朝日新聞のサイトに残るからいいやと思ったら、どんどん検索にかからなくなるんだね。こっちで保存しておこう。
この連載の話も突然ふってきて、書評委員会のついでに朝日新聞の建物内にある喫茶店みたいなところでちょっとご挨拶して、まあ好きに書いてください、と言われた。月に一回ほど、ということで、あと 3 人だか 4 人だかがいて持ち回りで書いていたらしいんだけれど、ぼくは新聞を読まないので、他がどういう人だったのかは全然知らない。ぼくの前任者には、もと MS日本の人とかもいたようだけど。
あまり好きな連載ではなかった。担当編集者は、欄としてこういう方向をめざしたいとか、現状で問題があるならそれはどこか、というのがちっともなくて、原稿の運び屋を義務的にやってるだけなのが見え見え。こっちの書いた内容が求める方向とマッチしてるのか、とか言うのが一切なし。いやそうじゃないな。締め切りが締め切りが、という以外には、ブンヤという表現は気に入らないとか、ガキという表現に苦情がきましたとか、バカという表現はいかがなものかと、とか。ダメならダメと言えばいいのに、そうは言わず、ダメではありませんがでもウダウダ。要するに原稿がお気に召さないのね、というのだけが伝わってくる。しょっぱなには字数が 600 字と言われて、いきなり縮小したのかなあ、と思って原稿書いたら「まちがいでした、実は前と同じ 1,300 だから書き直せ」だし、自己責任コラムのときは、この欄始まって最大の反響があったというから、それはよかったと思ったら、ちがう! 対応に追われて大変だったのでこっちの苦労も察してほしい、だって。そうですか、反響のないあたりさわりのないのがよろしいんですか。そうきくと「いえいえそうではありません」って、もう責任逃れのお役所答弁以下のお答え。やる気一気になくなりました。連載を切られるときにも「山形さんの原稿は毎回楽しみだったのですがぁ残念です」と実に見え透いたことを嬉しそうにおっしゃる。そしてその最終回は締め切りまちがえるし、おまけに終わってしばらくしてから「実はこれまでの原稿料を全部払い忘れてました」だって。トホホホ。
いま世相の話をするとなると、どうしても戦争の話は避けて通れないだろう。執筆時点では、戦局はアメリカの最初のもくろみより長引きそうだというのが確実になった段階だ。
いまさらこの戦争がいいとか悪いとか言ってもしょうがなくて、早めに終わってくれるといいな、くらいが正直なところではある。物量作戦でいけば、まあ長引くにしてもアメリカ側がいずれ勝つのは見えているんだから、被害は少ないにこしたことはない。そしてこうなってしまった以上、大事なのは戦争が終わった後にどうなるかだ。これには立派な先例がある。
実はこの戦争、そもそもの開戦理由がはっきりしないので、終わった後にアメリカが何を実現したいのかもよくわからない。最初は、アルカイダの裏にイラクがいてどうのこうの、次は大量破壊兵器がどうのこうの、次は査察がどうしたこうした。まともな理由があるわけじゃなくて、とにかく攻撃したいがために後付けでいろいろ理由を探しているのは見え見えだった。イラクがウランの買い付けをもくろんでいるというアメリカの出した資料も、一瞬で偽造がばれる代物。で、それだけの手間をかけて結局何がしたいかというと、とにかくいまの独裁政権を倒して自由な民主国家を作る、というのが能書きだ。だから今回の戦争は「イラクの自由」作戦という名前がついていた。さて、そういう能書きはごく最近、どっかで聞いたことがある、あれは確か……そうだ、アフガニスタンとかいう国だった。あそこも、タリバンが消えたら、復興と民主主義確立まで面倒を見るようなことをアメリカは言っていた。で、いまはどうなっているんだろうか。
ほとんどどうもなっていないのだ。
もちろん、世界各国からそれなりに援助は入っていて、徐々に復興は(ゆっくりと)進んではいる。でも、そもそも爆弾落としてまわったアメリカは? ニューヨークタイムズのクルーグマン連載によれば、二〇〇四年のアメリカ政府の予算案で、アフガニスタン復興予算は、なんとゼロ。あとから議会のほうがあわてて3億ドルほど追加したほどだそうな。
さてイラクがこれよりマシな扱いを受けると考えるべき理由はあるかな? まったくない。だからたぶん、終わったら同じ事態になるだろう。爆撃が終わったら、アメリカとイギリスはおいしい利権だけつまみ食いしてあとはそれっきりだろう。イラク復興は国連主導で、とイギリスが言っているのは、まさにそれを宣言しているに等しい。さてどうなるだろう。国連は、開戦までの途上でさんざんコケにはされたけれど、その趣旨からいって、復興には参加せざるを得ないだろう。日本もお金や自衛隊を出すらしい。でもそれが長く報われない道のりになるのは明らかだ。ボロボロのインフラをたてなおして、その中で社会的な仕組みも作り直し――気が遠くなるような作業だ。さらに、それをやっても、アメリカが恩義に感じてくれることはないだろう。
やれやれ、だから早めに切り上げて、あまり壊さないでほしいなあ。復興に使えるだけのインフラは残して置いて欲しいなあ。だってそのツケを払うのは、たぶんぼくたちなんだから。
参考:600 字版
渡辺正・林俊郎著『ダイオキシン―神話の終焉(おわり)』(日本評論社)という本が一部で話題になっている。
この本は、ダイオキシンの怖さをいたずらにあおる論調を否定している。そしてダイオキシンは塩ビを焼却炉で燃やすのが主原因だという通説にも、データと研究にもとづいて疑問を投げかける。
環境中にあるダイオキシンの大半は塩ビとも焼却炉ともほとんど関係ないから、ダイオキシン法はコストばかりかさむ悪法だ、ダイオキシン問題がこんなにクローズアップされているのは日本だけだ、とこの本は指摘する。
こうした科学的分析に加え、日本での異様な盛り上がりの背景も検討しているところがこの本のおもしろさだ。
それによると、ダイオキシン問題では、一部の反ダイオキシンNGOが大きな役割を果たした。焼却炉は死産を増やすとかアトピーの原因になるとか、根拠のない情報をセンセーショナルに流し、マスコミがそれを無批判に報道することで不安が拡大され、NGOの活動に正当性を与えてしまった――
意識の高い善意の市民たちが、自らの環境を守るために自主的にたちあがる、という図式は美しい。そういう形での意思決定の方が民主的で、企業や行政システムを通じた意思決定より優れているという風潮がある。
でも、生半可な聞きかじりと思いこみだけで行動する「市民」はいくらでもいる。
マイナスイオンだのカスピ海ヨーグルトだの紅茶キノコだのにあまり考えずにとびついて、頼まれもしないのに人に勧めてまわる人はたくさんいるのだ。しかも、まったくの善意で。そして人が何かを思いこんだら、それを理詰めでひっくり返すのは大変だ。自分が圧倒的に正しいことをしている(地球のためとか動物たちのためとか)と信じ込んだ人は、自分の善意の行動を疑問視する人すべてを、悪の手先と決めつけてしまい、自分の信念にあう意見だけを選択的にきいて、それが相互に強化しあって暴走することがある。信念を支える論点が否定されても、それは信念そのものの変更にはつながらない。信念にあう新しい論点が発掘されるだけだ。
いま、各種メディアはパナウェーブ研究所こと「白装束集団」をおもしろがっておっかけている。この集団はご存じの通り、左翼組織が電磁波でいろいろ悪さをするのだというへんてこな主張で有名になっている。多くの人は、これをきいて「なぜそんなものを信じるのかわからない」と言っている。
でも、ぼくたちの確信や納得は、実はそんなにしっかりと合理性に基づいてはいないのだ。かれらのへんてこな信念だって、まったくの善意からスタートして、内輪のフィードバックで暴走した結果として、いまの白装束があるんだろう。
それをみつめている「市民」の間にも、しっかりした根拠もない行動が広がっていくことは、よくあるのだ。
ある人は、パナウェーブ研究所を「極端な環境団体」と評している。でも、実は、思ったほど「極端」ではないのかもしれないぞ。
有事立法その他、きなくさい法案のほうに注目が集まる中で、改正著作権法があっさり国会で成立してしまったことはほとんど話題にすらならなかった。
一つのポイントは、映画の著作権の保護期間が50年から70年に延長されたことだ。たとえば、産経新聞は「日本映画黄金期の 1950 年代に制作された作品がここ数年で保護期間切れの危機に立たされていた」と報道。今回の改正でその「危機」が回避された、という論調なんだが……
別に著作権保護が切れることは危機でもなんでもない。保護されるのは、作品そのものではなく、それにくっついている著作権だ。『吾輩は猫である』は著作権保護が切れているけれど、作品はどうにもなっていない。映画も、単に「著作権」を持っている映画会社にお金が落ちなくなるだけだ。
映画会社は、「粗悪なコピーや改ざんが防げるからいい」と言う。が、そうだろうか。廉価版が出回れば消費者はうれしい。アメリカでもつい最近、著作権保護期間が延長され、それに対して違憲訴訟が行われていた。そこでの論点は「粗悪なコピーすら出回らないものはどうなる」ということだった。多くの映画や映像は商品価値がなく、死蔵されている。でも、著作権が切れれば、それらを利用してほかの活動ができる。公開されてこなかったものが、日の目を見るチャンスも出てくる。それを一部の既得権益のためにつぶすのは、本当にいいことなのか?
著作権保持者が本当に作品をきちんと保護するとは限らない。蓮實重彦著『監督小津安二郎』では、松竹が映画の重要なシーンを勝手にちょんぎった例が指摘されている。著作権が切れれば、可能性としてはそういうシーンの再現版を作ったりもできる。
作品が持つ価値というのは、ダイナミックなものだ。完成した「作品」を一方的にありがたく鑑賞するのが文化じゃない。過去の遺産で新しいものを作り出すことが文化の本質だ。そのためには、使える過去の遺産――スタンフォード大学のレッシグ教授は、これを知的コモンズと呼ぶ――を増やす必要がある。著作権「保護」の強化は、その遺産を減らす動きになりかねない。
他にもへんな部分がある。自分の著作が、他人の著作の複製翻案でないことを示す必要が出てきた。著作権侵害の紛争では、これまでは、「侵害された」と訴える側が、「あたしのこの作品が、こういう具合にパクられてます」と証明する必要があった。ところが今回の改正では、「ぼくの作品は、あなたの作品とは関係なく作られました」と示す必要が出てきた。
が……、自分が何かを見ていない、参考にしていない、ということをどう証明するね。もしこれが本気で適用されたら、「似ている」と言われただけでアウトになりかねない。
利用できる資産や、利用形態が徐々に制限されていけば、長期的には創作活動全般が冷え込む結果になりかねない。著作権は、本来は文化活動を豊かにするためのものだが、この方向性は本当にそれに資するものなんだろうか。
まずは前回の修正から。最近の著作権法改正について「『ぼくの作品は、あなたの作品とは関係なく作られました』と示す必要が出てきた」と書いたところ、ネット上でコメントが出た。これは立証責任が移ったわけではなくて、「関係ありません」と言い張るだけでなくその理由も説明してね、という「だけ」のことらしい。実際にどこまで可能かという問題はあるし、今後の運用を見ないとなんとも言えない部分もあるけれど、説明できなければただちに敗訴、ということではないようだ。ご教示いただいた方々に感謝したい。
さて今回はちょっと抽象的な話だ。世界待望のハリー・ポッターシリーズ第5巻(秘密結社フェニックス、原書)が出た。なんと 850 ページ。今回はデートの心得や進路相談など推定想定読者層には縁遠そうな話が多いうえ、悪役ヴォルデモートの行動理由も弱いために全体の見通しが悪く……という話はさておき、この分厚い本を世界の数百万人のガキが読んでいるというのは恐ろしくも頼もしい。
活字離れとかいう話はあちこちで出ていて、日本のメディア(この朝日新聞も!)は往々にして字を大きくして中身を薄くする、という後ろ向きな対応をするんだけれど、ちがうんじゃないか。やっぱり面白いものは読まれる、ということをこのシリーズは証明している。活字離れは多少はあるにしても、実はむしろ魅力ある中身を提供できない(または同じ中身を魅力ある形で提示できない)が故の愚痴ではないのか?
もう一つ。自作の超弩級プラネタリウムとして有名な「メガスター」が最近、渋谷の旧五島プラネタリウムで連日大入りの満員を記録した。プラネタリウムは人気がなくて次々に閉鎖されている。原因として、科学離れとか、理系不振とかが、まことしやかに挙げられた。でもメガスターの人気は、星空シミュレーションへの関心が実はかなりあることを示している。従来のプラネタリウム不振は、それに対応できなかっただけでは?
科学離れという話も、どこまで本当なんだろうか。『理系白書』が話題になっていて、そこでの論点の一つは、理系職の待遇の悪さだ。でもその状況が最近悪化したとも思えない。正当な評価と待遇は重要だけれど、同時に考えるべきは、なぜ昔の人は悪待遇の中で「理系」を志したのか、ということかもしれない。
メガスターの作者は、プラネタリウムをアートとして考える、というおもしろい発想を語っている。そこにヒントがあるんじゃないか。何かを美しく、おもしろそうに見せるにはどうしたらいいのか。それ自身で完結せずに、次のものへの期待を作りだすにはどうしたらいいのか。それを考えずに、活字離れだの理系離れだのというのは、客がバカだから商売が繁盛しない、というに等しい殿様商売談議じゃないだろうか。
もちろん、ぼくだって具体的な答えがあるわけじゃない(あれば自分で第2のハリポタを書きますわい)。ただ最近のいくつかの教育や人材育成がらみの議論は、どうもこれを無視してタコツボに陥っているような気がするのだ。
七月末の、フィリピンの軍一派による造反は、ぼくのホテルの真ん前で起きたのだった。目の前の駐車場にやけにごつい警備員がきたと思った翌朝、いつもは慢性渋滞の大通りが空っぽで変だと思ったら、なんと昨日のあれは反乱軍で、いま周囲は封鎖中、正面のビルが占拠されて危ないから窓には寄るなと言う連絡がホテルからまわってくる。ええぇぇっ! 電気を消してこわごわ外をのぞいてみると、うわ、ホントに向こうの屋上に兵隊らしき連中がいて、自動小銃らしきものでこっちを狙ってるじゃねえかっ!
ありがたいことに、この騒乱は一日で片づいて、翌日から街は何事もなかったように通常営業に復帰。いまやこうして冗談交じりのネタにできるけれど、これまでぼくが援助であちこち回った中で三番目くらいに怖い経験だった。普通の援助で出かけたって投石されたりライフルの銃口がこっちを向くくらいのリスクはあるし、民間人のぼくですらそのくらいは覚悟している。
ましてや、と話はイラクに移るのだ。ぼくはイラクへの自衛隊派遣で言われている「非戦闘地域」というのが理解できない。正規兵同士の戦闘ならいざ知らず、ゲリラ戦になってる以上、相手が安全だと思っている場所を狙う戦術だって十分にある。非戦闘地域なんていうおためごかしで、だれをだますつもりなんだろう。だいたいイラク爆撃に加担した日本の自衛隊なんてイラク人から見ればアメリカの手先だし……と書いたところで、ゲッ、国連が爆破されちまったよ!
これで皆様もびびって、自衛隊派遣はかなり先になりそうだ。でもいずれなんかせざるを得ないだろう。日本はすでにイラク爆撃の提灯持ちをしてアメリカ相手にポイント稼ぎを図ったわけだ。ここで逃げ出したら、それが水の泡だ。そしてポイント稼ぎとは別の意味でも、日本として爆撃を手伝っちゃった以上、その復興にだって手を貸さないわけにはいかないと思う。国内的には小泉首相の判断をあれこれ言えるけれど、国際的に見ればオール日本で同じ穴の狢だ。爆撃だけ加担してその後はほったらかし、というのではアメリカより無責任でしょう。いやあの時ワタシは反対しました、と言って許してもらえると思う?
そしてもしそうなら、実際に自衛隊が派遣されるときまでにまともな体制を考えなきゃいけない。絶対に危険はとんでもなくあるんだもの。
だから自衛隊派遣を唱える人は、変なごまかしをせずに自衛隊にリスク相応の武器を持たせ、必要に応じてドンパチできるようにがんばらなきゃいけない。
そして安全が確保できないといって自衛隊派遣に反対している人たちは、派遣が阻止できないとわかった時点で日頃の軍靴の音がどうこうという馬鹿なお題目を捨てて(皮肉なことだけど)派遣する自衛隊の装備や行動範囲を強化するよう主張しなきゃいけない。まさにかれらの安全のためにね。
問題はそれが本当にできるかだ。これまでの経緯を見る限り、いまのままだとインチキな「非戦闘地域」がでっちあげられて、そこへ自衛隊が丸腰まがいで送り込まれる最悪のシナリオになるんじゃないか。でもそれではあまりに自衛隊がかわいそうじゃないか、とぼくは思うのだ。
学生の皆さんはそろそろ新学期も佳境に入り、あの楽しかった夏休みを懐かしく思い出している頃だろうか。ところで、なぜ夏休みなんてものがあるのか疑問に思ったことはあるだろうか?
ぼくも最近知ったことだが、いまの学校制度は、かつての農業社会時代に成立したものだからなのだ。かつて、ガキは貴重な農業労働力だった。連中は朝、農作業をしてから学校にきて、勉強したら夕方前に帰ってまた働く。そして夏は、農繁期だから(特に綿花なんて、八月いっぱいが収穫期だ)一日中家で働いてもらわないと困る。だからこそ、夏休みという制度ができた。だからそれを含め教育制度の多くの部分は、工業化以前の社会構造の遺物だ。いまの教育制度は、実は子供が働くことを前提とした時代の名残なのだ。でもいまの子供は、基本的に働かない。ということは、それは、現代の産業社会とは必ずしもマッチしていない。
では、いまの社会構造にマッチした教育制度のあり方とは? もし前提をそのままにすれば、それはとにかくひたすら勉強することだ。一部の受験生たちのやっていることは、まさにそれだ。学校が終われば塾や予備校、夏期講習に冬期講習。だが、これが必ずしも最適とはいえないことは、当の受験生たち自身がよく知っている。あたしゃ何のために勉強しておるのよ、というのはなかなか見えないのだ。すると、むしろ前提を見直したほうがいいんじゃないか。子供が昔のように働けばいい。
途上国では児童労働の問題はなかなかうるさい。独善的なNGOは、ガキが低賃金で働いている国にやってきて「純真な子供を金儲けに使うとは」と嫌がらせをする。もちろん、不当な労働条件などの問題はあるだろう。でも、それさえクリアできれば、ぼくは子供が働いて悪い理由は何も思い浮かばない。ブダペストにはピオニール鉄道が残っていて、ガキどもがあれこれ働いているけれど、なかなかけなげでよろしいぞ。それに当のガキどもも結構楽しそうだ。
それに最近、高齢化社会に伴う若年労働力の不足、といった話がよく聞かれる。この議論自体が本当か、という問題はあるけど、それは置いておこう。でもその対応として取られる方策としては、定年や年金支給を遅らせる、といった後ろ向きのものが多い。子供をきちんと働かせられれば、一定の解決にはなるはずじゃないか。もちろんどういう働き方があり得るかは考慮が必要だ。でもそれと組み合わせた新しい教育制度だってできるはずだ。いまの教育は実用性や社会性に欠けるという批判もある。でもそうした問題意識の大半も、たぶん子供が働くのを常態にすれば、かなり解消されるはずだ。
そもそも教育の一つの大きな目的は、労働力の育成だ。それなのに、労働というものについてぼくたちがまともに教わるのは、小学校の「はたらくおじさん/おばさん」のテレビ以降は(工業・商業高校や専門学校を除き)ほとんどないのだ。それを充実させることの意味は大きいだろう。これを実現するには、教育以外の社会制度の変革も必要になる。でも教育のあり方を、一度そのくらいさかのぼって考え直してみることも重要じゃないかとぼくは思うのだ。
二〇世紀最大の工学的な達成は何か、と言われて、スペースシャトルを挙げる人もいれば、強制収容所や車、テレビやコンピュータを挙げる人もいる。でも全米工学アカデミーがトップで選んだのは、アメリカの電力網だったという。電気は産業や生活そのものを一変させた。自動車は、都市の物理的な形態を決定的に変えたけれど、その都市の風景、特に夜景を一変させたのは電力だ。ぼくはここ数年、途上国の地方電化の仕事をしている。無電化村にでかけると、自分がいかに電力に中毒しているか、実によくわかる。コンピュータも、携帯電話も、洗濯機も冷蔵庫も、まともな医療すら電気なしにはあり得ない。電灯が、夜中の活動時間をいかに拡大したことか。
そんな仕事のせいでアンテナが敏感になっているだけかもしれないけれど、この一年は電力関係のおもしろいニュースが多かったのだ。最大の出来事は、全米工学アカデミーの誇る電力網が、アメリカとカナダ東部で実にあっさり落ちたことだろう。たまたま冷夏で救われた、原発停止にともなう東京の電力危機もあった。いままであたりまえのように享受してきた電力網(とそれを支える制度)への信頼がずるずると低下しつつある。
その一方で、それと入れ替わるようにとまでは言わないけれど、分散電力分野の新しい展開がいろいろあった。ホンダが従来よりはるかにコストの低い新方式の太陽電池を商業化した。これで予想よりかなり急速に(といっても二〇年くらい先に)再生可能エネルギーが、石油・石炭よりも経済性を持つ見通しもでてきた。従来型の太陽電池も、まだコストダウンがはかれそうだ。パソコン用の燃料電池なんてものが本当に商品化されたのにはのけぞったし、従来の化学式の電池に変わって、密度の高いコンデンサーによる電力蓄積が実用化できそうな気配も出てきた。そして最近では、多孔質のガラスの中に液体を落とし発電する、マイクロマシン版超ミニ水力とも言うべき新方式が(実用にはほど遠いけれど)登場。新しい分散型の発電方式がどかっと出てきて、かなり現実味を帯びてきた。そしてその多くが日本から出ている。
もちろんこれらがいますぐ既存の電力網に取って代われるわけじゃない。コストが十分に下がるにはたぶん十年以上かかるし、一部はモノになるかも怪しい。普及しても安定のために相互接続は要るだろうし、高密な都市部では現在の電力供給が当分は優位なはず。それでも電力網のあり方が大きく変わるのは間違いない。地方電化の話も、一変するだろう(つまりいまぼくがやっている各種計算はかなり無駄になるわけだ。やれやれ)。都市の姿も変わる。携帯電話くらいには人々の生活を変えるんじゃないか。制度も、法律も変わる(太陽光発電が一般化したとき、日照権の意義がどう変わるか考えてご覧)。歴史は終わったとか、あるいは日本はもう衰退の一途だとかまことしやかに語る人がいるけれど、世界はまだまだ変わりそうだ。二十一世紀の最大の工学的達成は、案外本格的な分散型電力網の完成なんてことになるかもしれないぞ。そして日本がそこで果たす役割も、まだまだありそうじゃないか。
十二月一日からミラノで地球温暖化防止会議が開催されていて、ロシアが京都議定書を批准するかが一つの焦点になっている。ロシアの政府関係者からも、批准しない、いや批准する、といった矛盾する発言が飛び出して、何やら駆け引きが行われているらしい。すでにアメリカも脱けたし、ロシアが批准しなければ京都議定書はほぼ御破算か、大きな見直しを余儀なくされてしまう。
ただぼくは、ヘタをするとそのほうがいいんじゃないかと思うのだ。だって、いまのやつに本当に意味があるのか、ずいぶん疑問だもの。
まず多くの人は、いまあちこちで論じられているのは温暖化を止める話だと思っている。二酸化炭素が増えると地球温暖化が進行する。だから二酸化炭素排出を減らせば、温暖化が止まる。この議論はとっても明快に思える。でも、実はこの最後の部分にはごまかしがある。温暖化は止まるわけじゃないのだ。まず、二酸化炭素の排出は、そもそもゼロになんかできない。せいぜい横ばいか、よくてちょっと下げるくらい。だからいままでの温暖化はそのまま続く。さらに京都議定書にしたがって先進国が横ばいにしても、いまの仕組みだと、途上国――これから経済発展して大量の二酸化炭素を出すところ――は規制を受けない。だから全体として排出量の増加がちょっとゆっくりになるだけ。温暖化自体はせいぜいが数年遅れるだけとされる。そしてそのためのコストはすさまじい。日本がここ十年の景気停滞でいかに苦しんでいることか。京都議定書の排出規制は、それを世界中に強制しろという話に近い。それだけ苦労して実現するのは数年の時間稼ぎ――これって本当に意味あるの?
さらに地球温暖化議論のベースになっている、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)による将来シナリオの深刻な問題点も指摘されつつある。まず、為替換算方法で根本的なミスがあって、現在の途上国の経済活動見積もりがえらく過小だ。そして途上国の経済成長見通しが異様に高い。二十一世紀の末には、ほとんどの途上国はアメリカよりも一人当たり所得が高くなるというとんでもない想定だ。結果として今後一世紀の排出増加(ひいては温暖化)はすさまじく過大に見積もられているという。こんな数字をもとに、地球の将来を決めていいのか?
もちろん温暖化が起きていること自体は確実だし、それを抑える努力をするのは結構。過大な見積もりで煽るのはアレだけど、それで世界的な枠組みができたんだから有効に使えばいい。ただ、本当にいま提案されているものが意味あるのか、京都からずいぶん時間もたったし、見直してもいいんじゃないか。今の議論を見る限り、まともにやれば温暖化見通しは下がるし、必要な対策だってもっと小さくてすむ。そうしたらアメリカだって入りやすくなって、結果的にずっと成果が高まる可能性だってある。今回の会議では、京都の「次」も議題になるとか。でも、次の話をする前に、まずちょっと前提から見直すべきじゃないか。どうせ地球温暖化なんて百年単位の話なんだから、一年かそこらの遅れは大したことはないんだし、急いてもいいことは何もないぞ。
ぼくの好きな経済学者ポール・クルーグマンの、ニューヨークタイムズ紙連載コラム集の邦訳『嘘つき大統領のデタラメ経済』が出た。アメリカのマスコミの多くが、大本営発表の垂れ流しになっている中で、彼のコラムだけはブッシュ政策の問題を次々に的確に指摘し続けてきた。なぜそんなことができたんだろう。ワシントンに特殊な情報源があったから? いいや。まさに、そういう特殊な情報源がないからだ、とクルーグマンは書いている。だから情報源との馴れ合いもない。特別っぽい情報を得たということ自体に満足することもない。それが自分の強みだ、と。
さて、日本にも政府機関等の情報源と特別な関係に依存している組織がある。記者クラブというやつだ。これに入らないと記者会見その他にも出られないことが多いし、各種資料もこの記者クラブにまず流されることが多い。で、昨年末にEUから、この制度は外国メディアを実質的に閉め出し、情報の流通を邪魔しているからつぶせ、という文句が出た。記者クラブに入っていないために各種機関の「公開情報」入手もままならないケースが多々あるからだ。ところがこれに対する日本新聞協会のコメントの主要論点としては、記者クラブはよいものだ、だって政府機関なんかに情報公開を求めて圧力をかけられるし、情報統制できるといいこともある(たとえば現在進行形の犯罪報道なんかの場合)という議論だ。
さてこの回答は、EU の批判にまるで応えていない。問題にされているのは、記者クラブが実質的に情報を遮断し、隠蔽する役割を果たしてしまっている、ということだ。それに対して「いや他にいい機能もあるんです」(あるいは情報遮断にはいいこともある)と言うんじゃ、何の答にもなっていない。外国マスコミに対してもいかに記者クラブとしてフェアな情報提供が保証できるのか、ということを言わなきゃ。情報提供側との馴れ合い(以前、首相にマスコミ対応をアドバイスした記者がいただろう)や、特権的な情報アクセスへの安住といったクルーグマンの指摘するアメリカメディアの問題は、確実に日本にもある。それにどう対応するのか。それを明確にしないと、EU だっておさまらないだろう。いずれアジアのメディアからも、同じ文句が出るんじゃないの?
もちろん、記者クラブをつぶせとは言わない。情報公開圧力が(昔話としてじゃなく)現在でもホントに機能しているなら、それは結構。あと、ロイターによるとイラクでは自衛隊に日本からのマスコミがウンカのように群れてパパラッチ状態、鬱陶しいどころか他国軍の活動すら妨害し、マスコミが行き先に先回りしようとするので、自衛隊へのゲリラ待ち伏せ攻撃にもつながりかねないとか。こういう時に記者クラブ的な機能を使って協調できないの?(無理か)。でもだからといって、現状のすべてがオッケーということにはならないでしょう。単純に「つぶしません」と突っ張るだけじゃなくて、まず向こうの問題提起を真摯に受け止める必要はあるでしょうに。二月にまた EU は日本との協議でこの問題を持ち出してくる。そのときこそ、日本のメディアからまともな答を期待したいな。
仕事柄、世界の貧乏国をいっぱい回るけれど、どこへ行っても日本のゲームとアニメは無敵だ。無愛想なガキも、ポケモンやデジモンの話でホイホイ籠絡できる。数十億円の橋をかけても、日本の援助だってことさえ認識してくれない人々も、ゲームボーイを前にすると目を輝かせて、聞きもしないうちからジャパンがいかにグレートであるかを力説してくれるのだ。だから、この手のおたくアイテムで国際競争力を、といった話が政府筋からも出るようになり、はてはアニメやゲーム支援の法案が近々提出されるというのも、気持ちとしてはわからなくはない。ほかの分野がぱっとしないしね。
が。よせばいいのに。
この手の公的な産業支援育成政策ってのが、世界的にも死屍累々でうまく行くためしがほとんどないからだ。日本の戦後の傾斜生産方式やら超LSIプロジェクトは数少ない成功例とされる。でもそれ以後は、その筋では名前を口にすることさえはばかられた某シグマ計画や第五世代コンピューター計画等々。それどころか下手な支援策のおかげで、不採算産業がずるずる延命し、強かった産業が左うちわのぬるま湯利権業界と化すなど、かえって没落する結果になることだってある。
なぜ失敗するか? 将来どんな産業が重要になるかだれにもわかんないからだ。官僚たちは優秀だけれど、日本の産業の将来を読める人は役人になるよりビジネスマンになったほうが成功するだろう。5年、10年後の流行を先読みする産業振興策は、そもそも分が悪いのだ。
さらにアニメと言ったってみんな宮崎アニメみたいなお上品なもんじゃないぞ。エロアニメとかロリ萌えコミックとかギャルゲーとか、おたく系コンテンツってのはろくでもない代物も多い。でもそれがすそ野となって今の文化的な広がりと強さが実現されている。この1月、通称松文館事件の判決が出て、あるエロマンガがわいせつで有罪だという判決が下った。もし政府がおたく文化を助けたいのなら、ああいうのを守ってくれないと。でも無理でしょう。というより、そこまで考えてないでしょう。韓国もアニメなどによる産業振興策を進めているけれど、相応の腹のくくりかたをしているように思える。
だいたいアニメやゲームは現状のままで強い。だったらその現状をヘタに変えないほうがいいでしょ。金メダルやノーベル賞をとった人に、後追いであれこれ賞やら肩書をあげたりするみっともない図はよくあるけれど、産業政策でやることじゃない。ちなみに、ゲームもアニメも最近ちょっとかげりが見えているとぼくは思う。こういう分野が万が一落ち目になったとき、政策や法律を考えている人たちは何をしてくれるだろうか? 見捨てるか(それじゃ何のための支援策なのやら)、公的なお金で延命策をとるか(つまりは無駄金をつっこむか)。どっちもあまりうれしくない話でしょう。どっちも石を投げられるよ。
だったら、最初から変な尻馬めいた支援策なんかの旗をふらなきゃいいのに。ぼくはそう思うのだ。
いま、著作権法の改訂法案が提出されているのをご存じだろうか。そしてその中の大きなポイントに、日本版のある外国版CDの輸入を禁止しよう、というとんでもない条項が入っていることを。
そもそもの話は日本アーティストのCDが外国で安く売られていて(海賊版の話じゃないよ。正規版だよ)、逆輸入されると日本盤の売り上げが落ちるからそれを禁止しよう、という話だった。名付けて「輸入権」。マイナーそうな話だからどうでもいいや、と思っていた。どうせ邦楽なんか買わないし。ところが。国会答弁の中で明らかになってきたのが、これがなんと洋楽にも適用される、ということ。要するに、日本盤が出ている洋楽CDの輸入盤が違法になる。表示が必要とか、条件つきだし抜け道もありそうだけど、基本線はそういうことだ。
するとどうなる? 八〇年代初頭、渋谷にタワーレコードができて、洋楽の輸入盤が邦盤の六、七掛けの値段でドッと入ってきた。それがどんなに狂喜のできごとだったことか。音楽支出は確実に増えた。それは人々の購買行動を決定的に変え、渋谷という街の発展にすら影響を与えた。それがなくなる、ということだ。
輸入盤が禁止・制限されるようになったら、その分の売上が全部日本メーカーの懐に入ると思っているのかな。でもそうはならない。一五〇〇円の輸入盤を買っていた人がみんな、自動的に二八〇〇円の邦盤を買うか? まさか。多くの人は買うのをあきらめるだけだ。レコード会社の総売上はかえって下がるだけだ。
そもそもこの輸入権ってのがおかしな議論なのだ。「他の国でもやってます」というのが導入の口実なんだけど、でも他の国は日本の再販制というヘンな価格統制がない。ある程度の競争があったうえでの保護措置だし、それすらたとえばヨーロッパ域内ではEUのおかげで実質的にないも同然だ。それを今更? 日本はいまアジア諸国とは自由貿易協定 (FTA) を結んでモノやサービスの流通をむしろ自由化しようとしてるんですけど……なぜ文化庁はそれに逆行しようとするの?
さらになんでこれが著作権保護だ? 邦盤だろうと洋盤だろうと、売れれば著作権者にその分の著作権料が入る。洋盤からのあがりが少ないなら、契約条件を見直せ。それだけの話だろうに。邦盤CDの高さは、著作権者の取り分のせいじゃないでしょ。経営努力や生産コスト削減努力の欠如は著作権で保護されるべきものじゃない。あるレコード会社は、この輸入権が認められたら値下げのための努力をするかも、という珍妙なコメントをしていた。やれやれ、つまりいまは何の努力もしてないってことかい。まったく。
この法案、今の調子だとヘタすると通っちゃうぞ。そしてその暁には日本の大衆文化のある時代が幕を閉じるだろう。CD売上はさらに下がり、でもレコード会社はそれをインターネットのファイル交換のせいにして、それを補うためと称してさらに値上げ。ぼくたちはかつてのドヨーンとした街のレコード屋さんしかない世界へ逆戻り。さてこれって関係者すべてが損をする構図としか思えないんだが、この法案を作った人はそれが見えないんだろうか?
ぼくはイラク邦人誘拐事件で、人質たちの自己責任の否定論に驚いた。その主張にも、主張する人々にも。いずれ当人たちの首を絞めかねないヤバい議論なんだもの。
まず基本。当然の話だけど、ほぼあらゆる活動には公私の役割分担がある。自分でできる部分は自分でやり、それを越える部分は社会全体でプールしたリソースで対応。それが多くの場面での社会の仕組みだ。公私の境界については諸説ある。でも個人が負担する責任があることは絶対否定できないんだよ。国民の多くはそれを知っている。ぼくたちパンピーは、現に自分のヘマの責任はおおむね自分でとってるもの。それを無視した自己無責任論は、どんな高尚な理論に基づこうと説得力はそもそもまるでない。
そして社会のプールは有限だから、真に有用な活動のために温存しよう。自己努力をさぼってプールを浪費したがる個人は拒絶するか、プールの目減り分の一部負担を要求するのが正しい社会運営だ。国や政府は大きな社会とその管理人なんだよ。だから国民や政府が、人質たちが責任を果たしたか気にするのは当然だ。今回の場合、責任ってのは十分な情報収集と装備と安全態勢確保、できれば保険でしょう。ところが人質の皆さん、何一つやってなかった。事後のプールの補填も小銭程度。社会制度の乱用もいいとこだ。邦人保護は政府の義務だろうって? うん、だから政府は救出努力をしたでしょ。でもなぜそれで自己責任の議論がダメなの?
かれらの活動が立派だから非難するな、という人もいる。でも調べた限り、高遠氏のボランティア歴はかなりお粗末だし、イラクでの活動もシンナー遊びの若者支援。今井氏の目的は劣化ウラン被害ネタの絵本づくり。でもそんなのイラクでなくても十分取材可能だ。残りの3人も、ジャーナリズムと NGO の特権幻想にあぐらをかいた功名狙いにしか思えない。どれもイラクへの直接的なメリット皆無。これに敬意を示せだの大目に見ろだの主張するのは、あまりに苦しい。
そしてもっと大きな問題。自己責任否定論者は、それがその責任の裏返しの自由を否定しかねない議論だとわかってるの? この期に及んでイラクに出かけていったトホホな元人間の盾の人がいる。自己無責任論を主張するなら、あの人物を邦人保護の観点から国が責任をもって拘束しろ、という議論は十分に成り立つのだ。ぼくはそのほうがずっと怖い。
そしてNGOだから大目に、と主張する人々は、それが他のすべての NGO 活動をおとしめ、国民の支持を失わせる主張だと理解しているだろうか? 自分たちの活動の意義や安全性への十分な配慮を今アピールすれば、やっぱ本物はちがうな、と多くの国民が感心したはずなのに。なのに自己責任否定論者の多くが、他の場面では自由の重要性を主張し、NGO 活動の重要性を訴えている。あぜん。ねえ、もしそう主張するなら、その自己無責任論ってまずいよ。ほんとはあなたたちこそ率先して自己責任の明確化に動くべきなんだよ。だって自由や権利には必ず責任がついてまわるんだから。
ウィニーというソフトウェアの著者が逮捕されてしまった。ウィニーは、新しい仕組みのインターネットソフトだ。ぼくたちがインターネットで通常使う仕組みでは、大半のデータがサーバというマシンにあって、利用者の手元のマシンはそこに「あのファイルよこせ」と要求を出すだけだ。でもこれだと、ユーザ数が増えるとサーバの負担がものすごくなる。いまは増設で対応しているけれど、将来的には破綻する。そこで考えられたのが、ユーザのマシンが手分けしてファイルを持ち合い、融通しあう仕組みだ。これだとありがたいことに、利用者が増えればひとりでにネットワーク全体の能力が高まってくれる。巨大なサーバの増設を繰り返す必要もない。すごい。
これはインターネットの将来に不可欠な技術だと目されていて、世界各地で開発競争が展開されている。ウィニーは(特に日本では)最もポピュラーなものの一つだった。が……実はその最大の用途は、違法なファイル交換だった。このソフトは匿名性の強化が大きな特徴だったからだ。
ピアツーピア方式では、匿名性は重要だ。いまは持ち主が自分のところにファイルを置いて持って行かせるだけの方式もある。でも将来は、いろんなファイルが一番効率いい形で勝手にあちこちに置かれる仕組みになるだろう。中にはヤバいファイルもあるかもしれない。そのとき「違法ファイルを持っているな」と言われたらたまらない。なるべくそれがわからないようにすることで、みんな安心して参加できるようになり、ネットの効率も上がる。ウィニーは、それを実現しようとするものでもあった。でも一方で、匿名なら悪いことをしてもばれにくい。というわけで、みんな違法なファイルや著作権つきファイルをどんどん流すようになってしまった。
著作権侵害のファイル交換が増えたのは問題だ。でも、この作者自身はそれはしていなかったようだ。今回の逮捕されたのは、著作権侵害に使われると知りつつソフトを開発したから犯罪の幇助だ、という理屈によるものだった。その一方で、ソフトの開発自体は問題ではなく、著作権に対する挑発的な態度が問題だ、という変なコメントも警察から出ていたらしい。どっちにしても変な話だ。匿名性を高めるのは技術的な向上を目指した部分も大きい。それが重要な意義を持つことは上に述べた通り。それを悪用した人間がいるからって、その作者を逮捕しちゃっていいの? 成果物の悪用の可能性を知っていただけで逮捕されるなら、怖くて何もできない。たいがいのものは悪用できるもの。そして挑発的な態度って、子供の面子争いじゃないんだからさ。
この逮捕のおかげで重要な IT 分野での開発の遅れが生じるのは必至。残念なことだ。ここにはネット時代の著作権についての大事な問題がある。やみくもにコピーすべて禁止、極端な拡大解釈で手当たり次第に摘発で、いたちごっこを繰り返し、同時に将来的に有望な技術を潰すことが本当にいいことなのか? むしろネットのあり方と共存できる新しい著作権の考え方だってあるんじゃないか。この事件を機に、そんなことを少しでも考えてくれる人が増えるのを祈るばかりだ。
フィリピンから帰ってきてみると、青山ブックセンターがつぶれていた。六本木や青山に行けば必ず立ち寄り、何万円単位で買い物をしていたところだったのに。
いま、東京の本屋の大半は、まあこういう品揃えでこんな感じの本があるだろう、という予想がつくようになっている。多少はなじみの分野、ある程度フォローしている分野だと、もう最近の目玉と大まかな傾向がほとんどわかってしまうし、本屋の棚を敢えて眺める理由がない。オンライン書店で家まで送ってもらえばすむ話だ。
でも、何があるか予想がつかない本屋が少しは残っていた。一つは古本屋。そして新刊書店では、この青山ブックセンターをはじめとする少数の本屋だった。実際に足を運ぶ価値のある本屋だ。青山ブックセンターの得意としていた美術系の写真集や画集なんかは、実物を見ないと、買う価値があるかもわからない(オンラインで何度失敗したことか)。それ以外の棚でも、知らない本、意外な本を教えてくれ、勉強になる棚を作ってくれているのが青山ブックセンターだった。ぼくの物書きとしての売りの半分くらいは、変なものを発掘し、関係なさそうなトピックをつなげる能力にあるのだけれど、ネタに詰まったときに特に六本木の青山ブックセンターに何度助けられたことか。
そしてそれは、六本木という街の魅力の一つにもなっていた。現代の大都市では、デパートがかつての博物館の機能を果たしているのだ、という指摘がある。デパートがもう物販の場ではなく、ある種の文化的な展示の場になっている、という意味だ。各地における青山ブックセンターも、そういう機能を果たしていた。本を通じて都市が元来持っている、文化の展示機能を担っていた。それは(倒産したことからもわかる通り)それだけじゃ商売としては成立しない。でも、それがないと、こんどは街が街として成立しなくなる。
いま東京はしばらく前からの大規模開発ブームがまだ続いていて、その中で文化的なムードによる集客を通じたビジネスの可能性も考えられている。が、それが必ずしも十分に成功しているとは思えない。その一方ではこうした青山ブックセンターみたいな文化を直接扱うビジネスが成立しなくなってきている。本屋以外でも。このまま行くと、どっちつかずのジリ貧だ。
実は一つ可能性として、本や文字の持つ文化機能がすでにその歴史的役割を終え、消えゆく運命にあるのかもしれない。ぼくたちがいま目にしているのは単にその歴史的なトレンドでしかない、のかもしれない。本屋なんかさっさと見捨てて、新しい文化形態を探すべきなのかもしれない。が、これは話がでかくなるのでここでは触れない。短期的には、ムードを利用したいだけでも、どこかで文化自体の育成に金を出さなきゃいけない、というだけの話だが、その具体的な手段もよくわからない。青山ブックセンターをはじめとする文化機能を失ったあとの街がどう延命するか、というのがその方向性を物語ることにはなるのだろうけれど。すでに撤収を終えて空っぽになった店舗の跡を眺めながら、ぼくにはまだその方向が見えずにいるのだ。
まずは前回の訂正から。青山ブックセンターの本業である書店業の方は実は堅調で、倒産の原因はバブル期のツケ、という説もあるそうだ。本当のところは不明だが、店舗の多くは引き取り手がついて再建の動きも見られるようだし、営業的にまったく絶望的な状況だったわけではなさそうだ。前回書いたほどの悲観論を抱く必要はないのかもしれない。
さて今回は最後なのでまったく時事性のない話題を。天下りとお役人の話だ。
天下りは通常悪いことだと思われている。官民癒着、汚職の温床云々。が、ぼくは最近、必ずしも悪いことばかりじゃないんじゃないか、と思い始めているのだ。
これは途上国のいろんな状況を見て思いついたことだ。政策実施には、それなりの経験と技能が必要だ。だから途上国援助のかなりの部分は、役人の能力向上――研修とかね――にあてられる。ところがどの国でも役人は民間に比べれば安月給だ。するとどうなるか? ちょっと研修を受けてもらって技能がついた途端、その人は数倍の給料で民間に引き抜かれ、翌日から交渉テーブルの向こう側にすわっていたりする。残る役人は知識も能力も低く、こちらの手の内を熟知した民間に簡単に手玉にとられ、民営化のお題目の下で大切な国の資産を二束三文で持って行かれ、国はいつまでも低迷を続ける――そんな構図が結構あるのだ。
どうすればそんな事態を防げるだろうか? そう考えたとき、天下りという制度には、ある意味で合理性があることがわかる。天下りは、公共側に役人を踏みとどまらせるニンジンだ。今は給料が低くても、将来的にメリットがあるから民間のお誘いを蹴って役人にとどまろう――そう考える余地ができる。いやもちろん、天下りの害は百も承知。でもそれをなくしたとき、いったい役人は何を支えに仕事を続ければいい? アホらしくなった役人が(有能なほうから)さっさとやめていったら、国民はとても困った状況に追い込まれるぞ。
公共部門に技能を残すやり方は、他にないわけじゃない。アメリカではある年齢までに国の職員になったら恩給がつく。だからはやめに民間企業をやめて役人になる人がかなりいる。そこそこ経験も技能もあるので、民間とも丁々発止でわたりあえる。なかなかいい仕組みだ。これが成立するためには、民間の退職金を下げてもらって役人の年金を上げる仕組みが必要だ。でもそこはいまの年金改革騒ぎに便乗してなんとかならないか。ついでに年金給付年齢をジワジワ引き上げて出し惜しみして、同時に年寄りをもっと働かせよう。ぼくは長期的には公共部門でそれを吸収できると思っている。これをうまくやると、いままで天下りが支えてきた、公共の技能や交渉力維持を少しは補填できるんじゃないか。おまけにもう一つ、年寄りは保守的で頑固とされているけれど、やり方次第では(どうせ先は短いんだし)結構大胆なばくちを打てるようになるんじゃないか。案外斬新な施策を気軽に採用してくれるかもで、さらにはあーしてこーして、という具合にいじくると、おお、これぞ高齢化社会に向けた新しい社会制度像! と興がのってきたが残念ながら紙幅が尽きた。