連載第?回

ブログのエロチックな欲望構造的魅力についての考察。

(『SIGHT』2005 年 夏)

山形浩生



 ブログなるものがはやっていて(といってもしばらく前に山は越えたともいうが、あまり日本にいないのできちんと把握しきれない)、馬鹿なブンヤが「これぞ人民の声、既存マスメディアを越える新たなジャーナリズムのあり方だ!」と騒ぎながら、その人民の声が自分の思い通りに動かないと、おえらいジャーナリスト風をふかせようとして無様に失敗し、袋だたきにあうみっともない図式がしょっちゅう見られている。真鍋かをりを筆頭に芸能人もいろいろ手を出したとかその手の話もきかれ、いろいろ華々しい。

 ブログというのが何かといえば、まあふつうのウェブページに毛が生えたようなものだ。どんな毛かといえば、日付やテーマによる書き込みの分類整理がしやすく、他人がそれにコメントをつけられると共に、他の人の書き込みからリンクを張りやすく、しかもリンクが張られたことが当人にもわかるトラックバックという仕組みが整っている。その程度のことだ。

 この種の話はしょっちゅう聞かれては風化する。ネットが最初に出てきたとき、だれでもウェブサイトを持てる、といった議論でまったく同じ話が展開されていた。個人の情報発信、上からのお仕着せの情報ではない人々の声が直接届く、多対多のコミュニケーションの世界が実現される、という具合に。

 ただアメリカでは、これがやたらにはやっているし、みんなこれに異様な期待を持っている。9.11同時テロやイラク侵攻のときに、草の根「活動家」たちがブログであれこれ書いて相互リンクしたことで、社会運動的な盛り上がりがあった、ような気がする、というのがその期待の根拠になっている。最初に述べた、ジャーナリストの期待というのもこの手の気分に端を発している。その昔、我が国の第一次インターネットバブルの頃からずっとこの業界にいて、ネット民主制といった夢物語が大好きな伊藤穣一が、ブログがすごい、これが社会を変える、と騒いでいた時期があった。それに対し、そんなのウェブ日記といっしょじゃないか、コメントがつけられるといったって、いろんな個人サイトにあるウェブ日記+掲示板と同じことじゃないか、とぼくを筆頭に一部の連中がかれをいじめたりしたことがあった。でも、最近になって、同じじゃないことに気がついた。それは伊藤穣一が考えていたこととはちがうんだけれど。

 その昔、ネットのオプション価値というものについて文章を書いた。ネットの価値は、少なくとも個人については、ふつうではだれも聴いてくれないはずの自分の声を、ネットなら潜在的にはだれかが見てくれる可能性がある、というところにあるのだ、と。ネット以外では、一般の人が手にできるメディアのオプションは限られている。ちょっとした印刷物がせいぜいだろうか。そしてそれですら、到達相手はたかが知れているし、ほぼ見えている。その範囲に届かなければ――そして届いても思い通りの影響を及ぼさなければ――もうあきらめるしかない。あきらめないことの非現実性は、たぶんだれにでもわかることだ。それは白馬の王子様を待つに等しい。でもネットはちがう。ネットでは、自分のウェブページを作っておけば、潜在的にはそれに答えてくれるかも知れない人、共感してくれるかもしれない人は世界のどこにいてもおかしくない。その人が、1パケット向こうにいるかもしれない。

 もちろん、実際にはそんなことは起こらなかった。人は可能性だけで生きるわけにはいかない。しばらくして何の反応もなければ、やはりあきらめるしかなかっただろう。ただ、それが起こっていないという確証はなかった。自分の書いたもの、作ったものについて、だれかが関心を持っているという最大の証拠は、ネットではリンクを張ってもらえることだった。でも、自分がリンクを張られているかどうかは、なかなかわからない。技術的に工夫をすればある程度はわかるけれど、それができない場合も多い。さてどうしようか。あるいは、自分のものに無理にでも関心をもってもらうにはどうすればよかっただろうか。一番わかりやすいのが、相互リンクという手口だった。相手にメールを出して、自分もあなたに(リンクという形で)関心を持ちます、だからあなたも自分にリンクを張って関心を持ってください、少なくともその形式を整えてください、という形だ。でも、これはなかなか面倒だし、さらには拒絶されるという危険がある。気がつかれていないからリンクを張られないというのは、まだ可能性がある。でも見た上で拒絶されたり無視されたりしたら、その可能性が完全に閉ざされるわけだ。

 おそらくブログの人気は、この不確実性をなくしたところにある。もちろん、簡単に書き込めて、項目ごとの整理が可能だというのは敷居を下げる意味でとても重要だったろう。だがそれが人気を博したのは、トラックバックの仕組みなんだろう。トラックバックを送っておけば、まず相手のところから自分のブログに確実にリンクが張られることになる。拒絶される可能性はない。さらにそれをたどって相手が(そして相手のブログを見に来た人が)見に来てくれることもほぼ確実となる。ということなんじゃないか。ぼくはそう思っている。要するにブログの人気は(少なくとも日本では)相互リンクを自動的に実現してくれることにあるんじゃないか。そして、トラックバックを送られる側は、意識してリンクを張る必要がない。でも、張られる。そこにポイントがある。

 ブログは、ナンパのための情報集めに使われているとまで主張する人がいる。まあもちろん、自分の情報を出す以上、そうした使われ方は当然あるだろう。だがブログには、単にその情報以上に書き手のそうしたものほしさが漂っているようにぼくは思う。自分を表現したいとかその手の話。なんでもいいからそれを聴いてくれる人が欲しいという下心。うまくやれば引っかかりそうな感じ。マクルーハンは、メディアはメッセージだと述べた。ブログというメディアの持つメッセージは、その書き手のそうした欲望なんじゃないか。単に書くだけなら他の形でできるけれど、それを敢えてそうした外部からの介入を受け入れる形式にしておくこと、そしてそれを必ずしも意識していないふりをしつつ提示できること――そこに何か、他人の視線を気にして見て欲しくてたまらないのに、見て欲しいということをあからさまに公言するのは気が引けるといった気分にマッチする形式があるんじゃないか。

 じゃあ社会的な意図とかはどうだろうか。ごく少数の例外を除いて、ブログは必ずしもそんな社会運動に貢献はしていないのは明らかだと思う。レッシグなどを筆頭に、ブログは人々がもっと議論する場を生み出したということ自体がすばらしいのだ、と主張する人々もいる。カメラやビデオの普及は、別にすばらしい写真や映画作品を大量に生み出したわけじゃない。でもそれは(産業的なメリットに加えて)人々の表現機会を増やした。それ自体が価値あることなのだ、とい。でもカメラやビデオが普及した理由はそういうことじゃない。みんなもっと個人的な欲望を満足させていただけだ。おそらくは、ブログの価値や未来を考えるにあたっても、それが満たしているミクロな欲望、そこに人々を集めている誘因みたいなものが重要になってくると思う。

 そしてもしブログという形式が、さっき述べた送り手と受け手の駆け引きめいた欲望のやりとり(現代思想系の人なら、エロチックな欲望の権力関係とでも言うだろう)にあるとしたら、ひょっとして一部でそろそろ衰退が言われるブログの寿命も、結構しぶとく続くんじゃないか。ぼくはそんな気が最近している。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>