□■□■□■  Entropic Forest ■□■□■□

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連載 第 07 回

部屋。


山形浩生

 このがらんとした入り口につく頃には、もう頭の中はあのことだけ。これから始まるすごいアレ。考えるだけで、首の後ろから脊椎にうずくような震えが走り、手指の付け根からつま先まで、関節という関節がうずく。ドロドロのやつ。毎週水曜日。朝にクスリが届く。仕事が終わってそれを飲むと、夜な夜な草原を跳ねるウサギの夢なんぞを平和に見ていたやつはどこへやら。ものの数時間で息は荒く、目が血走り、鼓動がはやくなってくる。アレしか考えられない。

 だからここへやってくる。

 決して安いとこじゃないけれど、さいわい国から半額補助が出る。週一ならなんとかなる。でもいまは金どころじゃない。

 唯一見かける警備員も、やつの方は見ない。エレベータにカードを差し込むと黙ってドアが開く。何の操作もない。乗り込んだエレベータが勝手に止まり、下りて歩くうちに開いたドアの前に出る。いつもこの緑の階で、いつもこの同じ部屋。オレンジの階はどうなってるんだろうか。ほかの部屋はどうなってるんだろう。だけれど、いまのヤツにはそんなことを気にしている余裕はない。五年間、もうほぼ毎週。考えることは何もない。

 開いたドアの中は、むきだしのコンクリート壁が四方にあるだけ。天井には蛍光灯。窓もない。でもとまどうことなく、入って、戸を閉める。同時に明かりが消える。

 真っ暗な中、しばらく息をはずませて立っている。やがて、ゆっくりと手探りで壁に向かう。今日はどこだろう。数歩で手近な壁にたどりつく。それを撫でる。探す。最初はひたすらコンクリートのてざわり。どこだ。どこだ。ゆっくり、ゆっくり指先に神経を集中しながら壁を探ってゆく。

 あった。この指先に触れるこの質感。毛皮。これだ。この感触。もうそれだけで背中がうずいて全身が総毛立つ。鳥肌もんの戦慄。そっと、それを逃がさないように、輪郭を確かめてゆく。するとだんだんそれが広がる。指先で触れる。手の平で、手の甲で触れる。なで回す。ちょっとした毛皮の固まりが、だんだんぬくもりを帯びてくる。壁の平面だったのが、だんだん隆起してくる。それが脈打ちはじめる。細かい微小組織も、指先に感じられるようになってくる。ああ、まちがいない。そこから手をはなさないようにしつつ、やつは少しずつ服を脱ぎ始める。手首でそれにふれ、腕、肩、胸でもふれてゆく。ああ、勃起した乳首が、柔らかい肉塊みたいな毛皮にふれる。腹。腰。もう全身を覆うくらいに広がっている。白いウサギの毛皮。壁の鼓動。自分の鼓動。なんだかもうわからない。

 ほとんど全身で、壁と交わりながらも、まだ探す。しばらくするうちに、それは向こうのほうからやってくる。壁のあえぎを頼りに、からだを移動させる。いまやあえぎが四方からせまり、部屋全体があえぎつつ迫ってくる。

 やがて、からだのどこかが、裂け目を見つける。

 ちょっとしたひっかかりだ。でもふれた瞬間に、部屋全体がヒクつく。ああ、ここだ。毛皮のない、ぷるぷるの肉の裂け目。なま暖かい、湿潤な裂け目を、ゆっくり引き裂くように開く。部屋の息づかいが激しくなる。部屋が四方から、もみしだくように迫ってくる。指で、口で愛撫しつつ裂け目にゆっくりと没入する。まずは指から、そして腕が丸ごと中に入る。ちょっとした抵抗のあとで、逆に壁の方がそれをくわえこみ始める。中はもっと粘液質のゴムみたいなうごめくなま暖かい組織。それが、壁の毛皮といっしょになって、もう全身がすきまなく部屋に覆い尽くされる。どこまでが自分かもわからない。腕、肩、頭、そして胴体も脚も、全身がやがて裂け目に吸い込まれてゆく、ような気がするが、もうわからない。うめいている。部屋か自分かもわからない。

 そして――いつしか頭の中が真っ白になって、体液がいっせいに放出される。汗腺が、唾液腺が、睾丸が、すべて一滴残らず壁にしぼりつくされる。

***********************

 ふと目をさます。全裸だ。壁はそっけないコンクリートのまま。いくらさわってみても、すみずみまでただのコンクリート。なんの変化も起きない。ほんとうにあれは起きたんだろうか。でも、だれにも聞けない。

 下りのエレベータの中で、珍しく別の人と出くわした。目があって、お互いにあわてて視線をそらす。




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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@mailhost.net)