Voice 2008/11号 連載 23 回

LHC と科学のロマン

(『Voice』2008 年 11 月 pp.134-5)

山形浩生

要約:  CERN の大型粒子加速装置 LHC が稼働した(と思ったら止まった)。これでわかることはかなりマニアックでたぶん現実の生活には何の役にもたたないだろうし、かつて万物を単純な法則として理解しようとしていた素粒子科学は、いまや単純さのかけらもない法則の集積となり、意味合いも変わってしまったけれど、そういう無意味そうなことの追求にこそ人間らしさがあるのではないか。



執筆時点で世の中はリーマン兄弟倒産の余波まっさかりなのだが、状況が未だに落ち着かずここ数日でも何がどうなるやらわからない。そこで今回はもう少し穏健な話をさせていただく。政治経済面のニュースの影にかくれてあまり話題にならなかったが、欧州合同原子核研究機関の超大型粒子加速装置 LHC の稼働だ。

科学系ニュースに関心のない向きにはまるっきりピンとこないだろうが、これは長さ 27 キロにもおよぶ、円形のでかい電磁石だ。スイスにあるし機関の名前を見るとヨーロッパ中心っぽい印象だが、とんでもない金食い虫なので全世界 60 カ国の共同プロジェクトで、日本も当然ながらいろいろ協力している。これをどこに建設するかでいろいろ世界的に醜い争いが展開されたりもした記憶があるが、無事に完成してとりあえずめでたい。

で、これで何をするのか? 陽子を思いっきり加速して反対方向から正面衝突させ、いったい何が起きるかを見よう、というもの。この宇宙は何もないところから生まれた(はず)なので、おそらく誕生時点では、普通の物質と同じだけ反物質ができたはずなんだけれど、その反物質はどこへいった? そんなことがわかるかもしれない。あるいはこの世のいろんなものには質量がある理由を説明するはずのヒッグス粒子が確認できるかもしれない。そして各種の素粒子や基本的な力を統一的に説明する、大統一理論が検証できるかもしれないんだが……

いったいそんなことがわかったからといって、何か有益なことがあるのか? それはその人の「有益」の意味しだいだ。明日の自動車産業や原子力産業に匹敵するような一大産業の源になるかといえば、たぶん 99 パーセントはあり得ない。新エネルギー開発にもつながらないだろう。この加速器の計画が進行していたときには、これは科学研究の無駄遣いの象徴だった。もはや科学者の自己満足でしかなくなった科学のためにこんな大金を使っていいのか、もっと自由と民主主義に貢献する、人々のためになる研究に金をつけるべきではないか、という理屈だ。

 そしてこの議論には確かに、かなり説得力がある。昔の物理は、万物が単純なものに還元されるという魅力があった。万物はほんの百個かそこらの原子に還元され、その原子はすべて陽子と電子と中性子に還元され……非常に単純な原理からこの世のすべてが解明されるという、素人にもわかる魅力があった。たぶん当時は、素粒子物理学なんて何の役にも立たないが、それが人間のロマンなんだと言われて説得力もあった。

 ところがそれがさらに緻密化するにつれて、単純だったはずの素粒子が、11 次元を丸めた亀の子だわしの親玉のような代物と化し、もはや素人にはとうていわけがわからない以前に、そもそもどうでもよく、ロマンもクソもなくなってきた。その昔、朝永振一郎がある高校で講演をしたところ、聞いていた学生の一人からこう質問されたという。原子、素粒子、クォークという具合にどんどん新しい粒子が出てきて、いつまでも終わりがないようで物理学なんて空しいのでは、というのだ。朝永振一郎答えて曰く、必ず終わりはある、なぜならいずれ人類が滅びるだろうし、そしてその前にみんな飽きるだろうから、と。そろそろ物理学内部ですら飽きが見え始め、検証できもしない理論のお遊びという批判の声も出始めているが……

批判的な論調になってしまった。が、個人的にはそうした無駄なお遊びこそが、人間の文化の本質だとは思うのだ。そして、何が何の役にたつかなんて、そもそもわかるはずもない。役に立つとわかったものは商業ベースでやればいい。どんなふうに役にたつかわからないものを、ある程度許容できるところに豊かさの本質があるはずだ。そしてそれは人類にとって、何らかの形で有益なはずなのだ。収益性でははかれない豊かさをどう考えるのか、そしてその結果としてこの LHC のようなものを今後どう正当化するか、実学志向の風潮の中で、今後大きな課題になってくるだろうと、LHC のニュースを見ながら(あ、早速ヘリウム漏れで稼働停止だとか)考えてしまったのである。

ちなみに、正面きっての収益性以外にも、この手の研究にはスピンオフがつきものだ。いまや一大情報基盤となってり、インターネットの代名詞でもある WWW は、この CERN の研究者が情報共有手段として編み出したものだった。そんな余録もあるかもしれない。壮大な無駄と批判されたアポロの月面探査も、それ自体は大した成果はなかったものの、アルミホイルやチキンナゲットといったくだらないスピンオフ技術が結構大きな影響をもたらしたという説も一部にはあることだし。そんなのがここからも出てくるとおもしろいんだが。


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