『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 19 回
月刊『マガジン・アルク』 2007/10号
要約:いまはエコロなお題目のせいで風力発電の風車がある風景がなにやら美しいものとして喧伝されているけれど、実際には異様な代物だし、構造的にもトップヘビーであぶなっかしいし、かなりみっともない。かつて黒煙を上げる煙突や鉄筋コンクリの団地が美しいと思われたのと同様、イデオロギー主導の美学で、いずれ死屍累々の廃墟になると思う。
先日、とあるインドの地方都市に、ご用聞きにでかけたのですよ。今後発展して、いろんな都市インフラ――たとえば下水とか電気とか――の整備が必要になったりしませんか、と。そこはガイドブックにも絶対載らない、これといって特徴があるわけでもないし規模も大きくないところで、情報はほとんどまったくなし。インドは地名のローマ字表記が統一されていないので、広域地図にあるそれらしい地名が本当に目的地なのかさえはっきりしないありさま。仕方ない。最寄りの空港で交渉してタクシーを一日借り切り、とにかくここの町の役場まで行ってね、といってあとはドライバー任せで車を走らせていると――
ぼくはいきなり広大なウィンドファームのまっただなかにいたのだった。うげーっ。
ウィンドファームというのは、風力発電の風車がたくさん立っているところだ。さてぼくは、あの風車はたいへんみっともないと思っている。まわりから確実に浮いていて違和感だらけだし、細いポールのてっぺんにいちばん重いものが乗って、しかもそこに絶えず横から力がかかっているというのが、見れば見るほどあぶなっかしくていやだ(そして実際、ときどきあちこちで倒れてるし)。
が、人によっては――いやむしろ多くの人は、あの風力発電の風車を見て、んまぁ、なんてエコロなんざましょ、すばらしいわ美しいわと思うらしくて、ウィンドファームの光景は各種宣伝の背景なんかにも積極的に使われたりしている。うーん。みんなホントにあんなものがいいと思うのかなあ。
そういうのを見て思うのは、昔見たスターリン時代のソ連のプロパガンダ映画だ。ナチス侵攻で焦土となったロシアの大地。だがスターリン様(身長は一般人の二倍くらい)の活躍で敵は蹴散らされ、さあ国土の再建だ! とかけ声をかけた次の瞬間に場面は切り替わり、時は五年後。見渡す限り続く黒煙をもうもうとあげる煙突群を、革命的人民はうっとりと眺める――ぼくたちの目には公害まみれで醜悪のきわみとしか思えない煙突が、当時のかれらには実に美しい存在だったのだ。あるいは溝口健二の『赤線地帯』や市川昆の映画なんかを見ていると、当時の人にとっては鉄筋コンクリートのアパートというのが実に進歩的で美しいものだったらしいというのがわかる。風力発電も、なんかそんなもののように思える。
もちろんあらゆる時代に、美学はそのときの価値観に左右される。それは時代の価値観でもあるし、見る人の持つ知識にもよる。進歩の象徴として未来への希望を持ってきてくれるものは、美しく見えるものだ。風力発電の風車も「地球にやさしい」といったお題目があるから、人によってはかっこよく見えるのだ。
だが、そういうお題目は変わる。そもそも風力発電はまだまだ火力や水力と張り合えるほどお安くない。まだ技術的にもコスト的にも発展途上で中途半端な代物なんだから、その背後にあるお題目も数年すれば薄れて、単に高くてでかくてあぶなっかしい目障りな代物と化すのは必定。それを調子にのって、こんなに見渡す限り立てたりしていいのかよ。
町の人にきくと、これは過去五年ほどでできたんだという。五年で見渡す限り! もっと増えるんですか、と訪ねると、いやもう去年から新規はなくなったよ、という。それまでは、風車を立てると補助金がもらえたんだそうな。それがなくなったから、もう立たないよ、とのこと。
見ると、中にぽつん、ぽつんと止まっている風車がある。「ああ、疲れてきたんで休んでるんじゃないの、あはははは」と役場の人は笑っていたが、うーん、明らかに修理する金もなくて放置されてるように見えるんですが。しばらくすると世界中で、放置された風車の墓場なんてのが問題になりそうだなあ。そう思いながら、ぼくは次の町へと向かうのだった。