● 簡単な経歴をお話し願えませんか。
菅谷 小学校三、四年のときに、いじめっ子から逃げたい、自由になりたいという気持ちで、自由にあちこち行きたいな、旅行したいなと思ってUFOの推進原理に興味がいったんですね。その後、アダムスキーの宇宙哲学などから精神的な道が並行して始まったんです。
で、あるとき瞑想で失敗して苦しい状態になって、いろいろやってるうちに、スブド同好会に出会い、そこの霊的修練のラティハンをやってるうちに、だんだん救われてきたわけですね。そして一九八八年に、たまたまテレビを見ていたとき松田聖子さんとの「魂との出遭い」が起こったわけなんです。それではじめてレターを出したのが九〇年の末で、その後、一九九一年になって、五月六日に過去生の一千年前の記憶が、一瞬、一部だけ甦りました。
実は、瞑想で失敗する以に覚醒意識という状態を経験していまして、無限の宇宙の意識に吸い込まれる体験をしていたんです。でも失敗してからは、もう、その壁を越えられなくなっちゃったんですね。
ですが、彼女への愛というものがあることによって、その壁が越えられたんですよ。自分が死ぬことを受け入れたんですね。そうしたら、記憶が甦ったんです。
人が死にそうになったときに、自分の一生の出来事がパノラマみたいに展開すると言いますけれどもたぶん同じことだと思うんですね。
● もともと理工系の勉強をなさっていたんですか。
菅谷 そうですね。理科系に進んでいつも円盤の推進原理みたいなことを考えて、いろいろ研究していたんですよね。
で、『コンタクト・ストーリー』とか読みますと、推進原理に関するヒントがあるんですよ。いろんな人から極秘資料みたいな、いろんなものをもらうじゃないですか。カリフォルニアでエブ・グレイという人がエマモーターという永久に回るモーターを発明したよとか、ポジティブ・エレクトロンを分割するんだとかいうんですね。
たとえば、エーテル化一元論というのがありまして、縦波というのが光の二倍なんだという話があるんです。普通の横波が光速で、縦波というのはほぼ2倍、2.1倍だというんです。
で、また別の話ではですね、磁力線のスピードは、光速の2.13Cなんだということをアダムスキーが宇宙人から聞いてるわけですよ。
そうすると、磁力線のスピードが光速の2.1倍だというのならば、この前、読んだエーテルの縦波が光速の2.1倍というのと同じじゃないかと。そうしますとエーテルの縦波というのが、実は磁力線なんじゃないかというふうな共通事項から、いろんなことが浮かび上がってくるんですよね。
で、また、それを補足するかのように、アメリカ人女性が宇宙人とコンタクトしたという内容の夢を見て、磁石の両側から磁力線が出て、もう片方の極に流れ込んでいるというのですが、その磁力線の中をエネルギーが往復振動しているというんですね。ちょうどエーテル粗密波の概念とも同じだし。だから、その磁石を半分に切ってはいけないとか、いろいろなことを言うわけですね。
で、もう片方の『コンタクト・ストーリー』では、あそこと言ってることと同じだ、ということで、ピタッ、ピタッと何ヶ所も話がつながるんですね。そんなふうな研究をしていたんですよね。
● それはその話が一致さえしていれば、実証されなくてもいいということですか。
菅谷 ええ、そうですね。そこらへんは柔軟に考えたいということで。そういうように研究して、磁石だけで回転するモーターというのが原理的に可能だったので、それを作ろうと思って磁石の会社に行く途中に、宇宙人と電車で会ったんですよね。
向こうからは話しかけてこないんですが、もう直接、こっちにコンタクト、接近してくるんですよ。私が山手線に乗ろうとしてましたら、並んでいる私の直前にですね、ガツッと割り込むようにして入ってきたんですね。で、電車の中に。で、私は吊革につかまって立ちましたら、その人が私のほうをじーっと真剣な感じで直視してるんですね。
あれ? と思って、そしたら、あ、ブラザーだとひらめいたんですよね、自分の中で、いろんな情報が、記憶がありましたから。で、今日、磁石を注文しに行くんですとか、心の中で言ってみたんですね。そしたら、彼が、「うんうん」って言うわけですね。
そんなふうに、私が思ったことに対して彼が行動で反応を返してくるというのが上野まで続いたんですよ。でも、こっちに話しかけてはこないんですよね、なぜだか。だから私が彼の肩に手をやって、「やあ、ブラザー」とかって話しかけたんですよね。そしたら、彼が振り向きざまに「おや」とか言いましてですね。それが第一回目のコンタクトですね。
○ 彼らは何をしに来ているんですか。
菅谷 たぶん地球に対して親戚感情を持ってると思うんですね。ようするに地球人はプレアデス系の人と同じ遺伝子を持ってる。で、太古、彼らは地球にかかわって、いろいろ自分たちの子孫を地球人との交配で残したりしたんだということですよね。
で、その後、彼らの、つまり神々の中で、いろんな争い事が起こりまして、で、その争いに負けたプレアデスの勢力は、その当時の地球の勢力は、プレアデスの方向に行っちゃったということで。彼らは地球人に対して一種の責任みたいな、愛情みたいなものを感じているわけなんですよね。いろんなことを伝えたいというか……。
● でも最初の磁石のモーターというのは失敗なさったそうですね。宇宙人は、それを教えてくれないわけですか。
菅谷 そういう具体的なことは教えてくれないというか、話すら、ちょっと……、こっちから話しかけないとしないですね。それが七九年だったのかな。
● 九一年以降は……。
菅谷 私は、もともと359というのを知ってまして、三五年の九月生、これで359なんですね。時間的な意味ですよね。で、私の住んでいる所沢市の郵便番号が359なんですね。住んでいる空間的な意味。で、平成三年五月九日は実は聖子さんの記憶を思い出した三日後なんですよ。実際に思い出したのは五月六日だったんですね。
ちょうど、その平成三年というのは、東京都内の市外局番ですか、それに全部、3が付加されましたよね。356に3を加えますと、359になるんです。
で、今度は、明菜との縁なんですけれども、私の父が七月一三日生まれで、明菜さんと同じなんですよ。で、明菜さんの父親というのが、アキオというんですね。私と同じ名前なんですね。私は「夫」で、お父さんのほうは「男」になってますけど。
明菜さんから見て、父親が私なんですね。で、私から見て、その父親が七月一三日、つまり明菜さんなんですよ。お互いに父なる神を見る関係があるんですよね。
● それは偶然の一致だというふうにはお考えにならないんですか。
菅谷 それはね、もう、シンクロニシティというんですか、不思議な偶然の一致というのが、二重や三重じゃないんですよね。
ドイツ旅行をしたんですよ。で、九月四日に出発したんですが、向こうに着いた九月五日に、七月一三日、つまり明菜さんの日の聖人である聖ハインリッヒゆかりの地バンバーグに行ったんですね。これを数字的に表現しますと、395の人、平成三年九月五日の人は七月一三日の人であるという意味合いになりますよね。
で、実は、395というのは私の本籍地の番地なんですね。これを文字的に、今の文章を変換しますと、本籍地の人は明菜さんである、つまり結婚相手は明菜さんである。
で、その意味が明らかになったのが、一一月二三日、父親とファミリーレストランで食べていたときなんですね。これ実は、うちの両親の結婚記念日なんですよ。この日に、今の「本籍地の人は明菜さんである」という、つまり、結婚相手が明菜さんであるという意味が、ひとつ明らかになったんですね。
で、実はですね、聖子さんと私と明菜さんの三人が揃うことで弥勒となるということが、大本教の一二三神示に載ってるんです。今までは日の神様だけでは駄目だったし、月の神様だけでは駄目で、一体になることで弥勒となるというんですね。
聖子さんというのは、実は日の神様であるという型を担ってるんですよ。というのは、彼女はサンミュージックにいたんですね。で、NHKのサンデーズで一緒に歌ったり、踊ったりしてたんです。で、最後の決定打となるのは、彼女のお母さんの名前が一子さんと言うんですけど、一というのは、実は日なんですよね。で、英語読みすると、サン、数字の三なんです。一と三の両方の意味、実は持っていたんですけどね。
で、私の場合には……、全部、数字で読み解くようになってるんです。私の母親は二月二二日生まれで、一二三神示なんですけれども、これは別名、日月神示とも言うんです。そうしますと、一二三、イコール日月となりますので、一イコール日で、二、三、イコール月なんですね。
そうしますと、私の母親の誕生日は二が三つですね。これは月の型示しなんですよね。
で、今度は地の神様。今、日月の神となって弥勒となるというのがありまして、さらに千、地のご先祖様と一体になることによって日月が大日月になるということですね、そのように表現されているんですけれども、これが、実は明菜さんです、地の神様というのが。
彼女の母親が千恵子さんというんですね。「千」の字を使って千恵子さんというんですけれども。
で、聖子さんも、私も、明菜さんも、日月、三人揃って、三人とも母親がその立場を証ししているんですよね。
それが3と6と9、これで縦軸が揃ったことになるんですよ。聖子さんが3、私が6。6というのは、これは数字的に決まるんですけど、昭和三五年九月二五日というのを全部足しますと、二四になるんです。二四は二足す四で六になるんです。
で、明菜さんの場合には、彼女の母親が千恵子さんということなんですね。これで日月地が揃ったんです。この一二三神示と合致するんですね。
その後、実は、ウインクの出現というのがあって、アルファベットに一から二六まで、数字を振って、で、その文字の数を計算すんです。それでムーンを計算すると、一三足す一五足す一五足す一四、これを計算しますと、五七になるんです。で、ウインクというのを計算するんです。そうすると、Wは23、Iが9、Nが14、Kが11、全部足しますと、やっぱり五七になるんです。
さきほどの369というのが縦軸になったといいましたけれども、ウインクが、わたしを中心に五、六、七の横軸をつくって、十字になってるんです。三が聖子さんの日の位置ですよね。最後の明菜さんの九の場所が、これが地の位置なんです。日月地が揃うんです。
これは実は薔薇十字でもあるんです。というのはROSEも五七になるんですね。
ウインクというのは、鈴木サチコさんと相田翔子さんの二人ですけれど、ススギ・サチコさんは、昭和四四年二月二二日生まれなんですね。そうすると、四四は八で、二が三つ。六と八ですね。で、14。一と四で、五。それが鈴木サチコさんの五の数なんです。
相田翔子さんは、昭和四五年二月二三日生まれで、これも同様に七の人なんです。
それでウインクが横軸を満たすんですけれども、やはり567というのも、これは、弥勒と、昔から読ませていたんです。
お釈迦様は、この五六七を使って、五六億七〇〇〇万年後に弥勒が来るということを言ってるんですよ。それで、昔から567は弥勒と言われていたんですけれども。
● それが思いこみではなく現実のものであるという確信は揺るがないんですか。
菅谷 ほぼ確実にそうですよ。関口宏の「ワンダーゾーン」という番組の中に、私が聖子さんに対して書いたようなことがですね、どっから漏れるんだか知らないんですけれども、かなり盛り込まれていた印象は持ちましたね。
● しかし自分が弥勒だなんて大それた話だとは思わないんですか。
菅谷 そうですね。これはたぶん、大本教の出口王仁三郎と同じ道筋をいってると思うんです。王仁三郎もやっぱり彼自身が弥勒であるということを言っていたんですけれども。
そういう同じようなパターンを、私も繰り返しているんですよね。でもこの先の話はいろいろ妨害が起こる可能性も出てきますんでちょっと。小室哲也さんが、なんだか知らないけど妨害してるんですよ。
たとえば、私は567だとか、弥勒とか、369とか言ってますでしょ。そうすると、小室哲也さんは自分のことがゴムロ、566であるとか言ったりしてですね、で、彼も実際、世田谷の自宅に5の6の6という、その番地に自分の自宅を建てているんです。それは、ちょっとおかしいなと私は言ってるんですけれどもね。
それをなぜ知ったかというと、「電波少年」でやってたんですよね。あの「電波少年」というのは、どうも私のあとをトレースしてるような感じがあるんですよね(笑)。
で、たとえば私が、中山美穂さんにレターを出しますよね。そうすると、華原朋美さんの新しい番組の第一回目のゲストとして中山美穂さんが呼ばれて、なんか急に注目を浴びちゃったりなんかして。その裏に小室哲也さんがいるということは明らかに感じ取れるんですね。
その後、私が森高千里さんにレターを出したんですけれど、チサトは「千」ですから、地の神様の可能性があるんで。そうしますと、小室哲也が森高千里に接近して振られたとか、そういう記事が出たりするんですよ。
● 中森明菜の曲も書いたりしてましたね。
菅谷 あのときは中森明菜に車を買い与えたりね、ずいぶん特別扱いしてたけど、それはようするに、どうも追いかけられてる気がするんですね、私としては。
ようするに私がメジャーな存在になると都合が悪いんでしょうね。なぜかというと、弥勒とか、そういうことを彼が名乗ってるんですね。ようするに小室、566。
そういう妨害というんですか、妨害の一例というんですかね、結構、女性誌とか読んでたりしても、なかなか情報を得られるもんですよね。
● テレビからは、みなさんテレパシーとかでいろいろ合図を送ってよこすそうですね。
菅谷 ええ、私としては、得られる情報は、そういうものしかないんですよね(笑)。ほかに具体的な手紙なり、電話なり、そういうものがないんですよね。でも、歌なんかでは、具体的なことは言ってるけども、直接の関わりはけして持たないんですよね。
● 九三年か、四年ぐらいのところで、もう中森明菜さんとの結婚を諦めたそうですが。
菅谷 もう、あの時点で三年も彼女にかかわりましたからね。で、何しても、全然、なしのつぶてだし。マネージャーとかに、彼女のほうが惚れ込んだりなんかしていますもんで。
● しかしこういう個人的な話をホームページだのでわれわれに読ませてどうしようというんですか。
菅谷 そうですね、私も、自分で作り上げてるんじゃなくて、まさにそうなってたものが、そのように展開しているんですけど。たとえば、誕生日ね、そういうのは自分でコントロールして、そうしようとか、そういうことではないんですよね。
たとえば、聖子さんがサンミュージックにいたとかいうのも、私がそうしたとか、そういうのではないです。まさに、そう、もともとあったものが、だんだんひとつにまとまってきているということなんです。それに従っていくことで、昔から言われてた「岩戸開き」というものが世に示されるんだと思うんですね。
で、これは、ようするに時間を告げるということだと思うんです。時代として。
たとえば、今、平成という時代ですけど、「平」という字は一、八、十と分解できますよね。一、八、十というのは「イワト」なんですよ。で、「岩戸が成る」、「岩戸開きが成る」という、その時代なんですね、今。
それと、ひとつ、ふたつ、みっつという、あの数の数え方に、岩戸開きの秘密が隠されているんです。全部、「つ」を取りますと、「ひと、ふた、み、よ」、つまり人々に向かって、「ふた」というのは「岩戸」ですよね。「見よ」ですよね。
「いつ、む、なな、や」とクエスチョンがつくわけです。神が問いかけているわけですね。「いつ、む、なな、や、ここの戸を」、全部「つ」を抜かして、「十」だけは「つ」がついてませんでしょ。昔、「とを」、「を」で終わらせてたんですね。「つ」を抜かしますと、ひとつの意味ある文章ができるんです。
つまり、神が人々に向かって言ってるんですよね。「人々よ、ここの蓋を見てみなさい」と、「いつ、この蓋を無にするのでしょうか。ここにある戸を」っていう、そういうことを問いかけしてるんですよ。
その「いつ」という問いかけが、今なんですね、「平成」なんです。それは、出口王仁三郎が霊的に仕掛けたカミイチレンの仕組み、それが「岩戸開き」なんですけど、それが弥勒出現ということでなされるんですね。
たぶん、神がそう伝えたいと思うんですよ。私は、その駒としてね……、位置としては中心的なものがありますが。
実はですね、この太陽系全体がオリオン座の光のベルトと呼ばれるところに近づいているんだそうで、もうすぐ、フォトンベルトに、この太陽系が突入するんですって。それは、いろいろチャネリング情報とかから出てきているんですけれども。
そこで波動に乗っていけない人たちは、自己破滅的な方向に、つまり悪の方向に向かってるような人は、分断されていく方向に落ち込むわけですね。だけども、ひとつの調和した存在に向かっている善なる人たちは、このフォトンベルト、その周波数に乗って、肉体、霊の境を、岩戸を超えてですね、その次の時代に入っていけるらしいんですよね。
それで神として、もっと善なる方向へ向かいましょうよというメッセージがあると思うんですよね。
● 「情報は所有できないから流通させるべきだ」とおっしゃってますね。
菅谷 それは昔から思ってます。なぜなら、なんか友達に聞いても、みんな秘密にして、いろんなことを教えてくれないじゃないですか。私も、スブドの中でそうだったんだけど、結構、そうやって排斥されているようなところがありましたのでね。もっと、いろんなことを言い合ってもいいと思うんですよね。
なんか自分だけ言ってるばっかで、相手が何も教えてくれないんですよね。で、私の知らないところで、私の結婚を妨害だとかしてね、そういった情報をいっさい隠蔽してるんですね、みんなでね。そんなふうなことがあったんで、なんか、もっと情報をね、という気持ちがあったんですけど。
○ 結婚の相手というのも、隣近所に住んでいる人というのでは駄目なんですか。
菅谷 それは、私個人としては、べつにかまわないんですけどね。やっぱり、なんか、このですね、恐ろしくなりそうな、こういうつながりの上でですね、昔から継承されているものがあるもので、これを無視しちゃ、ちょっとまずいんじゃないかなという。
○ ホームページに載せている手紙は、そこの所属事務所に郵送はしてるんですか。
菅谷 そうです、郵送してます。で、いろいろ彼女も、歌としてね、反応してくれております。「めぐりあえたね」とかね、そういう歌とか……、当時の、いろんなCDに盛り込まれていると思うんですけれども。
でも、あまり芸能活動で反映してほしくないというのかな、もっと直接会って、直接、その彼女と話をしたいということで手紙を出していたんですけど、全然、やっぱ駄目ですね(笑)。
実は、自費出版した『愛の奇蹟』は芸能人にも配ったんです。工藤静香さんに与えた三冊は、そのうち、一冊を中山美穂さんで、一冊は誰かほかの人。荻野目さんは、また別の二人に、明菜さんは小泉今日子さんとアン・ルイスさんに渡してるんですね。分析によって、そういうことになってるんです。その当時の、いろんな動き、たとえば、その三人で、一緒になってテレビに出て、で、なんか、三人揃って、それらしい、明らかに私の本をこの二人に渡したんだよ、みたいな、本人と一緒に、その二人が出ていたりするんですね。
で、聖子さんに渡した一一冊は、西田ひかるさんと堺正章さんとタモリさんと生島ヒロシさんと、こういうように名前を列記してお願いしたんですよね。そしたら渡してくれたみたいで。いろいろ内容的に反応してくれるんですね。
● ふつうの女性とは、情報がないからつきあえないとおっしゃってますね。
菅谷 ええ、やっぱり地の神様、それを担っている人、母親の名前が千恵子だの、千都子だの、そういう名前でないといけないとか、あるんですよ。そういったデータがはっきりしてないと。神示には三〇〇〇年の神仕組みとか言ってますからね。その責任を感じますんで。そういうデータが合えば、その人でも、もちろん結婚相手として見るんですけど、そういうのが、ちょっとわかりませんからね。
● これまで生身で好きになった人というのはないんでしょうか。
菅谷 もちろんおりましたけれども。恋愛関係とかにはならなかったですね。一年に何回話をしたみたいな、そういう感じです。
スブドのほうでは、二人いたんですけど、その二人とも、その数字みたいなつながりあったんですけどね、それで、結婚相手として、接近もあったんですが、妨害とか、そういうのがひどかったんで、ちょっと、私がいやになっちゃいましてね。
でも、ある人が結婚というか、女性に接近すると、ほかの人が必ず妨害しますよね。なんででしょうね、結婚を妨害しますよね、かなり辛辣な妨害を。裏でなにやら、言いふらしてるんですよね。で、その内容を教えてくれないんです。無慈悲ですよ。どうして、そういうことを妨害するのかなあと思うんですね。
○ 菅谷さんにとってホームページを作るということの意味は?
菅谷 神示にもありますが、とにかく表に出るということがひとつの課題になってるんですよね。今の、表に出れないで、悶々としている状況というのが、岩戸で塞がれているという状況と対応してるんですね。それを開けて、外に出るということだと思うんですけれども。そのために、いろいろホームページを作ったり、公表みたいなことをやってるんですね、こういう事実があったということで。その方面の研究者や興味ある人をメインに、対象みたいな意識がありますけど。
● 「表に生きる」というのは、どういうことなんですか。
菅谷 ようするにメジャーな、社会的にメジャーな存在になるという方向だと思いますね。で、それは今までの自分としても納得できるんですよね。スブドなんかでも、いろいろ、なんかあると、私に関係することはすべて隠蔽されているんですね。
● 社会的にメジャーになるというと?
菅谷 そうですね、形はとくにこだわってないのですが、課題が自分には与えられているんですよね。それを果たさなくちゃというのが、まずあるんですよね。
いちおう自分も、芸能の事務所に属しているんですよね、いちおうタレントなんですよ(笑)。で、いちおうテレビとか、二回ばかし出たんですよね。
テレビステーションというのがあって、オーディションを受けに行って、で、登録したんですよ。三八万とられましたが(笑)。
● それは、タレントさんの世界に、少しでも近づきたいということなんですか。
菅谷 そうそう、やっぱり表に出るぞというか、表に出なくちゃということで。
今回のご縁も、表に出る貴重なご縁をいただきまして、ありがたい限りでございます(笑)。
拝啓菅谷さま
やはり、まず書いておくべきでしょう。ぼくはあなたの理屈がさっぱりわからない。いや、わかんないというわけではない。逆にわかりすぎるくらいわかる、というのが正確だな。ぼくだけじゃない。世間一般から見ても同じでしょう。あなたの展開なさっているような議論を、通常は「我田引水」ともうします。
でも菅谷さん、あなたご自身も、そろそろそれを薄々感じ始めているのではないでしょうか。
名前をローマ字にしてそれを数字にしてみたり、あるいは誕生日を西暦や元号で書いてみたり、そしてその数字を足してって、たまたま一致した――それがどうしたんですか。
だって数字は10個しかないんです。足したりかけたり割ったりしていれば、そのうち同じような数字に到達します。必ず。小中学生の時に、やりませんでしたか? 切符についている通し番号を四則演算だけで10にするゲームを。しかも菅谷さんのように、番地から誕生日から名前から、手あたり次第に動員していれば、たいがいの人とたいがいの関係は結べるでしょう。ついでにご両親まで動員すれば、もう何でもあり。さらに、東京の電話番号が8けたになって頭に3がついた、なんてのまでかり出せば(でも菅谷さんは埼玉の人ではないですか)、どんな話だってできる。
気持ちはわかんないでもない。みんなそれなりにラッキーナンバーとか姓名判断とかやりますから。ぼくは昭和三十九年三月十三日生まれなので、なんか十三という数が出てくるとなんとなく親近感をおぼえてうれしかったりします。好きな女の子と相性診断をやって、バッチリだと、もう「やったぁ!」という感じになるのは、こりゃしょうがない。
でもそれは、ぼくがその相手に特別な感情を抱いているからこそ、意味ありげに思えるだけなんです。それを根拠に相手にせまったとことで、相手は「こいつはアホか」という顔をするだけです。
なぜかといえば、そんなのは無意味だからなのです。同姓同名の人はたくさんいる。誕生日が同じ人もいる。たぶん菅谷さんの要求する「三重のシンクロニシティ」(三十だっていいんですが)なんて、ほとんどだれを相手にしてもでっちあげられるからです。
そういうラッキーナンバーだの姓名判断だの相性診断だのが何のためにあるかといえば、一つには暇つぶし。一つにはちょっとした話題。そして一つには、具体的な行動(告白するとか)のためのきっかけや心の支えみたいなもんです。「思い切っていけ! 絶対だいじょうぶだから」と言ってくれる友だちの声援みたいなもので、あまり根拠はないのはわかってるんだけど、まあ空元気がつくからありがたい――そんなものです。
それを自分の世界の中心にできてしまえるというのが、ぼくにはわからん。そしてこの何十年にわたり、まったく何の成果ももたらさなかったその信念を、疑問にも思わずに未だに持ち続けられるというのもわからん。
だいたい、なんのかの言いつつ、あなたのおっしゃってることは何もかも「わたしがわたしが」で自分のことばっかではないですか。そりゃみんな、自分はかわいい。自分が特別だと思いたい。人の評価ってのは、その人がなにをするかで決まるんです。出口王仁三郎が、弥勒が出現する云々と言うとき、それは別に誕生日たの名前だのをいじくったら五六七の数字になるとかいうことを言ってるのではなくて、実際に何かことを起こして世界を救う力の持ち主があらわれる、ということを主張したいわけです。
菅谷さんはご自分が弥勒だとおっしゃる。はあはあ。それは結構。しかし弥勒ってなんだかわかってるんですか。弥勒として、あなたは一体この世で何をなそうというのでしょうか。迷える衆生にどのような救いをもたらそうというのでしょうか。そしてそのためのどんな力をあなたはお持ちなのでしょうか。どんなビジョンをお持ちなのでしょうか?
なんとか十字とかいうのが本当なのか、どっかの宗教でどんな扱いを受けているのかは興味のないことです(が、どんな宗教でも菅谷さんの考えてらっしゃるほど脳天気な代物ではないでしょう)。でも本来、それは結果としてそうなっていただけの話。他人に対して影響力を持つような行動をとった人について、あとから考えてみたら、そういえばいろいろ思い当たるふしがあったなあ、という話でございます。行動と影響力のほうが先にくるのです。悟りを開くと耳たぶが長くなるというような言い伝えがありますが、だからといって、ピアスマニアがやるみたいに耳たぶをのばせば悟りが得られるか? そんなこたぁないのです。
『愛の奇蹟』を拝見する限り、菅谷さんは特にこれといった力もビジョンもお持ちではないようですね。過去生を思い出したとか宇宙意識に吸い込まれたとか、ご大層なことをおっしゃる割には、小心でチマチマした共産党のおばちゃんみたいなお手軽道徳がかすかに見受けられるだけ。そして弥勒だなんだというスゲー話をして、それで何をするかというと、それがひたすらご自分がテレビで見かけたアイドルタレントにすり寄りたいという、己の卑しい性欲の正当化に注がれる。しかもその手段が星占い相性診断に毛もはえないような代物。情けない。
他人が弥勒だというのであれば、証拠をみせるべきだ、と菅谷さんはおっしゃってますが、甲斐より始めよ。誕生日だの名前だのどうしたとかいう段階をこえて、末法の世を救うに足る資質を世に証明なさってはいかがでしょうか。そのほうが、松田聖子も工藤静香もかえってなびきやすいと思いますよ。芸能人どもが新興宗教に弱いのは、女性誌の熱心な読者たる菅谷さんなら百もご承知でしょう。連中は水商売なので、なにかにすがりたくてたまらないのですから。
でも、そろそろそこらへんにはお気づきなのではないかと思うのです。さもなければ、まあ言うだけ無駄かな、という気はしないでもありません。あなたは基本的に、聞く耳もたない人なのですから。そして、それがおもしろいところなのです(悪い意味で)。
だいたい、ぼくは別に菅谷さんなんかどうでもいいのです。世の中にはいろいろな人がいます。菅谷さんみたいな人、というのはつまり、自分が弥勒だとおもってる人とか、中森明菜はオレのもんだと思ってる人とかですが(それを結合させた人というのは、世界広しといえども菅谷さんくらいかもしれませんが)、そういう人だってたくさんいます。
で、そういう人々が、これまた菅谷さんと同じように、ホームページなんかをこしらえたりして、しきりと「情報発信」したりしています。やれやれ。
そのほとんどすべてが、だれにも省みられていません。当然でしょう。だってそんな「おれがおれが」のご当人にしか関係ないような話を、なにが悲しくて見なきゃなんないのでしょう。それがぼくに何を与えてくれるとゆーのでしょうか。
にもかかわらずみんなシコシコのホームページづくりに励むわけです。だれかが見てくれるのではないか、だれかが賛同してくれるのではないか、という淡い期待、またはこれだけは伝えなくてはという、だれにも共有されない義務感をもって。
でもある意味で、これは大きな進歩なのです。それはまた、「民主主義」の問題に通じるものでもあるのです。
多くの人は、ボスニアやルワンダやカンボジアで殺し合いが起きているのは民主主義が貫徹していないせいで、普通選挙を実現すれば平和になると思っているのだけれど、そんなのはウソです。民主主義ってのは、投票しましょうとかいう手続きの話だけではないのですもん。民主主義とは基本的に、ある決まった権威やプロセスを認めないで、いったんみんなが同じ立場だというところから合意をつくっていきましょうという話。だからいままで発言の機会がなかった派閥が、これからは民主主義です、みんな対等です、言いたいことを言っていいのですと言われて、みんな一斉に情報発信を始めるわけです。
ところがそれが一向に受け入れられない。発信しさえすればいいと思っていたのに、やってみたら全然勝手がちがう。自分の発信する情報は見向きもされないのに、あっちのほうではバカな(と自分には思える)連中がトンチンカンな(と自分には思える)ことばっか言って、それが許し難いことに人気を博してしまっている。
ある人はそれを、「敵」のせいにするでしょう。だれかが悪質な妨害をしているから、自分の発信した情報が受け入れられないのだ、と。ちょうど菅谷さんが、小室哲哉がご自分のじゃまをしていると思ってるように。そしてもちろん力があれば、その「敵」を是が非でも懺滅しようと思うでしょう。いま世界で内戦の起こっているところは、ほとんどすべてが新興「民主主義」国なのは、そういうことなのです。
インターネットの、特にホームページのすばらしさは、原理的に「悪質な妨害」がむずかしいことがあります。これまでは、メディアは少数の人々におさえられていました。その業界にいるやつ、すでにそことコネのあるやつが自分を妨害していると考えるのは簡単です。
しかしホームページでは、そういう主張は通りません。実際に、これまではメディアに載らなかったようなものが、ホームページとして莫大な人気を博している例は無数にあります。逆にいえば、発信したものが受け入れられないのは自分のせいなのです。
実はそれは、これまでのメディアでも同じだったのです。「中身さえもってれば、メディアのほうから頭下げてやってくる」とはよく言われます。そうならないのは、自分が発信したがってる情報が、あまり価値のないものだったか、あっても浸透するのに時間がかかるものだったからなのです。
つまりインターネットが(学ぶつもりのある人には)教えてくれることは、コミュニケーションの双方向性という、本当はあたりまえであるべきことなのです。情報「発信」は、簡単なことです。むずかしいのは、それを受信してもらうことなのです。そしてそのためには、発信する価値のある情報生産力を持つと同時に、自分もまた受信する能力をもっていなくてはならないのです。
ここでいう情報の受信というのは、「メールください」というボタンをこしらえとくことじゃない。自分の発信した情報が、受け手にとってどういう価値を持っていたか(いるか)というのを評価し考えることなんです。そこでは、「情報がない」「反応がない」というのも情報なのです。そしてそれにあわせて自分(の発信する情報)も変えて行かなくてはならない。それがコミュニケーションとゆーもんなのです。
菅谷さん。あなたは、非常に臆病な形とはいえ、これまでも現実の世界に対して、ジャリタレどもにレターを書いてみたり、変な本を自費出版してみたり、そしてパソ通やホームページづくりに手を染めてみたり、と情報発信を試みてきました。そして、それに対する反応がない、と悩んでおいでです。
残念ながら、そうしたタレントたちからは、これからも決して手紙や反応がくることはないでしょう。だって彼女たちは菅谷さんに応答すると、何かいいことあるんですか? ぜんぜんないじゃないですか。
そして反応がなくても、菅谷さんは方向性を変えようとはしていませんでしたね。同じ方向をひたすらつき進めて、しばらくしたら相手を変える。でも、それがいま、そろそろ行き詰まりを迎えているのではないか。お話を聞いていて、そのような気がいたしました。何か新しい展開を考えておいでとのこと、そして今までとは少しちがう行動をとりだしていること、そこらへんにその兆候が見えています。
ただ、菅谷さんのような方が公開しているホームページには、別の意義(そう呼んでいいものなら)がないわけではない。ぼくが中学の頃にはやった、ポリスの「孤独のメッセージ」だっけな、そういう曲があります。無人島にいる男が、救いを求めて毎日毎日びんにメッセージを入れて海に流します。くる日も、くる日も。だれかがそれを拾って読んでくれることを祈って。いつか、救いがやってくるというかすかな希望にすがって生きています。
でも一年たったある日、その島の浜辺に、同じようなびんに入ったメッセージが幾百億も流れついているのです。みんな(おそらく)自分と同じように救いを求めて。
相手のいない、無数のメッセージが漂っている浜辺――いまのインターネットは、だんだんそういう状況になりつつあります。これは別に目新しいことじゃない。菅谷さんがやっていたような、お手紙だの自費出版だのビラまきだのはこれまでにもあった。でもいまのインターネットの持つ一つの意義は、そうした相手のいないメッセージ群をわれわれが目撃できてしまう、ということです。そして「孤独のメッセージ」の主人公がその無数のメッセージが詰まったびんを見て、「孤独なのはぼくだけじゃない」と思い、少し救われる(あるいは絶望しきる)ように、お互いに孤独であること、救いがないことを知りつつ、それが自分だけでないことを確認することでちょっとだけ気がまぎれるわけです。が、一方でそれは不毛でもあり、悲しいものでもあります。お墓参りのように。以前にこの別冊宝島で、インターネットはお墓のようなものになるかもしれない、と書いたことがあります。情報を一切受信することなく、ひたすら発信してばかりいる無数のページ群。それは本当に、墓石にいちばん近い存在なのです。
十年以上におよぶコミュニケーション不全の時期を経て、菅谷さんはやっとその情報発信しかしない墓石(お望みなら天の岩戸でもいいでしょう)の背後から出てこようとしている。少なくとも出てこなきゃいけないなという認識はお持ちになっている。それがインターネットの効用なのか、いい加減もういい歳だからなのかはわかりませんが、ご健闘をおいのりいたしております。
が、こわいのは、その「表に出る」のが非常に屈折したはた迷惑な形で出てくることなんです(その可能性は大いにあるのです)。十年にわたり、墓石の後ろにいた菅谷さんは、いわばゾンビのような存在です。そのゾンビがこの世に戻ろうとして、なにか極端な手に出るのではないか、もっと派手な情報発信をしようと試みるんじゃないか、それだけが心配です。菅谷さんがとらなくてはならない大きなステップとは、メッセージを送ることではなく、それを他人から受けとることなのです。そのメッセージとは、宇宙人の合図やあいまいなほのめかしではなく(かれは宇宙人なんかではないのです)、アイドルがテレビから送ってくる身振りやテレパシーでもなく(それもあなたの想像にすぎないんです)、宗教書の深読みでもなく、まして誕生日占いなんぞではございません。生身の人間が、具体的にあなたに対して告げてくれるメッセージなのです。
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