『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 20 回
月刊『マガジン・アルク』 2007/11号
要約:スポーツ新聞記者が朝青龍を追いかけてモンゴルにいって苦労した話を書いているけど、きみはそのきつさの一割もわかってないだろう。一週間毎食ゆで羊攻撃をくらってみろといふのだ。
朝青龍騒動で、その追っかけ記者がモンゴルでの苦労話を某夕刊紙にあれこれ書いていた。まあ東京の文明生活に慣れきった軟弱な記者なんぞが、日本の地方都市にでかけるくらいの感覚でいきなり行ったら、そりゃ衝撃だろうねえ、と僻地に行き慣れているぼくなどは、ついつい鼻でせせら笑ってしまうのですが……
ただ、モンゴルはこのぼくですらきつかった。寒さもある(モンゴルの人は、冬になるとシベリアに避寒にでかける。シベリアのほうがまだ暖かいのだ)。スーパーオンボロな建物やら痛みきったインフラもある。が、何よりもきついのは、食い物だ。
ぼくがいたのはもう十年前だけれど、まず当時の首都のウランバートルにして、食えるレストランは二十軒弱。そしてその味は(一部を除けば)とにかくデフォルトはすべて羊! 鶏肉チャーハンと言っても、炒める油は羊脂! 調査団の中で、羊が苦手の一人はこれだけでダウンした。そして地方部に出ると、こんなもんじゃすまない。
朝は塩ゆでした羊。昼は朝の残りのゆでた羊。夜は、その残りをうどんといっしょにゆでた羊うどん。たまにジャガイモやニンジンが入ってるけど、とにかく主食は羊! お茶、と称するものは枯れ枝みたいな出がらしの茶を煮出して羊の乳を注いだもの。
他に何かないのか、というと……まあある。そこらにアナグマみたいなのがいるのだ。現地の人は、これを狩って食べる。狩るといっても、アナグマの穴の前に鉄砲を構えて座り込んでじっと待つだけ。半日くらいすると、そこからアナグマが顔を出すのでそれをズドンと撃つわけだ。
このアナグマ、ペストを媒介するとかで、喰うなというお達しがまわっていた。でも、一週間羊オンリーの暮らしが続くと、もはやペストなんかどうでもよくなる。羊でさえなけりゃオレは人間でも喰うぞ!
そして、いずれもそんなにおいしくはない。かれらは貧しいからだ。貧しいというのは、味つけといった贅沢なことを気にしている余裕がない、ということでもあるのだ。
料理法でもそうだ。羊は毎日ひたすら塩ゆでだけ。ときどき、モンゴルなんだからジンギスカンとかないの、ときかれる。でも、ご存じの方もいるだろうが、モンゴルにジンギスカンはない。貧乏だからだ。貧乏であるというのは、カロリーを少しも無駄にできないということだ。ジンギスカンや、まして焼き肉といった、すばらしいカロリー源の脂肪が落ちたり燃えたりして失われる料理はもったいなくてできない。ゆでれば、脂肪は煮汁に残り、それをうどんと喰えば何も無駄にならない。
「星空の下、大草原で食べる羊は野趣溢れ云々」といった開高健じみた夢想をする人にたまに会う。あるいは、ブロイラー的に飼育されない放牧素材はうまかろう、化学調味料を使わない素材を活かしたすばらしい味だろうとか、『美味しんぼ』なんかに毒された発想をする人も多い。そこには豊かさと引き替えにわれわれの失った何かがあるんじゃないか、と。でも、そんなのは都会人の妄想だ。ブロイラーも化学調味料も、別に企業が無理にまずいものをおしつけたんじゃない。人々がうまいと感じたものを調べて、それを強化抽出しようと努力した産物なんだから、考えてみればまずいわけがない。そしてそれは、それだけの余裕がその社会にあるという豊かさの結果でもある。
そんなことを、朝青龍を追ってモンゴルで苦労した記者さんも少しは考えてくれたかな、とは思うんだが……しかしまあ記事を見る限り、モンゴル基準ではすごい御大尽旅行をしていたようだし、そんなことはあるわけないか。あんたが贅沢なだけだな。いい気味だってことで。