『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 73 回
月刊『アルコムワールド』 2012/02号
要約:世界には飯のまずいところがあるが、イギリスは自国はまずいのに、植民地は飯のうまいところばかり占拠しているのは、ひょっとしてインセンティブプランなのか?
いうまでもないことながら、日本は世界的に見て異様にご飯のおいしいところだ。そしてやっぱり世界中あちこちまわっていると、飯のうまいまずいは露骨にわかる。たとえばベトナムやタイは、そこらの屋台飯も含め、まずいものをみつけるほうが難しいくらい。それはもちろん、中国もいっしょだ。ロシアは、素材が限られているわりには、かなりがんばっている。むろん、フランスやイタリアの優秀さは言うべきにも非ず。
これに対し、ダメなところはどうしようもない。中には、単純に貧しいだけのところもある。たとえばモンゴル。基本は羊しかないし、それも寒くてエサが不足気味なのでやせている。だから脂まで少しも残さずに食べるため、焼くなんてもってのほか。ゆでるしかない。アフリカの多くの地域もそうで、とにかく脂が貴重品だ。ガーナ人と、アクラにできたばかりの寿司屋にいったら、「脂っ気がなくてまずい」とぬかして寿司に盛大にヤシ油をぶっかけて喰っていたっけ。
でも、気候や自然面から見て特にハンデがないのに、ご飯がとてもまずいところがある。たとえばフィリピン。フィリピンは暑いし自然の恵みは豊かなのに、ろくな料理がない。フィリピン料理といって、みなさん何が思い浮かぶだろうか? ほとんどの人は何もないはずだし、また思いついた人がいても、凄く思い出に残るうまいものはない。
あるいは、フィリピンより少しマシとはいえインドネシア。むろんインドネシアはやたらにいろんな地方料理があって、中には少しおいしいものもある。バリ島なんかはかなり優秀だ。それでも、インドネシア料理といってほとんどの人が真っ先に思い浮かべるのは、ナシゴレンだ。チャーハンに目玉焼きを載せただけ、というとインドネシアの人は怒るけれど、でもそれ以上のものではない、とぼくは思う。
ここらへんは、素材は特に困らないはずだ。タイもベトナムも、同じような素材でずっとうまいものを作っている。なぜおいしい料理が発達しなかったのか?
これは外国遍歴の長い人々が集まるとよく話題になる。よく言われるのは、歴史文化的な説明だ。料理は、強大な王朝がある程度続いて、三代目以降くらいで平和で豊かなあまりすることのない王さまが、ひたすら食い道楽に走り、それによりその地域に特徴ある料理ができるのだ、という説。ちなみにその料理観だと、日本は江戸時代に、そうした王朝や将軍とはまったく関係ない庶民料理――たとえばそば、天ぷら、寿司――が代表的な料理と化した、非常に希有な例、ということになる。
そしてもちろん、ここでは書けないような宗教・民族差別的な説明もある。ある宗教の普及する地域ではおいしいものが発達しにくい。やっぱ、酒がダメと言われてあっさりそれに従うような人々はそもそも味覚がろくでもなく、まともな料理なんか発達させられないというわけ。
そんな中で、ちょっと不思議な国がある。イギリスだ。
イギリスにまともな料理がないというのは、自国民ですら認める公然の事実だ。ところが、その味覚オンチなイギリス人が植民地にしたところを見てみよう。インド、香港、オーストラリア、南ア――ほとんどが、うまいものを大量に擁するところばかり。もちろん少しははずれもあるが、それにしても他の植民地時代の列強と比べると、実にいいとこ取りとなっている。なぜだろうか?
むろん、正解などないわけで、好き勝手いろいろ言えるのが楽しいところ。本国の飯がまずいからこそ、外にでかけてうまいものを喰いたいという欲求により植民地主義が発達したのだ、という人もいる。金融分野のいわゆるウィンブルドン方式と同じで、自分でやるのはあきらめて、他人にやらせる道をどこかで選んだのだ、とか。
実はぼくは、この「うまいもの喰いたさに植民地開拓」という発想が気に入っていて、日本人が内にこもりがちでなかなか外で活躍できないのも、これが大きな原因だと思っているのだけれど。人が外に出たくなるような、居心地の悪さを人工的に醸成するにはどうしたらいいのか? ぼくはこれが経済発展においても重要なんだという気がしているのだ。