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alc2012年01月号
マガジンアルク 2012/01

『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 73 回

閉じたパイと開いたパイの作る国民性

月刊『アルコムワールド』 2012/01号

要約:国民性のかなりの部分は、経済的な条件で決まると思う。特にパイが広がると思えるのか、あるいはパイは一定の取り合いを想定するかで多くの行動は説明できる。


 国民性談義というのはいい加減で根拠レスなことが多い。日本人の大半がきまじめで几帳面になったのは、明治期以来のことでしかないらしいし、ユダヤ教徒はいまではよくも悪しくも商売上手と思われているけれど、かつては商才などまったくないと思われていたそうな。

 むろん、そうした話自体がある種の悪しきステロタイプだからだ。でも、は個別の人間に適用しないことさえ忘れなければ、結構うまく特徴を捉えている。そしてぼくがそうしたステロタイプで重視する類型がある。

 そこの国民性は、他人の損を自分の得と同一視するか、それとも他人の得と自分の得とを切り離して考えられるか、ということだ。

 北朝鮮を脱走した人々について描いた『北のサラムたち』という名著がある。その著者たちの団体は脱北者たちを集めたキャンプみたいなのを運営しているのだけれど、変なことに気がつく。脱北者たちは無意味な告げ口をやたらにしてくるのだという。XX さんはあなたの悪口を言っていた、YY さんは何かを隠していた云々。著者たちはしばらく首をかしげるのだけれど、やがてそれが北朝鮮では当然のことなのだと理解する。そうした相互監視を内面化させることで、北朝鮮は成立しているのだ、と。

 そしてぼくが思うに、それを成立させる物質的な基盤があるのだ。成長しない社会、パイが常に一定の社会では、自分が何かを得るためには、他人が何かを失う必要がある。ある独裁者の伝記を訳していたときにもそれが出てきた。その国の発展が遅れて、異様な独裁と相互密告と虐殺を許してしまった原因は、その国の国民性にあるのだ、とその本は書いていた。それはまさに、物資が少ないがために、他人を陥れることが自分の利益につながる社会だった。だからこそ、そうした「国民性」が合理性を持っていた。

 北朝鮮や独裁虐殺国家までいかなくても、そうした発想は文化や経済に大きな影響をもたらす。それは、新しいことを拒み(それは既存のものをリスクに曝すことだから)、そして協力を拒む発想でもある(協力のためには自分の手持ちを何かしら差し出す必要があるし、両方が得をできることもあるというのがなかなかピンとこないから)。映画評論家の町山智宏は、これをカニバケツ状態と呼ぶ。カニはだれかが出ようとすると足を引っ張るため、結局だれも出られないからだ。

 ぼくの仕事の開発援助は、必ずしも援助先の国は選べない。でも、他人の損が自分の得だと思っている国では、仕事はきわめてやりにくい。その逆だと、仕事はやりやすいことが多い。そして途上国の一部がなかなか発展しないのは、この発想が自己成就的な性格を持つからだ。他人の損が自分の得と思い、みんなが同時に発展するというシナリオを想像できないがゆえに、協力ができず、そのため本当に発展が実現せず、だからやはり他人の損が自分の得となる停滞状態が続いてしまう。

 ちなみに、個人でもこれはかなり有効なきりわけだ。そしてそれを見分けるには、食べ放題飲み放題のところに行くといい。そこで自分が好きなものを飲み食いするのは、他人の損と自分の得とを切り離して考える人。でも、「そこで原価が一番高いのは何か」を気にして、ときに好きでもないものばかり飲み食いしたがるのは、他人の損を自分の得と思う人だ(原価が高いとは、店が損をしているということになる)。その人と仕事をしやすいかが、これで結構わかるとぼくは個人的には思っている。

 日本も、長期にわたる停滞が続く中で、パイは広がらないという認識がやたらに浸透して、他人の足を引っ張るのが自己利益につながる、といった発想が強まっているように思う。たとえば最近のTPPを巡る議論をはじめとする、各種既得権益業界保護談義がその典型だ。日本の再生のためには、まだ全員に行き渡るほどパイが広げられるという考え方を広めなくてはならないんだが……



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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