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alc2010年08月号
マガジンアルク 2010/08

『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 53 回

交通ルールの遵守はマナーなのか比率による創発なのか

月刊『マガジン・アルク』 2010/08号

要約:交通事情は世界でずいぶんちがうし、クラクションも日本ではものすごい強い意味だが途上国ではただのあいさつ。あと、車線の維持も経済発展の度合いによって、ある日創発的に突然変わるような気がする。


 途上国の交通事情というのは、どこも壮絶なものだ。かつてのバンコクやマニラのような、ぴくりとも動かず歩いて五分の距離が車で三十分かかるようなすさまじい渋滞。あるいはカイロのように、信号など参考程度にしか思っていない自動車の暴走ぶり。さらにはベトナムの、交通法規などというものがあることすら理解していないとおぼしきバイクの大洪水。こうしたいずれのところでも、道を渡るのはコツをつかむまでは(いやつかんだ後でも)命がけで、寿命が縮む。むろんどこも、排気ガスで空気は最悪。

 そしてその中で、やはり日本人にとってきわめて異様に感じられるのは、クラクションの使い方だ。

 日本では、クラクションを鳴らす/鳴らされるというのはよほどのことで、クラクションを本気で鳴らされると多くの人は縮みあがるし、下手な相手にクラクションを鳴らそうものなら殴られるのを覚悟しなくてはならない。自動車学校で習ったように、クラクションはむやみに鳴らしてはいけないことになっている。

 が、途上国ではちがう。ぼくはいまベトナムでこれを書いているのだが、ベトナムでは――そしてほとんどの途上国では――クラクションの意味がちがう。クラクションは、半分は「さっさとどけ」という意味だが、残り半分は「通りますよ」というだけの意味だ。だからみんな、実に気軽にクラクションを使う。都市の間を車で移動しようものなら、幹線道路に出てからドライバーは、ほとんどコンスタントにクラクションを鳴らし続ける。追い越し車線に遅い車がいると鳴らし、通行車線の車を追い越すときも念のため鳴らし。しかもそのクラクションが、ものすごい大音量や日本の暴走族みたいな音に改造してある。いずれ慣れる、といいたいところだけれど、こればかりはねえ。

 ベトナムでは実は、これを何とかしようという動きがある。変な改造クラクションは禁止しようという。そのきっかけとなる事件があったのだ。しばらく前にベトナムでは、母親が後ろのシートに二歳の娘をのせてバイクで走っていたところ、後から追い上げてきたトラックがクラクションを鳴らし、それに驚いた女の子がびっくりしたはずみにバイクから転げ落ちてしまった。そして後続のトラックに轢かれて死んだ。

 死んだ娘を抱きしめて泣き叫ぶ母親の姿が全国に報道されて、無用に大音量でクラクションを鳴らしたトラックに対して世論の非難が高まり、その結果として政府もなんとかしようということになった。

 この手の規制がどこまで有効化については、ベトナム国内でもいろいろ議論はある。改造をなくすのは可能かもしれない。でも、クラクションの問題は基本的にはドライバーの習慣の問題だ。マナーの問題、といいたいところだけれど、必ずしもそうではない。みんながそうするから自分もそうする、というのをみんながやっているだけだ。そして、それを直すのは至難の業だ。

 が、やる気次第だ、という声もある。しばらく前に、ベトナムではバイクのヘルメット着用が義務づけられた。暑いベトナムで、だれもヘルメットなんかかぶらないよ、という声もあったが、でも取り締まりを強化して罰金をだんだん上げると、いまやほとんどの人はヘルメットをかぶるようになっている。

 それに、この種の動きは、あるとき突然かわる。かつて韓国では、だれも車線を守らなかった。みんなが車線を守らないところでは、、自分一人がバカ正直に守っても損をするだけだ。でも、あるとき、一定比率以上の人が車線を守るようになると、こんどは車線を守らないほうが損だ。すると、ある日突然、魔法のようにみんなが車線を守るようになる。

 クラクションも同じかもしれない。ある日突然、ベトナムの道ではだれもクラクションを鳴らさなくなり、ウソのような静けさが……いや、ありえんか。でも、ぼくは期待はしているのだ。



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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