愛国心をおそれてはいけないよ。

(月刊『スタジオボイス』2006 年 7 月号)

山形浩生

要約: 国がコミュニティの延長だという点は見過ごしてはいけない。人々が協力のために作った社会のまとまりが国だ。それが時に暴走することがあるからといって、国を愛してはいけない、愛することが重要だと教えてはいけないというのは変だ。


 ぼくは愛国心即右傾化だの軍靴の音だのと思ってるやつは、バカだと思うし、プチナショナリズムとやらを憂慮してみせた香山リカその他の人物の物言いは本当にどうしようもないスカタンだと思っている。そういう人々は、そもそも国ってものについて何かずいぶんと変な理解をしているのだ。

 そういう人々の多くは、国というのを何やら自分とは別個に存在するお化けみたいなものだと思っている。隙あらば人々を搾取し、虐げ、抑圧しようとする悪意に満ちた存在だと思っている。でもそうじゃない。国はコミュニティの延長だ。国はぼくたちが所属する社会だ。ぼくが、あなたが、まさに国の一部なんだもの。あなたは自分自身を搾取し、虐げ、抑圧したいと思う? 隣の人にそんなことをしたいと思う? もちろん、中にはひたすら他人にたかって生きようとあれこれ画策する卑しい人もいる。でも、ほとんどの人はそんなことは考えない。だったら、国だってほとんどの場合は、そんな悪意をもってあなたを狙ったりはしていないのだ。

 もちろん、国が人に何かを禁じたりすることはある。でもそれはすべての集団組織や社会に言えることだ。組織や社会というのは、みんなが少しずつ出し合うことで、自分一人ではできない大きな成果を協力して実現するための手段だもの。囚人のジレンマ、というのを聞いたことがあるだろう。みんなが目先の一の利益をあきらめれば、全体として大きな利益が得られる場合は多い。そしてたいがいの場合、その利益はあなた自身が享受できる。

 社会は、そしてひいては国は、そういう協力のための仕組みを集合させたものだ。それをなぜ毛嫌いする必要がある? 長年の過程で、そうした協力を可能にする仕組みができていることに感謝して、それが先に続くようにする――愛国心はそれ以上でも以下でもない。人は社会的な動物だし、いまの世の中で一人で生きることは不可能だ。道路を使い、電気を使い、他人の作った食料を食べ、他人の労働の成果を金銭で取引する。それを可能にしている社会制度の集合が国だ。なぜそれを好きだと言ってはいけないの?

 それは強制するもんじゃない、学校で教えるのはいかがなものか、という変な理屈も知っている。でもちゃんと教えたほうがいいんじゃないか。ぼくがこれまで書いてきたようなことをみんなが黙っても理解しているなら、その必要もなかろう。でも、みんな明らかにわかってないもん。国はいつも自分を搾取しようとしていて、愛国心はそれをごまかすための手口だと思ってるバカがたくさんいる。そんなことないって。愛情や好意に基づく関係は、たかりたかられるだけの関係なのか? 愛するってのはいいなりになるってことなのか? そんなバカな。そもそも大多数の人がひたすら搾取されるだけの社会なんか成立しないのだ。そのへん、ちゃんと教えたほうがいい。世界的に見ても、日本という国の仕組みは結構よく機能している。それは大事にしたほうがいい。愛国心ってのはそういうことだ。

 そしてそれは、そんなご大層なことじゃない。かつてケネディは、Ask not what the country can do for you と述べた。国にたかることばっかり考えてないで、自分が国のために何をできるか考えよう、と。「国」というのが抽象的なら、「社会」を考えよう。「愛」が大仰なら「親切/貢献」を考えよう。自分にできる社会貢献は? 他人にできる親切は? どんな人でも、たまにはゴミを拾おうとか、ちょっとは電車で席を譲ろうとか、ちょっとは他人に親切をしてあげようと思うだろう。愛国心というのは、そのちょっとした親切心の延長だ。前に述べたように、国は自分自身をも含む。だから国を愛するというのは、少しは自分自身を愛してあげることでもある。それができないと、なかなか生きているのもつらかろうと思うんだけれどね。



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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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