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alc2014年10号
マガジンアルク 2014/10

山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 97回

みんながルールを守るしきい値、守らないしきい値:制度の突然の普及

月刊『アルコムワールド』 201410号

山形浩生

要約:みんながルールを守るところでは自分も守るのが賢いが、だれも守らないところでは、生真面目に守るほうが愚かだ。この二つが逆転するしきい値があるはずで、それを超えると世界が一気に変わる。それを目指して報われぬ仕事をしているわけだ。


 昔(というのは5年前)、このコラムで車線の話を書いたことがある。発展途上国にいくと、みんな車線をはじめとする交通ルールを守らずに、すごい渋滞となる場合が多い。そして経済が発展してみんなが豊かになり、車を持つ人が増えれば、その渋滞はさらに悪化する。  でも……多くの国で、あるハードルを越えるとそれが変わる。渋滞まみれだったその国に数年ぶりに出かけると、突然みんな交通ルールを守るようになる。車線も(ある程度は)守るようになる。そして車も、相変わらず渋滞はするけれど、以前よりはマシに流れるようになるのだ。

 これにはいろんな原因がある。行政もまったく無能ではないので、立体交差を作ったり、公共交通を走らせたりする。教育にも力を入れるし、また都心の状況があまりにひどいと、別のところに新都心やビジネス街ができる場合もある。

 でも、ぼくはもう一つ原因があると思う。それは、社会的ルールや慣習すべてにあてはまるもので、人とルールの関係のようなものだ。  たとえば去年は仕事でひんぱんに出かけていたカンボジアがまさにそうだ。経済が発展し、道路整備が追いつかずに渋滞。するとみんな、我先に急ごうとして、反対車線を逆走したり、信号無視したり、左折(カンボジアは車が右側通行なのでこれは日本の右折にあたる)車が反対車線を完全にふさいだりして、それがなおさら渋滞に拍車をかける。

 ぼくたちは「交通マナーがなってない、ルール遵守の精神がない」とそれを見て思う。でも、それがルールの一つの本質でもある。他のだれもルールを守っていないときには、自分一人がルールを守るとむしろ損につながる。ぼくたちがお願いしていたドライバーはかなり交通法規遵守だったんだけれど、いっしょに乗っていた通訳さんは、それが怖いという。こんな律儀に信号守ったら、他の信号無視の車に追突されかねない、と。

 でも、ほとんどの人がルールを守っているときには、自分もそれに従うほうが得だ。無視するほうが自分の不利益になる。

 そして、交通状況があるとき突然変わるように見えるのは、たぶんその閾値(しきいち)があるんだと思う。たぶん社会の中には、そもそもルールなどというものを考えたことのない野生児状態の人たちがいる。次に、自分の得になればルールを守ってもいいが頑張って遵守する気はない、付和雷同の人がいる。そして最後に遵法意識をかなり発達させた人がいて、少し自分の損になってもなるべくルールを守ろうとする。この最後の層の人が一定割合を超えたとき、その人びとにつられて中間の付和雷同組が、一斉にルールを守るようになる。

 このあたりの閾値ギリギリの国にいると、道路はそういう状態を出たり入ったりする。交通に余裕があると、みんな美しく車線を守り、ウィンカーも出し、立派な遵法ドライバーだ。でもちょっと渋滞し始めたとたん、一瞬でカオスに陥るのだ。少しでも空いているところに強引に車の鼻先をつっこみ、いきなり逆走を試み、あれやこれや。その人たちの内心で、実に微妙な損得勘定の計算が進行していて、それがルールを守る/無視するという境界を出入りしているのが手に取るようにわかる。

 実はこの話、かなりいろんなところに応用が効く。お金がなぜ成立するか、とかね。でもぼくはとりあえず、仕事の開発援助の文脈で見ている。援助は、いくらやってもちっとも状況が変わらず、徒労感を覚えることも多い。でもぼくは、国の発展もこの交通ルールみたいなものだと思っている。少しずつ、がんばって発展しようと思う人が増えれば、あるとき、そういう努力をするほうが利益だということが社会全体に広まり、いっせいにその国は発展に向けて歩み始めるのだ。そう、いつかそんな日がくる……といいなあ、と思いつつぼくは日々仕事をしているのだけれど。



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>