山形道場 by 山形浩生(#6-10)



連載第6回

今月の喝! 「情報投資と生産性」

 

 おもしろい本が出た。Landauer The Trouble with Computers (1995, MIT Press)。アメリカ企業の過去20年ほどの情報投資と生産性の関係を調べて、定量的に解析したなかなかマジな本。結論:これまでの情報投資は、生産性の向上にはまったく寄与していない!

 1982年から、サービス業のオフィスワーカー一人当たりの年間情報投資額は10年で1.6倍になっているのだけれど、生産性はほとんど横這いか、むしろ下がっている! 情報投資へのリターンを見ても、投資が多い企業ほどリターンが低い!

 いやー、うすうす感じてはいたんだけれど、こうはっきり数字で示されると一種爽快ですらある。いや、オフィスで働いてると、コンピュータが入ったって決して生産性なんかあがってないのは自明なのね。そりゃ便利にはなった。昔DOSのロータス1-2-3でつくってたチャチなグラフよりは、今エクセル5.0でこさえてるグラフのほうがクールだわな。でも、結果としてできた資料が、昔のに比べて格段にいいか? みんな口ごもる。統計解析だって、昔大型で、CPU時間/利用料を気にしながらSASを使っていた頃に比べればなんと便利になったことか。何回モデルをまわしてもタダ! でも、結局無駄な回帰計算をやる回数を増やしたりしているだけ、という面はあるんだ。まあ、理屈から考えてもそうなるよね。無料のものは無駄遣いされる――経済学的にはあたりまえのこと。水道でもゴミ処理でも、受益者負担である程度の料金をとったほうが効率(つまり生産性)はあがるんだ。でも今の情報化って、完全にそれと逆行してるわけ。

 じゃあ、そんな効果がないコンピュータに、なぜみんなどんどん投資を行うのか? この至極当然の疑問に対して、この本が提示している回答ってのが最高なんだ。答え:コンピュータは楽しいおもちゃだから! 何かを約束しながらそれをなかなか与えてくれないという、中毒しやすいもの特有の性質を備えているので、みんな中毒になってるんだ!

 いやあ、もうワタシは何も申し上げませんよ。しかしこれが妙に説得力を持っているというのは、一部の人にとってはえらく困った話ではないのかしらね。

 



連載第7回

今月の喝!「セキュリティ」

 クレジットカードを使うのに、多くの人は(利用限度額を突破しそうな人はともかく)何のためらいももっていない。海外の雑誌の定期購読を申し込むのにホイホイ葉書に書いて送っちゃうし、通販とかでもファックスでバシバシ送ってしまう。で、先方がその受け取った文書をどうしているのかなんて、まったく気にしないね。ちゃんとセキュリティ管理してるのかしら。用が済んだら右から左へごみ箱に投げ込んでて、ごみ箱ダイブを敢行すれば無慮数万人のクレジットカード番号がわかっちゃったりするんじゃないかしら。そんな心配は一切してない人がほとんど全員だろう。一方で自分も利用明細とか控えなんかも、何の気なしにゴミに放り込む。個人とクレジットカード番号の対応つけるなんて、何の苦労もないだろう。目をつけられたら、悪用なんかいくらでもできるのだ。おそろしい。けどみんな、あんましこわがってないね。

 なのに、なぜことさらネット上での取引に関しては、みんなやたらと「セキュリティ!」と騒ぎ立てるのだろうか。ここで言いたいのは、別に「セキュリティなんかに神経とがらせてバカだなあ」という話ではない。むしろ、なぜそうなのか、ということのほうに興味がある。なぜネットワーク上にあるからということが、そんな大きな不安要因となるのだろう。

 クレジットカードだけではない。電子メールを読まれる、とかいう話でもそうだ。他人が自分宛のものを読むというのは気持ちいい話ではないのだけれど、特に企業のような準不特定多数の人間が出入りするような環境では、紙ベースでも結構簡単にできるんだよね。あるいはコードレスホンの盗聴だって、みんなできるのは知ってるけど、そんな大騒ぎしているようには思えない。なのになぜ電子メールとなると話がすぐ大きくなるのか?

 それが簡単だから? 不特定多数の人間を対象にできるから? 痕跡を残さずにできるから? そこらへんの心理的なメカニズムというものに、もっと関心がもたれてもいいような気はする。最終的にそれは、自分が自分であるとはどーゆーことか、とか、他人を認識するというのはどーゆーことか、という哲学じみた話に落ちていってしまうのだけれど、技術的にセキュリティ向上策をごりごり練るより、そこらあたりにすり寄ったほうが案外効果は高いかもしれないよ。



連載第8回

今月の喝!「いながらにして・・・part1」

 だれか「いながらにして・・・」というやつの心理学的な根拠を教えてくれないだろうか。なぜ人は「いながらにしてXXできる」という話に魅力をおぼえるのだろうか。

 かつてカタログ通販は、「ご家庭にいながらにして何でも買える」をうたい、それを受けて店舗販売の終焉(あるいはそこまでいかなくても、大幅縮小)を予言した人々がいた。もちろんご承知のように、そんなことは起きなかった。店舗の立地や業態を変えたのは、もっと別の要因である。

 テレホンショッピングでもそうだし、最近のエレクトロニック・コマース(EC)の話でも、似たような議論はほうぼうで散見される。立場上だれとは言えないのだけれど、一方で「ECが流通に革命を起こす!」といいつつ、一方で通販が商業の主流ではないことを指摘されると「量的にはともかく質的には革命だ」と調子のいい言い逃れをする人を、ぼくは何人か知っている。そんな人が徘徊できる余地のあるほど「いながらにして買い物ができる」というアイデアは(提供する側にとって)魅力的なのだろうか。

 あるいはテレコミューティングや在宅勤務の話でもそうだ。「家にいながらにして仕事をする」というのが、一向に成果をあげていないにもかかわらず、なぜ10年1日のごとく議論として繰り返され、「今度こそは!」と復活するのか。

 ちょっと古い本だけれど、『テレコミューティングが都市を変える』で大西隆は、テレコミューティングがいかにメリットあるかを力説した挙げ句に、その実現のためには「企業経営者、政策担当者、そして勤労者の価値意識が(中略)生活の質的向上を重視する価値観に転換することが必要である」と述べる。先生(この人はぼくの大学時代の恩師ではあるのだ)、なんですかこりゃ。こんなだれもかれもが価値観変革をしなきゃ成立しないんなら、要するにこれって不可能ってことじゃないんですか?

 どうも価値とかメリットとかいう以前に「テレコミューティングはいいんだ!」「家にいながらにして仕事ができるのはいいんだ!」という前提があるように見受けられるのだ。なぜ? なぜ「いながらにして何でもできる」のがそんなに望ましいことなのか? 現実にそれが受け入れられていないという話はその通りなんだけれど、でもそれにもかかわらず、なぜみんなそれが受け入れられると思って同じ議論を繰り返し続けるのか? 現実からちょっと浮いたコンセプトレベルでは、なぜ「いながらにして」がかくも魅力的(なんでしょ? こんなに蒸し返されるんだから)であり続けるのか?

 ぼくが知りたいのは、そういうことである。(つづく)



連載9回

今月の喝!「いながらにして・・・part2」

すべての情報がいながらにして自由にネット上でアクセスできるという着想は、アメリカ西海岸を中心にしつこく唱えられ、未だに死に絶える気配を見せない。

でも、「すべての」情報が本になってないのと同様に、すべての情報がネット上で(無料で)見られるなんてこともあり得ないのだ。そもそも世の中の「情報」の多くは、デジタルデータ化できないんだし、ある種の情報は希少であるが故に価値を持つんだから。

 確かに、各種データがネットでとれるのは、便利。ありかのわかんなかった情報が、すぐに取れるようになった。すばらしい。がぁ。それが嬉しいのは一瞬だけ。一歩踏み込むと、とたんに情報は取れなくなる。電話でアポをとって人に話をきいて、うろうろしなくてはならない。申請出して決済とって、金でデータを買わなきゃならない。

 今は、まだそういう技能を持つ人が希少だから、「いながらにして」の部分だけでほめてもらえるけど、そのうちだれでもできる話になるわな。サーチエンジンとかが優秀になれば、なおのこと。そこで起きるのは、「だれでも」「いながらにして」「簡単に」とれる公開情報、およびその取得に要する労力の価値の大幅な低下であり(そんなもんに大金払うことないもの)、それ以外の非公表情報(およびその取得労力)の価値の大幅な増加である。

 昔アップルが、ナレッジ・ナビゲータのコンセプトビデオをつくって、そこでは研究者が優雅にいいかげんな思いつきを口にすると、エージェントくんが勝手にデータ漁って、モデルつくって、プレゼンまでしてくれるのね。ゾッとしたな。だって、こんなことされたら、当時のぼくの会社での仕事って九割方なくなってたもん。それと、そこまで機械ができるなら、そのお気楽な「研究者」の存在意義って何? そんなヤツ、即クビだよ。

 「いながらにして」の追求の結果、情報の価値の格差がこれから拡大する。同時に、ホワイトカラーや知識職種のあり方が変わるはずなんだ。その具体的な方向については、まだ大まかな思いつきしかないけれど、その影響(被害)を一番大きく受けるのは、間違いなく情報ブローカー業だろうね。ぼくの目下の勤務先のような。さて困った。五年先、ぼくの職場はあるんだろうか。そういう危機意識を持たないと、路頭に迷いますぜ。ネオ・ラッダイトって、その意味で結構先鋭的だからバカにしちゃいけないのよ。
 

近況:一部の圧力で、ついにピアスをはずさなくてはならないはめに! 許せーん! こんな会社、辞めてやる……とまだ言えないのがワタシの弱いところでございます。
 
 



連載10回

今月の喝!「情報リッチ/情報プア」

 産業革命初期。動力機械の驚異的な発展により、所得の格差はかつてない水準に達した。繊維製品の低価格化が羊毛の需要量を増大させ、耕作地は放牧地へと用途変更。貧しかった農奴たちは農地を追われ、都市部に流入。日雇いベースの絶望的に貧困なプロレタリアが生まれ、一方の土地持ちや新興工場主たちは莫大な富を手にし、所得格差は拡大。H・G・ウェルズが『タイムマシン』で描いた、美しく知的で繊細で虚弱な地上族と、醜く肉体的で愚鈍な地底族への人類の分化は、これを先にのばした姿だ、というのはよくある指摘だ。

 しかしやがて、所得は平均化した。貴族階級は崩壊し、プロレタリア階級も、ウェルズ(そしてマルクスやエンゲルス)の予想通りには固定化せず、徐々に生活水準を(つまりは所得を)向上させた。テクノロジーは人間に要求される技能を平準化し、貧富の格差と階級の減少につながったのである。

 さて、インターネットやパソコンの普及とともに、情報リッチと情報プアが生じる、という懸念がある。金を持ち、情報機器を購入してそれを使う技能を習得できる人間はますます豊かになり、貧しい人間は情報収集が遅れてさらに貧しくなる、という説。

 もう今回の論旨はご理解いだだけよう。いずれ、情報テクノロジーも所得や階級の平準化をもたらすであろう、ということだ。だってさ、GUIとかって、バカでもコンピュータが使えるように開発されたのだもの。コンピュータを使うのに必要な知的水準は低下してるはずだし、コストだって低下しているのだ。

 経済学者ポール・クルーグマンは、いつもながらのちょっと嫌みな調子でこう語る。「“高度”な知的作業は、エキスパートシステムやAIで代替されるかもしれないが、オートメ化した機械の掃除は、機械で代替できまい。人間がそうした“非熟練労働”に専念し、しかも高い賃金を(機械から)もらうことは可能なはずだ」。だがいずれ、そうなるだろう。今、高い給料をとっている投資銀行とかって、実はそんな難しい話じゃないのだもの。

 問題はその「いずれ」がいつか、ということだ。短期的な格差の拡大は、どうしても起きる。そのとき何が起きるか。その短い間(といっても十数年だが)、共産主義的ユートピアの夢が再び出現したりすると面白いのだけれど。ハッカー運動とかも、こういう文脈でとらえることはできるはずだ。
 

近況:情報刺激から逃避しに中国に行く、という前号の辻新六の議論に唖然。情報ってメディアにのったものだけじゃなかろうに。ぼくは情報刺激に身をひたすべく、この冬アフリカに行く予定。

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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@malhost.net)