セックスの終焉

(トーキングヘッズ叢書 6 『シミュレーション・セックス』1994年)

山形浩生
 

 セックスの話である。ぼくはセックスが下手なので、どうもこの種の話は苦手だ。別にセックスが嫌いというわけじゃない。あのシチュエーションは、そんな悪いものではないし、そこに到るまでのプロセスも、終わってしまえばそれなりに楽しいものではある。それに相手のからだに触れたり、触れられたりするのは好きなのだけれど、そこから挿入に移るあたりが、いつもなんとなくスムーズに行かずにもどかしい思いをしたり、あるいは面倒臭くなってしまうのだ。

 だいたい、マンコというものは、何度やっても(というほど数をこなしているわけじゃないが)チンコをはめやすいような位置にあるとは思えない。こう、ヘソのあたりについておれば狙いもつけやすいし便利なのに。あるいは、チンコのほうがもう少し自明な形をしていて、無用な努力なしにはまるようになっておればいいのに。
 古事記に出てくる、イザナギノミコトとイザナミノミコノによる「なりてなりてなり余れるところ」と「なりてなりてなり足らざるところ」がどうのこうのという微笑ましいやりとりは、そこらへんの戸惑いがよく出ていて好きだ。犬とかがしているのを見ると、なるほど手もなしに器用に入れるものだ、と感心させられるけれど、人間だと自分がやるときでも他人がやるのを見ているときでも「どこだどこだ、ああここか、やれやれよっこらしょ」という、すごくご苦労な感じがしてしまう。みんなはそんなことなしに、スムーズに入れたり入れさせたりできているのだろうか。
 われながら、わけのわからんことを考えているという気はしないでもないが、直立歩行を始めたあたりで、どうも人間はセックスに向かない構造になってしまったのではないか。それを無理して続けるために、さまざまな涙ぐましい努力が続けられ、その挙げ句にこんな文明ができてしまったのではないかしら。似たようなことをだれかが書いていたような気がするけれど、まあいい。時々、サンフランシスコでのぞき部屋に行ったり、チェンマイで売春宿に行ったりすると、ふとそう思えて仕方がないのである。鏡張りの部屋とか、ハーフミラーの商品選択システムとか、それを包んでいるシステムのつまらなくも愛らしい工夫振りを見ると特にそういう気がする。

 もちろん、それを続けないと種が滅びてしまうので、涙ぐましい努力というのも長期的には死活問題ではある。だからこそ、未だに入れる入れないというのが非常に大きな一線ではあるわけだ。「アソコに指を入れるのはいいけど、チンコを入れるのはいや」とかいう女が昔いて、指まで入れさせてこっちのチンコをしゃぶっておいて、そこまでやりながら、あそこにチンコを入れることだけ拒否するなんてことに一体どれほど意味があるんだい、どうせ中で出すわけじゃないんだし、と思ったものだが、まあそういう生物学的な意義というものが彼女に何かを告げていたのかもしれない、と今にしてみれば思う。もっとも、そんな説明をするのも面倒で「あっそ」とあっさり引き下がったら、えらく不満そうな顔をして「あなたは他人の気持ちを理解しようという気がない」とかいろいろこうるさい説教を垂れてくれたので、あれはじらしのつもりだったのかもしれない。だが夜中二時にそういう説教をされても、男は一層やる気をなくすだけである。

 男のほうも、やっぱ入れるもん入れて出すもん出さないと、やった気にならないという風潮は確実にあって、それはそこらの官能小説を読んでいただければかなり明確に表明されている。彼女もそれをあてにしていたのかもしれない。だが、個人的にはそういう風潮も徐々に、ゆっくり薄れてゆくのではないかという気がしている。現にぼくがそうなりつつある。また小林よしのりも、「最近はセックス情報が氾濫しすぎて、若者の性衝動が希薄になっている」と指摘している。「別に入れなくてもいいや」「しなくてもいいや」「ハナから諦めてます」という雰囲気は、確実にそこらへんに充満しつつある。

 だが小林よしのりのように、それがセックス情報の氾濫のためだと言い切る自信はない。かれはそこから議論を進めて「性の世界は淫卑なものにして神秘性を保つべきだ」と主張している。それはそれでわからんでもないし、その後かれがうちだした「女性器の人間宣言(ヘア解禁、モロ出し解禁)とともに、日本男児は己れが何によって屹立していたのかを考えなくてはならない」という主張は圧倒的に正しいのだけれど、真相はむしろ、他にも面白いこと、気持ちいいことはたくさんあるのがだんだん明らかになってきた、というくらいのことではないだろうか。

 それはみんなAVやポルノが簡単に手に入るようになったとか、バーチャル・リアリティでセックスができるようになったとか、シミュレーションセックスがどうしたとかいうせこい代用品の話ではない。それこそ最近急増している高アドレナリン・スポーツ・クロスオーバー系の人々のように、もっと全身にハイな感覚の満ちる活動が無数にあるのだということが、みんなわかってきてしまっているのだ。
 昔は、そういう活動はごく限られた人々のものだったが、この数十年でそれが爆発的に一般化している。一方で、かつて少なくとも理念としては存在した、愛=セックス=結婚=子づくりという等式はボロボロと崩れつつある。セックスと結婚の間の等号はずいぶん昔に崩れさったし、セックスと愛との間の等号も、ウソなのはみんな承知している(もっとも映画や阿部牧朗の官能小説なんかでは健在だが)。さらにセックスと等号では結ばれていないにしても、なんらかの形で結びついている結婚、子づくりといった活動が人生の到達点ではなくなってしまった現状では、セックスを特別視すべき理由が消失してしまっているだけではないか。

 だいたいペントハウスのモロ出しマンコを見ると、笑っちゃうような情けないような気持ちになって、なんか金払ってまで見たくねえな、こんなもんという気がする。あるいは、「いや」だの「だめ」だの「恥ずかしい」だの、さんざんもったいつけた挙げ句に開いていただいた股の間の実物を見ても、出てくる感想は似たようなもんだ。「なんだこりゃ」とグチョグチョつっついて、こねくりまわしてみたりするけれど(そしてそれに対する相手の反応は、場合によってはそれなりに面白いし興もそそるけれど)、それならスキューバでもやって、海底でイソギンチャクやアメフラシをつついているほうがずっと視覚的な歓びがあるし、向こうの反応も面白かったりする。あるいはスノーボードで、自分でも発狂しているとしか思えない速度で斜面を切ってほとんど落下していく時の異様なまでにボルテージの高い興奮は、セックスとは違うけれど、どっちを取るかと言われれば考え込んでしまう。

 現在、セックスが他の活動にに対して保っている唯一のメリットは、比較的安上がりだということでしかない。かつては、安全というのもあったけれど、まあ最近は、そっちはなくなってしまった。あとは、最初に述べたけれど、プロセスの楽しみというのはある。なんとなく感触を確かめつつ「いけるかな、もう一歩いけるかな」とわくわくひやひやしながら駒を進めるのは、スリルがあって他にはちょっと類がない。でも、それはセックスとはまた別物だろう。それに、セックスが「最後の一線」であった時代と比べると、わくわくひやひやも多少は減ってきているはずだ。

 ホルモンがどうしたとか、人間の種の保存本能がどうしたとかいう指摘はあるだろう。だが、うっふっふ、ホルモンごときに負ける人間ではない。本能など、金をちらつかせれば適当にねじまげられる。それが人間の強みである。たまに神経症の人間を生み出しつつも、大多数の人間は毎日満員電車に詰め込まれて通勤を続けているではないか。

 そもそも、特に人間のセックスには変なところがあって、ホントに自然は種の保存なんか考えて人間のセックスを設計したのかよくわからない部分がある。冒頭で述べた、チンコ、マンコの位置という話はまあご愛敬としても、そこらへんのズレについてはいろんな方面から本物の指摘がきている。もし種の再生産がセックスの目的であるなら、なぜ人間は避妊などという小賢しい真似ができるのか、と問うたのは金塚貞文である。なぜ本能はそれを避けようとしないのか(まあ、カトリック教会なんてものはあるが)。

 また、男のオルガズムは射精と直結しているのに、女のオルガズムは排卵や受胎とは結びついていないことを指摘して、霊長類以降のセックスというものの根底にもっと商品的な機能を見ようとしているのはサラ・ハルディ(Hrdyというのが綴りなので、たぶんハルディでいいんだと思う)である。もしセックスを再生産のために進化させようと思ったんなら、いったいなぜ自然はクリトリスなんてものを発達させたのか。もっと再生産に直結するような確実な方法はいくらでもあったはずだ。
 そして、女のオルガズムが基本的にはクリトリスに由来する以上(Gスポット理論は、一時の勢いを失っているようだ。もっとも最近パッキングなんてのが出てきて・・・だが、これはまた別の機会に)、オルガズムを再生産のインセンティブと見なすこれまでの考えも、少し考え直す必要があるかもしれない、と彼女は示唆している。ある意味で、オルガズムというのは進化過程における名残のようなものであり、徐々に(もちろん数千年、数万年の時間をかけてだが)消え失せる運命にあるのではないか、と。むろんその時には、セックスというものも消失するだろう。

 いつか、セックスの意識的な目的が再生産から切り離された時点で(ぼくの邪推かもしれないけれど、多くの人はたぶん「子供をこしらえたい」と意識的に思ってセックスしているわけではなかろう)、すでに現在の萌芽はあったのかもしれない。先の金塚貞文も、種の保存手段としての恋愛が崩壊し、試験管ベビーによる再生産が確立した時点でのセックスの消滅を示唆している。子づくりにつながるセックスが、そのような形で薄れれば、相対的にその周辺の活動(お望みならば、シミュレーション・セックスと呼んでも構わないのだけれど)の地位が高まる。現在起こっているのはそういうことではないか。くるべきものが、今訪れつつあるのだ、と言ってみたい。

 とはいえ、世界はまだまだ貧しいので、当分はセックスがなくなることはないと思う。セックスはそれなりにいいものだし、人間はすぐには進化できないし、さて、最近とみに増えてきた際物エログロ小説のつまらなさというのは、「SMだって社会に認知されるべきだ」というようなつまらん話を嬉しそうに力瘤こめてやっているからなのだ、という話をかつて「ハイ・リスク」の後書きにも書いた。セックスについてみんなで作文をしたって、セックスの社会的認知度が高まるわけじゃない。セックスそのものの敷居が下がってきているのだから、いずれそういう周辺的な活動は「どうでもいいや」と野放しになるに決まっているのだ。それを妙な被害者意識で何を嬉しそうにしてやがる。
 最近アメリカで出ている「Future SEX」という雑誌があって、コンピュータとバーチャル・リアリティとセックスを絡めて何かできないかという、思いつきだけのシミュレーション・セックス雑誌なのだけれど、当然ながら何もできていない。適当にポルノッぽい雰囲気をちりばめつつ、「未知の分野に踏み込む勇気をもった人間がどうのこうの」とか妙なヒロイズムに酔いつつつまらない妄想にふけっているだけ。

 そういうバカの多い中、キャシー・アッカーなんかの面白さは、主人公が次から次へとコトに及ぶけれどそれが何の脈絡も理由もなく、ひたすら個人的な活動として放りだされているところにある。そこには何の主張も、意味づけもない。「とりあえずやっちゃおう」というきわめて現代的なセックスである。それが何やら糸の切れたタコのような悲壮感を漂わせているのは、そこにセックスがもっと深い意味を持っていた頃への憧れが感じられるからかもしれない。それは彼女個人のものであると同時に、生物としてのセックスを脱しつつあるわれわれすべてに共通のものである。いったいおれは、なぜセックスなどしているのか。とりあえず気持ちいいけど、それだけなんだろうか。それだけなのは知っているけれど、まだそう言いきるのは怖い。アッカーの小説はそう語る。

 ただし、アッカー本人は、そんなことはおくびにも出さない。「男とやるだけがオルガズムへの道じゃない! ピアシングも旅行もウェイトトレーニングも、書くのも読むのも音楽もドラッグも、みんな快楽への道なんだ!」というインタビューなんかでの彼女の主張は、現在のセックスのまた別の面をはっきりと代弁している。だが、それは作品の雰囲気とは必ずしも一致していない。不思議といえば不思議である。それもまた彼女の面白さであり、現代性でもある。
 
 

 
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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@mailhost.net)