Valid XHTML 1.0! Sight 5 号 (2000.9 刊行) 書評:連載第 5 回

福祉、家族、セックス。

ゲスタ・エスピン=アンデルセン『ポスト工業経済の社会的基礎』(桜井書店)
ベイカー『セックス・イン・ザ・フューチャー』(紀伊国屋書店)

山形浩生


  いまのアメリカ大統領戦でも大きな争点の一つだし、ある人はいまの日本の不況の本当の原因もそこにあるというのだけれど、いま世界の先進国は高齢化しつつあって、一方それに対する社会保障の破綻は目に見えてきている。年金や社会保障のもとの想定とはうらはらに、先進国の人口は減少トレンドに入ってきている。資産運用も、年率5%でまわせる安全な資産なんてない。

 というわけで、どうしよう。さらにもう一つ。世の中年寄りは増えているけれど、それだけじゃない。年寄りだけを楽にしたら、ほかのところにしわ寄せがいくだけで、そんな状況は絶対に続かない。だから社会全体としてどうまわすのか、ということをきちんと考えないと話にならない。これは要するに、社会全体としての福祉をどう考えるのか、というお話だ。

 この社会全体としての話、というのは、言われてみればあたりまえなんだけれど、実はきちんと考えている人はとっても少ない。たとえば年金の話となると、みんな基本的には帳尻あわせに精を出すだけ。これはつまり、払い込み負担を増やさせるか、支払額を削るか、あるいはもっとヤバイけどでかく儲けられる投資に手を出すか。福祉というと、スウェーデンはすばらしい、国がもっとなんとかしろ、でも税金は上げるな云々。家庭だと、しつけがどうした父親の復権。みんな、自分の目先のことしか考えてないわけだ。

ポスト工業経済の社会的基礎 で、ゲスタ・エスピン=アンデルセン『ポスト工業経済の社会的基礎』(桜井書店)。これは珍しく、社会全体の話をきちんと考えている本。しかもきわめて明快。

 かれの主張は簡単で、世の中に福祉を提供できるものは3通りある、ということ。それは労働市場と、福祉国家と、家庭だ。とりあえず職がある、というのはある人の福祉にとって重要だし、それに企業なんかでは福利厚生もある。国家は、まあ言うまでもない。教育を提供したり保健を提供したり、失業保険をだしたり、いろいろある。そして家庭はもちろん育児や教育の一部やその他各種の福祉を提供する。

 そして国や文化ごとに、この3つを組み合わせて福祉を最大化する方法はちがう。さらにこれらは相互依存しているので、ある部分だけスウェーデン式に、なんてのは無理で、バランスを考える必要がある、という話。

 これだけ読むと「あたりまえだろう」と思うでしょう。でも、このあたりまえができている論者って、実はほとんどいないのだ。さらにこの本がいいのは、このあたりまえのことをなるべく定量的に実証していること。そしてそれをベースに、本書はとってもシンプルな将来への見取り図を描いてくれる。

 まず労働市場は、弾力性と労働需要が必要で、新規の労働需要はサービス産業から生まれるしかない。次に福祉国家は、既存の保護をやめて硬直しすぎた部分をなおすべきで、あともっと税収がいる。それには就業者がもっと増えなきゃいけないし、出生率があがって人間が増える必要がある。そして家族は、適正な所得と雇用がないとダメで、そのためには稼ぎ手が一人の家族形態はもうつらい。

 そしてここから出てくる結論。女をもっと働かせろ。女に賃金労働をさせて税金をガバガバとれ。そのほうが、家庭の所得も安定する。そしてそのためには各種の育児サービスが必要になってくる。新規の雇用はそこで確保しろ。同時に流動性を高めて、さらにそのベースとなる教育をもっと使い物になるようにしろ。

 言ってしまえばこれだけの話。しかし具体的にどうそれを実現するか? どうそれをバランスしていくか? 家族がどう変わり、この先どうなるか。労働市場がどう変貌し、各国の方式がどういう成果を挙げているかを本書はきちんと描き出す。さらにこういう変化にいちばん反対するのは、いまの中位層だから、それを政治的におさえなきゃならない。この本は、そういうところまで課題として考えている。

 あと、この人が安易に NGO とか NPO を持ち出さなかったことに驚いた。いまちょっと流行に敏感なツラをしたい論者はかならず NGO とか NPO をほめたたえる。ところがエスピン=アンデルセンはこう語る:

「その役割が周辺的なものにとどまらないとすれば、それは国家からの補助を受けて、半公共的な福祉供給エージェンシーとなっているからである」

 おお。

 骨太で、実証的で、実に地に足のついた議論。実は家族の将来の話とか、結構すごいことも書いているのだけれど、それがまったく違和感ない。すごいね。訳者はこの本を「学問的な試みとして捉えることがなによりも必要」なんて書いて、たこつぼ学者の馬脚をむきだしにしているけれど(でも訳は非常にきれいで読みやすいのが救い)、なに言ってやがる。これはすぐさま一般の人や政策の実務担当者が読んで、実際の政策の中で活かすべき内容だ。

 さてそこでも採り上げられていた家族に関わるお話。

 家族というのはまあ、かなりの部分で再生産と育児のための仕組みで、それはまた生物学的に自分の遺伝子を残すという意義も持っている。いろんな生殖テクノロジーが今後実用化されてきたとき、家族はどう変わるだろうか。そしてそれに伴って社会はどう変わるだろうか。

Sex in the Future  それを描いたのがベイカー『セックス・イン・ザ・フューチャー』(紀伊国屋書店)。DNAによる父親判定、代理母、試験管ベビーからクローン。それがライフスタイル的にどのような影響をもたらすか。この本はまず、小説仕立てでそうしたテクノロジーの与える影響を読みやすくまとめてみせたうえで、そのテクノロジーの具体を説明してくれる。ライフスタイルを伝えるという点で、非常に成功しているのではないかな。  さらに本書の大きな特徴は、こうしたテクノロジーの進歩を何の留保もなく肯定的に捉えていることだ。

 どのようなテクノロジーを使おうと、生まれてくる人間は人間。「不自然」とか「人間の尊厳」というのはまったく無意味、というのが著者の主張。たとえば将来、クローン人間ができるようになったとしよう。でも、そのクローンでできた人間そのものは、ふつうの人間だ。不自然な人間でもなんでもない。クローン羊のドリーは、クローンだけれどふつうの羊だ。

 本当に子供がほしい(あるいは優れた子供がほしい)と思う人々の欲望は本物だし、それに比べれば尊厳だなんだという議論は空疎な感情論だ、と著者は主張する。尊厳ってなんだ。自然ってなんだ。しょせん人間なんて、不自然なテクノロジーに山ほどすがらなきゃ生きていけない存在じゃあないか。

 たぶんかなりの人にとって、これはとても粗雑な議論に思えるだろう。生命倫理の人は、これは優生学につながり云々かんぬん、とご託をたれる。

 でも……ベイカーは正しい、というか、子づくりで病気にかかりやすい子とかかりにくい子供とで選択の余地があるとき、かかりにくい方を選ばない人がいるだろうか。そしてもしそうなら、本書に描かれたことは、現実化するしかない。だれがどう反対しようとも。唯一言えるのは、たぶん本書で描かれた以上の(今の感覚ではグロテスクな)事態がその周辺で起きるだろう、ということくらいだろう。それでも何も止まるまい。  たぶんもう30年もする頃には、こういうセックスの変化もふまえたうえで家族を考えなおさなきゃならなくなるし、その中で福祉のあり方もまた変わってくるはず。ただ、この『セックス……』に描かれた家庭像と、エスピン=アンデルセンの主張というのが、実は結構相容れるものだったりするのは、なかなか意味深ではあるな。

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