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alc2013年05号
マガジンアルク 2013/05

山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 87回

集合知がもたらすコミュニケーション

月刊『アルコムワールド』 2013/05号

山形浩生

要約:外国で仕事をしていると、決して英語がうまくない人々でも、なんだかみんなで断片を聞きかじって相談するうちに、かなり正解に近い解釈に到達することが多い。集合知は、そんなところにも作用するようだ。


 本誌の読者諸賢は、がんばって英語を勉強している人が多いはず。そしてたいがいは、アメリカ英語か、それについでイギリス英語をお手本として学ぼうとするだろう。ぼくの同僚たちはみんな優等生で帰国子女もちらほらいるから、英語の成績もみんな高くて結構自信たっぷりだったりする。

 その子たちがインドやアフリカにでかけると、たいがいかなりのショックを受けて帰ってくる。往々にして、向こうが何を言っているか全然聞き取れないからだ。

 経験ある人は一人残らず知っているだろうけれど、インド英語やアフリカ英語は独特だ。その訛りもそうだし、人々の発音の仕方も聞き慣れないものだし、さらに言い回しや慣用句なども独特で、加えてみんなえらく早口だ。かなり場数を踏んだこのぼくですら、しばらく間があくと、初日は6割くらいしか聞き取れず、その日一日で耳の枠組みを意識的にずらして(たとえば「この人たちの『エ』音は実は『ア』なんだ、とか)補正して、二日目の午後くらいからやっと平常運転となる。まして初めての人は、そういう参照枠組みさえなくて、まったく理解できず泣きそうになっているのも時々見かける。

 それが著しい場合にはぼくが通訳をすることも多いんだが、たとえば多人数の調査団だと、同じ部屋でぼくは財務の話をしていて、他の人たちは電力や道路の技術的な話をしていることも多く、そうなるとこちらも手一杯で助太刀できない。さあ困った、という場合がときどきあるのだ。

 先方は、もちろんそんなことにはお構いなしに、こちらが出した質問票にしたがって一つずつ、まったく手加減なしのインド英語やアフリカ英語で返事を一門あたり、返事が十分くらい続く。

 もちろん日本側の団員のほうはほとんど聞き取れない。そして、その日本人団員が一人なら、それ以上打つ手はない。だが、ときどき技術担当の日本人団員が五人くらいいる場合があるのだ。みんな英語は同レベル。すると、ちょっとおもしろいことが起こる。

 まず一同は黙って顔を見合わせる。目で「おまえ、わかった?」「いや、全然」と語り合っているのがこちらからもわかる。が……そこからが興味深い。こちらの日本人調査団の中で、「おい、いまのはつまり、イエスってことか?」「いえ、でもあそこの変電所はちがうとも言っていて……」「基本的に構造が少しちがうらしいですねえ」「でも電圧のところでディフィカルトとか言ってたよな」「え、それってディフェクティブで、何か故障してるとかだったような……」といった議論がだんだん展開されていくのだ。そして、少しずつ「向こうはつまりこういうことを言ったらしい」というコンセンサスがゆっくりとできあがってくる。あそことここはつじつまが合わない、といった補正もだんだん加わって、だんだん正しい意味に収束していくのだ。

 そして、五分後くらいにできあがったコンセンサスは、結構あっている。先方の言ったことの八割くらいは押さえられている。ぼくは、初めてこれを見てすごく驚いた。一人一人はあまりわかっていないのに、集団としては理解できるなどということがあり得るのか! ぼくは自分が結構頭がいいので、集団行動をバカにするようなところがある。でも、そういうのを何度か見るうちに集団もあなどれないな、と思うようになった。

 お気づきの方もいるだろうが、これはインターネットで言われる、集合知という現象そのものだ。ウィキペディアでもツイッターでも、個別の人はそんなにすごいわけじゃない。でもそれが少しずつ情報を修正することで、かなり精度の高いものができあがってしまう——でもそれが、こんなリアルタイムで起こることがあるとは!

 そしてこれは、教育手段としても有効だ。二、三人にこれをやらせると、だんだん意味と音の対応が頭の中にできてきて、一週間の出張の終わり頃には各人とも、一人でかなりの聞き取りができるようになるのだ。これをもっと組織的に英語教育に導入できないものか、とぼくは昔から思っているんだが……



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>