Voice 2007/1号 連載 1 回

いじめる側の理屈を考えないいじめ対策は無意味

(『Voice』2007 年 1 月 pp.112-113)

山形浩生

要約: 近年、いじめ談義が盛んだが、言われるのは「いじめられる側の気持ちを考えよう」というのばかり。でも自分の経験からいっても、その気持ちを知っていればこそ、二度といじめられないための安全策としていじめにはしるしかない子も多い。そういう社会力学を考えずに同情するだけじゃ何もならない。



 これが掲載される頃にはすでに下火になっているかもしれないけれど、いま世間ではいじめ談義がさかんだ。いろんな人が、各種メディアで似たりよったりのことを言っている。学校が悪い、親が悪い、いじめるやつが悪い、いじめられる人の気持ちを考えよう、いやいじめられる側が反撃しなきゃダメだ、等々。でもその発言している連中の顔ぶれや口ぶりを見て、まるっきり話にならないと思う。みんな、自分はいじめとは一切関係がなかったような健康優良児と優等生どもが、第三者的なきれいごとを言うばかり。何が反撃しろだ。いじめって、殴ったりこづいたりとか、そんなことだと思ってるだろう。なんか悪ガキ軍団みたいなのがいて、そいつらさえ倒せば状況が一転するような、マンガみたいなイメージしかないだろう。でもいじめってそんなのじゃない。みんなに一斉に無視されるとかいう状況になったとき、だれにどう反撃しろというのだ。

 なぜ知っているかといえば、ぼくも昔いじめられていたからだ。

 いじめは社会的な現象なのだ。それも、子供という陰湿でブレーキのきかない連中による社会で起きる。ある個人のちょっとした異質さ、ちょっとした弱みが社会的な知識として共有されれば、一気に疎外対象となって、いじめの標的になるのだ。当時、小学三年生だったぼくは外国帰りで、しかもそれが沖縄を長いこと占領して苦労させた某国だったもので(しかも弱そうだったし)、格好の標的だった。いじめたやつらをつかまえて処罰すればすむような話は、まだ簡単だ。でも本当にたちが悪いものは、そうじゃない。全員がそこに何らかの形で(意図的であるにせよないにせよ)加担する。いちばん軽い形でも、黙殺、あるいは見て見ぬふりという形で。それを勇気がないと非難するのは簡単だ。が、ないものはないんだし、火中の栗を拾うこともないと思うのは人情だ。拾っていいことがあるわけじゃないし、下手をすればいっしょに焼かれる身にだってなりかねないんだし。

 いじめから逃れる手は、ないわけじゃない。しかも、かなり実効性のある確実な手だ。なぜ知っているかといえば、ぼくがいじめから脱出するのにその方法を使ったからだ。

 それは、自分がいじめる側にまわることだ。

 相手は新しい転校生でもなんでもいい。新しい標的を見つけて、そっちにいじめの関心を誘導することだ。

 卑怯で残酷なやり方ではある。でも、いじめられているガキにはそんな判断をする余裕なんかありはしない。そして、それがいかに解放感をもたらしてくれたことか。もう標的じゃなくなったという爽快感。先週まで自分をいじめていた連中が、一転して自分の仲間になっているといううれしさ。自分が社会の中に居場所を持てたという帰属感。自分がいじめることができるんだという力の認識。そしてこれをやめたら、自分がまた元の地位に転落するという確信。

 もう三〇年以上も前のことだ。どのくらい続いたのかすら今では覚えていない。一ヶ月? 一学期くらい? 半年は続かなかったとは思うけれど。そして今にして思えば、客観的にはぼくが受けたのも仕掛けたのもそんなにひどいいじめではなかったのかもしれない。ただ、いじめられていた頃の悔しさとどすぐろい憎悪、そしていじめていたときの例えようのない解放感だけはいまだに覚えている。前者は今なら笑って話せるネタだ。後者は、自分の胸から物理的にえぐりだしたいような、慚愧の念とともにあるぼくの生涯で最大級の汚点だ。ただ、もう題名もおぼえていないある本をその頃読んだことだけは記憶している。ぼくとまったく同じ立場にいて、まったく同じことをした人が、大人になってからそのことを後悔をこめて書いている小説もどきだった。それを読んでぼくはぽろぽろ泣いたっけ。その頃にはもう終わっていたように思う。

 で、いじめはどうすればなくなるか? ぼくは知らない。が、世の中であれこれしたり顔で言っている人々はもっと知らないだろう。かれらはいじめられる苦しさもしらないし、それ以上にいじめる楽しさもしらない。そして、その両者が実はほとんど表裏一体だということなんか、決して考えもつかないだろう。いじめっこは、いじめられる苦しみを知らないからいじめるんだ、と多くの人は思っている。でも、いじめる側だって(一部の完全にたがのはずれた連中はさておき)それは熟知しているのかもしれない。熟知していればこそ、そこから逃れる最も確実な手段としていじめる側にまわる子もいるんだから。いじめられる側の苦しみを改めて強調すればするほど、そうした子たちは自分がいじめの一線のこちらがわに居残れるよう必死の努力をし、そしていじめはさらに継続することになるだろう。


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