Voice 2007/4号 番外編

固定しなければ格差に問題はないのです

(『Voice』2007 年 4 月 pp.84-5)

山形浩生

要約: 格差はもともと悪しきねたみ根性があるので問題になるもので、最低ラインが困窮しない限り問題にすべきものじゃない。しかもその格差がフィリピンみたいに固定されてしまえば不満のネタにもなろうが、アメリカ的に流動するのであれば、むしろだれにでも夢を与える材料としても仕えるのだ。



 本来であれば、格差を人が気にすべき理由はない。ビル・ゲイツがいくら金持ちだろうと、これからさらにどんなに金持ちになろうと、ぼくにも読者のみなさんにも、まったく関係のないことだ。でも、多くの人はそこまで超然とはしておられず、「なんであいつばかり――」と嫉妬する。いまの格差議論の一部は、こうした不健全な嫉妬の反映でしかないとぼくは考えている。格差に本来問題があるとすれば、その下のほうにいる人々が食うにも事欠く状態に陥る場合と、その格差が「いくら努力しても自分の状況はよくならない」というあきらめにつながって、社会全体の活力が低下する場合だけだ。さて、日本はそういう状態にあるだろうか?

フィリピンの固定格差

 フィリピンはある意味で、そうした状態におかれた社会だ。政治、経済、メディア――その他社会のありとあらゆる部分が、いくつかの財閥一家におさえられている。かれらの金持ちぶりは、日本のどんな金持ちにもひけをとらない。かつてイメルダ・マルコスの成金ぶりが報道されたものだが、あの程度はざらだ。マニラの五つ星ホテルでは毎晩のように「XXちゃん13歳お誕生日記念大舞踏会」といった代物が開催され、ほとんど醜悪に飾り立てられたガキどもとその一族郎党たちが群れをなす。

 その一方で、マニラのそこら中にはどうしようもないスラムと不法占拠のスクワッターが、ゴミにまみれて存在する。ゴミの山、スモーキーマウンテンにすむ人々の悲惨な生活は一時大きく報道され、スモーキーマウンテン自体はなくなった。が、実は郊外に移転しただけ。人々はいまでもそのゴミの山に住み、それを漁って生計をたてている。

 そして往々にして、地方部での生活は都会のゴミの山での暮らしよりさらに貧しい。マニラの金持ちたちとの格差は……もはや雲泥の差とか天地の差などというレベルを超えた、同じ人間であることさえ信じがたいほど。

 そしてその両者の間が埋まることはない。政府が所得を再分配――なんてことは、政府を牛耳っているのがその財閥家族群だからあり得ない。金持ちなら違法行為も、政治的なたちまわりでほとんどおとがめなし。あのイメルダ・マルコスもすぐに娑婆に戻り普通にマニラで暮らしているし、たとえ刑務所送りになっても、たとえばエストラーダ元大統領の獄中生活は五つ星ホテル並だとか。下々の連中はやってられねえと思うだろう。大戦直後は日本より豊かだったフィリピンがずっと停滞を続け、他のASEAN諸国に次々に抜かれているのも、一部はそこに理由があるという人もいる。

アメリカの流動格差

 一方、アメリカも格差社会ではある。所得の上位と下位の差は急速に開き、クスリと銃と犯罪のはびこる悲惨な貧困住宅地は数々の映画の舞台にもなっている。そこの住人たちは確かに貧困から脱出しにくい状況だ。社会的な支援の薄さもある。カトリーナ台風被災地のうち貧困地区は、一年たっても再建はおろか取り壊しすらすんでいなかった。一方で、かれら自身の問題もある。勉強して貧困から脱出しようとする黒人の子供は、仲間の黒人から「あいつは白人のまねをしている」といっていじめられるという。可能性のあった芽も、そのような足の引っ張り合いでつぶされ、格差が固定化されるケースも多い。

 だが一方の金持ちはどうだろう。

 アメリカの金持はすさまじい。かつて米国留学中に、設計実習で富裕層向け住宅開発の設計がテーマとなった。そこで日本的な感覚のお屋敷を設計していたら教授に「それは犬小屋かね」と聞かれたのはいまだに忘れられない。その週末に同級生に、本当の金持ち住宅をツアーしてもらった。車三台四台はあたりまえ。年に一度も使わない部屋なんてあって当然。敷地面積は最低一ヘクタール(法律で決まって)。家だけじゃない。別荘複数は当然。飾りだけの高級ヨットも必須。家族の雑用をこなすために家族マネージャが雇われ、日本ではギャグとファンタジーのネタでしかない執事やメイドの需要はいまやうなぎのぼり。たかが都心の高級マンションに住んでいる程度の日本の「セレブ」なんぞとは比較にならない世界がそこには展開されている。

 だがそれは必ずしもいけないことじゃない。富裕層に富が集中しているというが、その富裕層は入れ替わるからだ。アメリカで総資産100万ドル以上の世帯数は過去10年ほどで倍増した。しかも相続によりその財産を得た人はわずか十パーセントだという。みんな自力でその地位を得ているのだ。格差は拡大しているけれど、努力すれば自分だってその恩恵にあずかれる――そういう状況は確実にある。

 そして格差が固定化しないための仕組みもある。

 さきほど、アメリカの金持ちには執事が大人気、と述べた。それに対応するべく執事養成校があり、そこの卒業生は引っ張りだこだ。

 そして、そうした執事や家族マネージャたちの大きな仕事の一部は、金持ちをしつけることだという。しつける? そう。新興富裕層――つまりは成り上がり――は中産階級の出身者ばかりだから、これまで使用人なんか使ったことがない。自分で何でもやるのが当然だと思っていて、使用人なんかかえって気疲れしていやだと思っている。下着を洗濯機に入れるくらい自分でやったほうがはやいと思っている。でも、金持ちたるものそれではいけない。遠慮なく女中を呼びつけて下着でもゲロでも始末させなきゃいけない。金持ちはちゃんと自宅で正装パーティーを開催しなくてはならない。そしてそれに耐えうるだけの家を所有する必要がある。そうした金持ちのイロハを、執事や家族マネージャたちは、ご主人さまたちにきっちりしこまなくてはならない。

 これはつまり、浪費の仕方を教える、ということでもある。そしてご主人さまたちも各種パーティー、あるいは子供の学校行事などで、一段――または数段――上の金持ちと見栄張り合戦を始める。だからかえって借金漬けの金持ちも多いそうな。ちょっと景気が下がったら、そういう人たちはどうなると思う?

 アメリカにはすごい格差がある。悲惨な貧困者、化け物のような成金。でも、そこにはある程度の流動性がある。それがアメリカ経済の活力の一助ともなっているのだ。

では日本の格差は?

 さて日本のいまの「格差」はどうだろう。確かに、格差は拡大しているだろう。だが、アメリカやフィリピンの格差には及びもつかない程度のものだ。今後どう展開するにしても、まだ時間はある。そして今後日本として本当に重要になるのは、その格差をどうやって固定させず、流動性を持たせるか、ということではある。現状の日本の状況はこの点でいささか不安ではあるものの、再チャレンジという現政権のお題目自体は、ぼくはその意味で正しいと思うのだ。格差そのものにばかり目を奪われると、その重要な論点を見失いかねない。


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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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