プラスチック人間たちの勝利

ブルース・スターリング
山形浩生/金沢由子 訳
 

 9月17日。ぼくはプラハのルスカ通りのアパートにある大きな木製の机に向かい、パワーブック180のキーボードを叩いている。革命的文学インテリゲンツィアを大統領に擁する世界唯一の国で、このシリコンの箱に非物質的な電子のことばを叩きこむのは、秘密めいたカフカ的な歓びだ。文学(literatura)、すなわちことばの列は、ここプラハではいまだに意味を持っている。この街については変てこな出鱈目がいろいろと語られてきたが、プラハが文学的な街だという話だけは、まさに核心をついていた。ここは地球上で一番文学的な街だろう。

 ルスカ通りにぼくを招いてくれたのは、出版者マルチン・クリマ、そしてその妻でチェコのファンタジー作家のヴィルマ・カドレチュコヴァ。マルチンは、人間のやるべき仕事として小説を出版し、金を稼ぐための仕事として、西側のロールプレイイング・ゲームの箱入りセットを出版する。ゲームは非常によく売れるそうだ。ヴィルマはファンタジー小説を書く。彼女は少女時代から複雑なファンタジーを織り紡いできた。そして金を稼ぐために、ハーレクイン・ロマンスの編集者として働いている。ハーレクイン・ロマンスは、何はなくともロマンチックなチェコ女性たちに大受けして、狂ったように売れている。

 ぼくがいま向かっている机は、招待主たちの洞窟じみた天井の高いオフィスにあって、小さな固いフロッピーディスク用の大きな入れもの、大きくてペラペラしたフロッピー用のもっと大きな入れもの、花瓶にさした黄色い花束、短編集が2冊(1冊はチェコ語、1冊は英語)、変圧器、QuickTakeカメラ、在住外国人向け雑誌、プラハの文化イベントを載せた、分厚い英語カレンダー、チェコ・ロックのテープ、ジョイスティック、プリンタ、ダンヒルの箱、そしてダイヤル式の電話。

 どれも可愛い無害な物体ではる。ただしタバコの箱はぼくの健康に有害ではあるし、ひじのところにあるダイヤル式の電話は、まさに悪夢のような代物だ。この電話は古いジーメンスのパルス式電話だ。その背後からはスパゲッティのように丸い、灰色のチェコ式電話線が1メートルほどのび、それが突然とぎれて、むきだしの電線4本になる。白、茶、緑、黄。緑と黄の線は、そのまま銅の芯をむき出しにして終わるが、白と茶は小さなプラスチックのかたまりにつながる。その即席小物の反対側からは、平べったいアメリカ式の電話線が、これまた4芯式でのびる。今回は黒と黄色の芯が中途でとぎれ、赤と緑の線が憐れにも生き延びる。この解剖済みのアメリカ電話線は、15センチほど続いてからモデムに接続されて終わる。モデムと言っても、ラベルもなければケースさえない。むきだしの緑のプリント基板で、マレーシア産とフィリピン産のビット喰らいのゲジゲジと、むき出しのブリキのスピーカがのっかっている。この鈍いモデムからは、アメリカ式のジャック式電話線がのびて、チェコの家庭用電話ジャックにつながっている。このチェコ式ジャックというのは、見たこともないようなドアノブみたいな代物で、誰かの頭を叩き割れるくらいでかい。そしてこのセラミック製の電話ジャックの底からは、丸い共産主義以前からの電話線がのび、それが壁をつたい、床板を這い、チェコの古典文学をおさめたガラス戸つきの本棚の裏に消えて、その後は神のみぞ知る、不気味な電気機械仕掛けのナチ時代の電話交換機のありかまで続くのだ。

 ぼくを招いてくれたマルチン・クリマは物理専攻で、1989年ビロード革命の間は学生オルグ活動家だったが、いまやインターネットのアドレスも持っているし、486のPC互換機を持っている。ワードパーフェクトと、パラドックスと、コレル・ドローを持っている。プラハの感覚では、マルチンは立派な電脳おたくである。妻のヴィルマは、ベッドルームの最先端PCでファンタジー小説を書いている。このPCは、驚異的にスチームパンクなミシンのてっぺんに置かれているが、このミシンは更新世には足踏みペダル式だったのが、マルチンの祖父によって電気モータを取り付けられたものである。マルチンとヴィルマは、電話線を1本しか持っていない。西側にいれば、10本は引いているだろう。

 モデムと電話線の話題ついでに言えば、マルチンとその89年仲間たちは、いまだに「あの日本人」について語り合う。1989年、チェコの学生は全国的な蜂起を組織しようとしており、マルチンを含む技術系の学生はテレコム方面を担当していた。かれらが使っていたのは、トースター並のサイズと形と発熱量を持つ300ボーの装置だった。チェコの秘密警察は、デジタル通信についていくには頭が悪くて原始的すぎたので、過激派学生のモデム・ネットワークは盗聴の危険はあまりなかった。草の根BBSは、国境警備員の目を盗んで活動家がモデムを持ち込むたびに、そこらじゅうの大学キャンパスでぼこぼこ生まれていた。もちろんモデムは非合法だった。が、チェコの警官のほとんどは、モデムというのが何なのかまるで知らなかった。

 警察は、ソ連の重装甲のバックなしに、全国民を棍棒でぶちのめして服従させるという絶望的な仕事に従事していた。マルチンの自主学生運動は、デモをやってぶちのめされてから知恵をつけた。そして89年が68年をひっくり返したものであることにも気がついた。かれらは7つの要求を掲げた。非常にラディカルな要求で、そのうち3つは決して満たされなかった。みんな、いずれ状況が爆発するのはわかっていた。しかし、それを外に伝えるのは非常に難しかった。

 その時、何の予告もファンファーレもなしに、物静かな日本人が大学にやってきたのだった。スーツケースいっぱいに、2400ボーの台湾製新品密輸モデムを入れて。チェコの物理学生と工学部学生たちは、驚きのあまりこの人物の名前を聞きそこなった。この男はモデムを無料で配り、謎めいた微笑を浮かべると、キャンパスを対角線上に横切って、冬のプラハのスモッグの中に消えた。おそらくは、日本大使館秘密活動本部のある方向へ。その後、かれを見かけた者はいない。

 この日本人の実在については、疑問の余地はないようだ。ぼくが話をしただけでも、かれを実際に見という人物が4人はいる。学生たちは、すぐにこの熱々の超高速2400ボーモデムを使い、宣言を流し、自治を宣言し、噂や暴動のニュースを流した。不安がゆっくりと広がった。11月末までに、ヴァーツラフ・ハヴェルをはじめとする上の世代の反体制知識人たちが、デモで大きな役割を果たすようになっていた。そして一般人もデモに加わりはじめ、赤軍の後ろ盾のないかいらい政権は、腐ったマシマロのようにあっさり潰れた。12月半ばまでに、市民議会が政権をとっていた。

 まったく輝かしい日々だった。でも、もう5年も昔のことだ。いまやマルチンはプロの出版者であり、学生時代の仲間は内閣の一員で、ヴァーツラフ・ハヴェルは大統領で、劇作家や俳優やロック・ミュージシャンや学生やヒッピーの奇跡的な無言連合によって解放されたこの国は、己れを機能的にルクセンブルグに等しい存在に転換させようと、できる限りのことをしている。ここは、1989年から1991年にかけて1年半ほどはTemporary Autonomous Zone [1](一時的自治地帯)であったかもしれない。しかし目下のところ、ここは「願わくば永続的な資本主義建設中地帯」なのである。

 現在この国をすべて仕切っている首相ヴァーツラフ・クラウスは、右翼経済学者で、かの男爵夫人マーガレット・サッチャーの神々しいほどの天才を公然と賞賛している。しかしイギリスの保守党とはちがって、クラウスとその仲間は経済的にかなりいい仕事をしている。失業率は全国平均で4%――プラハでは1%以下だ。インフレは、チェコの社会主義政府の補助が、現実とは何の関係もなかったことを考慮すればやむをえないものではあるが、それでも10%以下におさえられている。チェコ通貨のコルナは、使い物になる通貨になりつつあり、おそらくは明日にでも兌換通貨になれるだろう。あの小利口なクラウスが、輸出への悪影響を恐れてそうしないだけなのだ。

 そしてプラハは世界有数の観光都市となっている。プラハ市民は赤軍支配を厄介払いしたと思ったら、こんどは観光客軍団の占領下におかれたというわけだ。その数、年間8千万人。ツーリスト国がこの地を訪れ、金を落としてゆく。ツーリストとその金が、ゆっくりとこの地のすべてを変えつつある。

 訪問者の多くは、さまざまに立派な理由でこの街と恋に落ち、ここで暮らそうとする。ある人は、一目ぼれの過程で足掛かりを見つけ、うまいことプラハに移住する。その多く――8千から1万2千人だから、本当に多くだ――はアメリカ人である。これは珍しい特筆に価する出来事だ――これ以前に見られたのは、1920年代のパリくらいだろうか――ほとんど同世代の、何千人ものアメリカ人が、なにかしら共通の目的意識をもって、外国の都市一つ(戸惑いはしても、おおむね好意的な都市)に移住するというのは [2]

 この街の移住者コミュニティは本物であり、本物のボヘミアにある本物のボヘミアンの孤島である。プラハでは、移住者向け英語新聞が3紙発行されている。「プラハ・ポスト」(本物の週刊紙)、「プログノーシス」(もっとヒップで文化的で、先端人間たちの声的な雑誌)、そして資本主義の銀行屋たちが読む、灰色で退屈な「中央ヨーロッパ・ビジネス・ウィークリー」。

 アメリカのビジネスマンたちは相当数いるが、雰囲気を決定づけているのはかれらではない。雰囲気を決めているのは、グラフィック・アーティストやミュージシャン志望、そしてパパにもらったお小遣いで安いビールを飲みに来ている、ありきたりのボンボンども。とてつもない数の詩人。どっちを向いても詩人に蹴つまずかずにはいられないほど。長編小説作家はあまりいないようだけれど、詩人と短編小説作家(地球上の文学市場でもっとも商売にならない連中だ)はプラハにそれこそ群れをなしており、グリーンピースのキャンペーン映画で、毛皮猟師たちの棍棒の到達圏外の氷上で喜々として吠える、ぎょろ目のアザラシたちのようにわめきあっている。

 プラハは20年代のパリと非常に似ているが、20年代のパリと非常に異なった点もある。その理由の一つは、ここにアンドレ・ブルトンにあたる人間がいないことだ。みんな、すわって何か書いてはいる――プラハ北にある、ヤノフスケオ14番の混み合った移住者向け書店グローブに行けば、カプチーノをすする黒装束のプラハかぶれ客たちの三分の一以上が、何やら忙しげにノートに書きつけている。アメリカ人作家志望も多い――うまく行けば、時には実際に出版されることも可能だ――しかし、プラハには文学運動はないし、プラハ文学なんとか主義もない。パリにおけるアンドレ・ブルトンやルイ・アラゴン、ガートルード・スタインのように突出した権威ある文学理論家というのもいない。プラハ的技法やプラハ的アプローチもないし、全世界を席巻するプラハの文芸哲学もない。声を探そうと真摯に取り組んでいる人々はいるが、目下のところ、そうした声は見つかっていない。ここに新たなヘミングウェイがいる可能性は(かつてプラハ・ポスト誌が断言したように)十分にある。しかし、もしプラハの作家たちが、ヘミングウェイ時代のヘミングウェイほどに新しく力強い作品を書きたいなら、その方法は自分でつきとめるしかない。

 しかし、ヴァーツラフ・ハヴェルがいる。そしてこれは大きな利点だ。チェコ共和国大統領ヴァーツラフ・ハヴェルは、断固として非商業的な物書きである。ハヴェルは三種類の文を書く。演説(最近はこれが多い)、道徳や哲学的エッセイ(なかなか立派な代物だが、正直言って中身はそこそこ)、そして不条理戯曲だ。ハヴェルは20世紀最高の劇作家ではないけれど、まあ何と言うか、はっきり言って、別に当のハヴェルが、これを叩いてる今、ここから数キロ離れたところにあるフラッチャニ城ですやすや寝ているからってわけじゃないけれど、こいつの戯曲はそんな悪くはない。ちょうど全部翻訳で読み終えたばかりだけど――そんな大したことじゃない、それほど数があるわけじゃなし――大いに楽しめた。どれもなかなか気が利いていて、中には深いものもあって、みんな面白い構成で、みんな爆笑ものだ。世界で一番おかしい国家主席なのはまちがいない。

 来月には国際ペンクラブの会議がプラハで開かれるが、これまでのこの権威ある世界文学界の会議のほとんどより5割増しくらいで大規模なものになるだろう。ハヴェルは、アレクサンドル・ソルジェニーツィンやウンベルト・エーコ、ハロルド・ピンター、ガブリエル・ガルシア=マルケス、マリオ・バルガス=リョサ(かれはペルー大統領の地位を惜しくも逃した[3])、カート・ヴォネガット、ノーマン・メイラーなどといった大物に、個人的に招待状を送ったのである。聖ヴァーツラフの親しい勅令にあっては、これらの著名人たちは何をおいてもプラハに駆けつけることだろう。ぴかぴかのチェコ・コルナを山盛り賭けてもいい。世界を動かし、変える力としてのパワーが文学に多少なりとも残されているなら、ヴァーツラフ・ハヴェルはそれを実際に運用できるユニークな地位にいるのだ。多くの物書きがここにくるのは、ハヴェルに書き方を教わるためではない。ヴァーツラフ・ハヴェルが、ことばの連なりである文学の可能性のシンボルであるからなのだ。

 これは、痛々しいほどロマンチックな都市における、非常にロマンチックな成果ではある。が、この街は、ロマンチックさ加減を減らそうとして焦りを増している。ここの人々は、個人的にはヴァーツラフ・ハヴェルが好きだ。それはもう、好きにならざるを得ないのだもの。かれは己れの信念にとことん導かれた人間であり、しかも野郎自大さやむさ苦しさからは逃れ得ている。1990年代にあっては驚くべきことだ。みんな、それがわかっているのだ。

 とはいうものの、ヴァーツラフ・ハヴェルはたまに恥ずかしいことをやってくれる。大統領の多くは、ピンク・フロイドと正式に会見したりしないものだが、ハヴェルはつい先週それをやらかしてくれた。ハヴェルはジョン・レノンが政治的に重要だったと考えていたし、フランク・ザッパの個人的な友人だったことを誇りにしていた。また、フラッチャニ城の夜間ライトアップをデザインしなおした。かつてプラハの小さな前衛劇場で照明助手をやっていたからだ。フラッチャニ城は今ではすばらしい。趣味のよい、控え目で魔術的リアリズムっぽい緑青色とサーモンピンクで照らされている。他の大統領のほとんどは、緑青だのサーモンピンクだのが何かすらご存知ないだろう。

 ハヴェルを大統領に擁しているのは、かつては信じられないほどスリリングでエキゾチックだったけれど、最近では、チェコ人たちが気合を入れて首都の改装と観光客からの組織的なむしり取りに乗り出すにつれて、ハヴェルはどうもちょっとばかり、何というか、イカレている感じである。

 面の皮の厚い、腐った政権から権力を奪取するにあたった、ハヴェルは誠実さと道徳の詩を使ったが、そのやり口は、いまでは政治的なキャッチフレーズになってしまった。今は何かというと「倫理的」ナントカだの「倫理的」どうしただの、あるいはネコも杓子も「道徳的云々」といった具合――その一方で、チェコ政府はだんだん通常の政府らしい行動をとるようになっている。よくある現実の政治の、金と利益団体主導型のやり方だ。ハヴェルは共産主義のミイラから干からびた内臓を蹴りだせたが、いまやポストモダン資本主義の発狂しそうな落とし穴から逃れおおせたモラリストなど、一人も生き残っていない。昨今のハヴェルは、橋の開通式でテープカットなんかをやっていて、国をしっかり掌握しているのは、ますます自信をつけて専制的になってきたヴァーツラフ・クラウスである。ハヴェルが国際級の夢想家であるなら、クラウスはヘビー級の押し売り屋である。そして今日の――それをいうなら、いつの時代でも――チェコ人のほとんどは、夢想家よりは圧倒的に押し売り屋の道を選ぶだろう。ハヴェルが語るとみんな深く感動するが、クラウスが「カエル」と言えばみんな跳ねる。

 ハヴェルは世界的に有名だが、チェコの反体制はかれだけではない。この国で反体制を貫く代償の恐ろしさを考慮に入れれば、旧チェコスロバキアの反体制家の数は非常に多かったと考えるべきだろう。中でも、「宇宙のプラスチック人間」として知られる反体制グループは、世界でもっともヘビー、もっとも実際的で、もっとも成功したロック革命勢力だった(今なおそうだ)。

 1976年、国家安保ゲシュタポによってプラスチック人間たちがぶちこまれると、この牛刀で鶏を割くような、ありがたいほどに野蛮極まる行為に対する非難が高まって、そのまま77年憲章グループが発足した。この反体制グループがやがて市民フォーラムとなって、さらには一時的にこの国の政府となったのである。プラスチック人間たちの影響がなければ、ここで今日開花しているアメリカ流カウンターカルチャーはありえなかっただろう。

 プラスチック人間たちの驚くべきキャリアを見たら――「警察がいつもハエみたいに群がってたよ」とプラスチック人間の一人ヴラティスラフ・ブラベネックは語る――こいつらはとことん勇敢だったか、さもなければただの気狂いだと結論せずにはいられない。現実の話として、現地の事情に詳しいヒップなチェコ人たちにインタビューしてわかったことだけれど、プラスチック人間たちはこの両方だった。この勇敢なチェコ・ヒッピー革命家たちは、芯から勇ましく、芯からチェコ人で、芯からヒッピーで、芯から革命家で、そして芯からイカレていた。

 プラスチック人間たちの黒幕は、「エゴン・ボンディ」と名乗るチェコの革命哲学詩人ズビネック・フィッシャーだった。クロポトキンとアレン・ギンズバーグのあいのこ東欧版と思えばいい。超ビート・マルクス主義フリー・ラブ・アナキスト喧騒詩人。64歳、いまだ健在。チェコ共和国の資本主義転向に関する一連の出来事に激怒のあまり、スロバキアに移住してしまった。所有するのは、ズボン一着――チェコ製ジーンズ――、汚ないジャケット一着、ボロボロの靴一足。この組み合わせを何年にもわたって着続けた。この世の苦しむシャツもない人々との、キリストのような極左的連帯の表現としてである。

1989年のビロード革命について、エゴンは次のように語っている。

 この怒りの予言は、本来なら一笑に付されるところだが、エゴンはかつて共産主義政権崩壊についての予言を書き、そして圧倒的な分の悪さにも関わらず、それが実現してしまったという実績を持つ。エゴン・ボンディの正気を疑う人は多いが、かれの誠実さを疑う人には、未だ一人としてお目にかかったことはない。

 プラスチック人間たちの公式リーダーは「マゴール」ことイワン・イロウシュである。マゴールもまた詩人だが、エゴンとちがって、ロックもできた。マゴールは生きる伝説で、チェコのヒッピー反体制部族シャーマン詩人重量級野郎の完璧な見本である。しかしマゴールというのはチェコ語で「気狂い」のことであり、このハンドルは故なきものではない。マゴールは何年にもわたり、抑制不可能な躁欝症に苦しみ、ケンカをしかけ、酒に溺れて乱闘をおこし、道で大騒ぎを起こしてきた。作詞家としては協力で、ミュージシャンとしてはまあまあ、そして勇敢な人物で、チェコがかれのおかげを大いにこうむっているのは事実だが、しかしどうみても司令官という感じの人材ではない。かれはドラッグ、酒、ロック、牢屋、警察の拷問、公開裁判、ヴァルディスの極悪犯用監獄、神秘主義、狂気、革命、そして大量の詩をくぐりぬけてきた。いまはどこかボヘミアの田舎でのんびり暮らしているらしい。かれにとってもそのほうがいいのだろう。休息に価するだけの働きはしたのだから。

 プラスチック人の一人、ヴラティスラフ・ブラベネックは1976年に逮捕された。これは国際的な不評をかったので、その後警察は、繰り返し暴行を加えるにとどめ、街中でかれをぶちのめした。ブラベネックは1982年に国外脱出を計り、いまはカナダのブリティッシュ・コロンビアでグリーンピースの活動家として働いている。一人で元気でやっているらしい。その後の本国での楽しい展開は逃すことになってしまったけれど。

 他には:スヴァトプルク・カヴァセク、パヴェル・ヤズィチェク、その他感動的に勇敢な人々。この種のことに注目していた西側の人間の間では、かなり有名な人も多い。しかし自分の国では、みんなどうしようもなく無名だった。アレン・ギンズバーグのような、アメリカのボヘミアン知識人のアメリカにおける名声に比べれば、マゴールの旧チェコスロバキアでの知名度はその1万分の1にも満たなかっただろう。プラスチック人間たちをロック・スターと呼ぶのは不適当だ。かれらは法的に、いかなる音楽をも演奏する権利を奪われていたのだから。プラスチック人間たちが演奏するときは、命がけでびくびくしながらやってきた観客50人を相手に、手製のスピーカや楽器でプライベートにロックしたのだ。チェコの政権は、まさにヒステリックなまでの厳しさでチェコのカウンターカルチャーを嫌い、恐れていた。

 プラスチック人間たちの音楽に対する公式の評価は、厳しいなんてもんじゃなかった。政府発行のRude Pravoがプラスチックたちについて取り上げるとこうなる(1976年9月25日):
「われらが社会は、不穏分子や公共の秩序を破壊するものを容認することはない。そして当然の事ながら、道徳的汚物や、まっとうな人間がすべて糾弾するであろう代物で若者を汚染しようという試み、そして若い世代の精神的健康を冒す試みに対しては抵抗するものである」 この「ごく当然の事」というのが、暴行、発禁、執拗なガサ入れ、投獄になるわけだ。

 そして、弾圧されたものの復権とともに、そして共産主義政権が割れて崩壊するとともに、これらの狂ったヒッピーたちは、かつてヒッピーたちがいつでもどこでも獲得したためしのない、文化的権威と信用を獲得したのである。

 ヴァーツラフ・ハヴェルがビロード革命のさ中に大群集に向かって演説を行なった時、その聴衆のほとんどは、故郷のプラハにおいてすら、かれが何者か漠然としか知らなかった。チェコの地下出版物は手でタイプされ、手渡しで密輸され、ごくわずかしか出回らなかった。これに比べれば、今日の移住者向け小出版のヤッツィクやトラフィカなどは大企業になってしまう。プラハに暮らしていると、小出版社の刊行物を見る目がちがってくる。金もなく、後ろ盾もなく、読者もないに等しく、残酷で重武装の官憲からよく思われていないアーティストや物書きが、本当に事態を変えることができることを、この街は実際に証明してくれるのだ。

 それに、ここはすごくきれいだし、物価も安い。


 今はその2日後。ぼくは机の前に戻っている。ブラハ警察が「プラハでもっとも危険な場所の一つ」と公式に指定したところに行ってきた。ナメスティ・リプブリキ(共和国広場)の地下駅隣にある屋外市場だ。売春と暴力と腐敗の嵐を覚悟していたが、かわりに出会ったのは、小さな木のテーブルの後ろにすわったヒッピー30人ほどで、みんな口紅やビーズの首飾りや女物の下着を売っているだけだった。露店は五時きっかりで店をたたみ、その後は恋人たちがやってきてテーブルにすわり、キスをかわす。

 犯罪統計によると、チェコ共和国はドイツの半分程度に危険だということになる。ということはつまり、そこらの台所用品並に安全だというに等しい。と言っても、プラハで面倒に巻き込まれることがないというわけではない。スリやひったくり、雲助タクシー、娼婦、たまに介抱強盗や、釣りをごまかす名人、それに大量のドラッグはある。でも、もしここを訪れるあなたが若いアメリカ人男性なら、統計的に言って、ここで出くわす一番の危険人物はあなた自身であり、アメリカ人の同胞たちである。チェコ人たちはむしろあなたの健康ぶりに感心し、少しあなたに脅えさえするかもしれない。なにせあなたはでかいし、金持ちだし、豪快だし、冷戦に勝った国からやってきたのだから。

 そしてあなたがどんなに甘チャンのヤンキーの尊大なイモだったとしても、ドイツ人ほどに嫌われることは絶対にない。


 9月19日。いまぼくがキーボードを叩いているのは木製のテーブル上で、あざやかな赤と黒で芸術的に塗られている。ここはリブリ・プロヒビティ図書館、発禁書の図書館だ。

 この慎ましい機関は、チェコのサミツダット、または非合法自主出版物の中心的な歴史的貯蔵庫である。主任司書兼創立者のジリ・グルントラッドが運営するこの驚異的な書庫は、4,400点の地下出版書籍に加え、チェコ移住者や亡命者たちによるチェコ語の発禁図書6,000点強をおさめている。

 かつて人々は、ここに所蔵された本を所有しているだけで投獄されたのだ。人々は、異様な熱意をもってこれらの本をこっそり読み漁った。そしてこれらの本を一字ずつ手動タイプライターでタイプし(そのタイプライターもここに収められている)、原始的な木製製本機で製本し(製本機も展示されている)、異端審問の拷問具のような化け物裁断機で裁断したのだ。この場所は共産党検閲官の悪夢である。それ故に、なおさらすばらしいのだ。

 ここには伝説的な出版物もおさめられている。かつては唾棄されていた禁制品が、いまや転じて文化的モニュメントとして珍重されている。ヴァーツラフ・ハベルの解放以前の「出版物」エディス・エクスペダイスの全号がそろっている。エゴン・ボンディの禁断の詩の完全版がある。まるで本物の本に見えるほど端整こめて造られた自家製の本もあるし、自暴自棄とかすれたカーボン紙から生まれた、ボロボロの小さな緑や黄色のパンフレットもある。マッチ箱ほどの豆本発禁図書もあって、字はアリのように小さいので背に半筒状の拡大プリズムが仕込んであり、一行ずつ読めるようになっている。

 図書館へと通じる二階分の上ぼりは、落書きと割れたガラスだらけでほこりっぽく陰気だ。でも、中に入れば図書館は決然と陽気で、窓のブラインドは開けきられ、一面に明かるい原色が使ってある。壁には77年憲章グループとアムネスティ・インターナショナルの古いポスターとともに、「リボルバー・レビュー」や「ヴォクノ」のような現代チェコのカウンターカルチャー雑誌のポスターが貼られている。共産主義時代には本の密輸入活動で4年間投獄されたこともあるグルントラッドは、中世スラブの聖人のようだ。ここを共に運営しているグルントラドヴァ夫人は、見るからに率直で冷静な女性で、生き生きとし、誠実で人間味にあふれているので、何のためらいもなく車のキーも家の鍵も子供の世話も託してしまえそうだ。もっとも、ぼくらは共通のことばすら持っていないのだが。

 このことばの並ぶ倉庫では、おそるべき恐怖とすさまじい決意の匂いが鼻をさす。その中で、若いチェコ人ボランティアたちが新品のコンピュータをたたき、ピカピカのコピー機からページを吐き出させ、電話に出て、チェコ語で駄弁り、笑う。静かだけれど、楽しい場所で、ほとんど独特に聖なる場所でもある。ここにすわってラップトップを叩いていると、サミツダットがぼくの人生で真に重要なものすべての精神的祖先だということが、ひしひしと感じられる。

 サミツダットは、弾圧の力によってダイヤモンド並に硬く圧縮されたカウンターカルチャーの姿である。サミツダットはファンジンやパソコン通信、fidonet、インターネット、WWW、シェアウェア、個人用無料暗号化方式の精神的祖先である。そしてこの窓の外に広がる、まさに全世界は、サミツダットが勝ちつつある世界の姿だ。

 ひげ面の若いスタッフが、熱いコーヒーを持って来てくれて、図書館の来館者名簿にサインしてくれと言う。ヴァーツラフの輪だらけのサインが一ページ目に堂々と書かれている。ぼくは「情報は自由を求める」と記して、インターネットのアドレスをサインするにとどめた。


 プラハの声なるものの存在は不明だが、プラハ的ファッションというのはある。男ではあまり明確ではない。プラハの男は、だいたいはREMのマイケル・スタイプもどきにタバコとバックパックを足したような格好をしている。でも、プラハ中の、特にダウンタウンや旧市街――本屋やアート・ギャラリー、喫茶店やバーなど――の若い女性は、プラハ・シーンの中核候補であり、芸術の女神訓練生なのが一目で見て取れる。プラハジェンヌとでも呼ぼうか。では、プラハ・ファッションを頭のてっぺんから爪先までおさらいしてみよう。

 髪は肩までのストレート、シンプルなカットで、真ん中できれいにわける。つまりロシア大河小説の純情なヒロイン的に。耳には銀のフィリグラン・イヤリング――もちろんピアス。それとぶかぶかの大きなセーター。えりがゆるくて、だいたいホールタートップのストラップを片方見せている。袖は手首までだらんとたるみ、丈はひざ上まで。そのチュニック状セーターの下は、大きなゆったりしたスカートで、白黒プリント柄をヒッピー風にひもで結び、生地は非常に薄いけれど、プリーツ入りか、リンクル地で、丈は足首まで。そのパターン模様のスカートの下は、銀金具の編み上げ黒革ブーツ。平底か、あるいはでっかい流行りのドック・マーテンのワークブーツ。仕上がりは、アンナ・カレーニナと1912年ニューヨークのグリニッジ・ビレッジのあいのこ、という感じ。

 アクセサリー:大きな、柄のあざやかなスカーフかショール、道端で売っているようなお守りつき銀ネックレス、角か木でできたブレスレット、黒ウールのベレー帽、石とセラミックの指輪、たばこ、こぎれいなデニムのバックパック。場合によってはヘア・ラップ。髪を一まとめにして、薄い色の毛糸の筒にきつく編み込むのだ(お望みであれば、数コルナ出せばヒップスター気取りの連中が道端でヘア・ラップしてくれる)。

 ゴート的シック流変種として一般的なのは、黒のマニキュア、おっかないほど大きな白目製バイカー指輪、耳のピアス複数、細いゴールドのノーズ・ピアス、漆黒に染めた髪。芸術家気取りのインテリ・ルックなら、銀ぶちの変に楕円っぽい眼鏡、髪は装飾的なセラミックかブロンズまたは銅のバレットにまとめて通してある。そして街に繰り出す夜のためのとっておきファッションは:必殺マスカラ、真紅の口紅、スカートはきつくて長く、ふとももの半ばまでのスリットが二本、時には三本入っている。このシチリア未亡人ファッションと組み合わせると、スカートのスリットは驚くほど挑発的だ。エロスの領域では、見せ過ぎないのがポイントであることを実証している。

 おもしろいことに、年上向けヤッピー・プラハジェンヌ・ファッションもあって、だぶだぶのカシミア・セーターに黒いシルクのスカート、靴はもっと小奇麗で軽く、髪もきちんとセットして、マニキュアとストッキング。アクセサリーは、ビニールのショッピングバッグ、頑丈だがスタイリッシュな革のハンドバッグ、そして携帯電話。

 もしプラハの石畳の通りを、絵に描いたようにはまった、らしい女性が闊歩していたら――ローマ法皇より東欧風で、神々しいほどに高いスラブ頬骨よりさらに高くあごを掲げ、いかにも精神的で、ちょっとお高くとまった感じなほど――それはたぶんアメリカ人だと思っていい。YAPこと、プラハの若きアメリカ人。本物のチェコ女性も、たまには正統プラハジェンヌ・ファッションに身を包むことがないわけではないらしい。チェコのファッション・デザイナーたちは非常にヒップで、カウンターカルチャーならなんでもござれの連中だからだ。しかし、20代前半から半ばにかけての若いチェコ女性の標準アクセサリーは、結婚指輪にゆりかご、時にはよちよち歩きの子供である。


 エヴァ・ハウセロヴァは、チェコのフェミニストであり、環境活動家である。革命以前には、この国の比較的有名で影響力あるSF作家でもあった。1989年以前には、官憲当局はSFについて、モデムほどにも理解していなかった。だからチェコのSF小説の多くは寓話的なパロディであり、チェコ人たちの身をよじるような苦悶を表現していた。エヴァの得意とした分野である。

 かつてエヴァが言ったように「全体主義の時代には、SFは社会について、主流文学よりずっと率直かつ批判的に語れる。政治的メタファーには絶好のメディア」なのである。彼女が書いたのはグロテスクな幻想小説で、テーマの多くは毒々しい生物学的なものだった。彼女の受けた教育は(チェコ人には多いのだが)生化学者としてのものだったからだ。短編や長編を書き、自前のサミツダットSFファンジンを発行し、後にチェコの大手SF誌「イカリエ」の編集者として働いた。

 チェコ人は幻想小説が大好きだ。カフカの作品は形而上学的で幻想的だ。カレル・チャペックとその兄ヨセフは、世界に「ロボット」ということばを与えた。そしてハヴェルの戯曲ですら、おかしな「科学的」性格を持つ人工知能や異常な人工言語が登場する。マルクス主義者たちは、時々SFを「退廃文学」(poklesla literatura)と呼んだが、実際には幻想小説は他の文学に負けず劣らず真剣に読まれていたのだ。

 しかし、属する社会の解放とともに、エヴァは筆を折った。というか、かつては小説の中で匂わせるだけだった事柄について、公然と精力的にキャンペーンを行なうようになったのだ。たとえば環境問題(いささか一般的でない過激な立場を取る)やフェミニズム(チェコにおいてはきわめて少数派であり、政治的にも昇ぼり坂の戦いである)。いまや彼女はフェミニズムについての本を編集し、チェコの女性団体を組織し、環境問題雑誌に小文を寄稿する。

 稼ぐために、彼女はハーレクイン・ロマンスの翻訳をしている。エヴァは西側のロマンス小説に登場するステレオタイプをうらやましいほどに把握しており、PC互換機に一週間ほど向かうだけで一冊分の訳をあげられる。反体制SFなんかよりずっと儲かるので、家の改装さえなければ捨てるほどコルナが稼げる。ちなみに、今プラハでは、だれもかれもが家を改装している。「もしクラウスがバカでクラウスのアイデアもばかげてると言いたければ、面と向かって言ってやれるのよ!」と彼女は喜々として語った。革命後、彼女はかなり陽気なSFを一本書き、その後はSFを書く必要性から完全に解放されたと感じたのだそうだ。

 チェコ出版界の小さく高密な世界は、革命によって大混乱となった。かつての反体制派たちは過去の時代に属しており、すでに居心地のいい椅子があればいい状態だ。共産党作家組合の御用作家たちは、マルクス主義翼賛の小説まがいを書くのをやめて、コピーライターに転業した。これも機能的には、昔の仕事とまるで同じものではある。他の作家たちは政治家になったり、民間に就職したり、ジャーナリズムに転向したりした。チェコSF界はと言えば、過去40年分のアメリカSFが洪水のようになだれこんでいる。かつては発禁だったが、今ではチェコのSF界をスペオペとトールキンっぽいファンタジーで覆い尽くしているのだ。チェコ作家たちは、英米風のペンネームを使うと売り上げが急増することを発見しつつある。

 エヴァ・ハウセロヴァは非常に頭のいい女性であり、確かにその主張には一理ある。フェミニズムはこの地にまるで入って来ていないし、ボヘミアは広い地域にわたって露天掘りや酸性雨にやられている。チェコの平均寿命は下がりつつある。プラハの冬は厳しく、霧や気温の逆転層のおかげで街はディーゼル排気ガスの有害スープと化す。国の主な輸出品はセメントと鉄であり、どちらも肺にいい産物ではない。ヴァーツラフ・ハヴェルは公然とエコロジストを嫌っていて、グリーン(エコロジー一派)どもは羊の皮を被ったアカどもであり、経済を再統制したがっているのだと言う。エヴァのような活動家にとっては前途多難だが、その彼女は、才能あるチェコ作家なのに、ハーレクイン・ロマンスの翻訳をしている。何かがおかしい [4]


 ダグ・ハイェクは、自分の移住者向け文学誌「ヤッツィク」にエヴァの作品を掲載した。ぼくがハイェクに会ったのは、ダウンタウンの流行のバー兼ギャラリー、ヴェルリバ(鯨)でのことだった。いっしょに昼食をとった。揚げたチーズの塊にフライドポテト、それに千切りキャベツがちょっと、キュウリとトマトが一切れずつ。それと、大きなビールのジョッキ。典型的なチェコの昼食だ。

 ヤッツィクは、ハイェクとカナダ人の仲間ローラ・ブシェイキン、カリフォルニアのトニー・オズナによって1992年に創刊された。「ハヴェルやシュクヴォレッキやクンデラで売りたくはなかったんだ」とハイェクは、わずかな野菜を突き刺したフォークを力強く振り上げて宣言した。「新しいチェコ作家、西側の連中が聞いたこともない作家の作品を出したかったんだ!」現在、ヤッツィクは3号まで刊行され、2,000部が出ている。ここの移住者むけ雑誌としては、トラフィカに次ぐ存在だ。トラフィカの売りは国際性で、世界中の作家の作品を載せている。

 これに対してヤッツィクは、エゴン・ボンディ、エヴァ・ハウセロヴァ、ヤナ・クレイカロヴァ。マイケル・アイヴァス、そしてもっと無名の連中、さらにはプラハ在住アメリカ人の作品。収支とんとんくらいで行きたいというのが希望だったが、今のところそこまでは行っていない。4号の準備に追われつつも、ハイェクは英語を教え、アハというデザイン・出版事務所を経営している。チェコ共和国で正式かつ合法的に登録された、初の資本主義企業の一つである。ハイェクは27歳の世界旅行家で、10年にわたって旅を続けてきた。イタリア、日本、アルゼンチン。いま、かれはプラハに住み、ここを離れるつもりはないという。

 ヤッツィクは世界最高の文芸誌ではないかもしれないが、この地域と直接関わる文芸誌としては最高のものだ。3号のマイケル・アイヴァスの作品は特におすすめだ――「おっ、このアイヴァスとかいうヤツ、いいじゃん!」 真摯な「エロス、セクシュアリティ、ジェンダー」特集号 [5]には、故ヤナ・クレイカロヴァがエゴン・ボンディに宛てた、熱くて重いラブレターが載っている。1962年頃のもので、女性的情熱が驚くべき悲痛さでむきだしになっており、そこに哲学的な探求が織り込まれ、こちらとしてもボンディに対する敬意をつのらせずにはいられない。

 ヤッツィクは、ブラホスラヴォヴァ通りに面した、(プラハの感覚からすれば)なかなか広々としたオフィスから刊行されている。ここはパソコン、レーザプリンタ、スキャナーやファックスだらけ(ただし、電話回線は調子の悪いのが一本だけ)。奥の部屋でマウスを操っているのは、アハ社の共同経営者兼ヤッツィクのアート・ディレクター、そしてハイェクのガールフレンドでもあるヴァロニカ・ブロモヴァ27歳。ヴェロニカはヤッツィクのみならず、ポスターや雑誌、社進展、CDジャケット、プラハ観光案内書、ロックバンドのプロモ資料、ニュースレター、その他新品486で処理できるものなら、手当たり次第に何でもデザインしている。

 チェコ風の名前ではあるが、ハイェクはチェコ人ではない。祖先のほとんどはウクライナ出身で、チェコ語はプラハにきてからその場で覚えていったのだと言う。ダグは非常に頭がいいのだ。

 北米には、すべてを投げ捨ててプラハに飛び、エキゾチックなカルチャーもの満載の超アートっぽい雑誌を創刊して、それによって同世代のとんがった連中をたきつけ、同時に急成長私企業をうまいこと立ち上げて、美人で芸術的才能あふれるガールフレンドと暮らすなんてことを、物欲しそうに夢見ている連中がいくらもいるはずだ。だが、ダグ・ハイェクはこれを実現させた。妄想なんかじゃない。ハイェクは絶対に妄想など口走らない。非常に実際的。着実に仕事をこなすだけ。そしてこれは現実だ。この机と同じくらい確固とした現実なのだ。


 スナップショット。移住者のロバート(ボブ)・ホロヴィッツ(antenna@well.sf.ca.us)のオフィスの長椅子で、二晩ほど楽しくすごさせてもらった。かれはソロス・ファウンデーションのメディア・コンサルタントである。グラフィック・アーティスト転じてネットワーク専門家であり、東欧にラジオ・ネットワークをつくりあげるべく活躍している。しばしばスーツケースいっぱいにモデムをつめて、旧ユーゴスラビアにでかける。セルビア人の妻ビリヤナは、初の子供の出産まぎわ。ボブは、自分がプラハでなにをしているのか十分に承知している。幸福そうな男だ。

 ダグ・アレラネスはグラフィック・アーティスト兼ネットワーク専門家であり、非営利環境財団エコネクトのコンピュータ・インターフェース用グラフィクスをデザインしている。ダグ・アレラネスは「サンタバーバラ・マフィア」の一員で、これはカリフォルニア大学サンタバーバラ校出身のジェネレーションXっぽい連中30人ほどを指す。プログノーシスを創刊し、ジャーナリズムとグラフィクスの分野で活動している。アレラネスは、ぼくが自作 SF チェコ語訳のサイン会をしていた本屋に、まったくの古典的なプラハ流偶然で立ち寄って、こう言った。「おまえ、こんなとこでなにやってんの?」

 その後、ぼくらはヴェルリバでビールを飲み、洞窟じみた地下レストランになだれこんで、化け物のようなローストポークにありついた。プラハではグラフィクスが熱いと言う。「ポスト」誌があるし、こんどは「ラウト」もできた。世界最高クラスのタイポグラファーやブック・デザイナーもいる。アレラネスは、その器用なデザイナーの手のためにパワーマックを入手したばかりだ。そしていつの日か、究極の YAP ドリームを実現させようとしている。インターネット経由で、西側の仕事を西側の給料で、家賃固定のプラハの住所から手掛ける、というものだ。ちなみのその家賃は月20ドル。実に有望な計画だと思う。だって、そのための TCP/IP ではないか。


 ヤロスラフ・オルシャはチェコ外務省に勤める。また、SFも書いており、かれの楽しみはと言えば、チェコSFの英訳をインドで出版することだそうだ。かつてヤロスラフは、国境を越えてポーランドに行けるのを素晴らしい禁断のスリルだと考えていた。革命以来、かれはサウジアラビア、レバノン、南アフリカ、ケニヤ、インドネシアに旅しており、目下フィジー旅行を計画中である。

 ヤロスラフは、マロルダ・パノラマに連れていってくれた。パノラマは、19世紀に予見されたバーチャル・リアリティである。物理的な舞台が、360度の書き割りに囲まれている。

 プラハのマロルダ・パノラマが描かれてセット状にしたてられたのは1890年代のことだった。好意的な守衛への心付けで、閉館後だったのに入れてもらえて、そこを独占できた。パノラマに描かれているのは、ヨーロッパ初のプロテスタント宗教改革の敗退である――チェコ人には不運なことだが、このチェコの地でのことだ。描かれているのは戦闘風景。フス信奉者のチェコ人たちが、誇らしげに頭を掲げ、怒れる外国のカソリック勢の洪水相手に闘っている。もちろんかれらは敗北した。チェコ人はいつも負ける。1620年以来、かれらは戦争に勝ったことがない。その1620年の戦争でも負けている。でも、決して諦めない。

 槍や、トゲつき棍棒、突撃する騎兵隊、フス派の戦闘馬車(西洋初の装甲車両)もある。血や剣、倒れる軍旗、そして不気味で木の台に乗った、原始的な先ごめ式の大砲。パノラマは今でこそ死に絶えたメディアだが、100年前には非常に人気があった。パノラマの中は非常にバーチャルだで、まるで実際に戦場にいるかのようだ。でも地平線は偽物だし、実際にはどこかの小利口なアーティストの頭が生み出した、辛辣な愛国的ビジョンの中にいるわけだ。古びつつあるキャンバスには、できの悪い修復がほどこされているが、それもセンス・オブ・ワンダーと気味の悪いノスタルジアに興を添えている。


 プラハも、いいところばかりではない。街外れには、殺伐としたコンクリート造のシドリシュテ、つまりプレハブ式労働者バラックが並んでおり、これがもう一世代くらいは生活を歪めることになるだろう。だが、市の中心部はその名声に恥じない。プラハは、20世紀の完全破壊の波をまぬがれた数少ないヨーロッパ都市である。第一次世界大戦前のユーゲントシュティル・アールヌーヴォー建築は異様に美しくて、それ以降の今世紀の建築は根本的にまちがっていた、とほとんど絶望とともに結論させるだけのものがある。プラハはひょっとして、本当にやりなおしの機会を与えられた街なのかもしれない。もちろん、そんなことが証明されたわけではないけれど、でも少なくともここには、証明する機会だけはある。

 一方でここは、非常に90年代的な都市である。ここの芸術の問題ですら、90年代的な芸術の問題なのだ。虐待され、混乱した世代が、すべての芸術や生を無限に複製可能な商品にしようと指向する時代にあって、自信をもって語ろうとする苦闘。90年代はカフカがTシャツになり、ハヴェルが見世物と化し、文化をパッケージ化して殺菌消毒済みの物見遊山パックツアーにしてしまう時代であり、芸術をいい加減な小物に仕立て、文化遺産を博物館経済における大ヒット・マーケティング分野にしてしまう時代なのだ。

 その時代の一部とならずに、それについて芸術的に語るというのは難しい問題だ。が、こうした問題は、ある意味でぜいたくでもある。問題なしに、芸術は存在しえない。そしてスターリンがかつて言ってように、人がいなければ問題も存在しないのだ。

 もし今日のこの都市が、煙をたてる瓦礫の山と、放射能を放つアメリカの核ミサイル第二ステージケーシングの山と化していたら、問題など何一つなかっただろう。そして、そうなる可能性は十分にあったのだ。ぼくも歳なので、それが実現して良心の呵責に悩まされずに済んでいるのは本当にありがたく思える。ぼくはYAPではない。若くもないし、ここもただの通りすがりだ。でもアメリカ人として、両親たちが陰気に懺滅しようと計画していた街を、若い神のように歩けるなんて、なんとすばらしいことか。プラハでアメリカ作家であるなんて、なんとすばらしいことか。かつて天才的な才能を持った人々が、表現の自由の代償を、生命と健康と将来と幸福で支払わなければならなかった街で、思い付くことは何でもかんでも叩き出せるなんて、なんとすばらしいことか。その天才的な人々は、戦闘にはことごとく負けたくせに、全体としての戦争には勝利したのだ。なにもかも、本当にすごい。

 そしてチェコ人たちは裕福にすらなりつつある。それにビールは、一寸たりともその評判に恥じない。さらにぼくは、ここでコンピュータさえ持っている。

 まったく、90年代は最高だ [6]


訳注1:Temporary Autonomous Zone。ハキーム・ベイの同名著書より。一時的に自立した空間や場が次々に現れては消えるような、アナキズムの夢想のようなはなし。
訳注2:おそらくはベトナム戦争の未帰還兵が大量にバンコクの歓楽街で行方をくらました、MIB (Missing in Bangkok)がこれに相当するはずだけど。
訳注3:リョサって実は右がかってて、かれ政策を本気でやってたらひどいことになってたろうって。だからいまではみんなフジモリを選んで本当によかったと思ってるはず。
訳注4:へえ、予想外に甘いねえ。資本主義の基本じゃん。日本だって同じよ。
訳注5:この特集を見た瞬間に絶望におそわれるのは人情だと思うんだが、なんで世界中のポストモダン現代思想屋さんがたは、どこいっても判で押したように同じような特集を飽きもせずにやってんのかね。
訳注6:いやまったく。

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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@mailhost.net)