(「ワイヤード」1998 年 9 月?)
ポール・クルーグマン
山形浩生抄訳・解説
日本の経済的な不景気が10年近くも続いているのは、当人たちはもとより経済学者たちにとっても大問題だ。こんなことは起きないはずなんだもの。ほとんどの不景気は、総需要が落ち込むのが原因だ。そういう落ち込みは、お金をすれば解決できるはずだった。でもいまの日本は、金利はほとんどゼロだし、日銀もバランスシートを年率 50% でふくらませてる――なのに経済はまだ不景気続き。どうなっているんだろう?
この状況を分析できる理論的な枠組みは、ないわけじゃない。日本はあの恐怖の「流動性トラップ」に陥ってるんだ。
つまり長期の成長見通しが低い国――たとえば人口トレンドが明るくないとか――では、貯蓄と投資をマッチさせるために必要な短期の実質金利は、マイナスかもしれない。でも名目金利はマイナスにはなれないので、その国はインフレ期待が「必要」になる。でも世間が、価格は長期的には横這いだと思っているなら、経済はインフレ期待を得られない。すると経済は不況におちいる。しかもこれに対しては、短期的な金融拡大は、どんなに大規模なものであっても効果はない。
別の言い方をしてみよう。もし人々が将来の収入に期待が持てなければ、実質金利がゼロでもみんな貯金したがって、それは経済が吸収できる(つまり投資にまわせる)以上になるかもしれない(つまり経済はキャパシティ以下で動くので不景気になってしまう)。そしてこの場合には、中央銀行がどれだけお金を刷っても、経済をふくらませなおしてフル回転させることはできない(みんな貯金するだけだから)。
(そしてこの状況では、みんながお金をいま使ってくれて景気が回復する唯一の方法は、貯金しておくとお金が目減りすると思わせることだ。いま使わないと損だと思わせることだ。あるいは今借りておくほうが得だ、というのでもいい。そのための方法は、将来インフレが起こるぞ、とみんなに思わせることなんだ。)
流動性トラップは、未来の生産力がいまの生産力より低い場合にしか生じない。日本の未来の生産力がいまより低くなりそうな原因ってなんだろう。人口構成だね。日本の出生率は低下してるし移民はない。するとこの先数十年は、労働力は減っちゃう。生産性が向上しない限り、この先15年とか20年とかの潜在的な産出はまさにいまのキャパシティより低くなる。
流動性トラップは投資需要にも関係する。ここでもまた人口構成が関係してくる。労働力減少の見通しは、投資の期待利回りを下げる。そして銀行の貸し渋りが投資をおさえるかもしれない。それに企業が過去の負債のせいで、投資したくてもできない状況にあるかもしれない。
日本はほぼまちがいなく、その生産キャパシティのかなり下で動いてる経済だ――つまり、日本が直面してる目下の問題は、需要の問題であって供給の問題じゃない。そしてあらゆる面からみて流動性トラップにはまってるらしい――つまり、従来型の金融政策をとことんまでやってみても、経済はまだ不景気のまま。じゃあなにができるだろう。
これは、おかしな議論どころか、倒錯した話にきこえる。でも基本となる前提――実質金利がゼロでも、十分な需要を作り出せないという事態――は、まさにいまの日本の実状そのもの。だから、構造改革なんかが需要を生み出すことが示せないかぎり、経済を拡大する唯一の方法は実質金利を下げることだ。そしてそれをやる唯一の方法は、インフレ期待をつくりだすことだ。
もちろん、日本は何もしなくたってかまわない。このトラップは一時的な現象でしかない――モデルでは、一期しか続かない。ただし、その「一期」が三年か二〇年かはわからないんだ。政策的な動きがなにもなくても、価格調整やいいかげんな構造変化が、いつの日か問題を解決してくれるだろう。長期的には、日本はなんとかこのトラップを脱することになる。でも一方で、長期的には、われわれみんななんとやら……
かつてアジア経済バラ色論にいちはやく水をさし、国際競争力論者に噛みつき、本誌本国版のニューエコノミー翼賛論をボコボコにした、あの鬼才経済学者ポール・クルーグマンが、またもやとんでもない論文を発表してくれた。「規制緩和も公共事業も減税も、すべてやるだけ無駄! 日本が不況から脱する唯一の道は、インフレ期待を起こすことである!」それがここに紹介したThe Japan's Trap (完訳は「日本のはまった罠」)だ。
この論文は今年五月のある日、かれのホームページにいきなり置かれていた。原論文ではモデルの構築と説明に多くのページが割かれていたけれど、誌面の都合と読者層を考えてここでは割愛。結論だけを紹介した。また文中でカッコに入った部分は、訳者の加筆部分。抄訳という性格上、ほかに手がなかった。
ふつうの経済政策の常識で、インフレはあまりいいもんじゃない。物価高ってことで、国民からは嫌われる。インフレをおさえようとして苦労している国は多いけれど、それをわざわざ起こそうなんてバカなことをする国はない。
この論文のとんでもなさは、その「バカなこと」をやれと敢えて主張し、その理論的根拠まで示し、ついでにそれ以外の方法――公共事業や減税(一時も恒久も)や規制緩和や、いまの日本政府の「景気対策」すべて――をものの数行で切って捨て、そんなのうまくいきっこないとあっさり論じきってしまっているところにある。
すごいなあ。この不敵なまでの知的な自信! ふつうの学者なら、理論的にこれを思いついても、バカにされるのがこわくて絶対にそれを発表なんかしないよ。ついでに既存の景気対策をけとばしたりもしないはず。だって、知り合いの日本人経済学者はみんな、ここに挙げた景気対策のどれかの旗を振ってるんだから。ケンカを売ってるようなもんだ。
ただし日本でも、財界や企業の実務レベルでは、インフレ待望論はずっと昔からあった。インフレになれば、手持ちの借金は実質的にぐんぐん目減りする。インフレがあれば、 10 年後に払わなきゃなんない 100 万円は実質的にはたとえば今の 50 万円分ですんじゃうんだから。そうしたら財政赤字は楽になるだろう。不良債権もあっさり片づいてしまうだろう。年金の問題も解決する。また、特に不動産系の企業なんかでは「需要がなくてもインフレさえあれば喰っていける」とまで言われる。インフレがあれば、土地の含み益が出て、なんとかやっていけるからなんだ。いつかインフレにするしかないだろう、と思っていた人は多い。
そして一方で、インフレというのはほどほどならそんなに大きな害は(理論的には)ない。物価はあがるけれど、賃金も同時にあがるから、まあだいたい収支トントンの人がほとんどなんだよね。
財界の期待があって、しかも理論的な裏付けもあって、するとあとはタイミングだけ……なんだろうか。
日本の経済学者、たとえば伊藤隆敏は、Far Eastern Economic Reviewの取材に答えて、これをまったくもって見当違いの論文だと批判している。こんなことをしたら、日銀の信用がガタガタになって、将来的に手がつけられなくなるって。かれは構造改革と土地流動化(出ました!)で景気回復を進めるべきだと言う。 でもその日銀の諮問委員の植田和男は、まさにこのクルーグマンと同じインフレ待望論を唱えている。そして各種公的機関の中にも(おおっぴらには言えないけれど)この説のシンパがたくさんいるそうな。
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