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ヴァインランド

Vineland

トマス・ピンチョン 著

翻訳: 山形浩生<hiyori13@alum.mit.edu>

(ここまでのあらすじ)

 六〇年代ヒッピー兼暴走族の生き残り、ゾイド・ホイーラーは、「暗闇のスキャナー」におけるディックの主張にもかかわらず、脳も破壊されず、罰せられることもなく、女房のフレネシに逃げられただけで、娘のプレーリーといっしょに見苦しくダラダラと生き延びている。彼の主たる収入源は、精神異常者にサンフランシスコ州から与えられる補助金。この補助金を得るため、ゾイドは毎年一回、きちがいであることを証明するためのパフォーマンスを行わなければならない。彼の十八番はショーウィンドウのガラスに頭からつっこむというもので、このヴァインランド地方の風物詩にまでなっていた。さすがにマンネリを感じていたゾイドは、今年は目先を変えて女装に挑戦しようとするのだが、みんなの期待もあって、しぶしぶ今年もウィンドウ破りをやるはめになる。そこへ現れたのが、かつてゾイドをマークしていた麻薬捜査官。それを皮切りに、どうも身辺がにわかに物騒になってきたので、ゾイドは娘をボーイフレンドのツアー(みたいなもの)について行かせる……


 でも出発直前、ゾイドは娘に奇妙な日本の名刺をこっそり渡しておいた。名刺というより、誰ぞの表現を借りればお守りみたいで、かつてのヒッピー時代からのくされ縁にかかわるあらゆるものに対してと同様に、娘は初め、それに触れるのさえ嫌がった。頼みをきいてやったのでもらった名刺だった。当時ゾイドはカフナ航空でハワイアン・ギグをやってるところだった。ロス空港東インペリアル・ターミナル発の不定期便上での演奏で、結婚晩期の不穏な日々に飛び込んだギグだった。彼の見方では二人の関係を救うため、彼女の見方からすれば、またもこっちのプライバシーに首をつっこもうとして、またもやむにやまれぬ試みを敢行したわけ。それも今回は、太平洋をまたいで。得体の知れない飛行機、それもそれまで聞いたこともないような国の旗艦どころか全艦隊であるという飛行機のチャーター便で、赤い目をしてホノルルに乗り込んできた。フレネシもゾイドの到着を予期していなかったわけではないが、まさかこんな状態で、こっちが夜をどう過ごしているか気になってウズウズしてやって来るとは思ってもいなかった。「いやあ、オレは別にいいんだけどさ、お前のことが心配になってさ、フレネシ」と飛行機の便所の染みたヒビ入り鏡の前で練習するゾイド。大海原の何キロも上空で、自分に向かってしかめっつらをしてみせる。

 最初はすばらしいアイデアだと思った。両者にとって、ここぞという時に完ぺきな気分転換。空港にはサッシャもいて、孫を見送りにきていて、ゾイドと二人で半分寝たままのプレーリーを交互に腕から腕へと手渡していた。きたるべき示談のリハーサルのように。義理の親子としては珍しい協力の一時だった。お互いに居心地の悪い思いをしつつ、サッシャはゾイドをどう理解すればいいのか未だに決めかねていて、会うといつも、おざなりな握手と笑顔だけですませていたのだが、その笑顔はどうも「あんたはウチの娘とはあんまり不釣り合いすぎて、自分だってそれがわかってるんでしょうし、こっちとしても笑うしかないようなもんだし――まああたしたちは大人だし、ここは二人とも笑っておさめときましょかね、ゾイド」とでも言いたげだった。でも二人は、気がついてみれば驚くべきことに、結局は法の同じ側にいるわけで、つまりは養育権をめぐる法廷闘争もないということだった。というのも、二人がだんだんと理解するようになったことだが、二人のゆりかごのどっちの評判が低いかを決めようとして時間を無駄にするような裁判官などいるはずもないからだ――生涯一共産主義者の祖母とヤク狂いの父親とで選べと言われれば、プレーリーが法廷の保護監察下におかれるのは目に見えていて、それだけは二人とも避けなければならなかった。好むと好まざると、二人はどのみちいずれは、妥協せざるを得ないのだった。

 「まるでミルドレッド・ピアスの旦那のバートみたいな気分だぜ」とは、巨大なダーク・オーシャン・ホテルでようやく発見したフレネシに向かってゾイドの言ったせりふ。向かい合ってそびえ立つ壁一面に、まったく同じハワイ式ベランダが片持ち式に突き出した部屋が二〇四八室、すべて太平洋に面している。はるか下の方では、小さな人の姿が小さなサーフボードに乗り、浜辺で甲羅干しをして、熱帯の深い緑のヤシの木陰に見えかくれする小さな輝くプールにひたっている。

 いかに遠くからとはいえ、どんな見物人でも気がついただろうけれど、巨大な湾曲したファサードのあちこちでは、人々がベランダに出て涼んだり、ルーム・サービスの食事を食べたり、ハワイ産大麻を吸ったり、なかばおおっぴらにセックスしたりしていた。

 「ミルドレッド・ピアスにたとえられるなんて光栄だわね、ゾイド。でも、ご覧のように、あたしは一人よ、そう、完全に一人。いい男がここらにいないってわけでもないんだけどね……」

 「行きずりなんざ気にしちゃいねえよ、さもなきゃずうっと昔にきっぱりナシつけてたぜ」

 「おーや。いつの話?」

 「いや、気にすんな」

 「待ちなさいよ、いきなり入ってきたと思ったら――」

 「そうとも、それに自分の切符で来たんだぜ」と言って、ほとんど「ママに買ってもらったんじゃないもん」といいかけたが、むこうがそれを予期しているのを見て、波が通り過ぎるのを待つことにした。

 実はゾイドは彼女のすぐとなりの部屋にチェック・インしたのだった。だから二人は標高百メートルの隣あったベランダで、こういう大人の会話をしていたのだった。それぞれ缶ビールを手に、フレネシはビキニ姿でゾイドは古いバギーをはいている――死ぬほど険悪な態度さえなければ、一昨年のゴルディタ・ビーチと同じだった。二人の頭上のどこかでは別のカップルが手のほどこしようもなく怒鳴りあっていた。切れ切れのその声が、ゾイドとフレネシたちが声を抑制する助けとなった。もっとも、この二人とて「ぼくたち、あそこまでひどくはないね」なんていうすました視線を交わしたりもできなかった。そこまで落ちたくはない。

 ゾイドにしてみれば、彼女のカリスマ的なかわいいFBIのボーイフレンドであるブロック・ボンドがどこにいるんだろうか、とほとんど口元まででかかっていた。彼女の部屋のベッドの下にでもいるのかな、ワイキキ・ビーチでエイでもおっかけてるのかな? がっかりしたくはなかった。考えてみれば、アメリカ検事たるヴォイドの居場所がわからないこと、いわば彼の不在こそが、ゾイドを駆り立てて太平洋を越えさせたのだった。その空の旅の値打ちは、今にしてみれば、ますます疑わしくなる一方ではあったが。

 サッシャもまるで助けてはくれなかった。「あたしを巻き込もうとしなさんな。あたしゃ自分の娘を密告する気はないからね。たとえ何か知っていたとしてもだよ――知らないけど。そんなことあの娘が話してくれると思うかい」

 「だって――一応母親でしょ?」

 「その通り」

 「うん、だったらブロック・ボンドはどうなんだよ。おれたち二人とも、あいつの正体を知ってる。あんたが一生心から攻撃してきた犯罪的ファシストそのものじゃん。そんなやつに忠義だてしようっての? おれが聞きたいのはさあ」とペテン師めいた甘ったるい声を出して、「あんたがこいつに会ったことあるかってだけなんだよ。面と向かって会ったことあんの?」

 サッシャにもこの懇願は聞こえた。ほとんど哀れっぽいうめき声みたいでそれが彼女を用心させた。この惨めな若造め、ほどほどにしとけば苦しみも少ないのに、痛々しい細部までことごとく味わいたいらしい。アホ。よっぽど暇なのかね。今回が初めてって歳でもなさそうだけど、こればっかりはわかんないからね。ひょっとしてこれが、こいつにとっては嫉妬の大海原への処女航海なのかもしれない。きいてみてもよかったのだけれど、その頃の彼女の勤めは、黙っていることだと思えた。舌はしっかり研いで準備万端、でも沈黙というさやにおさめておく。これは二重にイライラすることだった。彼女自身、娘に死ぬほど腹をたてていたからだ。フレネシのブロックとの関係は、政治的にも十分ゾッとするものだったが、そればかりでなく、彼女はまたもや自分の仕事を途中で放り出したわけで、サッシャとしては、このフレネシの癖がいつになく腹だたしかったのだ。この癖はフレネシのごく若いうちに身についたもので、最後まで面倒を見てやりとげるべき状況を、繰り返しことごとく投げ出すのだ。サッシャの見る限り、サッサと逃げ出す性格はいつまでたってもちっとも治っていなかった。その最新の被害者がゾイドというわけ。

 そのゾイドは、今はホノルルをながめているようなふりをしているところだった。「で――スーパーマンコ野郎はどこにも見あたらないけど、どうしたんだよ、事件が解決しないってんでスティーブ・マクガレットに呼び戻されたか」

 「ゾイド、いい加減にしてよ、あたしたちコトを荒立てたくはないでしょ」

 彼女があっさり「あたしたち」と言えたことで、ゾイドは急に息がつまり、感覚がなくなって何も考えられなくなった。「コトを荒立てる? オレが? おいおい――」と買い込んだアロハ・シャツのボタンをはずし、腕をバタバタさせ、「オレは心配ないよ! 女房と寝たからってだけでどっかのクソ野郎を撃ち殺そうなんてつもりはないし、そいつがFBIの野郎ならなおさらだよ」と言いつつ、実は彼女の目の前でからだを折ってうずくまりたいだけだった……けれど、そうしても相手は、イタリアのオールディーズで言う、その絵の具のような青い目をそむけるだけだろう。そむけて海とか天気とか、視線の届く範囲内のものなら何にでも。その青い邪眼を配置するのは、触れたり、触れなかったりするのと同じくらいの効果があって、それは彼女も承知していたからだ。

 フレネシは部屋に戻り、ガラス戸をしめ、ブラインドをおろした。ゾイドは外にたたずんで、自分と地面との間の距離をためつすがめつしていた。落ち込みすぎていて、ほとんどみずからその行為を行ってしまいそうなところまで来ていた……手に持ったビールを飲み干して、自分のつもりとしては冷静な科学的興味から、空き缶を落とし、それが下まで落ちるのを観察した。ことにその軌跡が、はるか下の歩行者の軌跡と交差するところには注目。その歩行者は、サーフボードを頭上に掲げたサーファーだった。ビールの缶がボードに当たってから何秒かして、コチンという軽い衝突音がゾイドにも聞こえ、その間にはねかえった缶は、手近のプールに落ちて沈み、それが訪れた証拠としては、サーフボードのへこみ以外何一つとして残さなかった。今、サーファーがへこみの詳細な形を詳しく調べているところで、彼の疑惑は地球の軌道さえ越えるほどに拡大していた。

 部屋に戻ってゾイドがまずやったのは、フレネシの部屋へと続くドアだったけれど、そこまでツイてはいなかった。ベッドに寝っころがってテレビをつけ、マリファナに火をつけてチンポコを取り出し、この先来るべき年月の象徴でもある乾いた壁の向こうの彼女を想像し、少なくとも後に、何度も何度も、霊体夜間飛行をしてできる限り彼女の近くに行ってとりついてやるときと同じくらい明瞭に彼女の姿を見る、いま、ビキニを上も下も脱いで、続いてイヤリングをはずすといううなじを見せるための演技を行う。これは必ずゾイドの心をそそるのだった。こっちとの遭遇で、まちがいなく汚れたような気分になって、シャワーに向かう。幽霊出歯亀見習いのゾイドもそれにぴったりくっついて、一度は愚かにも当然のものと思いこんでいた入浴儀式を見物した。いまや物理的存在としてもっとも軽量な霊的存在と化した状態では、せいぜいが彼女のからだをとりまく湯気を少し左右できるほどの力しかなかったのだが……

 スケベな妄想のご他聞にもれず、この妄想も、ことに性根の卑しいゾイドにとっては味気ないものだった。むしろかつて妄想だったもの、というべきか。服もアクセサリーもシナリオもなく、あるのは女と水とせっけんと湯気と、すべてを記録するゾイド自身の見えざる血走った目の相互関係のみ。二人を待っているはずの唯一の未来になじもうとして。ここに入ってこなかったのは、現実のフレネシは即座に荷造りしなおしてさっさとチェック・アウトしてしまったということ。実に静かにやったので、せんずりに忙しいゾイドは気がつきさえしなかった。

 後になって、彼女の部屋に花を届けさせようとして、初めて彼女がいなくなったのを知った。くずおれて、泣き出し、ことの次第をほとんど語り尽くして、ようやくフレネシが空港に向かい、ロスに戻る最初の便に乗るつもりだと言っていた、と副支配人から聞きだした。「ちくしょうめ」とゾイド。

 「なにか、そのぅ、妙なまねをなさるおつもりじゃあないでしょうね」

 「そりゃまたどうして?」

 「ハワイというのは、カリフォルニアの殿方が破れた心を抱いて訪れるところでございまして、そういう方々は、本土ではあまり手軽には得られないエキゾチックな自害の方法を求めていらっしゃいます。ある方は活火山専門、ある方は崖からの飛び降り自殺、沖へどこまでも泳ぎ出ておいでになるなどという古典的な方法をとる方も多々おいでです。もしご興味がおありでしたら、自殺ごっこパッケージ・ツアーを扱っている旅行業者を紹介いたしますが」

 ゾイドはまたすすりあげた。「ごっこだと? 誰がそんなママゴトの話をした、え? おれがマジじゃないとでも思ってんのか?」

 「ええ、ええ、わかってますよ、でもお願いですから、当ホテル内でだけは――」

 「おれが思いとどまってる唯一の理由はなあ」とゾイドは派手に鼻をかんで、「プールぎわでグチャグチャに飛びちっちゃうのが見苦しいのと、この世での最後の瞬間に、ジャック・ロードのせりふなんざ聞きたかねえからだよ。『ダノ、帳面につけとけよ――自殺者一人』なんてね」

 副支配人は、この手の口のきき方には前から慣れていたので、しばらくはゾイドにわめかせておいて、それから戦術的に撤退した。やがて宵がしのびより、島を包みこんだ。ビールでうっかり寝込んでいたゾイドは、目をさまし、ハワイアン・シャツの上からスコット・ウーフに借りた白のスーツを着て、ちょっと長目のパンツのすそをまくりあげ、きつすぎて丈も長すぎるジャケットのボタンはかけないままにして、まるでズートスーツみたいなゾロっとした感じになって、空港で買ったグラサンと麦わら帽子を身につけ、街にでて、どこかでキーボード系の楽器を占拠できないもんか、それもできれば知り合いと一緒がいいんだが、と物色を始めた。空港へ向かわなかったのは、航空券の細かな印字の判読不可能性に負うところが大きかった。特別周遊サービスとか書いてあるのだが、航空会社の人間は誰もそんなもの聞いたことないと言う。でもそれと並んで、しばしば涙のかわりにゾイドを襲うのがそろそろ明らかとなってきた、陽気なやけくそのせいもあった。陽気にひとりごちる。あんな女、クソくらえ。今日がお前のリリース日だ。ブロックのやつにくれてやる、何でも思い通りになって、思い通りのものが手に入る、あの法律屋どもの世界につれてってもらうがいい、いつかあの野郎が国会議員に立候補したら、二人並んで七時のニュースに登場して、こっちはビールをあけてテレビに向かってお祝いして、最後に二人ですごしたあのバルコニーのことを思いだそう、彼女が背を向けたときのこと、小さな花柄のビキニからのぞく気取ったケツ、ゆれる髪の毛閉まる窓、振り返りもせず……

 ホノルルのバーを、一軒、また一軒と、ゆっくりはしごして、街の夜の秘められた構造に身を任せる。派手な活劇やすばらしい運命の交点に迷いこまないにしても、危険から遠ざかることに関しては持ち合わせているらしき自分の才能に身を任せる。ふと気がつくと、かつては悪名高かったアシッド・ロック・クラブ、コスミック・パイナップルの便所にいて、前にいっしょに仕事をしたことのあるバース奏者と相談中だった。カフナ航空がやってる機内サービスのラウンジ・ピアノの仕事があるという。

 「死のギグだぜ」と友だちは請け合った。「あいつらが何でつぶれないのか、誰も知らないけど、それが唯一の謎でもないんだ」。地表面からはるか上空で起きたと言われる事件の未確認情報があった。誰もそれについて話さず、たまに話すやつがいても、ものすごく遠回しな言い方をする。到着客のリストと、出発客のリストは必ずしも一致しない。途中のどこか、上空で、何かが起きてるんだ。

 「まさにおれの求めてるもんだ。誰に会えばいい?」結局はイエローページに出てる二十四時間OKの番号に電話するだけだった。同じページにでかい広告もあって、一番大きな活字で「いつも求人中」と書いてある。ゾイドが電話したのは朝の二時半で、その場でLA行き夜明け発の便に雇われた。ぎりぎりホテルに戻ってチェックアウトするだけの時間はあった。

 カフナ航空のボーイング747はすべて内装を入れ換えて、巨大なハワイアン・レストラン&バーにつくりかえてあった。島の植物がぶら下がり、飛行機のシートのかわりにナイトクラブの椅子やテーブル、ミニチュアの滝さえも。機内映画は、「ハワイ」(一九六六)、ハワイアンズ(一九七〇)、「ハワイのお嬢さん」(一九六一)など。ゾイドはハワイアンの曲を満載した分厚いボロボロの本まがいを渡され、ラウンジのシンセサイザーは、ゾイドが聞いたことはあったけれど弾いたことのない日本製で、ウクレレ機能があって、それぞれウクレレ八台によるオーケストラが三組同時演奏できるという代物だった。この、どう考えてもユーザー・フレンドリーとは言いがたい楽器にゾイドがなじむまでには、太平洋を何回か行ったり来たりしなくてはならなかった。こいつはこっちの音程からどんどんはずれていくのがお好きで、ひどいときには、あの腹の底に響き、ナンパを失敗させ、計算づくの雰囲気をブチこわしにするハウリングを起こす。こいつは機械が意識的にやっていることではなかろうか、という思いがどんどんつのり、シートの下のダッシュボード1をいじくりまわしてみたが、ちっともうまくいかない。

 フライトの多くは星降る夜のフライトで、頭上には透明なドーム、薄紫のネオンが小型グランド・シンセサイザーの輪郭を浮きあがらせ、ゾイドの指がこっそりそれを自動演奏モードにして、当人は自分の結婚の自滅過程を悲しく思い返すのだった。LAでの滞在はすごく短くて、彼女が折り返し電話を入れられないほど短かったり、ときにはプレーリーや彼女のおばあちゃんを訪ねたりできるくらいだったが、フレネシの姿はなかった。いつもすでに家をぬけだしていたのだ。西へ向かう便では、キーボードのゾイドの仕事は、フラ・ダンサーや火を吹く男やカクテル・ウェイトレスやバーテンダーと同じく、行き着く先のホノルルで何が待ち受けてるかを客に考えさせないことだった。荷物が積む便をまちがえて、しかも追跡もできない、ホテルへのバスの便が運休で、しかもそのホテルはみんなの予約を取り消してしまっている、パンフレットにも載っている撮影会に、ジャック・ロードが顔を見せない、などなど。何はともあれ予測不可能なカフナのスケジューリングは、到着時間を夜半直時間にまで迷いこませ、空港職員側としてはあまり感心しない下心つきの任務を喜んで果たしたいような気分になるのだ。たとえば一人旅の女性にいやらせをしたり、ヤク中に冷や汗をかかせたり、年寄りや外人を邪険に扱ったり、じろじろ見たり、冷やかしたりして、何か事態を進めようとする。伝統的な島のかわいこちゃんたちが、花のレイを一人一人にかけてくれるってのはどうなった? 「あんたらのために?」と武装した制服姿の紳士がたは、一斉に、吠えるようなバカ笑いを始める。「この時間に? 何のために?」

 それと、空のことがあった――空港の間で、何かが起きているのだ。あの最初のコスミック・パイナップルでの出会い以来、噂は聞いていた。その後は同僚からも。たとえばポリネシア人もどきカクテル・ウェイトレスのグレッチェンなどから。彼女に対するゾイドの自己紹介は七度のEフラットで、アルペジオをつけて、オリジナルの曲で行った。こんな歌だ。

	ワオゥ! おいで、そのかわいい腰みのを
	めくらせて
	おれの抱擁という
	マリファナで!
	
	愛の炎で
	燃え上がれ、しかめっ面は
	すぐさようなら!
	
	マリファナ・ホルダーに入れて
	まわしのみしよう
	きみの唇から
	いい煙を漂わせよう、ああ
	
	値段も安いし
	痛くもない、とにかく
	その、ウン、かわいい腰みのでおいで!

―― が、最後の小節のずっと前に、彼女はふつう、うわの空で、こっちの腕を逃れてしまう。認めるんだよ、まず手始めに、社会的なアプローチから考えても、当時彼が始終ひきずってまわってた結婚崩壊後の判断力の衰えゆえに、それが救いがたいほど攻撃的なものでなかったのは確かだけれど、グレッチェンはもめごとのタネとなりそうなコトを許してくれなかったんだってことを。やがて二人はキールを飲んでいて、それで彼女さえも自分が耳にしたことを話し始め、やがて自分が目撃したことまで話してくれた。飛行機の横に、飛行物体が並んで、こっちの方向やスピードとぴったりそろえて、十メートルの間隔をおいてじっとしているのだ。窓はなくて、ほとんど透明で、それが時に何時間も。

 「UFO?」

 「ううん――」彼女はためらい。実はポリエステル製の腰みのがリズミカルにカサカサ言った。「あたしたちならUFOとは呼ばないわねえ……」

 「じゃあ誰なら?」

 「とにかく見慣れすぎてる感じだったから……地上から来たのは確かよ、そんな宇宙の果てとか……そんなんじゃないわね……」

 「それに乗ってるのが誰だか見たの?」

 彼女は、向けるありとあらゆる方向を向いてキョロキョロしてから、こうつぶやいた。「あたし、頭おかしくないもん。フィオナにきいてごらんなさいよ、インガにも、みんな見てるんだから」

 ゾイドは「魔法を信じるかい?」を四小節弾いてから、彼女に流し目をくれた。その視線はおもに、合成腰みののあたりをさまよっていた。「おれにも見れるかな、グレッチェン」

 「見ないように祈ったほうがいいわよ」と言った彼女がやがてつけ加えたことだが、どうも彼はあまり熱心に祈らなかったらしくて、ロス発の次の便で、太平洋の真ん中の、標高一万三千メートルのあたりで、このお祭気分のジャンボは、商船や貨物船が海賊船に襲われるみたいに、いともたやすく、こっちにくらべればコマドリの卵のように優雅な、かっちりした小型の、質量も速度もこっちを上回る、アルミ製の玉に襲われた。グレッチェンが前に言った通り、UFOとはいささか呼びがたい。機長はできる限りの回避行動をとったが、相手もこっちの動きにぴったり合わせてくる。とうとう両機は、北回帰線の上空で並び、両者を隔てる約二十メートルほどの猛気流に、ゆっくりと、延びてきたというのではなくて、小さなきらめくトラス構造によって組み立てられてきたのが、防風アクセス・トンネルで、長い涙滴みたいなその接点部が、ボーイングの前部ハッチにしっかりとはりついた。

 機内では、乗客が樹脂皮膜つきハッチ・カバーのテーブルや、プラスチックの石像やしげみのまわりにたかって、でかすぎる紙製パラソルがついたドリンクをにぎりしめ、ゾイドは陽気なメロディのメドレーを絶やすまいとしていた。何が起きているのか、誰もわからなかった。口論が始まる。左舷の窓からは、相手の機のつやつやした継ぎ目や輝くエンジンが見えた。最後の日差しが地平線上に帯状に広がり、窓に氷が張りはじめる。地球の台所の窓におりる霜とはちがって、ジェット機の軌跡のような形でビシッと張りつく。

 ハッチがついにプシュッと開くと、耐衝撃性シールドで顔を隠した、まったくビジネスライクな侵入者たちは、精鋭部隊の優雅さで空飛ぶナイトクラブに入りこんだみんな、席につくよう命じられた。機長が機内放送に出る。「お客様自身のためにもお願いします。彼らは全員を求めているわけではありません。ほんの数人です。彼らがあなたの座席番号を呼んだら、どうかご協力を。無責任な噂を信じないようにしてください。それと、ほかの方々については、チケットに書いてある目的地に到着するまで、ドリンクはすべてカフナ航空偶発危険準備金の負担といたします!」と言うと大きな拍手がわきおこったが、いずれこの事件をめぐって引き起こされる訴訟の過程で、これの対象となる人物は存在しないことが明らかになるのだった。

 グレッチェンがシンセサイザーのところへ、ちょっと息抜きに立ち寄った。

 「おもしろいじゃん」とゾイド。「機長の声を聞いたのって、これが初めて。あれで『小さな泡』が歌えりゃおれは失業だ」

 「みんな不安がってガブ飲みしてるわ。いい迷惑よ。カフナ航空がまたやった、ってわけ」

 「じゃあメジャーな航空会社では、こいつは起きないわけ?」

 「全航空会社で協定でもあると思う? そうなったら、カフナなんかには負担しきれないわよ。要は『保険』ってヤツ」

 映画の終わりみたいに夜が来た。アルコールは激流のように流出し、やがて翼の中の、安いウォッカ入り予備タンクに切り替えるはめになった。ある乗客は意識を失い、ある者は飲んだくれ、ある者は羽目をはずしてどんちゃん騒ぎを始めたが、その横では無愛想なシールドつき兵士たちがゆっくりてきぱきと作業を進めていた。ゾイドが「怪獣王ゴジラ」(一九五六)のメインテーマに移ろうとしていると、背後のちょっと低い位置から声がして手をとめた。「よお、兄弟! ちょいと――すわらしてくんない?」目に入ったのはブロンドのヒッピーカット、すその広いベルボトム、トロピカルシャツを着た人物で、顔や肩のまわりに十以上ものプラスチック製レイを積み上げ、加えて真っ黒なゴーグル式グラサンに、麦わら帽子、大戦間時代からの年代物バンジョー・ウクレレを持っている。髪は実は、グレッチェンから借りたカツラで、彼女がゾイドに助けを求めるよう指示したのだった。

 「追われてんのか、え?」ゾイドはさらりと楽譜を取り出した。もちろんウクレレ・パートつき。「こいつなんかどうだい」

 「いいねえ」と変なウクレレ弾き。「でも――キーはGにしてくれると楽なんだけど」確かにウクレレ話。新人伴奏者は、さっさとウクレレをかきならし、ハワイアンの古典である「陽気なココナッツ」のリズムを見事に弾きこなした。もっともゾイドのボーカルが加わると、混乱して主音に戻って待ったりしたけれど。


	聞っこえません……かっ……
	(シャン)あっの陽っ気なココナッツ
	(ツン)あっの陽っ気なココナッツ
	島のメロディーのシンッコペートに
	あわせってコツコツ
	いっつまっでもぉ……
	
	そう一っつずっつ
	(ジャン)陽っ気なココナッツ
	(ジャン)陽っ気なココナッツ
	おいらの屋っ根にドッシドッシと
	ジャングっル・ドッラムのビィトみたい(ウン!)
	ジャンジャンジャン!
	
	なんでよそにいってくれない
	あの陽気なココナッツ!
	なんでおいらっがあの陽っ
	気なココナッツに抱かれてるかって?
	
	おいらが好きな
	あの陽っ気なココナッツ
	あのここナッツだぜ
	あれこそおいらの
	ココナッツ!

 探索者たちは、ブギとカタレプシー患者どもの横を移動していった。ウクレレをかきならす逃亡者には目をやる者すらほとんどなく、どうも別の姿の人物を探しているような感じだった。それに、一番高いBフラットを弾くと、インベーダーたちは、まるで信号が聞こえないかわからなくなったみたいに無線のヘッドセットをひっつかむので、ゾイドはできるだけたくさんの箇所でその音を弾くようにして、やがて侵入者たちがぼうぜんと途方にくれて立ち去るのを目にするに到った。

 ゾイドの変な客は、儀式めいた簡潔な動きで名刺をさしだした。虹色のプラスチック製で、こっちには必ずしも感じられない合図に従って色彩が移り変わる。

 「どうやら命を救っていただいたようですな!」名刺にはこうあった。

	ふみもた たけし
	調整係
	電話無数、住所不定

「これがあんたの名前?タケシっての?」

「ルーシーやエテルと同様の名前ですよ――いつかゴタゴタに巻き込まれたら!」彼はウクレレを数小節弾いた。「人生のある時点で本当にこいつが必要になったら、あなたは――突如思い出すでしょう! 自分がこの名刺絵を持っていることを――そしてどこにしまってあるかも!」

 「おれの記憶力じゃ無理だね」

 「思い出せますって」このとき彼は、突然スッと周囲にとけ込んだ。あたりは徹夜パーティーになりそうなものの最中で、訪問者たちが去ったことでハイになっている。

 ゾイドは室内に向かって話しかけた。「おおっとお、その手の職能のことは聞いたことなくもないけど、でのそんな重装備野郎たちとかかわり合いになりたい気はしねえなあ、いや別にあんた個人のことを言ってるんじゃないけど、まあそれもあんたがどっかこっちの話が聞こえるとこにいればの話だよな、え?」返事なし。名刺はポケットにしまわれ、それから別のに移り、それからポケットだの財布だの封筒だの引き出しだの箱だのを転々として、酒場や洗濯やヤク中の物忘れやノース・コーストの冬を生き延びて、この朝、二度と娘に会えるかどうかもわからなくなったとき、ゾイドはこれだけの年月の後でそいつのしまい場所を突然思い出し、プレーリーにやったのだった。もともと彼女こそがこいつの正式な持ち主だったかのように。


訳者解説

 トマス・ピンチョンの新作が出る! というのは、「重力の虹」の邦訳が出る! というのと同じくらい、言われ続けているクセに実現しない代物であった。なんで「重力の虹」ごときの訳にそんな時間がかかるのか、ぼくにはさっぱりわからないが(もっとも訳はすでに終わっていて、あとは出版社の問題らしいが)、まああんな話題作を書いてしまうとなかなか次が出しにくいというのはあるのだろう。それともう一つ、ピンチョンは自分の作品の出版間隔を等比級数にしているという説があって、いま計算してみるとちょっと計算があわないけれど、でもその説によれば、次のピンチョンの本が出るのは二〇〇五年あたりになるはずで、まあ計算まちがいがあっても、なかなかくだらなくていい説だと悦に入っていたのだが、そのような期待をみごとに裏切って、新作がいきなり出てしまった、というのはいまさら紹介するまでもない。

 「重力の虹」は「読みにくい」、と評判の小説だった。確かにその通りで、文章一つが一ページくらい続いていて、途中に関係代名詞がボコボコ入り、次々に脱線して、文章の最後までくる頃には、文の頭で何が書いてあったのかさっぱりわからなくなっているという案配だったのだが、この新作「ヴァインランド」では一つの文がせいぜいページの半分まででとどまっており、多少読みやすい。するとみんな、「ピンチョンもヤワになった」「軟弱だ」と悪口を言うのだから、勝手なもんである。

 しかし、一応ピンチョンなので、この本もいろいろ話題にはなった。特にイギリス版の出版はかなりアレだったらしい。なんでも、版権を申請してきた出版社の代表が集められ、原稿が一つずつ手渡されてからカンズメにされて、感想文を書かされた後で入札になった、とかいう信じられないような話が伝わっている。むろんその原稿はあとですべて回収され、絶対に外にもれないよう細心の注意が払われた。その注意というのが、表紙の絵を担当した人物が、イメージをつかみたいから読ませろ、と要求したら、それすら拒絶されたというスゲーものだったらしい。

 本来ならここで、訳載分の位置づけと、この後の展開を説明すべきなのだろうが、残念ながらぼくもこの先は読んでいない。ただ、この名刺のタケシくんは、実はニンジャの親分なのだ! というバカな事実がこの先明らかになることだけは教えといてあげる。年内に新潮文庫から訳が出る予定らしい。まあ、まっとうな職業意識と職能を持った翻訳者がついているなら穏当な線だろう。でも、ぼくは佐藤良明という人間が、翻訳者としての職業意識を持った人間だとは思わない。巽孝之程度のつまらない文学屋だと思っているし、職能的にもさほど信用はしていない。まあ、来年末だろうか。それでも「重力の虹」よりは早かろう、ととりあえず予想しておく。

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