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新型 iMac の人間工学的魅力についてなど。

(『SIGHT』2003 年 夏号)

山形浩生



 発売が遅れているそうだけれど、これが出る頃にはそろそろ出荷されているかな。アップル社から新しい iMac が発表された。あの大福餅からろくろっ首みたいなのがのびて、そこにまな板がくっついたみたいなデザインのやつだ。ぼくは結構こいつが気に入っているのだ。ふーむ。最近は Linux と OpenBSD とウィンドウズばっかりで、マックはもう 4 年もご無沙汰ではあったけれど、こいつが安く中古で出回るようになったら、戻ろうかな、という気がしなくもない。

 ぼくがマッキントッシュから離れたのは、確か初代のiMacが出るしばらく前だったと思う。会社がウィンドウズに一斉に移行したのと、あと自宅のマッキントッシュが壊れたのが大きな理由だな。そしてその後、元祖iMacが出て、ああこれでオレはもうこの先マックに触ることはないかもしれない、と思ったのだった。

 いや、もちろんあれは大ヒットしたし、それがアップルの経営的に大いにプラスだったのは事実。でもあれは、かつてのアップルのマシンが与えてくれた驚きはまったく持っていなかった。まあそこそこのものを集めて、ちょっと気の利いたようなパッケージにして、安めに売り出して、というマーケティング的な勝利の産物でしかなくて、決定的なすごさというのはまったくなかった。それどころか、初代iMacのポイントは、そのすごくなさ、だったのね。それはある意味で、パーソナルコンピュータというものがただの家電になっていく過程でいつかくるはずの、もう小手先でしか差別化できない煮詰まった業界を象徴するものだった。色とか模様とか。一体型コンピュータはすでにあったし、それが半透明になる実用的な必然性はなかったし、すべてどこかで見たことのあるものでしかない。ああ、もうついにパソコン業界というのも、この先頭打ちになるしかないのか、という感じがあのiMacでしてしまったのだ。そして、それが他ならぬアップルからきたというのは、年寄りとしてはがっかりせざるを得なかった。アップルというのは、そういう会社ではなかったからだ。少なくともイメージ的には。

 たとえばはじめてGUIというものを普及させてまったくちがうコンピュータの使い方を世に広めたとか、レーザプリンタとの組み合わせでDTPというそれまでなかった新しいコンピュータの応用を生み出したり、あるいはハイパーカードで、いまはみんなが当たり前に使っている「リンク」や「ハイパーテキスト」といった考え方を普及させたり、アップルの発表するものにはそういう新しい提案があった。そのおかげでパーソナルコンピュータの世界そのものが何度か決定的に変わった。それがたまにでもあるからこそ、つまらんできの悪い製品が続いても、多くの人はアップルに対する期待を捨てずにきたのだ。

 そもそも、アップルIIでパーソナルコンピュータというものの基盤を確立し、カラーグラフィクスを実用的な形でパーソナルコンピュータの世界に導入した功績はすごかった。そこまでさかのぼらなくても、マッキントッシュのオペレーティングシステムからきた、マウスによるクリックで操作ができるGUIの衝撃は忘れられない。マッキントッシュがそれを導入しなければ、いまのパソコンの世界はまったくちがったものになっていただろう。

 他にもいろいろある。同じGUIでも複数のウィンドウやソフトを開いて、その間でデータを受け渡しできるという画期的な世界を見せてくれたのもマッキントッシュだった。いまの、3.5インチのフロッピーディスクの導入もそうだ。さらには初代パワーブックが、ラップトップコンピュータのデザインに与えた影響は決定的なものだった。いま、ほとんどすべてのラップトップは、キーボードの手前が広く空いていて、そこに手のひらをのせてキーボードを打つ形式になっている。そしてその真ん中にトラックパッドとボタンがついている。この常識的に考えればあたりまえに思えるデザインを初めてうちだしたのは、アップルのパワーブックだった。それまでのウィンドウズ系のラップトップは、すべてキーボードがいちばん手前にあって、マウスは本体の横にクリップで留めたりするという、いま考えると信じられないような不合理で使いにくい形をしていた。それがパワーブックの登場で、一夜にして(いや文字通り一夜にして)変わった。すべてのラップトップが、アップルの設計を踏襲するようになった。

 でも、ここしばらくそういうのがなくて、多くのアップルファンは、非常に歯がゆい、絶望的な思いをしていたのだ。

 それがこんどのiMacで、多少安心させてもらえたのだ。ああ、まだパソコンの世界全体としても。できることはいろいろあるんだな、ということと、そしてアップルがそれを打ち出す気はあるんだな、ということ。もちろん今回の目新しさは、そんなにすごいものじゃない。でも、既存のものの焼き直しやバージョンアップにとどまらない部分が確実にある。

 まず、まったく新しい形のデスクトップ型コンピュータを提案してくれたこと――これはまちがいなくすごいことだ。四角い箱に、キーボードとモニタが線でつながる、という形と、そのちょっとしたバリエーションを変えるようなデザインを提案できたマシンは、他にほとんど存在しない。丸いとコーナーにおさまらなくて不合理だという意見をいくつか見たけれど、パソコンなんてどうせ四角くても、裏にケーブルをたくさんつなぐから角にぴったりおけるわけじゃない。

 さらに今回のデザインは、単なるマーケティング的な小細工にとどまらない、実用的な意味がある。いろんな紹介記事を読んでもだれも触れないことだけれど、ぼくが今回、いちばん注目しているのはそこのところだ。それはモニタの高さが変えられるということだ。

 いまのデスクトップ型のパソコン――またはパソコン用のモニタ――は、必ずしも見やすくない。画素や解像度の問題もある。でもそれ以前の問題として、姿勢良く正面から見ることがなかなかできないのだ。ほんのごく少数のモデルを除き、モニタの高さは固定されていて、せいぜいが角度を変えられるくらいだ。でも角度をつけるとこんどは天井の明かりが映りこんで見にくくなってしまう。だから多くの場合、モニタは机上のかなり低い位置に、比較的垂直に近い角度で置かれる。必然的に人は猫背にならざるを得ない。そうならないように、ぼくは液晶ディスプレイの下に台を積んで、極端に首を曲げなくても画面が見られるようにしているけれど、それはそれで台がじゃまだったり、不安定だったり、いろいろと不具合がある。それを解消すべく、モニタをのっけるアームや専用デスクが売られていたりするけれど、きわめて高価なものが多い。それが新しい iMac で、ふつうのパソコンで初めて、モニタの高さが当たり前のように変えられるようになった。

 多くの人は、まだそれが重要なことだとも思っていないようだ。でも、たぶん長期的に効いてくるのはそういう細かい人間工学的な差なんだよね。いずれこれがあちこちで導入されてふつうに使われるようになってきたとき、それはいままでのデスクトップ型パソコンのありかたに、大きな違和感を導入することになるだろう。パワーブックがラップトップの設計を変えたように、その違和感はデスクトップの風景を変えることになるかもしれない。もちろん、それだけだとちょっと淋しいんだけれど、まあしょうがない。それに他にもいくつか噂が聞こえてきている。煮詰まっていそうに見えたパソコンの世界も、もうちょっと変わる余地があるようだ。この記事の掲載号が発売される頃には、その影響がだんだんと感じられるようになっているかもしれない。息切れ気味のIT業界でも、まだできることは結構あるんじゃないか。そしてそれができるというのは、やはりアップルは(かつてほどではなくても)えらいな、と思うのだ。

(コメント:その後、各社の液晶モニタの多くには高さ調整機能がつくようになって、大福 iMac のありがたみも減ってしまった。)

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>