AERA 2007/4/30-5/7号
AERA 2007/1/8,
表紙はなんかコメディアン
ベスター『築地』(日経BP)
先日終わった都知事選で争点(というほどまともな議論のあった選挙ではなかったけれど)の一つになっていた築地市場の移転問題。日本人の多くは築地市場について、巨大なマグロの並ぶ競りの光景写真やグルメ番組の買い出し映像などで、断片的な知識は知っている。競り人の使う符丁などのトリビアや多少の統計数字まで知っている人もいるかもしれない。だから築地市場といわれると「ああ、あれね」と何だかわかったような気分になっている。
でも実は、ぼくも含め多くの人はその全貌をきちんと知っているわけじゃないさらにほとんどの人は「なぜ」と聞かれても答えられない。なぜ仲買人たちはわざわざ変な符丁を使うのか? なぜ市場のレイアウトは今のようになっているのか? 仲買人のよしあしはどう判断される? 売り手と買い手の関係はどうやって決まるの? そうきかれてちゃんと答えられる人はまずいない。でも、いまさら聞くのも恥ずかしい。
そんな人のためのまたとない本がこの『築地』だ。ガイジンの視線が、ときにトンチンカンながら本質をえぐる質問を繰り出す本は多いが、本書はそれだけではおさまらない。凡庸なうわっつらだけのルポをはるかに越え、執拗なインタビュー、公式の統計数字、好奇心に満ちた視線を総動員して、築地市場のあらゆる面をとらえ、掘り下げてくれるだけでなく、さらにそれを経済学的・人類学的な理論の裏付けにより説明してくれるまともな研究所でもある。その分、築地市場について日本人が抱くイメージをマンガから調べるような、非日本人にしか意味のない部分がうっとうしいのは仕方ないけれど。あと、まったく理論展開に影響しない無意味な知識開陳(レヴィ=ストロースがどうしたとか)や、近年のブンカジンルイガクにありがちな、うざい自分語りからくるくどさには少々閉口させられるけれど。
でもそれを割り引いても、本書のおもしろさは折り紙つき。ほとんどの人は、10 ページに一つは新しい知見が得られるはず。石原知事三選で、築地市場移転はもはや確定っぽいけれど、一度本書を読んでここがどんなに驚異的な場所かを理解したうえで、早起きして見学してみるといいだろう。
下手に情報が増えて、海外出張の楽しみはかなり減った。以前は、日本では絶対に手に入らないどころか聞いたこともない本やCDや映画も山ほどあったし、「本場のフランス料理を食った!」くらいで感激できた。いまはネット通販で何でも手に入るうえ、下手な現地のレストランより日本のほうが味は上だ。日本で手に入る情報の範囲内で行動していては広がりがない。そこからどうやって一歩踏み出そうか?
ぼくの場合はとにかく、お笑いのネタを追求するのがいちばんだと思う。そこらで見かける笑えるもの、変なモノ。それをとにかく漁る。たとえばインド方面の映画は、キスは(もちろんそれ以上も)ダメ。だからあのミュージカルが発達した。が、この国々にもアダルト映画がある。笑えそうでしょう。それも、見るだけだと長続きしない。冗談のネタをとにかく買ってみることだ。
ここしばらくの買いものは、廃車をばらして作った山刀(民族浄化に最適)、錆びた金属片をたたき込む呪い人形(5人くらい呪ってます)、全長三メートルの巨大な机(輸送費が値段の4倍かかった)、ヒョウタンのひしゃく、DVD-Rにマジック書きの「正規版」現地映画DVD、全然泡が出なくて肌のピリピリする石けん、曰く言い難い路上の変な食い物無数、水パイプにアラブ系の人のしているあのかぶりもの、無数の食器、毛沢東の石膏像、文革ポスター、呪術用のトカゲの粉、鼻の穴を洗うジョウロ等々、自分でもどうしようもない代物ばかり。でも必ずどっかでウケを取っています。
「こんなもの使わないな」とか「相場がわからない」とか思わない。無理しても買う。迷ったら買う。いくつか比べてるうちに本当に欲しくなるのだ。どうせネタアイテムは大した値段じゃないし、ぼられたらそれもまたネタだ。感情と行動はニワトリと卵。選んで買うという行動こそが好奇心をかきたてる。これは行動心理学でもジェームズ=ランゲ説として確立しているのだ。
これは現地の売上向上に貢献するばかりではない。まぬけなことをして現地人に笑いのネタをあげるのは、おのぼりさんの義務だ。「あの変な日本人はトカゲの粉を買ってどうする気だろうネ」――途上国の田舎なら、これで村人の話題はあなたに釘付け。ネタ探しがネタになるなら本望だし、次にきたときも確実に思い出してもらえる。
だがその前段がある。まず何よりホテルから外に出ること! 快適なホテル(特に衛星テレビとブロードバンド)は出不精を生む好奇心の敵だ。そのためには敢えてホテルのランクを落とすのも手だ。そして本当に時間がなくても、最低でも空港で現地の雑誌や新聞を買って読もう。帰りの機内で朝日新聞なんか読んでどうしますか。ムスリム女性向けのファッション雑誌とか(モデルがみんなあのスカーフ姿)、アラブ男性ビジネス誌(あの変なかぶりものにも流行があるそうな)とか、マラウイの新聞(ゾウが畑を荒らすのが大問題だとか)とか、浜の真砂は尽きるともネタは尽きまじ。ほんの数日の出張でも、その気さえあれば、世界はまだまだ広がりますぞ。
AERA 2007/6/4号
AERA 2007/6/4,
表紙はカースティン・ダンスト
矢吹晋『激辛書評で知る中国の政治・経済の虚実』(日経BP)
二年ほど前に、毛沢東をひたすら強欲で無能な殺人鬼としてのみ描くチン&ハリデイ『マオ』が刊行され、日本でも話題を呼んだ。ぼくも期待して読み始めたんだが、そんな強欲漢がそもそもなぜ共産ゲリラなんかに参加したかとか、そんなに無能でなぜ勝てたのか、といった基本的な疑問に答えない困った本で、担当していた書評欄でそれをかなり詳細に指摘した。が、専門家を含む他の人々による書評は「衝撃作」だの「本当なら従来の見方をひっくり返す」等々、帯の惹区そのまんまの代物ばかり。素人のぼくの書評にも及ばないとは、日本の専門家は何をしてるんだい、とぼくはかなりがっかりさせられたのだった。
そこへ登場したのが矢吹晋の長大な『マオ』評だった。外国での批判も紹介しつつ、恣意的な資料の利用、明らかな歪曲など、ありとあらゆる点について問題を指摘し、それがいかにダメな本であるかを縦横に指摘したすさまじい力作だった。もちろん多くの部分は素人には細かすぎるけれど、でも読めば何が問題にされているかくらいはわかる。そしてぼくが冒頭であげたような大きな問題ははっきり触れてないけれど、それはまあ仕方あるまい。こういう見識と知識に基づくきちんとした評価ができてこその専門家ではないか。この書評は、そうした専門家や評論家としての役割をきちんと果たしていない、国内の各種のダメな書評もやり玉にあげていた。ついでにそれを全文ネットで公開してくれたのには脱帽だった。
本書は、その『マオ』評を含め、現代中国に関する最近の話題作についての矢吹の書評を一冊にまとめてくれた、大変にありがたい本だ。そしてどれも、『マオ』書評で見せた専門家としての自負を裏切らない、実におもしろい書評ばかり。本の刊行時期への着目、ちょっとしたディテールへの視点。そしてそれが、現代中国の諸相を解き明かす様は目からウロコの感動だ。いまの中国に(政治、経済、ビジネス、いずれの面でも)関心ある人は、読めばきっと発見があるはず。そして同時に本書は、書評とはどうあるべきか、というきわめて真摯な問いかけともなっている。それはこんな欄を書いているぼくこそが考えるべきことなんだけれど。
AERA 2007/7/2号
AERA 2007/7/2,
表紙はシャネルの親分
山本義隆『十六世紀文化革命』(みすず書房)
従来のルネサンスのとらえ方――そして西洋での科学の発達 ――はしばしば天才・パトロン史観ともいうべきものに捕らわれていた。ダヴィンチをはじめ、各種の天才をパトロンが寄食させたり仕事を嘱託したりすることで養い、それが文化や学術研究を進歩させた、というものだ。いまでも科学者や芸術家が、パトロン精神の復活を(つまりは自分にもっと金をくれ、せめて知的財産権で懐に金が入るように)などと物欲しげなことを得々と述べる図がよく見られる。
これに対して本書は、ちがう見方を提案する。机上の空論たる理論偏重から実学や職人技能など実証と実験の重視、俗語書籍の普及と共有による各種実証技能の底上げこそが、一六世紀、一七世紀、そしてその後の西洋科学の急激な進歩を担ってきたのだ、と述べる。いや科学だけじゃない。文学だって、絵画だってすべてそうだ。確かに天才はいた。でもその天才が活躍できたのも、文化全体が底上げされた上に立てばこそ。
これまで重力や熱力学といった物理概念の展開と世界観の関わりを入念に描いてきた山本義隆は、本作で文化全般にまでその考察を拡大した。従来の文化史家が庶民重視と言いつつ結局は天才にばかり注目していたのを不満とし、そうした天才の発想にすら、当時は卑賤とされていた手作業や職人技能の影響を読み取る作業の入念さはひたすら感嘆させられる。そしてこの文化理解は、現在の知的財産権強化をひたすら重視する議論(「知財立国」なるお題目を耳にしたことがあるだろう)に強い疑問を投げかけるものともなっている。天才エリートばかり大事にしても、文化は発展しないのだ、と。ご立派な象牙の塔の「研究」とは無縁であっても、一般の人々が生活の中で学んだものを容易に共有し、自らそれをはぐくめることこそが文化の発達には重要なのだ、と。いや、それがなければ天才エリートですら天才エリートたりえないのだ、と。本書をただの特殊な歴史愛好家だけの狭いものと誤解してはいけない。本書のような発想をあなたやぼくのような一般人が読み、理解し、広めることこそが、まさに文化発展に貢献する――いやそれこそが文化の発展なのだと本書は教えてくれる。
AERA 2007/7/30号
AERA 2007/7/30,
表紙は比嘉愛未なる知らない女優
ランドール『ワープする宇宙』(NHK出版)
この本を読んで、なにか役に立つことがあるかというと……まったくない。仕事ができる女(男でも)になったりもしない、次のiPhoneにつながる新製品のヒントになる技術もない。宴会その他での会話のネタにも絶対にしようがない。泣けますとか萌えますとかお手軽な感動もない。
だが実用性を離れた知的好奇心の世界がここにはある。現代物理学の最先端が、かくもわかりやすく説明されるのは驚きだ。が……
わかりやすいといっても、それはあくまで相対的。十次元に十一次元の変な粒子、五次元に展開する時空間――もはや通常人には漠然としたイメージすら描けない。しかも万物を説明する究極理論だと一部で喧伝されていた超ひも理論というのも、実はさして裏付けのない理論突っ走り論なの? これまで多少わかったつもりでいたことすら逆戻りか。本書はもう少し実証可能で、超ひも理論も傍証できそうな五次元時空のブレーンワールド理論の概略を解説してくれるのだが……
もともとこの手の話は、世界をもっと単純に描けるという信念から始まっていた。あらゆる物質は百種類超の原子に還元できて、その原子は電子と陽子と中性子でできて云々。少数の単純なものの組み合わせですべてが説明できる、はずだったのに。シンプルなはずの粒子がいつのまにか亀の子たわしのお化けみたいな代物と化し、空間時間と物質と力とがすべて重なりあいつつ相互に入れ替わるような得体の知れないものが、かつての夢のなれの果てなのか。うーん。
本書の理論ははまだ裏付けられたわけじゃない。が、証明されれば、物理学の捕らえる世界の見方は変わる。そして久々に実証的な裏付けを得られるかもしれないという希望はある。新しい地平を自ら手探りして開拓してきた著者が、その見通しに抱く希望と不安まで、本書は生き生きと伝えてよこす。本書を読んでいる間だけでも、いまここにいるぼくたちとは何の関係もなさそうなこの変な世界が、あなたには身近なものに感じられることだろう。だが一方でかつての科学少年少女たちはため息をつくことだろう。物理学は、なんともヘンテコな世界にはいりこんでしまったんだなあ、と。
あと別のところにも書いたが、各章冒頭の歌を訳者はちゃんと知らないらしく、いらだたしいまちがいがときどきある。特に最終章のREM! あれは外さないで欲しかった。)
AERA 2007/9/3号
AERA 2007/9/3,
表紙は井上真央
この『アレクサンドリア四重奏』で多く人は最初の一巻『ジュスティーヌ』しか読まない。それは貧乏教師が語る、謎めいた富豪の妻との不倫物語だ。かれはそれを都市アレクサンドリアに翻弄された、運命的な禁断の愛の物語として耽美的に描き出し、人々はそれに酔いしれて事足れりとしてしまう。
それは惜しいことだ。このシリーズの本当の醍醐味はその後、特に第三巻『マウントオリーブ』と最終刊『クレア』にあるのだから。
第二巻で、語り手は知る。自分は実は他の男への愛の隠れ蓑にすぎなかったと。第三巻はさらに徹底的な破壊を行う。実はすべては民族運動の偽装でしかなかった。第一巻の美しい物語は間男の自惚れた自己陶酔でしなかく、かれは大きな社会のうねりの端役でしかなかったのだ。
そして物語は最終巻『クレア』。物語は再びもとの語り手を得てやっと先に進みはじめる。かつてと同じ耽美的な美文。話者はあらゆる登場人物の話を(いささかせっかちに)まとめあげ、各種登場人物の中で最も人工的かつ不自然で鼻持ちならない女の子と結ばれ、芝居がかった危機を経てハッピーエンドを迎える。それを額面通りに受け取って喜ぶ読者もいるだろう。
だが……この語り手の美文と感傷の浅はかさを、最初の三巻で読者は思い知ったはずだ。話者は最終巻で、本当に芸術家として成熟をとげたのか、それとも相変わらずおめでたい自己陶酔に浸っているだけなのか。それによってこのシリーズの意味合いも変わってくる。
大学時代のぼくは、著者ダレルの美文に酔っているだけだった。だから『クレア』を何の疑問も持たずに受け止め、英国植民地支配を外交官の目から抑えた筆致で描いた『マウントオリーブ』は、最もつまらない部分に思えた。20年後の今読み返すと、印象はまったく変わっている。『ジュスティーヌ』『クレア』の華やかさにこそ欺瞞があり、『マウントオリーブ』の抑制にこそ感傷に走らぬ悲しみと美があるのだ、と思うのは単にぼくが歳を取っただけかもしれない。でも、この第三巻を経て最終刊をどう受け止めるかにこそ、二十世紀の名作『アレクサンドリア四重奏』の本当の価値は存在しているのだ。