Valid XHTML 1.1! cc-by-sa-licese

言語表現の現実味

(『群像』1990年夏?)

山形浩生

要約: 語尾の「さ」「よくってよ」といった不自然な、通常は絶対に口にされない表現が大手を振ってまかり通っているのはなぜなのか。多くの物書きが現実の観察を怠っているから、そういう現実にない表現も平気で使えてしまうのだ。




 特に名文家でもないし、海外の出版状況に詳しいわけでもないし、ぼくが翻訳者としていささかでもセールスポイントがあるとすれば、機械的な訳の処理と、科学技術に対する常識(この世には、電球の仕組みすら知らないとおぼしき物書きがゴマンといる)と、そして人の会話の現実味だろうと自分では思っている。翻訳を何か文学的な営みだと思っている(思いたい)人間にとっては、機械的な訳の正しさというのはわかるまいが、これについてはまた別の機会に触れよう。ここでは人の会話の現実味について書く。

 トマス・ピンチョンも「スロー・ラーナー」(この邦題は何とかならなかったんだろうか)の序文で、この会話の現実味の問題について語っている。彼にいわせると、それは何よりも耳の問題で、誰がどういう状況でどういう口をきくかを、現実のシチュエーションの中でどれだけ事例として把握しているか、という、いわばデータベースの問題なのそうだ。ピンチョンが主に問題にしていたのは方言の扱いなのだが、これは口語すべてに適用可能な考え方だ。耳と同時に、口の問題でもあるように思う。特に言文一致が徹底していない日本語では、口は非常に重要なのではないか。つまり、自分がそのせりふを口に出してみて(あるいは人が口にするのを耳にしてでもいいが)、恥ずかしくないかということを考えるべきではないだろうか。

 たとえばひと昔前の小説や翻訳を見ると、女がしょっちゅう「~あってよ」「~なくてよ」という口のきき方をする。「それはキャベツじゃなくてよ」「あたしにだってプライドがあってよ」という言い方。文を読んでいてこういうせりふに出くわすと、頭皮がひきつれるような感じがして冷や汗が出てこないだろうか。いったいどこの誰がこんな口のききかたをするんだ? さすがに最近は減ってきたが、それでもハーレクインなどのカテゴリー・ロマンスではまだときどきお目にかかる。ちょっと気取った語り口として使用されているのだが、逆にアナクロな雰囲気を強めている。

 こうした用語法の歴史や変遷について、何らかの研究がなされているかどうかは知らない。もしやるとすれば、文書記録だけでなく、日常的な場での会話や口語の記録(できれば録音など)が必要となるだろうし、それをどう入手すればいいのか、ちょっと見当がつかないけれど、おもしろい研究になると思う。現実にはまったく使用されないことばが、なぜ文語では口語的表現として流通しているのか。かつては日常的に会話のなかで使用されていたものが、やがて廃れ、変化の比較的遅い文章の世界だけでまだ生き残っている、ということなのか、それとも最初から文章の世界だけでそういう用法が成立したのか。その研究の核となるべき表現が「~さ」というヤツである。

 「~さ」とは、たとえば「そんなの誰でもやってることさ」みたいな言い方で使われる「~さ」だ。始終みかける表現だし、読者の中で愛用しておられる方も多いかと思う。この表現には、日本語の文末の乏しいバリエーションを増やせるというすてきなメリットがある。「~だ」「~だ」とひとしきり続いたところに「~さ」と一発かますと、目先が変わって非常に気分がいい。でも考えてみてほしい。あなたは誰かが「今日の晩飯はサンマさ」などと口にするのを聞いたことがあるだろうか。あるいは自分でそう口にしてみて、違和感をおぼえないだろうか。少なくとも、ぼくの所属している階級では、こういう言葉づかいが行われることは(冗談で言う場合を除き)絶対にない。この語法が気になりだしたのはもう十年近くも前だが、その間どんな人間集団においても、「~さ」が口語で日常的に使用されているケースには出会ったことがない。「~さ」が有り得る数少ないケースは、文が途中で途切れたときに間投詞の「さ」が文末に残った場合と、「でも」「しかし」などの接続詞が直後に来る場合だけだ。「そりゃそういうこともあるさ。でも~」という用法はまれにある。

 「~さ」を使ったからといって、別にいちいち目くじらたてることもないのかもしれない。しかし、こういう現実との対応の薄い表現を安易に使うと、その書き手が現実からいかに離れたところで物を書いているかが露骨に証明されてしまうのではないか。現実の枠を借りて何かを語ろうというのに、その枠がガタガタで何が語れるもんか。文の世界だけで流通するコードに頼る文は、やはり文の世界の中でしか通用しない。だから、ぼくが翻訳で、人に「~さ」としゃべらせることはないし、女も男も、一般の小説類よりは区別がつきにくい話しかたをさせる。人は現実にそういうしゃべりかたをしているんだし、書きことばの変なコードに義理立てして、それを歪曲する理由なんてまったくないんだから。

 ところでおもしろいことに、この表現がもっとも多用されているのは、通常は口語を忠実に再現していると考えられているマンガと、そして歌謡曲や和製ロックの歌詞なのである。文字ベースでないと言われるこれらの領域が、実は一番深く書きことばのコードに冒されているというのは不気味だ。これが何を意味するのか―――が、ここらで紙幅が尽きた。この件については、また別の機会にゆずる。

(講談社「群像」書き直し原稿。書き直し依頼:1990年5月20日、引き渡し:1990年6月21日)

その他雑文インデックス 山形浩生トップ


YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
Valid XHTML 1.1! cc-by-sa-licese
このworkは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされています。