連載第?回

未来への妄想――非文字的情報伝達手段としてのデジタル環境

(『SIGHT』2004 年 春)

山形浩生



 バーチャルリアリティ、ということばを、最近は何らかのたとえ話以上の意味ではなかなか使わなくなってきている。昔はみんなでヘッドマウントディスプレイをかぶり、サイバー空間にジャックインしていたものであるのに。変な手袋をはめて、カクカクとポリゴンを動かして悦に入っていたものだったのに。

 ただ、多くの人があのバーチャルリアリティというものの意味をとらえ損ねていたんじゃないか、という気が最近ちょっとしているのだ。多くのバーチャルリアリティに対するとらえかたというのは、現実を離れて仮想空間に入って云々、というものだった。リアルタイムで、別のバーチャルな空間に入る、というのが主なとらえ方だった。そして、もちろんいまの仮想空間はこの現実の空間よりつまらないし、処理速度も思ったほどは上がらない(当時は21世紀になったらみんなバーチャルリアリティしているような雰囲気だったのに)ので、なんとなく廃れてしまった。かつて花盛りだった、ウェブのHTML言語に続くVRMLはどうなっちゃったんだろう。いまちょっと検索してみると、関連団体もジリ貧みたいだし、そういう方面への関心自体が衰退している感じだ。

 それはそれでもったいないことかな、という気はしなくもないのだ。というのも、バーチャルリアリティというのを別のとらえ方で見てやれば、もっとおもしろい可能性があるんじゃないかという気がするからだ。

 ぼくたちの文化が、文字というものの成立によって大きく変わったのは、だれもが異論のないところだろう。それまでは、たとえば稗田阿礼が古事記を全部暗記していたように、一部の特殊技能を持った人によってしか情報というのが長期間伝達されることはなかった(もっともそれが特殊技能かどうかはよくわからない。文字がない時代には、普通の人でもかなりの記憶容量を持っていて、文字による記録ができたとたんにその能力が失われた、という説もある。が、それはさておき)。文字ができることで、初めて情報伝達は人の生物学的な限界を越えた。自分の死んだ後にも情報を残せるようになったわけだ。

 そしてこれまで長いこと、それを実現する方法は実質的には文字しかなかった。そりゃ絵というのはあったけれど、絵を描く能力ってのは文字を描く能力より遙かにむずかしい。文字はデジタル(手書きであっても)だけれど、絵は本当にアナログな世界に入り込む。さらには絵の解釈はとんでもなく恣意的だ。さらには印刷術の発達で、同じ情報を大量の人間に伝える方法もできた。そして、それ以外の方法が実現されたのは、数千年たってやっと20世紀に入ってからのことだった。録音技術、録画技術、放送技術等々。そして、それが実現されてから数十年たって、やっとそれが一般人のレベルにまで降りてきている。いまや、だれでも話し言葉をそのまま記録し、画像を(静止画も動画も)記録し、保存し、配信できる。一時はそれは、デジタルデバイドとか言って、先進国の金持ちの特権と思われていた。でも、ここ数年(もうほんの数年の話だ)における発展途上国の携帯電話の普及ぶりを見ると、インターネットとかパソコンとかいう機器のレベルならさておき、話し言葉や画像の記録と配布という形での情報流通という点で、そういう先進国や途上国の格差というのはだんだんなくなってきている。

 こんなことを考えているのは、文字をベースにした文明の終焉について述べた本を読んだからだ。それはナディン『文盲の文明』という本だ。この本自体は、あまりおもしろい本だとは思わない。でもそこにある洞察は、ぼくはとてもおもしろいと思う。文字は、かなりの努力をしないと習得不可能だ。それに比べて、人間なら普通に育つ過程で必ず言語をしゃべれるようになる。チョムスキー理論にあなたが賛成か反対かはさておき、人が勝手にことばを覚えるという事実はだれにも否定しようがない。いまや潜在的な可能性として、文字以外による情報の記録と伝達を万人が実施する状況が、本当にリアリティを持ち始めているんじゃないか。そして、文字(およびそれを通じた情報の記録と伝達)が人の世界を一変させ、そして人が子供時代の貴重な時間を大量に使って読み書き能力を習得するだけの価値があることだと思われるように至ったのであれば、別の形での情報の記録と伝達手段が日常化することは、もっと大きな変化を人間の世界にもたらしたっていいんじゃないか。

 もちろん、数千年の時をかけて、ぼくたちは文字情報をどう整理し、どう組織すればいいかというプロトコルを作り上げてきた。そして文字情報をえらいものとして祭り上げる文明を構築してきた。それに対して音声や画像のプロトコルや画像整理方法についての話もやっと出始めたばかりだ。でも、それは着実に進歩しつつある。映画やテレビ、各種サンプリングなんかは、音や画像の組織法、整理法なんかについて、とても大きな進歩をとげつつある。いまのところ、まだまともな情報伝達という観点からの整理は不十分で、どうやって感情的なショックを与えるか、といった話ばかりにみんな夢中になっているけれど、いずれそれも変わるだろう。大月隆寛は、別冊宝島の筑紫哲也批判本を作る際に、デジタル化したビデオによる情報の検索や整理方法に感嘆した、とメルマガで書いていた。それはある意味で、文字ではない情報の整理活用手段をぼくたちが手にしはじめている、ということを如実に物語るものでもある。それがぼくたちの文明をどう変えるか――それはまだまるで見えていないのだけれど。

 で、冒頭のバーチャルリアリティの話だ。バーチャルリアリティは、もしいずれ復活するとしたら、音声や画像に加えてさらに身振りまで保存再現できる手段として再登場できるんじゃないか。名人級の職人の技を、バーチャルリアリティを使えばデータとして保存できるんだ、と十年以上も前に言っていたのは、最近あまり名前をきかない大村皓一だった。この発想は、いまにして思うとすごく鋭いんじゃないだろうか。そして、ぼくたちは今や、変な手袋だのなんだのに頼らなくても、身振りの記録を実現できそうな技術を手にしている。ICタグだ。  いま、ICタグによるプライバシーとかが問題になっている。人が何を買ったか、あるいはどこにいるか、そんなことがわかったら大変だ、と言って。けれど、そんなものはいずれ蹴倒される。そしてかなり近い時期に、人がどこにいる、なんてレベルじゃない、一挙一動、指のかすかなふるえからチンコの勃起まですべてが記録できる、そんなことが可能になるはずなのだ。一人に一個だけタグがつくなんていうせこい話じゃない、服のいたるところにタグが入って、そのすべての動きが記録できるような。その記録は、たぶんCGみたいな形で最初は再現されるようになるんだろうけれど、その後はロボットなんかにも再現させられるようになって……

 たぶんそのとき、踊りとか演劇といった、今のところあんまりデジタルしていない芸術分野の意義というのがやっと明らかになってくると思うのだ。ぼくはアートってのは、科学の先鞭をつける実験の役割こそが真に重要なのだと思っているから。そして同時に、裸、という状態の意味合いが、いまよりずっと重要になってくるはずなのだ。ぼくはなんか、その時のセックスが負わされるものすごい意義付けみたいなのに興味がある。デジタルな世界の進歩が、そうやってぼくたちの価値観や行動原理を変える、その変え方に興味がある。それは21世紀中には起きないかもしれない。ぼくが生きている間に目にすることはないかもしれない。でも、超長期的なデジタル世界の影響として、確実に存在している可能性なのだ。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>