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alc2012年06月号
マガジンアルク 2012/05

山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 76回

途上国イノベーションの苦闘:タタ自動車のナノ、ネットブック

月刊『アルコムワールド』 2012/06号

山形浩生

要約:インド発のイノベーションとして話題になったタタ自動車のナノは、安さを強調するあまりイメージが悪化したし、一時一世を風靡したネットブックは、普通のPCやスマホの猛追ですぐに古びてしまった。なかなかそうそううまくは行かないようで……


 ぼくは免許は持っているけれど、日本ではほとんど車に乗ることはない。でも、メカとしての車には非常に興味を持っているのだ。あれだけの技術を詰め込んだメカはなかなかない。

 そして自動車方面でのここ数年の話題は、もちろん各種の電気自動車もあるが、一方でインドのタタ自動車による超廉価小型車のナノだった。十万ルピー、ざっと二十万円ほどで買える自動車ということで、かなり話題にはなった。当初の期待は、インドの新興中所得層が一気にこれにとびついて、インドの自動車保有率は爆発的に上がる、というものだ。

 が、その後あまり話が聞こえてこない。当初予定していた工場が、周辺住民の反対のために実現せず、移転を余儀なくされて、販売開始が予定より大幅に遅れた、という噂はきいていたんだが……

 で、いまぼくは久しぶりにインドのチェンナイにやってきている。ごちゃごちゃしたあのインド特有の街の感じは相変わらずだが、急激に進むメトロ整備の工事などで街の景観にかなりの変化も見られているし、それもあって渋滞はかつてより結構ひどくなっている印象ではある。明らかに車は増えているし。

 が、もっとナノをあちこちで見かけるかと思ったら、それほどでもない。一日に二、三台というところか。当初は、インドの新興中産階級がこぞって飛びつくと思われていたのに……

 インドの人に事情をきいてみたところ、なんでもナノは、一時思われたほど売れていないという。理由はいろいろあって、まずさっき書いた通り、実物の販売がかなり遅れたのが痛かった。これで当初の熱狂がかなり冷めてしまった。

 さらにもたつくうちに、工場の移転費用や原材料費の上昇などの要因で、結局は十万ルピーではすまず、普通のオプションを揃えればその倍くらいに値段が上がってしまった。当初の魅力は半減。

 そしてその間に、他社も小型低価格車をかなり投入してきた。十万ルピーとはいかないにしても、いまのナノの価格でならちょっと高いくらいだから、十分に選択肢に入ってくる。

 さらに何とも皮肉な話だけれど、安い車というのを強調しすぎたせいで、ナノには貧乏人の車だというイメージがつきまとうようになり、かえって敬遠されているのだという。上昇志向のあるインド人としては、今の値段でナノを買うくらいなら、あと一踏ん張りして他社の安い自動車を買ったほうが、ご近所へにも多少の見栄を張れる。

 そんなわけで、幸か不幸か、ナノ自体は期待ほど出ていない。正直いって、当初の計画どおりに製造販売が進んでいたら、話題性もあったしもっと地位を確立できていたと思うんだが……

 実はちょうどナノが出た頃に、パソコンのほうでも台湾メーカーが、メールとウェブに特化した性能限定のネットブックというのを投入した。一時は話題になったし、安くてそこそこ売れた。そして、性能限定の安い製品が途上国発の新技術として有望なのでは、という期待が少し生まれたのだった。

 が、ネットブックもナノと似た状況だ。多くの人はそこまで割り切れず、どうせなら少しでも高性能を求める。値段はじわじわ上がり、一方でラップトップの値段も下がる。

 同時に、下からはスマートフォンが追い上げてきた。ウェブブラジングにメールならそれで十分だし、それ以外の面でもはるかに便利だ。そんなわけで、いまやネットブックは話題にもならず、ジャンルとしてもほぼ死んだと思っていいだろう。

 自動車やパソコンに廉価需要が大きいことを知らしめた点では、どちらも意味はあったし画期的だったとは思う。でもそれ自体が製品として確立しなかったのは残念。特にナノは、インドの渋滞の中では非常に理にかなったサイズでいいと思ったんだが、次に期待かな。でもそろそろ途上国の名誉を背負ったものすごいイノベーションが登場してくれないかな、とぼくはずっと期待はしているんだが……



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>