Voice 2008/10号 連載 22 回

北京オリンピックと人権問題

(『Voice』2008 年 10 月 pp.134-5)

山形浩生

要約:  北京オリンピックは、中国政府の人権問題がやたらに取りざたされたが、インクリメンタルな改善を評価せずに絶対的な水準ばかりをあげつらい、実際の改善より自分たちのメディアパフォーマンスにばかり執着していた人権団体たちの手口はかえって弾圧をひどくさせたと思う。それに人権というのは一般の人々の日常生活の意識から派生するものでしかない。整列乗車とかゴミを捨てないとか、そんな意識が集まって他人の権利の尊重が出てくる。政府だけ責めても無意味。



 中国オリンピックがそろそろ終わろうとしているところだ。今回のオリンピックは、中国の人権問題がかなり大きくクローズアップされたのが一つの特徴だった。当初は、オリンピックによる注目のおかげで、事態が改善するのではという期待もあって、当初のチベットがらみではそんな部分もあった。だがその一方で、イベントに備えて体裁だけ取り繕おうと焦るあまり、都合の悪いものはとにかく隠してしまえとばかり弾圧と報道規制が強化され、もともと経済発展のおかげで改善しつつあった人権状況がかえって悪化したという批判もある。現状では、まだ報道管制が強くあまり各種の事件が伝わってはこないが、それでも実情はこの後者に近いようだ。

 それはある意味で、人権推進派圧力団体の失敗でもある。メディア受けするパフォーマンスにばかり血道をあげたために、それさえ抑えれば万事OKという反応を生み出してしまった。もちろん、そうした人権団体はそれが失敗だとは思わないだろう。かれらの多くは、奇抜なことをやって自分たちがメディアに出ること自体が自己目的化しているので。でも、それは実はかれらが建前上は助けようとしているはずの人々の立場を悪くしてしまっている。

 こうした人権活動家や団体は、常に絶対的な状況にばかり注目する。確かに中国の検閲や各種弾圧は、先進国と比べればかなりおっかないものではある。でも、十年前に比べれば雲泥の差だ。それなのに、その改善部分には注目しないどころか、せっかく少し規制をゆるめても、まだあそこがだめ、ここがだめ、とあら探しばかり。規制緩和して人権をある程度はだいじにしてあげると、いいことがあるんだというのも伝えてあげないと、かれらだってやる気が出ないだろうに。

 これはIOCが、北京オリンピック開催前にも言っていたことだ。中国は人権がどーたらだから、そんなところでオリンピックを開催していいのか、という質問に対する答えとして、いま人権でえらそうなことを言っている先進国だってほんの百年前にはとんでもない状況だったじゃないか、と会長は答えていた。近代化が始まって間もない中国に、急に先進国と同じ人権水準を要求したって無理だろう。これまでの改善を評価してあげようじゃないか、と。

 日本だってそうだ。東京オリンピックのときに外国のメディアがやってきて、水俣病やぜんそくばかりを報道し、全学連のヘルメット学生ばかりがインタビューされ、「こんな日本にオリンピックを開く資格があるのか」とか言われているような状況になったら、たぶん国民みんなが激怒し、日本政府だってそれを必死で弾圧したことだろう。「がよくここまで発展しましたね」と言われれば、もう少し努力する気にもなるだろうに。

 だいたいぼくは、そもそもあらゆる場所のあらゆる人間に同じ「権利」があるという発想自体が変だと思うのだ。密集した都会と農村部とでは、プライバシーや所有権についての考え方は明確にちがっている。経済の発展段階に応じても、人々に何が実際にできるかという水準は変わる。できもしないことの権利ばかりあれこれあっても意味がないだろうに。

 そもそもだれがどんな「べき」論を展開し、メディアで何を言って外圧をかけようとも、その地域の実質的な人権というのは、その地域に住む人々の意識にかかっているのだ。その人たちが何を自分の権利として考えるか、ではない。むしろ、その人たちが何を他人の権利として認めるかだ。そしてそんなことを考えなくてはならなくなるのは、人がある程度集まって住む都市部での話に限られる。密集して衝突がしょっちゅう起こればこそ、人々が何をして許されるかというのをあらかじめ「権利」という形で決めておかないと面倒で仕方なくなる。でも、それが各地で必ずしも同じになるべき理由はないはずではないか?

 その意識は、明文化される以前からだんだん人々の行動に内部化されるようになってくる。たとえばインドのデリーでは日本の援助で地下鉄ができて、そこではだんだん列の遵守とか譲り合いといった規範と、それを侵害されたときに怒るという権利意識の芽生えが見られている。中国でも、オリンピック自体にまつわる騒動は、結局あまり人権向上に役立たなかっただろう。でもオリンピックで実現した一部のインフラ整備や都市生活の環境整備は、たぶんだんだんと中国の人々にもそうしたことを考える契機を提供することになるだろう。中国の現状が無問題ではないのは、だれの目にも明らかだ。でも、それが少しずつ改善されているのも事実。いま閉会式でマスゲームに動員されている人々も、十年たてば意識はまったく変わっているだろうし、二〇〇八年の自分たちを信じられない思いで振り返るんじゃないか。


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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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