Valid XHTML 1.0!

インターネット対談

(別冊宝島『2001年が見える本』)
  小林弘人(「ワイヤード」編集長)、宮崎哲弥、山形浩生

◎一巡したインターネット見物

小林 今のWWW(ワールド・ワイド・ウェッブ)におけるホームページの増加に見られるような、誰でも情報発信が可能というクリシェについて、まず最初に掘り下げていきたいと思います。

山形 数年前、初めてWWWを知った頃は、毎日のようにNCSA の what's newページを見て「うわぁ、こんなのがでた!」というのを1時間や2時間やるという世界でしたし、それで世界のホームページの重要なところは一通りおさえられてましたよね。つまりこの頃は、ホームページを作れば、世界でMosaicを使っている人の一定部分がそれを見てくれたわけです。発信すればそれを受けとめてくれる人が必ずいたという意味で、当時はだれでも情報発信が可能というのはウソではなかった。
 しかし今は、一通り出るものは出つくした感じです。 what's newページなんかもう見ませんし、ポツポツ出て来るものは、単発的に追いかければすむ。受け手の方が、自分でいちいち探していられないよ、という状態になってます。発信は勝手にできるけれど、それを受けとめる側が変わって、かつてとは情報発信の質がちがっちゃってる。

宮崎 何か具体的な目的があってWWWを使うんなら別だけど、漫然と見てるんじゃ、情報の大海の中で溺れるだけになってしまう。それはそれなりで面白いのかもしれないけど。
 情報というのはそもそもある程度縮減されてて、これは有益な情報、こっちは不要な情報とふるいがかけられていないと意味がないんだけどね。

山形 そうですね。その意味ではWWWの HomePageイコール情報発信ではないわけで、それこそ電子メールのやりとりとか、ニューズグループで日本の恵比寿周辺のコインランドリー教えろとか(笑)、そう質問に答えてあげるほうが、ニーズに応えた受け手のある価値を持った情報の発信ですよね。逆に、今の大多数のWWWでわかることは、どうもみんな発信しようにもあまり他人が欲しがるような情報を…

宮崎 持っていない。私の知り合いでハワイに持ってる別荘の管理者をインターネットで募集したって人いるけど(笑)。そんな感じの使い道は無限にあるけどね。

山形 いわば単純な「売ります買います」の世界ですね。

宮崎 WWWが注目されてきた経緯っていうのは……。

小林 1989年に CERN (欧州合同原子核研究機関)で最初の様式が開発されて、その後ワンサカ出てきたんですけれども、wwwの特徴は一重にわかりやすいということなんです。画像とテキスト、そしてハイパーリンクという形式。他にもインターネットには色々な要素があります。電子メールとか、ニューズグループはもちろん、Anonymous(アノニマス)FTP、それからWAIS(ウェイズ)とかGopher(ゴーファー)、telnet(テルネット)など。ところが、wwwは視覚的にもうけがいいので、一般的にはWWWがインターネットだという認識ではないでしょうか。

◎喧騒と淘汰と進化

宮崎 ニューズグループは、パソコン通信の「会議室」とはまた少し雰囲気が違うよね。fjなんか妙に閉鎖的で、初心者に「やさしく」ない。管理者がいないぶん、暴走しだすとなかなか止まらないし。

小林 そのへんは山形さんがお詳しいんじゃないでしょうか。

山形 双方向性とか議論への参加という点から言えば、ニューズグループのほうがWWWよりずっと純粋なコミュニケーションの場だと思うんですがね。ニューズグループそのもののとっつきにくさは、幅が広がりすぎちゃってわかりにくいという点。パッと入った初心者は入った瞬間に圧倒されちゃう。画像があれば、初心者でも見当はつくけど。あと日本人にとってやっぱり言葉の問題があるんでしょうね。

小林 fj なんかはどうですか? 日本語ですよね。

山形 うーん、ほとんど見ないなあ。

小林 あるグループなんかは立ち上げの時には、英語でやろうか日本語でやろうかという議論がありましたよね。

山形 fjの場合は、やはり読んでる人の数と幅の圧倒的な差があります。ほとんど日本語だけで、読むのも書くのも基本は日本人だという暗黙の了解がある。それに付随する「暗黙」が多いですよねー。

小林 かなり細分化されているがゆえに党派性がすごく強くて、途中から発言するのはなかなかできない、というようなところも、初心者の人なんかは入りにくい。

宮崎 古参の常連発言者が幅を利かせていて、他の者を排除するという空気が強いよね。

小林 意図的な排除という形ではないんでしょうけれどもね。だからまあ、発言しない人が多い。潜伏者というような意味で、ラークとか、リード・オンリィ・メンバー略してROMとかって呼ばれますよね。ニフティなんかもそうなんでしょうけれど、圧倒的に多いんじゃないですか。発信はしないけれど情報は享受するサイレント・マジョリティが。オールドメディアと変わらない点ではありますよね。

宮崎 これは日本的コミュニケーションの問題なのかなあ? 結局、ムラ化してしまう。

山形 いや、英語でもドイツ語でも、発言する人より読んでるだけの人が多いのは仕方ないでしょ。ただ、ベースが小さいというのはどうしてもありますよね。利用者の絶対数が圧倒的に少ない。同じ質問するんなら、幅広く意見を聞きたいし、「中国からベトナム入りする陸ルート情報」とか特化した話をするにもベースが広い英語じゃないと話相手がいない。あと何十倍という基盤があれば、下らない質問するバカやタコも後を絶たない。fjだと、とりあえずこいつを追い払えばしばらくは静かだけど、英語だと明日にはまた同じことやるヤツが出てくるから、「おい、なんとかしろよ、こいつ」とか言いつつ、追い払うより対応を考えようとするでしょう。

小林 そのへんが難しいところですよね。情報発信の意味合いが、WWWとニューズグループとは違ってくるんで、一緒には語れないと思うんですが、先程宮崎さんがおっしゃった、価値とか、質とかいうのは、全部相対主義的に動かされているんじゃないかな、と。

宮崎 相対主義というよりはさ、「人脳」の情報処理の経済性として、人間生きている時間ってそんなに長くない、暇じゃないっていうのがあって、果してああいう膨大な情報の間をかきわけて価値のある情報を見つけるということが可能なのかって。
 そうすると、ある程度ガイドとか、検索システムに頼らざるをえない。すると、その情報「縮減」に権力的な操作や位階性みたいなものが不可避的に入るわけだから、まあ、オールドメディアと似た構造を持ってくるよねっていう話なんですけど。情報を縮減するというのは、現代社会でいちばん重要な権能ですからね。そんなに新しいものなんかいな? と思わないでもない。幻想をふりまく人たちが喧伝しているような、これが本当の自由なのかい? とかね。

山形 オールドメディアには、その縮減のプロセスで情報に信用を付加するという重要な機能もあるわけです。東スポで読んだ話は眉ツバだけど、日経ならホントだろう、という。けれども、出す側にとってエントリーコストは確実に低くなったんですよ。少なくともポテンシャルとして世界に全部見せられるメディアがあるという意味では。個人や中小企業が印刷物や放送でそれを行うのは不可能だから、それは確かに画期的なことなんですよね。ただ、物理的なメディアのところ、たとえば印刷して流通にのせるといったハード的な面をクリアしたところで、やっぱりその情報の中身にもう1回問題が戻ってきている。その中で淘汰も進んでいるというふうな状況だとは思いますね。

宮崎 でもさ、ちゃんとした淘汰は進まないわけじゃない?

山形 うーん、確かに評価がフィードバックされませんからね。ヒット数だけではインセンティブとして弱いし。ヒット数を見て「じゃあこいつのとこに広告出そう」とかいうのが一般化すれば……でもそれじゃオールドメディアとなんら変わらないし、それが定着してない部分、メディアとしても格が下と考えるべきかもしれません。

◎地方局1局ぶんの広告収入

山形 インターネットでの広告効果や有効性というのは、そろそろ検証が始まる時期にきてますよね。ウチの会社(野村総合研究所)も検証するすると言いつつ、どこまでやってるかは不詳なんですが、なんか見たことあります?

宮崎 広告業界では、アメリカのインターネットにおける広告の全収入は、地方局一局ぶんしかないと言われてますね。

小林 今、ビデオリサーチ社が一生懸命インターネットの視聴率の調査報告を算出しようとしてるんですけどね。

宮崎 やってますね。アメリカでそういう調子だから、日本はまだはるかに小さいでしょうね。キッチリ調べたら、インターネット・マフィアたちには非常に都合の悪い結果が出るかもしれない。インターネット広告は効率が全然悪い、とか。もちろん、メディアの性格が違うわけですから、比較も検証も難しいですけどね。

小林 逆にいえば、検証できないが故に、言い値でふっかけられる、というのがありますよね。大手新聞のHPで今、1コマ何十万ですよね。ホットワイヤードでは、1月数十万だったと思います。企業名の書かれたボタンをクリックすると、そこのサイトに飛ぶというリンクだけですよ。その広告効果の算出方法というのは、その認知度に負う情報提供者の言い値という形に、今はなっているかと思います。

宮崎 小林さんに著作権の問題をうかがいたいんだけど。ヌード・ピンナップとか、アニメ画像とか、スキャナーで取り込んで、あるいはヌードに顔をはめ込んだりしてフェイクをこさえる。こういうものは、市場原理が入って、私的所有権思想に基づいてマーケット・モラルが整備されれば、結局排斥されざるを得ないんでしょうか。

小林 実際の今の動きとしては、アメリカの議会で去年提出されたホワイトペーパーによる著作権利用のかなり厳しい規制ですね。フェアユースのところまで権限を削っていって、かなり規制を強くしようという動きが出ています。
 たとえば、僕がある人の著作物の引用を自分のメールで山形さんに出したとします。それが第三者に発覚した場合、通報されて、最悪の場合には捕まってしまうという…。まあ、アメリカはフェアユースという概念が確立されているので、それで即懲役何年ということにはならないと思うんですけれども、世界的には今、著作権の強化という流れにはあると思うんですよ。ただ、ラディカルなネット経済論には、著作権はフリーにしてしまって、違うところでお金を取ればよいというのがあります。つまり、作品や製品を自由に流通させて、作品全体を企業がスポンサードしたり、製品ならばユーザーサポートで徴収するべしという意見があるんですけれど。
 著作権に関しては、日本は後進国だと思うのですが、電子メディア上となると、さらに法的な整備も立ち遅れると思います。

宮崎 アメリカの現状は?

小林 現行政権はハリウッドからも支持されていますから、ロビー活動も功を奏するでしょうね。クリントンはやはり著作権をガチガチに守っていこうという方向になっていると見れます。

宮崎 そうなると、古典的な自由主義のアポリアが出てきて、個人の権利をガチガチに守ろうとすると、かえって自由市場が枯死しちゃうという、そういう陥穽にはまり込んでいきそうな感じもします。

小林 そのような動きに対して、今ネット上でも個人の連合などによる反対運動が行われています。

宮崎 でもさ、アメリカでは古典的所有思想に基づく知的な所有権を守ろうとする流れと同時に、知の公共性の領域というのを確保しようというような理念も育ってきているわけでしょう?

小林 ええ。たとえば「スケルトンクルー」というバンドが「プリティウーマン」の歌詞のパロディをやって著作権侵害で訴えられたんですよ。控訴したところ、「これはフェアユースである」ということで、お咎めなしになったんです。つまり、そこまでフェアユースの概念が確立されてるんだけれど、日本ではフェアユースという言葉自体が耳新しい(笑)。おそらく著作権保護の流れをそのまま模倣してしまえば、かなりガチガチのものになっていくんではないかと…。
 その時に、例えばある作家が「これはフリーで流してほしい」と希望してても、第三者がそれを「あの作家のものを無断であいつが使っている」ということで告発することになってしまって、自由な流通が妨げられるというようなことが出てきてますけどもね。
 換言すれば、その著作権に対する第三者からの排他的権利を認めるか、認めないかという問題だと思うんですけれども。

宮崎 果してそこで、ウェルバランストな状態をデザインできるような力量を「ネット社会」が示しうるかという問題。現実社会のルールを書き換えるところまでいけるかという問題は、今後に残された課題ですよね。

◎ヴァーチャ・キャピタリズムの未来

小林 インターネットで良質なジャーナリズム、ネットジャーナリズムが可能だという話がありますが、それはどうでしょうか。マスメディアは商業主義にしばられているんで、限界がある、という声をよく聞きます。

宮崎 商業主義がいけないってわけ? じゃあ、ネットジャーナリストって何で食うの?

小林 そこまでは言及されていませんね。僕もなんとも答え難い(笑)。

宮崎 たとえば何らかの集金のシステムを取れば、市場原理の方向に行きまよね。要するにジャーナリスト個人に視聴率が課せられるようなもんですよ。そうすると、やっぱりセンセーショナリズムに走ったり、スキャンダリズムに走ったりするというのが出てくるわけじゃないですか。つまり同じことであって、元の木阿弥ですよね。ま、きちんとした組織よりも個人は身軽だということは言えるかも知れないけど。

山形 その集金システムも目処がたってないですけど。電子マネーが広まれば、少額の金の流通がしやすくなって、個人が1円、2円の著作権料をとれるから集金システムが成立、という話が言われますけど。でも電子マネーについてはよく話題になるけど、結局はクレジットカードか銀行からの引き落としシステムのどっちかであって、既存のお金に取って代わるものではないんじゃないかという気もするんですけど。電子マネーの通貨体系で生産されてるものもなければ、投資されているものもないわけだし。
 「お話」のレベルでは、とにかく大企業10社集めて、そいつらの間で「1トヨタ」とかいう通貨単位を作って、取り引きが行われる。そうすると、為替リスクは発生しないし、為替市場で取り引きするためにどこかに架空のオフショア国を作れば、税金も払わないで済むし、それでなんとか企業が続いている限りは回りそうじゃん? というのはある(笑)。現実にそこに乗るやつがいるかは知りませんが。
 でもたぶん100年前は今の変動為替制度に乗っかる国はなかっただろうからぁ。「せーの!」でやると、意外とできてしまうかもしれない。

宮崎 貨幣とは情報の代替財である、とする近経的な視点によれば、それが最もピュアな貨幣形態ですよね。でも、その前にネット上で取り引きの安全を確保できるかというテクニカルな問題があるわけですけど、よしそこが解決できたとして、当面は既存の国家発行の貨幣がなくなるはずはないですよね。
 ただ、もしもみんなが使い始めて物凄い流通量になって、例えば発行残高が先進国並みになったとすると、話が違ってくるかも知れない。国際為替の相場が電子マネーを基準に計られるとか、電子マネーにおける信用不安が国の経済を揺さぶるとかね。
 いずれにしても、クラッカーにとっては格好のプレイ・グラウンドなわけだから、システムを攻める側と守る側の英知を結集した争いになることだけは間違いない。パチンコのプリペイド・カード・システムすらちゃんとつくれないのに大丈夫かって(笑)。俺は暴落する可能性が高い通貨で多くの財産を持とうとは思わないけどね。

◎大格差時代、大失業時代は来るか

小林 経済と社会を繋ぐ領域での論点として、インフォ・リッチとインフォ・プアの格差が、かなり広がっていくという説がありますね。山形さんはその問題を衝かれていますが。

山形 そこらへんは、ポール・クルーマンという経済学者が、非常にわかりやすい例で説明してるので引用します。産業革命というのも、今の情報ナントカよりはずっと明確に生産性をあげて、社会を変えました。短期的にはすごく貶められた底辺労働者のプロレタリアと、ブルジョア階層とがバーッと分かれて、所得の差は拡大した。で、「機械は所得格差を増大させる」と考えられました。しかし今は、昔の貴族/農奴の時代に比べれば所得格差は明らかに縮まっている。それには一世紀くらいかかったけれど、でも必要技能が平準化して、最終的には所得も平準化したわけです。
 おそらく現代の情報革命でも短期的には、コンピュータを買えて情報が持てるという人はどんどんリッチになるだろうし、ない人はぜんぜん駄目で、格差は広がる。でも、いま上層でお金を儲けている商売、例えばインヴェストメントバンク=投資銀行とかの連中というのは、実は大した仕事はやっていない。将来的には、あんな仕事こそコンピュータで代替できてしまう可能性がある(笑)。そこらへんの所得がどんどん落ちるんじゃないか。となると、最終的に残りそうな仕事は、むしろ機械を掃除したりとか、簡単な故障を修理したりとか、つまらないところが陽動化していくんじゃないか、と。ぼくもこれには賛成だし、情報リッチ/プアというのもたぶん、ほんの過渡的な現象にすぎないと思います。
 どの時点で、格差拡大が平準化に転じるのかはわからない。たぶん来年ではないだろうし、5年先でも10年先でもないんだろうけれども、20年ならどうかな、という感じですよね。

宮崎 要するに、知的な産業と思われているものが、実は知的でもなんでもなくて、こっちにあるものをあっちに動かして中間搾取している実態が暴かれてしまうから、もっと「実体」的な労働の価値が相対的に高まっていくという、そういうお話ですよね。それはありうると思うなあ。

山形 だからそれに伴って喧伝される、大失業社会というのもあまり現実味はないなと。一部適応できなくて苦労する人はいるだろうし、新ラッダイト運動もその範囲内では筋は通っているんだけれども、それとは別の流れで、おそらく全体に単純労働化するような形での平準化というのが、これから起こるんでしょう。

宮崎 でも、短期、中期ぐらいでいうと、中失業社会ぐらいは招来するかもしれませんね。その移行期をどういうふうに乗り切っていくか。

山形 失業って悪いことのようだけれど、必ずしもそうではない。「これからは智民《ネチズン》の時代だ! ネットワークで結ばれた知的エリートたちが非常にフットルースに住居でも仕事でも変えてアチコチ動き回るのだ!」 というシヤワセな議論がありますね。これが実現したら、失業率は必ず上がるんですよ。その人たちが、前の仕事から次の仕事への移行期で統計上は失業扱いになりますから。いまは転職がないから、失業率も低いし、転職の際も選り好みしてられないけど、そんな智民《ネチズン》のみなさまが半端な条件で納得するとも思えないから、これはもう一月、二月かけて職探しをなさる。アメリカなんかの失業率のかなりの部分は、そういう優雅な職探しの人たちで、本当の意味での「まったく仕事が見つからないんでどうしましょう?」ばかりじゃない。そういう意味では失業率は上がるでしょうね。
 けれど、智民《ネチズン》論者って、一方では創造的な仕事が増えて云々という話をする一方で、コンピュータの導入で知的労働の生産性があがる、という話もするんですわ。そういう議論をみると、この人たちは失業とかがよくわかってないな、という感じはします。農業でも製造業でも、労働生産性があがると、仕事は減るんだもん。
 そもそも、みんながそんなに創造的な仕事に移るのかいな? という気は一方でしますね。今アメリカなんかでいちばん伸びてる仕事というのはサービス業で、職種では店員とか、セールス販売員とかいう職種になっている。これは情報化とかテクノロジーが進展して、皆が創造的な仕事につくようになって、というような話にはどうもなってない。まさにさっき言った、専門性の低い、くだらない、つまらない仕事が増える方向になってる。知的な作業はなくても済むような方向に動いているな、という感じが…。

宮崎 もっと中間的なホワイトカラーの事務職みたいなのは相当キツイかもしれない。経理とかの管理部門なんか。
 むしろ、ちっとも創造的ではないかもしれないけど、足をつかって稼ぐ営業なんかは、機械では代替不能ってことで、相対的に価値が高まっていく。管理部門というのは、かなりの部分がおそらく代替可能だから。

山形 日本の会社だとクビ切りはしたがらないから「お前は営業に移りなさい」という話になる。

宮崎 そうやって人材を移転することによって、失業はある程度避けられる?

山形 でも、怖い見通しではあるんですよね。なんか「人口の半分以上が営業をやっている」って(笑)。すごい世界だと。営業やってる人が営業やってる人からモノを買ってる、うーん? インターネット・コマースで、営業はいらなくなるとか言ってる人はこれをどう思うのかしらね。

◎最後は「楽」が勝つ?

山形 逆に「創造的な仕事」の部分では、前から考えているんだけど、たとえばアップルの広告とか見てると、思いつきをなんとなくホワホワッと機械が形にしてくれるという、そういうイメージでクリエイションって捉えられているように思う。しかし、創造というのは、もう少し泥臭い技術も努力や試行錯誤も要る、面倒なものなんです。それがコンピュータ化でだれにでもできるようになるもんなのか。
 そこまで面倒臭いことをしたくないという人もいるし、そもそもみんな創造力なんか持ち合わせていない。マックが流行ってDTPが流行ったというのは、人の作ったものを適当にペーストすると何か、それらしきモノができてしまうという、そういう非創造的な安易さにあったという気がするんですわ。
 そういう意味で、某総研なんかが言う「創造化社会」とかね (笑)。最初の交通革命が足を置き換えて、産業革命で手が置き換えられて、次の部分は頭が機械に置き換えられて、クリエイティブな部分だけが人間の仕事として残るという、あの種の話は、真面目なもんとは思えない。

宮崎 でもアメリカ人はわりと生真面目に考えてるような気がしますね。あれはベースに、宗教的な使命感があるんだろうと睨んでいるんだけど。要するに、純粋な思惟といったようなものに対する信仰ってあるんじゃないですか。アメリカ人って。
 でもテレビ・メディアの強さって、あの安易さ、パッシブさでしょ。みんなそんなにクリエティブだったり、インタラクティブを求めてたりしないよ。楽チンだもの。ボケっとテレビ観てるの。貪欲に、主体的に求める「快楽」よりも、イージーで自堕落な「楽」ね(笑)。そういうリアリティを軽視しちゃ、まずいよね。

宝島系インデックスに戻る YAMAGATA Hirooトップに戻る


Valid XHTML 1.0! YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>