しんだりするのだ」と真顔で言う人がいるんだが……それってホントに数えたんですか。むろん温暖化を防止しないとあれこれ天変地異が起きて人類がすぐにも滅びるというんなら、停電に苦しむ途上国民なんか踏みにじってしまえ、何がなんでも石炭火力はダメという環境団体の主張も致し方ないだろう。そして、アル・ゴアの悪質なプロパガンダ映画を見て、まさにそう思いこんでいる人も多い。でも、そうした議論はほぼすべてウソだ。台風がでかくなるとか、何メートルもの海面上昇とか、メキシコ湾流が停止してヨーロッパが氷河期に逆戻り、なんてことが起きないことはIPCCの報告書にも明記されている。温暖化対策を議論するとき、それをなるべく多くの人が理解するべきだとは思わないだろうか。そうでないと、あのインド洋の国でいまこの瞬間にも電気がなく、そのために職もなく、未来もない人々は、まったく根拠レスな脅しのために、無駄に苦しみ続けることになる。

 さらに、いまその人々に苦しんでもらったことで、事態はどのくらいよくなるんだろうか? 多くの温暖化議論は、温暖化はこわいから排出削減しなきゃいけません、と述べる。でも排出削減したら、温暖化は止まるんですか、という疑問にきちんと答えたものはほぼない。なぜかといえば……止まらないからだ。

排出削減:理由と実現可能性

 排出削減は、温暖化を防止する手段だと思われている。たとえば京都議定書は先進国が 1990 年の水準から排出を 5.2%下げることになっていて、それを実現すべくあれこれみんな大騒ぎしている(ようなふりをしている。これについては後述)。そしてアメリカが参加しないというと非難囂々だ。もしアメリカがちゃんと参加して京都議定書の目標が達成されたら、温暖化はかなり緩和されるんですよね?

 多くの人は何となくそう思っている。でも、京都議定書が完全に遵守されてそれが今世紀ずっと続いたところで、今世紀末に 2.6 度上昇するはずの気温が、2.4 度の上昇になるだけの話だ。もちろん 0.2 度の差を重視する立場もあるだろう。でも、たとえば海面上昇はどのくらい減ると思う? ほとんど減らない。あれもこれも、このくらいの温度差ではほとんど何の差も出ない。結局、人の被害や苦しみには何ら影響はない。とすれば、いったい何のための排出削減なの?

 いやそれなら京都議定書よりもっと厳しい削減をすべきだ、という主張も出るだろう。でも、それって本当に可能なんだろうか。ドイツの首相は、2050 年までに排出半減とかずいぶん勇ましいことを言っている。日本も洞爺湖サミットで、2050 年までに 6 割削減とかいうむちゃくちゃな提案を画策していると報じられている。が……京都議定書がまとまった 1997 年以降、二酸化炭素の排出を削減できた国はほぼ存在しないに等しい(議定書の目標達成とは話がちがうことに注意)。なぜ存在しないかといえば、それがあまりに高くつくため、とても困難だからだ。5% とか 6% 減らすことさえ実現できていないのに、半減とか六割減とかいう議論に多少なりとも現実味があると思うだろうか?

 温暖化の議論をする人々には、こういったポイントをある程度理解してほしいとぼくは思う。それでも削減しなくてはいけない、という議論はあるだろう。人々への被害なんか関係なしに温暖化緩和が必要だという議論も不可能じゃない。でもそれはそれで議論としてちゃんと展開して欲しいと思う。こうした点をうやむやにしつつ、何となく温暖化は怖いから、とにかくできるかどうかも考えずに排出削減しなきゃ、という変な話は、無意味なだけでなく、いますでに実際に害を生んでいる。少なくとも別の見方があることくらいは――いやむしろ、変な脅しに走らないいちばん見通しの高い見方とはどんなものかは――翻訳を通じて(そしてこんな文章を通じて)、きちんと報せるべきだとぼくは思っている。

排出削減論の裏にあるのは?

 こうした翻訳に対し、批判を受けることもある。書いてある内容が歪んでいるとかまちがっているとかいうのは、どんな本でも言われる話だし、それは読者がそれぞれに判断すればいいこと。ただ特にロンボルグの本についてははっきりとした間違いが指摘された例はほぼ皆無で、きちんと書かれた批判については、ほとんどあらゆる点について完全に反論されていることは述べておこう。

 だがぼくがおもしろいと思う――そしてこうした本を翻訳してよかったと思う――批判がある。アマゾンに掲載された、エイヴァリー他『地球温暖化は止まらない』の書評の一つを見てほしい。その書評は、この本に書かれた内容を必ずしも全否定はしない(ちなみにこれは、温暖化は天然要因が大きく、人為性は小さいというちょっと極論を述べた本だ)。しかし温暖化への懸念をきっかけにいまの無軌道な開発を見直す気運が生じている。こういう本はそれに水を差すから迷惑だ、という。文明のあり方やライフスタイルを見直すために炭素排出を、というわけだ。

 こうした議論が何を言っているか、よく考えてみよう。自分だけが正しい道(大量消費型ライフスタイルを見直すべきだということ)を知っている、それを実現するために、愚かな大衆なんかだましても構わない、かれらに本当かもしれない情報を提供されては迷惑だ、という、鼻持ちならないエリート意識がここには露骨にあらわれている。でもこれは、いまの温暖化談義であまりにしばしば見かける議論だ。こういう人に迷惑がられるなら、ぼくとしても本望だ。おそらく本誌と同時期に出る、ロンボルグの新著邦訳はその集大成となるはずだ。

 この批判に見られるように、先進国の多くの人々は、温暖化議論や排出削減が、なにやら優雅なライフスタイルの問題だと思っている。みんなちょっと自動車を控えましょうとか、ちょっと電気を消しましょうとか、裏紙を使いましょうとかスローライフとか。でも実際はちがう。それは社会全体にとっては、もっと失業者を増やせとか、もっと早死にしろとかいう話だ。そして、実際にそうした選択を、自主的にではないく外圧によって強制されている人々がいる。冒頭のインド洋の島国を思いだそう。夜、ホテルの窓からは、首都の一部が完全に暗闇になっているのが見えた。そこでの生活はどんなものだろう。排出削減をごり押しするなら、そこに出かけて、お前たちはそのままで我慢しろ、と言えなきゃいけない。あなたにそれができるだろうか?

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